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NO163の続きです。
前回は1969年10月9日の機動隊導入による明大本校大学院徹底抗戦の新聞記事を紹介したが、今回は同日の和泉校舎と生田校舎の機動隊導入の様子を明治大学新聞から見てみよう。(写真は生田校舎)

【9日のキャンパス】明大新聞1969.10.16(引用)
『<和泉>
9日午前6時30分、学校当局の要請で700人の機動隊が和泉キャンパスに出動した。
和泉校舎では連日多くの全共闘系学生が泊まり込んでおり、多いときには100人近くを数えた。
しかし、この日はいちはやく機動隊の導入を察知して、前夜から全員引揚げており、壁や机・椅子に書かれた多くの落書きが無言の抵抗を示しているだけだった。
和泉校舎のバリケード構築状態は甲州街道に面した正門と、事務室のある第1校舎が頑丈に組まれており、機動隊は第1校舎のバリケード撤去にはやや手こずった様子だったが、午前7時すぎには正門のバリケードに使われていた机・椅子のとり外しが完了。
「当分の間休校とする。教職員以外の立ち入りを禁止。無断で立入ると法律によって罰せられる」との理事長・総長・学長名のロックアウト声明が正門脇の守衛所前に貼り出されると、ただちに、業者の手によって厚いベニヤ板の塀が各入口に出来て、来校者をシャット・アウトした。(後略)

<生田>
どんよりとした霞に包まれた生田の丘に、青い乱闘服に身を固めた神奈川県警機動隊員500名と本学教職員25名が姿を見せたのは午前6時50分だった。
同7時3分、高木亀一工学部長が、正門に陣取った機動隊指揮車の上から拡声器を通し冷厳に“退去命令”を下した。
「只今から生田校舎を閉鎖するから校内にいる者はただちに立退きなさい」
ひっそりとしたキャンパスに響きわたった
十数分を過ぎた頃、立て篭もっていた助手共闘9名が姿を現した。
7時20分、助手共闘の立ち退きを尻目に、バリケードの撤去に移った。
本校とはうって変わって“ロックアウト策動粉砕”を叫びながらも学生の姿は見えず、撤去作業は抵抗もなく順調に進んだ。
解除にあたる教職員の顔にどことなく複雑な色がうかがえた。生田校舎のバリケードはそれ程頑強ではない。
8時30分、ほぼ解除作業は終了し、30分後、機動隊が生田から消えた。(後略)』

10月9日の機動隊導入以降、駿河台・和泉校舎では特別の動きがなかったが、生田校舎では11日と12日、学生が有刺鉄線の切断、破壊を続け、さらに教職員の制止、警告を無視して校舎内に進入、フトン・マイク等の搬出を行なった。
大学側は13日、連日の学生の妨害行為に対し警察の出動を要請し、機動隊が学内に入り、大学側立会のもとに、学生会館、第1校舎、第2校舎、1.2.3号館を捜索、その際不法侵入の学生3人が逮捕された。

一方、民青系学生約80名は21日、和泉校舎正門前で「明大民主化行動委員会」「明大民主化闘争委員会」「明大民主化連合委員会」の三者共催により、「『全共闘』暴力学生の妄動を糾弾し「安保なくせ」「沖縄かえせ」の声を大きく広めよう!」のスローガンを掲げる集会を開いた。

機動隊導入・ロックアウトに対し、学生会中執両川委員長は次のような抗議のコメントを出した。

【機動隊導入の現況と展望】明大新聞1969.10.16(引用)
『学生会中央執行委員長 両川敏雄
われわれが提示した問題に対して、なんら真剣な対応を全くみせず、さらに「加藤東大近代化路線」の踏襲に過ぎぬ改革準備委員会なるものも、大衆の前に公開することなく、秘密裡に作業を進め、しかも改革素案なるものも明らかにされていない段階において、機動隊導入による大学当局の反動的なロックアウト策動でもって、闘う全共闘に攻撃をかけてきたことに怒りを持って抗議する。
この犯罪的な行為は決して忘れないし、絶対に許すべかざることである。(中略)
全国全共闘の下に圧倒的な学友を結集し、大デモを繰広げてゆく。
10.10に2,000人にのぼる本学の学友諸君の結集をみて、さらに自信が強まった。
この力をもって今後対当局に対する抗議を行なっていきたい。
大学解体、総叛乱を勝ち取る運動を展開していくとともに、70年安保、帝国主義的再編に対しては、全国全共闘で断固闘い抜く覚悟だ。
物理的に高いヘイをめぐらし、われわれの分断工作をはかろうとも決して負けはしない。同じ理想をもってともに闘い抜く者の心の絆はどんな攻撃をも打ち破る鉄の団結といえる。
われわれは止むことなく闘い続けるし、後から続いてくる部隊を信じて、どんな恫喝も恐れず進んでいく。』
 
10月9日の機動隊導入・ロックアウト後、10.21国際反戦デー、11月の佐藤訪米阻止闘争へと政治闘争の流れは集約されていく。
大学当局は11月中旬から、校舎ごとに順次授業を再開していくが、全共闘のロックアウト体制への反撃も開始される。

(つづく)