野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2012年01月

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(ブログの字数制限の関係で3つに分けてあります。No221-1から見てください。)
(写真は毎日グラフから転載。)

『N「Tがよく言ってたよね、俺らはね、早稲田や中大と違って運動やりました、立看出しました、負けました、じゃあこれはこれでお終い、また次の立看を出す。我々にはそれはないよなって、負けたらお終いだよなって。学生運動の歴史がある大学は、うねりの中でね、一回の闘争で勝ち負けがあっても、また次出来るわけじゃないですか。」

Y「そこでもうお終いっていうんじゃなくて、まぁチョット・・・・。」

N「一旦ひとつの運動が区切りがつきゃまた次に立看も出せればデモも出来るし、集会も出来るし当局と団交も出来る。だけど日大はそういうのが長い間無かったわけだ。
戦後まもなく日大の学生運動も活発だった時代があったみたいなんだ、昭和29年か30年頃まではね。日大も全学連に加盟していたらしいですよ。でも古田が会頭になってからこうなったんでしょ。歴史的に言うと日大だって学生運動はあった、それが昭和30年代になってから押さえられていたが、昭和43年に勃発した。
67年10.8の羽田闘争で京大山崎さん事件があった時に日大の法学部の学生がパクられたでしょ。あの時、日大に学生運動やる学生がいるとは思わなかった。始まってから誰かがオルグに来て、潜り込んでなったかと思っていたけどやっぱそうじゃなかったんだね。あれだけ弾圧されていたが水面下にいたんだよね。」


10 記憶は消えていく
N「初期の頃、中期・最後の頃、節々にあるけど、やっぱり俺、憶えていますよ。ただね、悔しいかな誰にも言う相手がいないんだよ。カミサンに言うわけには、だって分かるわけ無いでしょ。息子に言ったって分かるわけ無いでしょ。だから、こういう思いはこういう機会でもなけりゃ、出て来ない。」

Y「家庭ではね。」

N「うん。まして、(闘争のことを)知っていて結婚したならいいけど知らないで結婚したら何を言ってるということになる。資料全部処分した切っ掛けは結婚ですよ。それまではダンボールに入れていろいろ持っていた。メットも持っていた。だけどね、ある時に清算とは言わないけど、そういう物理的なものは、とりあえず処分しようかなと思った。それが切っ掛けだったね。今でも持ってる?」

T「機関誌とか?」

N「まぁ、もろもろ。」

T「どっかにあるよ探せば。捨てた記憶はないから、仕舞い忘れてはいると思うけど。」

N「そう。彼(Y)のブログを見てると、あぁ俺もなんか、別に文化財にはならないかも知れないけどさ、とっときゃよかったと思うこともあるよ。記憶ってのは、だんだん消えていくからさ、どこかでいつか。今ならまだ持っているけどあと10年後なんか消えちゃう可能性があるわけですよ。でもやっぱり、紙で持っていればね、違う。」

Y「今ね、部屋にダンボール3箱分くらいある。」

N「いやね、俺も持っていたんだけどね。今回ホント本棚をパーッと見たら、唯一これ(叛バリ)しか無かった。」』

N氏からは、この他にデモの時の話などもあったが、それは省略した。
N氏の発言にもあるように記憶は消えていく。
時間と手間はかかるが、記憶を記録し、公開していく作業を今年も続けて行きたい。

【補足】 9.30大衆団交
『68年9月30日、日大当局が主催した「父兄会」(※)は両国日大講堂で行われたが、途中から「父兄会粉砕」を叫んで全共闘部隊が会場を占拠、父兄や体育会系学生を追い出し、当局糾弾の場と変わった。
俺は、文理の部隊と講堂の中に入ってそのまま演壇に上がり、ゲバ棒を持って演壇の床をゲバ棒で打ち鳴らしていたが、そのうち後続部隊や全共闘派の学生が続々と両国講堂に駆けつけ、しばらくすると講堂内は学生で一杯になった。
そこに古田会頭の車が入ってきた。まさか、古田が学生のまえに出てくるとは思わず、その姿を見たとき、「古田が来たぞー」と叫んでいた。
もしかしたら、古田は父兄会に出るつもりで、既に学生達に占拠されたことを知らずに両国に来てしまったんじゃないかと、今でも思っている。
そして、あの大衆団交が始まった。
まだ日の高い時間から夜中まで、長丁場となり当局も学生も疲労の色が濃くなり、途中で帰った人も大勢いた。実は俺も、この団交が歴史に残る場面になるとも考えず、疲れて帰ってしまった。だから、団交が終わって夜中の両国橋をデモで渡って神田まで帰ったことを翌日知った。』

(※)「叛バリ」によると「右派学生対象の集会」となっている。

(終)

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(No221-1の続きです。)
(写真は新版「叛逆のバリケード」から転載。)

『N「全体会議って夜よくあったでしょ、彼がそこで質問したことを印象的に憶えている。
途中から党派(中核派)の集会ポスターに日大全共闘の名前が出るようになった。そしたら彼が「こんなこと何時確認されたんですか?」と。で、「我が日大全共闘が直接民主主義制をとるならば、こういう全体会議やいろんな会議の場でちゃんと確認されてないのに、党派のポスターに勝手に日大全共闘の名前を出すのはおかしい」って、彼はそういう主旨で言った。
そしたら出てきたのはTだよ、Tが「運動の中ではいろんな情宣活動があり、その中にはプラスの座標とマイナスの座標があって、このことを出すことがプラスの座標に合致するとなれば出していいんだ」と。マル中のポスターに日大全共闘の名前が入ってるのは、Mの息子が言うには、おかしいと、こんなのは何時どこで確認されたんだと、質問したわけだよ、そしたらTがプラスに作用するからいいんだ、というふうに言った。Tって知らない?」

Y「知らない。」

T「そんなこと言ってた?」

N「泊まり込んでいた時、夜の全体会議でそういうことがあった。Tはマル中の活動家で有名だよね。あの頃、文理の集会に白衣着て出てきて、化学科だから、「私は本来だったら、研究室でフラスコを持っている手に今マイクを持って訴えているんだ」というアジテーションをやった。いやぁ、文理は色んなのいたよね、他にもすごいのいたよね。今でも克明に憶えてますよ。」

Y「すごいですね。語り部」

N「語り部というほどじゃない。その時俺たちは一兵卒だったけど、色んな場面場面は憶えている。やっぱり俺は田舎者なんだな、フレッシュだった、色んなことが。自分の意識だとか知識の中で、これはすごいなとか、色んな、学生の言動を大体憶えている、そういうことですよ。だって、田舎から出てきた人間って最初は右も左も何も分からないんだって。だから、オタオタして辞めちゃうか、入っていくかしか無いわけですよ、」


8 明大和泉の亡命政権時代

N「明大前の改札口から和泉校舎へ向かう細い通りの角に洋食屋があって、そこを曲がると雀荘があった。」

Y「雀荘はいっぱいあった。一回曲がって雀荘が並ぶ細い道を真直ぐ行く。」

N「細い路地があって万年塀があって歩道橋があって甲州街道になる。明大和泉校舎の正門から入って左側にメインの建物があって右側に3号館か何かあったでしょ。」

Y「4階建てのね。」

N「最初あそこに居たんだ。」

Y「民青の拠点だったんだよ、69年。」

N「エッ。あそこに行ったら、ここはお茶も飲めるしコーヒーも飲めるしいいとこだよ、なんて言われてあそこに入り浸るようになったんだよ。夜なんか怖いんだよ、あそこ。なんとなく。」

Y「あそこはチョットね。ぽつんとある感じだからね。」

T「隣にお寺か何か・・・墓地。」

Y「奥の方にね。樋口一葉の墓があるんですよ。」

N「文理のバリケードが解除されたら、当然のごとく明大の和泉校舎を拠点にしてとかなり前から言われていたけど、あれはどういう風にして渡りつけたのかね。亡命してあそこを拠点にするというのは。」

Y「当時(明大和泉に)は社学同、ML派、解放派の3つ、マル中もいたけど、だからそういう(党派)ルートでいってるんだろうね。全く、ポーンというわけにはいかないだろうね。」

N「俺は単純に文理がバリケード封鎖解除になったらどこ行くのかなと思っていたら明大ね、あそこ拠点にして泊まり込んでやるんだって文闘委のSが言ってたんだ。そういう意識あった?」

T「そりゃ、言われてたからね。」

N「ほんと?誰から?」

T「Uさんなんかに言われてたからね。」

N「やっぱり我々の見えないところで、いろいろ動いていたんだな。明大でよく飯食いましたよ、学館の食堂で。」

Y「東大の駒場、東Cの関係者も来てたね。」


9 負けたらお終い

N「政治的な(意識)を持っている人は結構いたかもしれないが、それが全てではない。やっぱり俺は典型的なちっぽけな正義感じゃないけど、そういう所から始まっているわけだけどね。
でもあれだけのエネルギーを出すって事はどっかで、当時、日大に学生運動はないって言われていたけど、やっぱりそういった感覚を持っていたやつが居たんだろうね。でないと、あれだけの運動は展開出来ないと思うよ。
当時俺なんか、知る由もない。後から分かった話っていうか。やっぱり明大とか法政とか中大とかさ、学費闘争もあったしね、学生運動が常にあった、早稲田もそうだけども、ウチらは何も無かったわけじゃない、そういう意味では。そこでいよいよああいう大きなうねりが出てきたのは、もう本当にそうなんだろうね。」

Y「そういう意味で言うと明治は、恵まれていたかも知れないけど。」』

(No221-3に続く)

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No220の続きです。
(写真はサンデー毎日69.2.20号より転載。文闘委の部屋の様子。)

『5 69年1.18~19

N「年が明けて「東大が危ない」という話が飛び交うようになった。俺たちの間では「東大が落ちたら、次は日大だ。そして全国の大学にそれが波及していくのは必至だから東大を死守する」という論理だった。
 正月で、学内に泊まり込んでいる活動家も少なかったんだろう。でも、風雲急を告げる状況で、田舎に帰っていた俺にも仲間から電話があった。「いよいよ東大がヤマ場だから、すぐに戻って来い。」とのことだった。
18日には、既に朝から本郷に通じる道路は機動隊によって封鎖状態で近づけない。
結局、御茶ノ水橋を越えることが出来ず、終日御茶ノ水界隈でドンパチやっていた。
東大が1日目は持ちこたえたというので、理工学部1号館に引き上げて総括集会をやった。その時の文闘委T委員長は上機嫌で、マルキから奪った紺のメットを手に「今日は、安田講堂の諸君に連帯し、神田一帯を席巻したー。」と。俺は、この頃もまだ銀ヘルだった。
19日のことは。あまり覚えていないが、やはり御茶ノ水周辺にいたと思う、安田砦落城といったって、あまり落胆した記憶はない。何故かな。
色が付いたのはもうチョット後、その年の3月に、怪我したんですよ。明大近くの山の上ホテルへ向う坂道で、デモ指揮をして、明大本部を出て曲がろうとしたら、真向かいに「主婦の友」があって、あそこからマルキが撃った催涙弾の直撃を受けた。多分普通だったら、あれでアウト(戦線離脱)だったと思ったけど、あそこでまぁ踏ん張って、それで、声をかけられてそこから党派に入っていった。」

6 「叛逆のバリケード」のセールス

N:「はっきり言うとね、叛バリは全部読んだことないですよ、一回も。拾い読みですよほとんど。今考えてみると、結構あの中に初期にやってた人が実名で出ている。(N氏が自分で持ってきた「叛バリ」を見て)これはね、改めて見たら初版本なんですね。たぶん68年の秋に出したんだけど、その時に買った。で、俺の記憶にあるのは、これを法政大学に売りに行ったことがあるんだよ。法政の六角校舎。」

T「なんか集会で?」

N「そうじゃない。手分けして売ろうじゃないかということを言われて、社会学科の何人かと一緒に、夜、法政の六角校舎って今聞くとゾットするけど、売りに行ったことがある。それはマスコミ研究会の横の繋がりがあってね、法政行けば売れるからっていうんで、セールスに行ったことがある。くっついて一緒に。この本はその頃に買ったんだけど、売りに行った記憶もあるんだ。
青学に文闘委機関誌を売りに行ったこともある。無い?」

T「記憶無いね。」

N「そういう記憶あるんだよね。文闘委機関誌を手分けして皆で売りに行こうというので。結構さばけましたよ、俺の記憶じゃ。何十冊か引き受けた記憶がある。」

T「叛バリは貰ったんだよ誰かに。」

N「文理の中では配っていたかもしれない。」

T「誰かに貰った記憶があるんだよね。何冊か貰った。」


7 文闘委には色んな人が居た

Y「何人ぐらいでやっていたんですか?文理では。」

N「文理は一番隊列が多かった。何故かね?文理で学部集会やって、最後にお茶の水、水道橋で全学が合流すると文理が一番人数多い。社会学科で400人いた時があった。文理全体で1000人を超える。全学になるとそれこそ何万。文理が一番隊列多かったな、何でかな。一説では、文理はつぶしがきかない、就職率が悪い。法学部とか理工とかは食えるわけよ。そこそこやって途中で辞めても、就職できるし、食える。そういうとこが潰れるのが早かったんじゃないか。文理なんてのは中途半端でつぶしがきかないから。学部では文理が一番最後まで残ったんだよね。徹底抗戦はやらなかったけども。
文理って色んな人がいっぱい居たよね。その中にM(政治学者)の息子がいたでしょ。」

T「ランニングシャツ1枚でね。」

N「彼は変わりもんだったよね。高名な政治学者Mの息子が文理にいたんですよ。彼はね、真冬でも半袖のYシャツ姿でヒゲぼうぼうだった。あれホントに息子だったんだろうね。」

T「あれね。そうなんじゃないの。みんなそういう話だった。」』

(221-2に続く)

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(ブログの字数制限の関係で2つに分けてあります。No220-1から見てください。)

(写真は毎日グラフから転載。68.9.12神田駿河台下。)

『N「俺はね、周辺でウダウダしていたから入るのが遅かったけど、初っぱなから全部記憶がありますよ。勃発する前にUさんが、社会学科学生会の委員長をやっていて、使途不明金糾弾集会やるから集まれと言って各教室を回ってきたことを憶えているんですよ。5月の時も、あの時初めて文理で隊列組んでデモと集会やっていたんだけど、俺は中に入ってなかった。周辺でずっと見ていた。ちょっとブランクがあって、夏休みになって田舎に帰っていた。親から仕送り止められるとアウトだから、夏休みに帰ってこいと言われるとみんな帰っちゃう。本格的に(闘争に)入ったのは秋になってから。
地方から来る学生には先進的なやつと保守的なやつがいるんだよ。俺は頭で分かっていても入っていけないタイプだった。」


3 9.12全学総決起集会が初めてのデモ

N「俺が感じたのは、東京の高校生は政治的感覚が違うということ。ぱっと入っていく。地方出身者は入っていくやつもいるけど、だめだな。でも浪人している人は1年東京に来ていて見ているから結構早い。社会学科のSを知らないかな。俺は彼からオルグられた、最終的に。俺が迷っていたら食堂に呼ばれて、「お前が人間として正しいことやれるかどうかの瀬戸際だ。先はどうなるか分からないけど、俺はあの時正しいことをやったんだというということを人生の中で後悔したくないということなら隊列に入るべきだ。」と言われて、「そうだな」と。それではじめて夏以降に(隊列に)入った。彼は九州出身で一浪していた。彼は大分のM高校出身だった。俺の直接のきっかけは彼ですよ。(Tは)よくスーッと入れたよね。」

T「関心はあったけどね。」

N「東京の大学や高校の人たちは政治的、社会的に文化的に刺激が違うんだと、お前なんか田舎もんだからだめだ、と先輩に言われて、そうだなと思ったこともある。」

N「俺が初めて(隊列に)入ったのが、忘れもしない9.12(全学総決起集会)ですよ。何故かって言うと、夏休みに伊勢丹の配送所でバイトやっていたら、その中に法学部でバレバレのやつが居て、彼から9.12に行こうって言われた。法学部の現史研、マル中のOやSが居た。彼らが主宰するサークルに入っていたらしい。もう初っぱなで辞めちゃったんだけどね、彼から「やんなきゃダメだよ」って言われて、いきなり9.12に行った。9.12忘れもしないよ、御茶ノ水理工学部7号館の空き地があって、そこへ集合して、さっき言ったSからもやんなきゃダメだって言われたから、俺決意して行ったんだ。
デモに移って神保町でドンパチ始まっちゃって、路地に逃げたのよ。その狭い路地で大勢のデモ隊がマルキにギューと挟まれた。で、あの時ホント、圧殺されるんじゃないかと思ったけど、高校時代チョット運動やって体力あったからグッと我慢して、パクられそうになったけど、まぁ、いいよって逮捕されず解放された。それが初めてのデモだった。あの時まだよく分からなかったけど、銀ヘル被って、デモやって、いや、遠巻きに何回か見に行ったことはあったけど、隊列に入ったのは半年後だったから、それからですよ。それからずーっと・・・。」


4 寒かった11.22の夜

N「その年の11月22日に、東大安田講堂前で東大・日大闘争連帯全国集会があった。その頃には、もう何度もデモに参加していた。日大全共闘は、夜になってやや遅れて大部隊で集会に参加した。ライトに照らされた安田講堂には各党派の旗が掲げられ、本郷キャンパスは旗が林立し、全国動員に近かったのではないか。
 この時、初めて東大構内をデモしたが、教育学部前でこれまた全国動員とウワサされた民青と一瞬即発の状態で内心、怖かった。彼らは黄色のヘルメットで武装していた。集会前から「民青は、アカツキ行動隊を動員している」とか「全国から動員されて本郷周辺の宿に泊まりこんでいる。そこでトンカツ?とか旨いものを食っているから我々よりもゲバが強い」などと妙なことを吹き込む仲間がいてビビッた。
 遠目に見た時は、黄色のヘルメット姿で建物の前で全共闘部隊を牽制するためにピケを張っているようだったが、デモ隊列で接近したら背後や足元にゲバ棒が見えてゾッとしたね。
この集会は長時間だったと記憶している。途中、安田講堂内に入ったが、後に占拠学生が壊したと報道された大講堂(卒業式を行う所)の中は、この時はまだ汚れても、破壊されてもいなかった。
 ここが壊されたのは、1.18が近くなってからでは、と思う。
 そして、この夜は寒かった。
 集会中に、寒さと空腹に耐えかねて、正門の外に出たらラーメン屋の屋台が出ており、後輩と2人、熱いラーメンを食べたのを覚えている。』

(次週に続く)





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今年の最初の回は、「記憶を記録する」シリーズ。

No198で、日大闘争の記録「叛逆のバリケード」巻頭詩の作者である日大文理学部闘争委員会T氏から伺った話を書いたが、その時の喫茶店Dでの会話の録音には、同席した文闘委N氏の日大闘争への発言も入っていた。
日大闘争初期の貴重な証言なのでN氏にブログへの掲載についてお願いしたところ、「第3者に迷惑がかからない範囲」での公開という条件で、快く了承していただいた。
そこで当日のN氏の発言内容を時系列で編集し、N氏の補足も加えて数回に分けて掲載することとした。

読んでいただく前に私とN氏との関係について紹介すると、N氏とは以前から仕事の関係でつながりがあったが、学生時代の事はお互いに知る由もなかった。
10数年前、新宿警察署の前にあった「秀新」という大衆割烹に一緒に飲みに行き、仕事の話などをして帰ろうかという頃、私が明大文連の飲み会の予約をしたところ、N氏が「文連」という言葉に反応して「もしかしてあの当時・・」という話になった。
話をしていくうちにお互いの素性が明らかになり、それ以来の付き合いである。
この「秀新」という店のマスターは日大全共闘(経済学部)のK氏で、私はこの店で大学卒業後のフリーター時代にアルバイトをしていたことがある。

以下、N氏とT氏の発言である。(Yは筆者)
(写真は新版「叛逆のバリケード」より転載。68.5.31文理グラウンドでの全学総決起集会。)
『1 文理は体育会系がいっぱい

N:「(日大に)入った時は4クラスだったかな?」

T;「3クラス、4クラスだった。」

N:「学科の募集人員は40名だった。入ってみたら400人ぐらい居るんだよ。」

T:「そうそう。」

N「文理は体育会系、運動部が一番多いんだから。文理学部は野球場や陸上競技場があるから、他学部の学生も運動部の練習は文理学部が中心なんだ。」

Y「そうなの。」

T「松原高校近辺に運動部の合宿所が多い。」

N「もちろん体育学科もあるし。スポーツ選手というのは文理学部で、他学部に入っていても午後は練習に文理に来るとか体育会系はいっぱい居た。」

T「あの当時、相撲のWとかね・・」

N「Wとは演習で一緒だった。彼は学年1年上だったんだよね。多分単位落としていたんだと思うけど、最初の授業1回だけであとは出てこなくなった。水泳選手のK、男みたいな声を出していた。地下食堂で毎日カレーしか食ってなかったけど、体育会か何かの連中に囲まれてドケドケドケって入ってくるんだよ。俺が食っているところに(来て)、ドケって言われて立ち食い、そういうことなかった?」

T「なかった。たまたま一緒にならなかっただけで。」

N「地下だよ、正門入って左側、カレーとかしかメニューが無いところ。体育学科教授には有名な体操のEだとかねHもいたよね。」

T「体育のE、器械体操か何かやらされるのかと思った。そういうのは、あんまりやらなかったけど。サッカーとか球技だった。筋肉質でね、背は小さかったけど。」

N「体小さかったよね。」

T「デモの時に出て来た。やめろーって、えらい勢いで。」


2 68年5月は傍観者だった

N「俺は立ち上がりが遅い。Tは埼玉の高校だから政治的感覚が違うんですよ。」

Y「(T氏に)1年の時から活動していたんですか?」

T「いや違いますよ。2年から。」

Y「68年から。」

T「そうですよ。」

Y「68年の5月からいろんな問題が出てきてからですか。」

T「そうですね。最初のデモっていうか構内でやった時からですね。マスコミ研究会で全員で出て行ったから。引っ張られるような形で。」

Y「(「忘れざる日々」の)年表にあるようなところにはだいたい居たということなんですか。これを見ると68年の5月ぐらいから、ずーっと続いていますが。」

T「(文理学部キャンパスの)池のまわりに居た。池の回りを一回りするのも大変なんだ、蹴られて。」

N「5月25日の一番ピークだった時(抗議集会)、みんな隊列組んでデモやって門から出て、正門の前の通りがあったじゃない、あそこで名前正確に知らないんだけど、通称ゲバシンと呼ばれていた彼が俺らが歩道で見ていたら、「君たちは何を見ているんだ、君たちはなぜ隊列に入らないのか」と言っていた。(その時の)彼の形相がすごかった。俺はまだ傍観者だったけど、関心があったし、やらなけりゃなと思ったけど、隊列に入れなかったからそばで見てたわけさ。そしたら彼がボコボコに殴られているわけよ。それでも周りで見ている連中に向かって、「何でおまえたちは隊列に入らないんだ。」(と叫んでいる。)俺、彼のそういう記憶があるんだ。で、どうしようかなって思った記憶がある。彼のこと知らない?」

T「ほかの学科の人とつきあいがないから・・・。」

N「ずーっと、いたよ。」

T「顔見りゃ、思い出すかも知れないけど。ほとんど泊まり込みの時でも社会か教育か中文とかその辺としか、つきあいないから。」』

(No220-2に続く)

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