野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2011年05月

イメージ 1
(ブログの字数制限の関係で2つに分けてあります。N0190-1から見てください。)
(写真は原子力資料情報室HPからの転載)

『関東地方から北に下がっていくにしたがって、風向きは北に向いていた時期があって飯舘村はめちゃめちゃ高い汚染状況でチェルノブイリの居住禁止勧告ライン、本当は住まない方がいいですよ、という勧告ラインの6倍くらいだと、京大の今中さんは報告しているが、その後の文科省関係のデータによると飯舘村は部分的にセシウムで数百万ベクレルの所がある。
北西と南東に「逆くの字」を描くように汚染の広がりがあるのだが、地形の影響なのか福島市も盆地になっているので結構高い状況が今でも続いている。
一時は普段の500倍に跳ね上がって、その状態が2~3週間続き、ゆっくり下がっている、そんな風に汚染が広がっている。
明後日から現地を見回ってこようと思っている。もちろん、20キロ圏内は侵入禁止になっているが、20キロ以遠については入れるので調査をしてこようと思っている。
今後、野菜の問題とか人の被爆で、福島県の郡山と福島市、いわき市は結構高い汚染状況に一時なったので、将来的な健康影響を心配している。
きっと因果関係が認められないから、裁判が起きてくるのかなと推察している。
そいうのが起きてきた時の対応を準備していかなければいけない。

原子炉について言うと、爆発が起きてそれでも冷却は継続しなければいけないので、東電はロードマップを出して原子炉の格納容器を水で満たそうという計画を進めている。
何故そうするのかというと、燃料そのものがむき出し状態になっていて水を送っても送っても冠水しない、だからある高さのところから漏れている。
その状態で継続するという案もあるのではないかと思うが、東電は「冠水させなければいけない。外側を燃料の高さまで全部水で覆えば漏れていても、それ以上漏れないのでよかろう。」ということで案を立て、そのためには水位計を取り付けなければいけない。
そのためには部屋の中に入らなければいけない。入るためには中の空気を入れ替えてちょっとはきれいにしなければいけないダメだということで今、そういう作業をしている。
1号機でうまくいけば3号機でやることになるが、2号機は格納容器の下側で破損しているので下側の場所を特定して修理してからでないと水は入れられないという状態。
うまくいけばそれはそれで一つの方法だからいいのだが、タービンの所にも水が出ているので、格納容器の何処からか出ている。それを考えると、7400トンくらい水を入れるのだが、上の方で漏れている分にはいいかもしれないが、下の方で漏れがあった場合はそこのところが拡大する恐れがある。そうなった時にどうするという問題がある。
仮にそこを修理してやったとしても地震の余震が来た時にどうするかということがあり、水が中で揺れると中のパイプ類の破断、格納容器そのものが破断する可能性がある。
なかなか危険な作業であり、これで安心とはとても言えない。

(東電は)長くて8ヶ月位で何とかするといっているが、それはトラブルのないベストな状態なので、きっと長びいていくだろう。
無事にその作業が終了して燃料が水につかり、全体が100度以下になった状態になっても5年とか10年とかやりくりしないといけない。
当初1~2年は気の許せない状況が続くが、すこしは楽になるかもしれないが少なくとも冷却は5年、10年は続く。
東電は、4基は廃炉にすると言っているが、福島県議会は残りの2基も廃炉を要求している。
女川原発、東通原発、東海原発など15基の原発が並んでいるが、これらについてはおいそれと運転再開はできない状況。
仮に運転再開の方向に進むとして、耐震安全の補強とか、どんなダメージを受けているかなど全部のチェックが必要で、そのためには最低3から5年くらいかからないと再開には至らない。
その間に原子力に依存しないシステムを広げていけば我々の勝利は見えてくる、そんな風に思っている。

今のエネルギー計画は原発に過度に依存しているから、実態として破綻している。数年間は(原発に)依存できない。
今、原発で動いているのは54基のうち17基、あとは地震で止まる、定期検査中で止まっている。定期検査で止まっているものは、地元が運転再開をおいそれとは認めないので、この状態は、1年くらいは続くのではないか。
相当長期にわたって原子力が半分以下の状況が続く。
その間に、今、省エネといっているが、加えて再生可能エネルギーに世の中がシフトしていく。シフトしていく時に、ある段階で質から量へ転化していく、爆発的に風力とか太陽光が広まっていくのではないかと期待している。
そのような状況に持っていくように、今、動かないといけないと思っている。』

次週は伴氏との質疑の様子を報告する。
(つづく)




イメージ 1
5月9日、都内でNPO法人原子力資料情報室共同代表 伴英幸氏を囲む会合があった。
この会合は明大生田の方々が中心となった会合であったが、私もブログの取材で、お願いして参加させていただいた。
当日の伴氏の話の内容と、その後の質疑の様子など、今週と来週の2回に分けて紹介したい。

冒頭、W氏から伴氏の紹介があった。
「伴さんは早稲田大学を出た後、当時の都民生協に入って、戸山ハイツ店で品出しをやっていた。そこに半年か1年くらい居て、天然ガス転換反対闘争(注)をやっていたY氏の紹介で多摩消費生協に入って経理とかシステムをやっていた。
その時に反原発運動をやっていた高木仁三郎さんと会って、反原発運動をやりながら仕事をやっていたのだが、そちらの方に進みたいということで13年いた多摩消費生協を辞め、1989年以降、原子力資料情報室で活動して現在、共同代表になっている。」

(注)天然ガス転換反対闘争(伴氏のコメント)
【70年代の前半、東京ガスは当時供給していた石油ガスから天然ガスへのガス源の切り替えを決定、順次切り替えが進んでいった。
天然ガスに切り替えるには火力が違うので、本来ならガス器具を取り替える必要があるが、東京ガスはこれには費用がかかりすぎるので、吹き出し口を小さくする部品を取り付けることで済ませようとした。そこで、切り替え直後にトラブル(爆発など)が起きた。
それで、市民の安全確保を求めて転換反対運動が起きた。反対は工事の実力阻止や転換拒否(ガス器具が使えなくなるので、灯油のコンロを使ったりした)などの戦術が取られた。】

伴氏の話(写真)
『そもそも私は真面目なノンポリだった。大学にも行かないノンポリだった。天然ガス転換闘争があって、その時に国立に住んでいた。それで運動にはまり、活動を行なってきた。
学校を卒業後、普通の会社に行ってもしょうがないと思い生活共同組合に行ったら、これは面白そうだということで、行ったところが都民生協だった。
その後、Y氏の紹介により多摩消費生協で働いてきた。働きながらも、原子力について私自身は1979年にアメリカのスリーマイル島で原発事故が起きた時から関心があって、国立では反原発の運動に参加していた。生協内では環境問題委員会で原子力問題を職場で考えていくようなことをやっていた。
1989年に脱原発法制定運動というのが起こり、今は亡くなった高木仁三郎さんが提起していたのだが、その時に新しいことをやるので手伝って欲しいということで頼まれて、原子力資料情報室に移った。それ以来、20年くらいそこで活動している。

3月11日に福島の事故が起きてから結構忙しい時間を過ごしている。
事故自体について言うと、冷却機能喪失という事故になって、全電源が停止したという状況。原子力発電は福島の第一号だと230万キロワットくらいの熱を持っている。それが急に止まる訳で、火力発電所なら止めてそれでお仕舞いなのだが、原子力の場合は崩壊熱というのがあって、とにかく延々と冷やし続けなければいけない。
それに失敗すると、チェルノブイリみたいに核分裂が暴走的に広がっていって爆発するという事故と、もう一つは止まるけれど冷却機能失敗で炉心の燃料が溶けるという事故の2つの大きな事故のパターンがあって、その後者の方にはまっていった。

その理由は表向きには津波だが、1号機については急に水位が下がっているので、地震で配管が破損してそこから原子炉の水が漏れているのではないかと思われる。
1時間位して津波が来て電源装置が全部やられてしまった。その前に地震で送電線がやられている。それで冷却のため外部から電気をもらうというシステムが破綻してしまう。その場合はディーゼル発電機が稼動して冷却を継続するということになっていたが、そこに津波が来て発電機そのものも機能しなくなった。
それで、すべての電源が絶たれた状態になって、そこから迷走が始まった。

熱で水は蒸気になり炉内の圧力は高まり、隣の格納容器に吹き出し、格納容器の圧力が高まって、しょうがなく外に出すというようなことをやっている間に燃料は水から出てむき出し状態になり、それで溶け始める。
その時に水素が出るので、水素が発生して建物の上部に溜まり、何らかの漏れがあり酸素と混じって爆発した。
3月12日に事故から1日たって1号機で爆発があった。14日に3号機で爆発があり、15日に2号機であった。多分3号機の爆発が一番大きくて、400メートルくらい吹き上げられたので、その放射能は関東地方に及ぶことになり、新宿でも普段の20倍くらいの放射線が観測された。
少しは下がっているが完全に元には戻っていない。それは汚染物質が地面に沈着しているからであるが、この状態は相当長期に渡って続くのではないかと思っている。』

(No190-2に続く)

イメージ 1
1971年の明大局学苑会の委員長だったN氏から、ある冊子を預かった。タイトルは「御茶ノ水讃歌」(写真)。
230ページにも及ぶ自費出版の冊子である。著者は石川彰氏。

石川氏は1970年6月、局学苑会にノンセクト執行部が誕生した時の組織部長であり、1968年4月から1972年3月までの明大局瑤砲ける4年間の活動を回想してこの冊子に書いている。
この冊子は、石川氏の個人的な回想録でもあるが、当時の明大における闘争の記録でもある。
この冊子は50部程しか作られなかったようだが、このまま少数の関係者だけにしか知られず、時の流れの中に忘れ去られてしまうのはいかにも惜しい。
あの時代、闘争に関わった多くの方の想いや証言を私のホームページで紹介したいと思っていたので、スキャナーで全文を読み込み編集して、私のホームページで公開することにした。公開にあたっては、N氏を通じて石川氏の了解を得ている。
本は吃瑤鉢局瑤嚢柔されているが、全文を一度に公開できないため、4パーツの分け、順次公開することにした。冊子では登場人物は実名で書かれているが、40年以上も前のことなので、原文のまま掲載することにした。

冊子の主な内容は、次のとおりである。
1 1部 1968.4 ~ 1969.6(今回公開)
  68.6.18学苑会学生大会、68.7.3明大学館での民青とのゲバルト、68.11.22東大での全国総決起集会
  69.1.18-19神田カルチェラタン、69.4.12明大学館への機動隊乱入、69.4.28沖縄闘争 
2 吃堯1969.6 ~ 1969.12
  69.6.15集会、69.6全学バリスト突入、69.6新宿郵便局自動読取機導入阻止闘争、バリケードの中での生活、69.10.4全学集会粉砕闘争、69.10.21国際反戦デー、69.11.18-19佐藤訪米阻止闘争 
3 局堯1970.1 ~ 1970.12
  70.6.12ML派による解放派へのゲバルト、70.6.14―6.23反安保集会、70.6.29学館実力解放闘争、70.7.15学苑会学生大会におけるノンセクト執行部の誕生  
4 局堯1970.12 ~ 1972.3
  70.12.11学苑会学生大会、71.6.17沖縄闘争、NDUの映画“モトシンカカランヌー”上映会活動、71年局駿台祭実行委員会での活動、71.10.21国際反戦デー

本の冒頭はこんな文章で始まる。
『4年間に渡る、私の愛した御茶ノ水の街に或る甘酸っぱさを持って、別れの歌を送りたい。明大通りを中心として、左右に二百メートルの幅、長さ二百メートルぐらいの広さを持った街であった。北の方は汚れた神田川とその向こうの医科歯科大に遮られ。水道橋駅寄りに御茶ノ水橋、秋葉原駅寄りに聖橋があった。
 この街が私の青春だった。』
当時の御茶ノ水近辺の様子も描かれるが、主題は「あの時代」の闘争との関わりである。 
 
例えば、68年7月3日の明大駿河台学館での民青とのゲバルトの様子は次のように描かれている。
『民青のデモ隊約三百名が大学院の横を曲がって学館のほうへ向かってきた。デモ隊は学館の前で「学館を明け渡せー!」とシュプレヒコールを始めた。
その時、赤と白のモヒカン模様のヘルメットを被ったML派の突撃隊がデモ隊に突っ込んだ。
デモ隊の中にかなりの数の一般学生が混じっていたので、彼らを傷つけたくないとの配慮から、ベランダからの投石は行なわれなかった。指揮者が「石を投げるな!」と怒鳴っていた。ML派の突撃隊は直ぐにデモ隊に押し返されてしまった。(中略)
民青のデモ隊は一度学館の中に入るとそのまま攻撃に移らず、再び外に出た。すると、五号館の方から百名ぐらいの黄色のヘルメットで、完全武装した民青の“暁部隊”と呼ばれていたゲバルト部隊が学館に突っ込んできた。階段で放水と投石が始まった。
時を同じくして、大学院の横から小型トラックが出てきて。デモ隊にヘルメットとゲバ棒を支給し始めた。(中略)
中では三階の階段のバリケードを挟んで、投石、放水、ゲバ棒の闘いが始まっていた。石がコンクリートに当たり、水が流れ落ち、ゲバ棒が唸り、悲鳴と罵声が飛び交い、学館は俗に言うデモノイズ、乱闘ノイズに包まれた。
研連の部屋では重信さんが先程から何回も当時ブントの拠点であった中大学館に救援を求める電話をかけていた。(後略)』

この冊子が発行されたのは平成5年である。
かなり細かいところまで書かれているが、人の記憶なので事実関係が不明確な部分も見受けられる。
そんな所を差し引いても貴重な資料であることに変わりは無い。

※ 明大全共闘ホームページに新設した「明大闘争の記録―関係者の手記―」コーナーで公開中です。見てください。

イメージ 1
No184の続きで、明大生田のY氏からのメールを紹介する。
私からの「都の農業試験場に入って、農業研究(?)を通して何か見えてきたものはありますか?」という質問への回答である。

【Y氏からのメール】
『父島大村の町並みは、芝生がズーっとあり、その中に家々が点々としていた。
庭にはヤシの葉がそよぎ、まるでアメリカの基地の中のようだった。日本じゃない外国だ。青い目の子も、白人みたいなおじさんもいるし。
1944年第二次世界大戦による、民間人の内地強制疎開以来、島は日本軍人しかいなくなり敗戦。有名な硫黄島(父島より300km南)と違い、大正時代末期から、全島岩山の島を要塞化していたため、米軍は戦わずあっさり通り過ぎ、沖縄に向かってしまった。父島の戦死者は食糧不足が大半だということである。
1945年の敗戦後、父島には、アメリカの海軍基地が置かれた。
1946年、米軍は日本本土に同じく強制疎開させられていた欧米系島民200人弱(1830年代に父島に最初に住み着いた欧米系島民の子孫、イギリス、アメリカ、ポルトガル、ハワイ系。日本人の移住は1860年代)を、米軍基地維持要員としていち早く帰島させた。
強制疎開させられた日本人たちは一部漁民を除いて、父島の社会基盤整備(インフラ)整備が済む1972年まで、帰島を許されていなかった。

欧米系島民を都に雇って、戦前の試験場跡の開墾が始まった。
生い茂るガジュマルをチェーンソウで切り倒し、トラクターでは歯が立たないので、ブルドーザーで農地を造成していった。きっとブラジルに行ったら、こんな事してたんだろうと思った。
私は、野菜担当なので、さっそく苗つくりにかかった。ナス、キュウリ、トマト、カボチャなど。直播可能なものは何でも畑に播いた。
亜熱帯の島は、苗は7月に種播きして9月か10月に定植すれば、12月には収穫可能だった。父島の緯度は丁度那覇と同じだが、大陸の影響が少ないため、那覇より冬は暖かく、夏は涼しい。
このようにして、戦前の農家はビニールハウスの無い時代に、野菜を東京に出荷して大儲けしていたそうだ。

町から7km離れた山の中の農場は、水道も電気も来ていなかった。水は雨樋からドラム缶に集めた水を飲んだ。
雨がしばらく降らないと、ドラム缶にボウフラが湧く。ドラム缶をトントン叩くと、表面に浮いているボウフラが沈むので、その瞬間に水をひしゃくで汲んで飲んだ。その水がなくなると、山から引いてきた、濾していない農業用水まで飲んだ。

住まいは、生田の三田団地のような公団方式の鉄筋アパート、初めて入った時は凄く嬉かった。
電話は回線が3本しかないので、なかなか繋がらない。家などに一本もかけたことはなかった。もっぱら手紙だったが、それも一ヵ月に一回きりだ。
TVは、電波が届かず見えない。ラジオは銅線のアンテナを張ると、短波放送が雑音混じりに入るので、それで浅間山荘や成田の事を、ピーピーガーガーの音と共に聴いた。船は一ヵ月に一度なので、新聞は古新聞ばかりだった。
こんな生活だったが、ナンの苦にもならなかった。若いせいもあったんだろうか。アパート生活は、学ぶことは多かった。
ミニ都庁のようなものだったので、あらゆる分野の仲間がいて、互いに自分の持っている知識や技術を伝え合った。
生態学のイロハを学んだのもこの時だった。時代が時代、学生運動の影響を受けた者も、職員の中には何人かいた。あの父島でさえも。当時の都庁の同期には、もっともっと沢山いた。

出来た野菜は島で唯一の店であった生協(Bonin Island Trading Company, BITC)に卸した。
船は一月に一度だから、直ぐに無くなってしまうせいだった。
そういえば、あの何の役に立つかと思ったウドも、父島にたくさんあった防空壕を利用して栽培し、島の皆さんに食べてもらった。
1972年父島への渡航が自由化されると、移住研の後輩達は援農に来てくれた。その中に、戦いに疲れた生田の仲間も何人か混じっていた。

1973年6月初め、父島を去り、明大文学部史学地理学科に編入学、1976年卒業した。
神田は生田と全く違っていて親しめず、学校とアルバイトだけで過ごした。
金が続かず1年間バイト暮らしだったので、2年のところ3年かかってしまった。
1976年10月初旬、幾人かの農学部の仲間や先生に見送られ、南太平洋サモアの地に、2年間赴いた。
羽田からだった。その羽田がまた国際空港として蘇ったのは感無量だ。
成田から出発するのは、いつも抵抗感があった。生田の後輩が、30年以上現地闘争本部でやっているせいもあります。
アメリカ大陸3カ月放浪後、1979年2月成田に降りるのは嫌なので、大阪伊丹空港経由で帰国、故あってJICAに5年ほど勤務した。
1985年3月JICAを辞し、4月に東京都に再就職、2010年6月まで勤務した。今度は25年間も!よく続いたもんだ。』

(つづく)


イメージ 1
No183の続きです。

11月11日、大学側は「授業再開にあたって」を配布し、以下の告示を貼り出した。
その後、引き続く「学内ロックアウト体制」の始まりである。

『授業再開について (昭和44年11月11日)
 告示 明治大学

大学は学内から暴力行為を排除し、教育・研究の機能を回復するために、当分の間次のような措置をとります。
1 学生証の確認をします。
2 次の構内立ち入り禁止措置をとります。
  夜間(駿河台地区は午後9時30分から翌朝8時まで、和泉地区は平 日午後6時・土曜日午後3時から翌朝8時まで、生田地区は午後7時から翌朝8時30分まで)と休日の立ち入りを禁止します。
3 次の行為を禁止します。
  ヘルメット、棒その他の凶器類およびマイクの持ち込み。
  所定の場所以外への掲示、貼紙。
4 次の事態が発生した場合は、大学はただちに警察力の出動を要請します。
  教職員・学生の身体拘束、暴力行為など、身体生命の危険がある場合。
  封鎖、占拠が行なわれる場合。
  建物、施設へ損傷が加えられる場合。
  授業、業務の妨害が行なわれる場合。』

この告示に合わせたかのように、生田ではロックアウト粉砕闘争が行われた。
【生田校舎に学生侵入】1969.11.13明治大学新聞(引用)
『21日からの授業再開に向けて、ロックアウトを強化中の生田地区では11.12日の両日にわたり、生田共闘会議の学生が学内に乱入、2人が逮捕されるなどの騒ぎが起こった。
11日午後2時ごろ、15.6人のフク面・武装した学生が正門から侵入、守衛所の電話機を壊しトランシーバーを取上げ、キャンパス内になだれ込んだ。
そのうち、約半数は対策本部のある新図書館に入り込み、別の1隊は生田寮側のヘイを壊し、外にいた学生を導き入れ、工学部四号館の1階を一時占拠した。
約1時間後、大学側の要請で機動隊員がかけつけたが、学生はすでに学外に逃げ去った後だった。

12日は午後1時から工学部会議室で工学部執行部と実験助手の話し合いが行なわれた。この会談には57名の実験助手のうち約半数が出席したが、助手共闘はこの話し合いを「授業再開に向けて当局の恫喝だ」として出席を拒んだ。
この会議の粉砕を叫んで、生田共闘会議の学生15.6人は学内に侵入、うち3人が会議室に乱入した。この事件で2人が待機していた私服刑事に逮捕された。(後略)』

11月16日から17日にかけて、70年安保闘争最大の山場である佐藤訪米阻止闘争が国電「蒲田」駅を中心に闘われ、2,500名に及ぶ逮捕者が出た。
翌18日から和泉校舎、21日からは生田校舎で授業が再開されたが、佐藤訪米阻止闘争の直後ということもあり、全共闘としての組織的な授業再開阻止行動はなかった。

18日の和泉での授業再開の日、私は何をしていたのか思い出せない。正門に出来たベニヤ張りの検問所を学生証を見せて通ることに「抵抗」して仲間を待って正門付近に居たのかもしれない。あるいは、構内の様子を見るため中に入ったのかもしれない。でも、構内に入ったとしても学生会館はベニヤ板で逆封鎖されており、生協会館2階の喫茶コーナーでウロウロしていたのだろうか?

明大新聞に授業再開の様子が載っているので見てみよう。
【生田で学生1人逮捕 和泉は平穏に授業再開】1969.11明治大学新聞(引用)
『和泉地区で18日(火)、法、商、政経、文、経営各学部1年次生の授業が再開されたが、予想された全共闘系学生の妨害行動はなく、平穏のうちにガイダンスが行なわれた。
大学側は機動隊を要請、正門付近に機動隊員の姿がみられたが、学生との直接的なトラブルはなかった。正門前では生田寮生、和泉民主化行動委の学生が、登校してくる1年生にビラを配る程度であった。また、数日後に体育祭を控えて、同祭実行委員が宣伝活動を行なっていた。
午前10時ごろのキャンパスでは登校時間を午前9時、11時、午後1時半と三分されたためか、みかける学生数はまばらで、ひっそりした感じであった。
なお、和泉対策本部調べによると、この日登校した学生数は約4,000人で9割の登校率。
また、21日(金)は同じ和泉地区各学部(法・商・政経・文・経営)2年次生のガイダンスと生田地区工、農学部4年次生の授業が開始された。
和泉では18日と同じく機動隊が要請されてあったが、全共闘など数組織の学生がビラを配布していただけで混乱はなかった。
クラス単位で行なわれたガイダンスは多少討論が行なわれたが、30分たらずで早々と打ち切るところが多かった。』

当時の多くの大学でもそうだったように、明大でもスト権解除に向けてスト反対派が動き出した。
11月29日、「有志連合会」と「全明クラス連合」(準)主催の「全学集会」が体育会の警備の下、和泉校舎中庭で開催されることになり、全共闘は授業再開後、初めての組織的な阻止行動を開始することになる。

(つづく)













↑このページのトップヘ