
前回の続きで、10月23日(土)にBSジャパンで放映された「田原総一郎の遺言 タブーに挑んだ50年」という番組について紹介する2回目。
『(対談)
山下:僕らは今までのジャズのやり方を全部ぶっこわしてやっちゃえと言ってやったんです。
それを聞いてくれる人は想定できないんだけど、あの時代だからこそあいつらも壊せといっている。
壊すやつが偉いんですよ。
で、壊してどうするの、そんなものはどうでもいい、壊して向こうに飛び込んでいけば何かある、ですから僕らも平気でドーンとやった。
そうすると、聞いている彼らが「いいぞ」と言ってくれる。
実際にあの後、これが噂になって、大学祭に次々に呼ばれて大学ツアーができたくらい。
普通の学生はテレビタレント呼んでやるが、大学には一部に必ず変な連中がいます、この連中が「あいつらを呼ぼう」ということで、ある種の象徴で僕らを呼んでくれた。
それで、狭い教室であれを手本した。
(写真は1970年明大和泉祭のパンフから)
(映像が流れ、その中で)
山下:実際にやる方と彼らとはすごく離れている。とても距離があると思いますね。
こっちがやることはピアノをたたくことなんだし、向こうは角材で実際に闘うわけですから。
(対談)
山下:一番わくわくする出来事なんですよ、学生たちが暴れているとうことは、世の中をひっくり返そうとしているから。こんなすごいことってないんですよ。
司会:しかもそこで、自分は殺されるかもしれないと思って演奏するわけですよね。
山下:もしかしたら火炎ビンが飛び交うと言われましたから。
田原:当然ゲバが起きると思っていた。民青がガーと来てゲバルトになると思っていた。
民青が来たが、静かに聴いている。大学側が「何してるんだ!」と当然来る、教授たちも静かに聴いている。
早稲田は変な大学で皆、静かに聴いちゃう。僕はガックリですよ。
山下:戦争が起きなかったから田原さんには不満だったかもしれないが、僕にとってはすごくたくさんのものを得たものです。
田原:周りにいた連中がレコードを作った。
司会:こちらの「DANCING古事記」というレコードですね。
田原:今買うとすごく高い。
山下:プレミアで2~3万。
司会:しかもこの音源がこのフィルムから採られている。
田原:このピアノを担いだ連中に、いろいろ面白い連中がいて、例えば中上健次という作家、ニセ学生で運動だけやっていた。それから立松和平という男、このピアノ事件で小説書いてこれが彼のデビューになった。
山下:実は彼はいなかった。
田原:アルバイトでいなかったのに、いたふりして書いている。
山下:いなかったことは言っていて、田原さんが夢みたとおりの事を書いている。
司会:小説の中では、(ゲバが)やられている。
山下:僕はドラマーの背に負ぶさって血を吐きながら逃げる、すごいですよ。
司会:これを映像化したいくらいですよね。
田原:伊集院静もピアノ担いだって言っている。
山下:いろいろな作家の方が、あの時あそこにいたと言っている。又聞きですが。それから北方謙三さんもいたという話がある。
司会:あの時あそこにいたと言いたいくらいモニュメントな出来事だった。
山下:今になってみれば、そういう伝説になってくれたので、ありがたいと思っている。
学生たちが革命をしようとしていたあの時間に、いちばん得をしたのは物を創造する人たちですよ。
亡くなった立松和平さんはそのことがきっかけで新人賞の候補になったわけだし、北方謙三さんも作家になりましたよね。
あの頃を抱えている人たちの中に、あいつらがあんなことをするのなら負けていられないという情熱がわいている。
司会:反体制を創造に向けていった人がいたのですね。
田原:寺山修司だって唐十郎だってみんなそうだ。
山下:そのLPは、今、誰に聴いてもらっても恥ずかしくない出来です。
大隈講堂からぶち破ってピアノを持ち出してなんて、今やったら逮捕ですよね。
当時はそれができた。大泥棒ですよ。
田原:それを番組で放送までできた。放送までできて、大変なことだと分かっていてもテレビ東京の幹部は僕をクビにもしなかった。
質問:撮影の許可は事前に出したのですか。
田原:許可を得ていません。早稲田大学に無断です。むしろ学校側が抗議に来ることを求めていました。
(終)
※今年のブログは今回で終わりです。ブログを書き始めて3年が経ちましたが、今後も書ける限りは続けて行きたいと思っています。また、関係の方々の情報発信の「場」としても活用していければと思っています。来年は1月1日からです。