野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2012年02月

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2月11日、代々木公園イベント広場で、「再稼働許すな!2.11さようなら原発1000万人アクション全国一斉行動in東京」が開催された。
明大・日大・芝工大の3大学を中心としたメンバーも、この集会とデモに参加したので、その様子を報告する。
(ブログの字数制限の関係でno227-1からNo227-3の3つに分けてあります。)

3大学を中心としたメンバーは30名ほど、集会会場の野外音楽堂の正面に集合。明大関係者はやや少なめか。集会が始まり、「経産省テント村」や「9条改憲阻止の会」などが集まっているけやき並木寄りに移動。
会場には集会が始まる頃から人が増え始め、公園に通じる歩道橋の上も人でいっぱいに。
集会では呼びかけ人の大江健三郎さんが最初に発言、そして澤地久枝さん、続いて福島から永山信義さん(福島県平和フォーラム)、増子理香さん(つながろう!放射能から避難したママネット@東京)、菅野正寿さん(福島県有機農業ネットワーク)が発言、さらに俳優の山本太郎さん、タレントの藤波心さんの発言と歌、最後に落合恵子さんの発言があった。
この中からいくつかの発言を紹介する。

●福島県平和フォーラム 永山信義さん
『お寒い中、ご苦労様でございます。福島県平和フォーラムの永山と申します。よろしくお願いいたします。(拍手)
皆さん方は何と答えるでありましょうか。小学生の問いかけがあります。「それでも原発を輸出するんですか。」皆さん方は即座にとんでもないこと、ノーだと答えるでありましょう。
この輸出問題、そして再稼働の問題が粛々と進められているというふうに思っています。
さて、福島県がようやくにして廃炉の態度を明らかにしましたけれども、その矢先、時機早尚だ、とんでもないと抗議をした町長がおります。
地方議員選挙で原発推進をぶち上げて、トップ当選を果たした例もあります。残念なことでありますけれども、福島原発地元での出来事であります。
これら巻き返しの動きに最新の注意を払う必要があるだろうと思っています。次にマスコミの皆さんに方にもお願いがございます。先の大臣が現地を視察した後に「ゴーストタウン」という言葉を使い辞任に追いやられました。
原発事故の結果を見て率直に言ったことが辞任のクビの原因であるとするならば、その原因を作った人たち、その機関はどうなるのでありましょうか。(拍手)
安全だ、安全だ、安全だ、念仏のように唱えるだけではなくて湯水のように金を使い、それもそのはず、それは一部は税金であるし、一部は電気料金として上乗せをして、皆さんから吸い上げたものではありませんか。(拍手)
そうして安全神話を作り上げ、原発を押し付け、形は誘致をされたという形を取っています。しかし、押し付け、地震大国日本に54基もの原発を作り上げてきた、国、そしてその機関、関連メーカー、ゼネコン、原子力委員会、安全保安院、そしてはたまた今もって福島の地での、このくらいの放射能は大丈夫と公言して憚らない専門家のみな皆さん、この人たちは謝罪をしたのでありましょうか、反省をしましたか、クビになりましたか、もちろんクビをすげ替えて済む話ではないことは明らかでありますけれども、皆さん、どうお考えになるでしょうか。
最後になりますけれども、日本は世界に例を見ないような経験をしてきました。広島、長崎だけでなくて第五福竜丸、そして「もんじゅ」の事故、JCO、外国でいえばチェルノブイリ、スリーマイル島の事故、そしてとどめは福島原発の事故じゃありませんか。
あと1ケ月で1年になろうとしています。
避難されている方は15万7千人、そのうち福島県外への避難者は6万1千人と言われています。なかでも帰宅困難者が2万5千人と言われています。福島県の小学生は9,240人減少したと言われております。
私は郡山に住んでおります。郡山の例で言いますとホット・スポットがあります。隣の学校に転校した例もあります。ささやかな抵抗だと思いますけど、ささやかな努力だと思いますけども、そういう今、現状にあるわけであります。
この避難をめぐっても、避難をするしないで対立をし、離婚に至った例もあります。また、母と子が郡山から米沢に避難をしました。下の子はすぐ溶け込んで友達もできました。上の子はなかなか馴染めず、いじめに会い、「帰りたい、帰りたい」と大変痛ましい話があります。
こういう現状にあるわけです。
一方では絆、絆と叫んでおきながら、その絆を打ち壊したのは一体誰でしょうか。避難された方々は一様に帰りたい戻りたいと言っています。しごく当然のことではないでしょうか。
国は12月16日、終息宣言をいたしました。これで果たして終息と言えるでありましょうか国は12月16日、終息宣言をいたしました。これで果たして終息と言えるでありましょうか』

(No227-2に続く)

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(No227-1の続きです。)

『有機栽培農家の方が、これでようやく安心安全なキャベツを学校に提供できると喜んだ矢先の事故に会い、自殺に追いやられました。原発がなければ、と自殺をされた酪農家もあります。形を変えた私は殺人と言ってもいいだろうと思います。(拍手)
丹精こめて作った桃、ナシ、米、野菜、売れません、いわゆる風評被害です。郡山市で事故前に作った「はし」、屋内に保管しておいたものが 出荷できなかった例も報告されています。商業や観光業界も同様です。
私は叫びたい、あの美しい福島を返せ、故郷を返せ、あのささやかな日常を返せ、私たちは福島の地から脱原発を全国、世界に向けて発信してまいります。
3.11原発いらない福島県民大集会、福島県郡山市、開成山野球場でお会いしましょう。
ありがとうございました。(拍手)』」

●つながろう!放射能から避難したママネット@東京の増子理香さん
『皆さんこんにちは。つながろう!放射能から避難したママネット@東京の増子と申します。壇上から僭越でございます。
本日は素晴らしい集会にお招きいただきまして、心から感謝しております。
皆さまの脱原発、反原発活動に、敬意を表しております。
どうぞ引き続き福島の子どもを守る活動や、政府の心なき対応に物申す行動を一緒につながって活動して下さるとうれしいです。
わたくしは福島県三春町から5月に娘と東京に避難してきた者です。
自主的避難者の立場として、一人の母親として、わたくしメッセージで恐縮ですが、ささやかな思いを御拝聴いただければ嬉しいです。
わたくしは、黒毛和牛と、田んぼと畑を立てる農家に嫁ぎまして、自分なりの農業をするために有機農業JASの認定を受けながら、インターネットで全国宅配をしたり、近隣のお宅にお野菜を配達していました。
手には鍬の豆を作り、土と肥しにまみれたとても充実した日々を福島で送っておりました。
しかし、あの日を境に、私たちの福島は一変しました。
国や県から施行される安全宣言とは裏腹に、驚くような数値を示すガイガーカウンターの表示自主的な避難を決断しなければならず、同居家族の軋轢を抱えたまま、夫を福島に残し、小学生の娘と二人で身を寄せ合って暮らしています。
4月、小学校に入学した神々しい顔の娘の顔には、白く大きなマスクがありました。
文科省から配布された「年間20ミリシーベルト以下は安全だ」という保護者への便り。地産地消の学校給食。
その時、娘の学校の校庭は、毎時2.2マイクロシーベルトでした。
水道水への不安から娘に持たせた水筒は、一滴も娘の喉を潤すこと無く持ち帰られました。
「学校の水道水は安全だから水筒を持って来てはダメ」と担任の先生から言われたのです。
「ママが水道のお水は危ないからっていうから、私一滴も飲まなかったよ」「のどが渇いたけど我慢したよ」
誇らしげに報告する娘がいました。
学校と行政、大人の間で翻弄される、この幼いわが子は自分で自分の命の選択をしたのです。
5月、被災の証明がないという事で、都営住宅やURには受け入れを拒絶され、現在は善意の一般の方から住宅を提供して頂き、娘と避難をする事が出来ました。
偶然にもおととい、家主さんが夕食にご招待して下さり、こう、おっしゃりました。
「あなたも東京都民になったのだから、子どもさんの新学期の前に都営住宅にでも移られたらどうですか」
避難を相談した時の落胆した夫の顔。見送りにも出てこなかった義理の父。荷物をまとめて東京に来た時の事が、走馬灯のようにゆっくり脳裡を流れました。
私たちはまた、あの日に戻ってしまったのでしょうか。
「また、転校だね」ぽつりと言う娘。幼いわが子は大人たちの中で繰り返される会話を聞き、咀嚼(そしゃく)し、そして、子どもなりの理解をしたのです。ひと月先の寝どこさえもままならぬ事を。
学期途中で転校し、やっとの思いで溶け込んだ学校や友達。定住出来ないからと、何件も受けてやっと決まった職場。あれから一年もたたないうちに小さな娘に押し付けられる人生の選択は、あまりにも厳しい試練のように思えてなりません。
私たち福島県民は、儚い一艘の小舟です。
さざ波の上をくるくると流れていく、枯れ葉の小舟です。
この手にしっかりと携えていたはずのオールは何処かに流され、今握りしめているものは、幼いわが子の小さな、小さな手だけです。
「この子だけでも守りたい」「この子に夢と希望のある未来を見せてあげたい」私たちの願いは人の親であれば誰でも思うささやかなものです。(涙声に)
これ以上福島の子どもに悲しみを負わせないでほしい。
もう、これ以上生きる希望や夢を奪わないでほしい。
福島に残してきた自分と、ここにいる自分が、いつも心の中で叫んでいます。
引き裂かれた二つの自分が、いつか一つになれることを夢見て。』

(No227-3に続く。)

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(ブログの字数制限の関係で3つに分けてあります。No227-1から見てください。)

『どうか、福島から学び、同じ過ちを繰り返さぬよう、私達が出来ることの限りを尽くしたいと思います。
皆さまと繋がって力を蓄えたい。私たち避難者にもできる事はあります。
避難者で立ち上げた「つながろう!放射能から避難したママネット@東京」は、福島の子どもを守るため、避難した子どもを守るため、ささやかではありますが、目に見える活動を進めています。
皆さま、どうぞ一緒につながって下さい。
今日はありがとうございました。』

●タレント 藤波心(ふじなみこころ)さん(15歳)
『みなさんこんにちは、藤波心です。
東日本大震災、あともう少しで1がたちます。3.11以降、私の価値観は大きく変わりました。
人類の歴史に残るような大きな事故なのに、たいしたことが無い様に見せる国の姿勢や、報道。
検査も少ししかしていないのに、経済を守るために緩すぎる基準。
「食べて応援しよう」なんていう、人の命の重さを無視した、無責任な国を挙げてのキャンペーン。
私は、これはすごく怖い事だと思います。
日本って、こんな国だったんだと、残念な気持ちになりました。
今、日本は歴史上大変な時期に面していると私は思います。この狭い国土に、この地震が多い国土に気が付いたら原発を54基も建ててしまっていた。これは繁栄の象徴でもなく、ただの時限爆弾です。(拍手)
もし、またどこかで大地震が起きて別の原発が爆発するようなことがあったら、今度こそ日本は終わりだと思います。いつ爆発するか分からない爆弾と一緒に生活するなんて私は絶対にいやです。(拍手)
美しい山や川、海、歴史ある町、美味しい山の幸や海の幸、もう私たちの国土に第2の福島を作っては絶対にいけません。(拍手)
私たちは所詮ちっぽけな生き物です。どうやったって地球の自然には勝てません。科学が発達したからといって人類が何でもコントロールできると思ったら大間違いです。(拍手)
自然の中に生きる私たちは、絶対に自然を超えることはできません。こんな地震の多い国に原発を作りまくるというのも。自然をバカにした人類の驕りだと思います。(拍手)
私たちは原発によって支えられていたのではなく、何も知らない私たちが原発を支えていたのだと思います。(拍手)
よく経済がダメになるから原発は必要だという人がいます。でも、今の日本は原発があるから経済がダメになっているように私には思えます。(拍手)
今こそ本当の幸せとは何か、豊かさとは何か、考え直す時が来ているんだと思います。いつも最後にしわ寄せが来るのは、一般市民や弱い人、子供たちです。皆さん一人ひとりの力は大きな力に変わります。子供たちの明るい未来を、そして日本の未来を守ってください。よろしくお願いします。(拍手)
最後に今日は「ふるさと」を歌って終わりたいと思います。
<心さんの美しい「ふるさと」の歌が会場に響きわたります。>』

主催者発表によると約12,000人が参加。参加者は集会後、新宿中央公園コース(労働組合中心)と明治公園コース(市民団体中心)に分かれてデモ(パレード)を行った。
以下、集会に参加した明大生田の「しまうた」さんから報告である。
『集会の発言では大江健三郎がそうとう決意を込めているようですね。純文学のように話が長い、長い。
わが明大のレモンちゃんこと落合恵子は、短くあっさりしていた。藤波心くんは、日に日に演説がうまくなっている。アカペラの「ふるさと」、音程がしっかりしていて、清々しい。
ちなみに、わが三大学は解散場所の明治公園で、インターナショナル。
知らない人は肩を組んで歌う姿が興味深いのか、写真をパチパチ。
私たちは三大学共闘の隊列は全体で30名ほどでしょうか。大学としては中央大学、専修大学、青山学院等も参加されました。
それにしても「明大全共闘」の旗はインパクトがありました。
写真をとらせてくれ、私も昔全共闘だった、まだあるのか?、など注目されました。
また、この旗の隊列を見て、東京の沖縄支援の中心団体である一坪反戦地主会、辺野古への移設を許さない会、旧沖縄青年同盟の人なども私たちの隊列の後ろに入ってきました。
当時、東京在住の沖縄青年たちも全共闘運動の中で一緒に闘っていたのですね。
「全共闘世代の学友は、日大・芝工大・明大の隊列に!」という横断幕を作れば、きっと個々人の思いをもった全共闘世代が集まるかも。』

【お知らせ】
3学共闘を中心としたメンバーは、3月11日(日)に福島県郡山市の開成山野球場で開催される「原発いらない3.11福島県民大集会」に参加する予定です。
当日参加の他、前日に福島県内に宿泊し、飯舘ふぁーむ 伊藤延由さんの話を聞いてから翌日の集会に参加するバス・ツアーも企画されています。参加希望の方は「明大全共闘」ホームページのコメント欄に書き込んでください。詳しい案内を送ります。

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1960年代後半から70年頃の新聞記事を紹介するシリーズ。
今回は毎日新聞の「学園喪失 角材の論理を追って」という連載記事を紹介する。

(写真は「叛逆のバリケード」より転載)
【否(ノー・ノン)】1968.10.24毎日新聞(引用)
『<島育ちの僕は一貫して勉強しませんでした>

「資本論?読んだことないなあ・・・」
マンモス日大生8万人の意識を目ざめさせた“英雄”という賛辞の一方で、私服刑事にリンチを加えた“暴徒学生”の主犯とされる秋田明大(あけひろ)日大全学共闘会議議長は、とりわけ秀才というわけではない。
瀬戸内海に浮かぶ小さな倉橋島の出身。生来“環境には鈍感で、ラクビーや水泳が得意だった”という。彼の女房役、酒井吾郎副議長も広島県の同じ私立高校を素行不良で退学させられ、高校卒の検定試験を受け“ようやく”日大に入ったというから、お世辞にもエリートとはいえまい。(中略)

全学連OBで中核派の指揮者北小路敏氏はいう。
「学生運動家というとオニか蛇(じゃ)のようにいわれるけど、ふつうの人間、ふつうの学生ですよ。」
“ふつうの学生”が紛争の主役におどりあがったのはなぜか。
日大“創業以来”の大闘争を組みあげたその秘密は・・・?

<みんなガタガタふるえていました>
あの日のことは忘れられないと秋田議長はいう。
昨年4月20日の新入生、移行生歓迎大会での事件。
「演壇の羽仁五郎氏に対して“アカ!ジジイ!引っこめ!”のバ声が乱れ飛び・・」「応援団を先頭に数十人の学生が控室にいた執行部役員を引きずり出し」たそのあげく「脳波に異常をきたし、数日間食物摂取不可能となり、満足に体も動かせない」ほど「バットで頭をなぐられたり、頭を壁に打ちつけられたり、胃をけられた」のである。
なにかが彼の胸の中でカチリと鳴った。
「ボクは委員でもなければなんでもなかった。ノンポリだった。(いまでも“一般学生”ですが・・・)しかしその非道ぶりをみて、僕は頭にカーッと血がのぼった」
サークルの委員長になれば処分される。三崎祭では話を聞きたい講師も呼べない。目の前で“大学右翼”が暴虐の限りをつくす。教授はその暴力をとめるのでなく、なぐられた方をキツ問する。職員室から日本刀が出る・・。
では、学生は、といえば抵抗したって仕方がないじゃないか、大学側にチェックされるだけだ、就職もできなくなる。
こうした蓄積された内的な怒りが、外に向って爆発したのだと秋田議長はいう。
“ノー”
平均的学生たちは一斉に叫んだ。学園民主化に立ち上がった。芸術学部の学生20人は絵筆持つ手を土方仕事にかえ、1人1万円ずつ20万円の運動資金をつくり出した。
「5月にはじめてデモをしたときは、スクラムをどう組んだらよいかわからなかった。シュプレヒコールもうまく声がだせなかった。みんなカッカしながらブルブルふるえていた」
学生は社会のワキ腹、一番敏感な部分だ、とはレーニンの言葉だが、大学のスキャンダルの数々は、田舎出の“一般学生”のワキ腹をいたく“刺激”した。
従来、学生運動とは疎遠だった学生が“主体的”に立ち上がり、スト体制の底辺を形成している点は、日大も東大も同じだ。

<お父さん、お母さん、さようなら>
小さな鉄工所で機帆船のエンジンを修理している父親は三度上京したという。
「オフクロは監獄なんかへ入れられたら困るといった。ボクがほかの学生を裏切るわけにはいかんよ、というと、オヤジはなにもいわなかった。(オヤジは若いとき右手の親指を歯車でくだかれているんです)最近の電話では“お前の顔を当分みれんかもしれんなあ、元気でやれよ”といっていた。
不肖(?)の息子は、オヤジもだんだんエスカレートしてきたナと思う。
逮捕状をシリ目に、彼がたてこもる経済学部校舎の壁には、こんなヒロイックな文字が並んでいる。
お父さん
お母さん
ボクはこれから機動隊の中へ突っ込んでいきます
さようなら
むすこをよろしく
決死隊一同より

<ボクには明日しかない きょうのたたかいが明日を設定するのだ>
「異常なのは教師ですよ」
東大医学部の紛争で、他科にさきがけ医局を解体した精神神経科の石川清講師はこう学生を援護する。
「医学部の教授は逃げることしか知らない。自分に力がないからすぐ激高する。学生は狂犬ではない。青年に関する本一冊読まず、恐怖心から学生を異物視する。異常性はむしろ教授会の方にある。ぼくらの専門用語でいえば、こういうのを驚がく反応と呼んでます。」

(中略)バークレイ、ソルボンヌ、神田、本郷・・で、執ように「ノー」「ノン」「否」と叫びつづける文明の息子たち。
彼らは「試験管の中で実験するわけにはいかない」と、ポスト・ゲバルト(暴力以降)のプログラムを持たない。
繁栄の中で、大人たちはあまりに「量」を追いすぎてきたように思われる。
「カベなきカベだなあ・・人間不在の技術文明、いったいだれがこれを利用するのですか」
(秋田議長の話)』

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(ブログの字数制限の関係で4つに分けてあります。No225-1から見てください。)

司会『ありがとうございます。最後に質問される方いますか。』

男性『今、お話をされていて日大闘争は究極の民主化闘争だった、勝利だったというふうにおっしゃっていましたが、民主化闘争をじゃあ完遂できたという理解でいらっしゃるのでしょうか』

眞武『あのね、完遂できた、その時に勝ち取れたかどうかという意味ではまったく勝ち取れませんでした。何ものも。
日大闘争というのはいつまで日大闘争だったんだろうというふうに、いろんな人の意見があるんですけども、僕は69年の9月にもう1回法経奪還、法学部と経済学部を奪還しようという闘争を組みます。これは非常に激しい火炎瓶闘争になって、御茶ノ水一帯で闘われた闘いですけども、そこまでが日大闘争だったんですけども、だから正、続、続々が本来は日大闘争にはあったですよね。
そこで何か直接勝ち取れたものは一つもありません。大学側は、それ以降、まったく学生の前に出てこない状態の中で、何かやれば機動隊が出てくるという中で、結局日大闘争というのは70年より後まで続いて収束していきますけども、僕は勝ったというのはその日大闘争を闘った誰ひとりとして負けたと思っている奴は一人もいないんですよね。これなんですよ、勝利ということは。
労働組合の運動じゃないんで、いくら賃上げ勝ち取りましたとか、解雇撤回勝ち取りましたという話ではないんでね、そういうのがまだね、今日も当時闘った日大の人たちも数多く見えますけども、誰一人負けたなんて思っている人はいないと思いますよ。』

司会『ありがとうございます。もう少しお話を聞きたいところですが、お時間の方が迫っておりますので、最後に私たち学生に向けて何か一言いただければな、と思います。お願いします。』

眞武『さっき日大闘争は究極の民主主義を求める闘いだったと言いましたけども、今も非常に民主主義というのは危ういものだと思います。本当にそれを求めて闘う人たちがいないとどうなるか分かりません。
一つの例えで言えば、今、経済産業省の前でテント村というのが出来てますよね。原発事故について追及している人たちがそこでがんばっています。
ちょうど昨日なんですけども、そのテントを自主撤去しろと、その日限が昨日の夕方の5時だったんですよね。そこで、話によれば700人くらい、僕もそこに寒かったですけど行ってきましたけれども、正しいことを正しい、こうあって欲しいということを、もし民衆が声を上げなかったら、次どうなるか、これからもあれだけの大事故を起こして原発なんかが危なくて人の命が関わっている問題ですら、民主党政権は日本じゃなくて外国に輸出するのは構わないだろうだとか、とんでもないことを言ってる訳ですよね。
だから、例えばそういう一つの事でも声を上げてなかったらどうなっていくか分かんないんだということだと思うんですよ。
もう一つ、これも昨日の事なんですけども、国鉄の分割民営化というのがありまして今のJRが出来ますよね。その時にJRに採用されなかった人が1,047人にいました。
その人たちのうちの3人が、また昨日から国会前で闘いを始めています。一人の方は1,047人の解雇者に合わせて昨日から1,047キロを走ると言って走っています。昨日50キロ走って、今も走っているはずです。
それから2人の元国鉄の労働者は、議員会館前でハンストを始めました。
こういう国のやることだからお上のがやることだから、長いものには巻かれろで何も言わないということが起こったならば、どこまでもこの日本は悪くなていくんじゃないかと思っています。
だから、別にここで原発闘争に皆さんが来てくださいとかという話をしようと思っている訳じゃなくて、是非こういう一つの機会、こういう68年ということを考えて企画された映画祭なんかの中で、本当に自分の考えを声に出して前に進んでいくということが、これからも必要なんじゃないかというふうに思っています。
それから最後になりましたけれども、もう一度この映画祭を企画された学生の皆さんや支持をいただいた教師の皆さんに感謝をいたしまして最後にしたいと思います。ありがとうございました。』

司会『ありがとうございました。これにて眞武善行さんの日大闘争、続日大闘争のトークイベントを終了させていただきます。眞武ありがとうございました。』

以上、トークイベントでの発言を紹介した。
この映画祭を契機に、若い世代が「あの時代」の意味を考え、今の時代に向き合っていくことを期待したい。
(終)

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