(ブログの字数制限の関係で2つに分けてあります。No207-3から見てください。)
これで小集会は終了したが、その後、1950年代の砂川基地闘争を担い、明大の学生運動と自治会を作った土屋源太郎氏、反原発運動の初めを作った元芝工大教授の故水戸 巌(原子核物理学)氏の奥さんからも連帯の挨拶をいただいた。
また、解散した明大生協の元労働者からの挨拶もあった。
我々の居た場所は、明治公園の日本青年館寄りのやや高くなっている場所である。生垣越しに会場を見渡すと超満員。すでに集会は始まっているが、演壇が遠くて発言の内容も聞き取れない。
今回、初めて「明大全共闘」の旗を掲げたが、若者が「旗の写真を撮らせてください。」と言ってきたり、93年学費闘争を闘ったという人が話しかけてくるなど、旗の効果は大きいことを実感。
デモ(パレード)のコースは3コースに分かれており、政党・団体系が新宿駅南口まで、市民団体系が代々木公園まで、労組系が別ルートで代々木公園までとなっていたが、公園内のどこに居るかによって、コースが決められてしまうということで、3大学共闘は、市民団体系のコースでデモを行なうことになった。
デモコースは明治公園→外苑前→表参道→代々木公園。
明治公園から表参道までは、昔のデモコースと同じである。
集会が終わる頃、混雑に巻き込まれるのを避けることもあり、早めにデモの撮影ポイントに向った。撮影ポイントとは、外苑前の交差点にある歩道橋の上。
明治公園を出て、左手に神宮球場を見ながら進んでいくと、期せずして「おー明治」という明大の校歌が聞こえてくる。東京六大学野球をやっていたのだ。
更に進み、外苑前交差点の手前の右側には都立青山高校がある。1969年10月10日、「ベトナム反戦・安保粉砕・沖縄闘争勝利・佐藤訪米阻止」集会のデモで青山高校の前を通ると、バリケード封鎖中の校舎の上から高校生が一生懸命に全共闘の旗を振っていた。我々デモ隊も手を振りそれに応える、そんなことが鮮やかに思い出された。(写真下中央:週間「アンポ」から転載)
外苑前の歩道橋の上に陣取り、デモ隊の到着を待つ。大規模集会なのでデモの出発に時間がかかるとは予想していたが、なかなか来ない。30分ほどして、デモの先頭がやっと姿を現した。宣伝カーと横断幕を掲げた福島隊が先頭である。(写真上)
デモ隊は警察によって細かく分断されているため、かなり時間がかかっているようだ。
歩道橋の上では手製のプラカードを持った若者が、「原発止めるぞ!」と大声でデモ隊に呼びかけ、デモ隊もそれに応じる光景が見られた。
それにしても来ない。別ルートに行ってしまったのだろうか、とやや焦り始めた頃、やっと日大の旗が姿を現した。でも芝工大と明大の旗がない。日大の隊列は、私が陣取っている歩道橋の下で立ち止まった。やはり分断されてしまったのだろう。
そして待つこと30分。芝工大と明大の旗が現れ、歩道橋下で合流。隊列を整えて再度、デモを開始した。(写真右下)
この市民団体系のデモ隊の先頭集団が代々木公園に着いた頃、明治公園にはまだ出発できない人たちが結構いたとのことである。
主催者発表で6万人であるが、集会の様子を見た限りでは、この数字はほぼ実数と思われる。
今回の集会では、芝工大からの提案で3大学連名でのビラを出そうという企画があった。しかし、ビラの内容について調整する時間が不足していることもあり、芝工大単独で「全共闘世代からの9.19アピール」というビラが撒かれた。
以下、そのビラから抜粋して引用する。
「私たちは40年前に大学や政治の不正に対し一人ひとりが必死で闘いました。この時の怒りを今再び燃やすことが出来ずして、私たちの人間的再生と存在意義はないのです。
もちろん、私たちには、若者たちのように大きなエネルギーを発揮することは出来ません。しかし私たちは私たちなりの経験を生かし全国の原発を停止させ、廃炉にする運動をねばり強く闘い抜く決意を固めています。
多くの全共闘世代のみなさん!
私たちは40年間、政治問題、社会問題について共同の闘いを続けてきたわけではありませんでした。
しかし、各人が世の不正への怒りを忘れた事はありませんでした。
私たちは福島第一原発事故により、再び闘いの場に結びつけられたのです。
全共闘世代の皆さんに訴えます。
私たちと共に「脱原発」の旗をかかげよう!
原発のない社会をつくろう!もうひとつの世界を!」
「脱原発」の運動は、必然的に今までの日本の社会のあり方を根本から問う運動になるだろう。そして、それは新しい社会のしくみを作っていく運動でもある。
あの時代から40年、再び旗を掲げる時が来たのではないだろうか。
(終)