野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2012年02月

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(No225-2の続きです。)

その当時の学生たちは、大真面目に自由だとか平和だとか民主主義というものを信じてたんですよね。
そういう言葉自身がまだまだ輝いている時代だったと僕は思っているんです。
また3作目ができる「三丁目の夕日」ですか、あの時代のちょっとあとなんですよ、68年というのは。
今度、3作目が64年の時代で作ってますけど、その4年後なんですよね。その64年というのは東京オリンピックがあった年で、僕らが高校生の時代です。
そういう時代には、まだまだ明るい未来とか、自由、平和、民主主義というような言葉を本当に信じて生きている人たちがたくさんいたんですよね。
そういうことがベースにあったから、ああいう闘いが起こったし、それが日大だけじゃなくて全国の大学で起こった。それは難しく言えば何で大学でそういうことが起こったのかということは、一つは大学が戦争というものをすり抜けてしまった、8.15をすり抜けて大学がきてしまった、ということが言えるだろうし、その後の日本の経済発展の中で大学そのものが大衆化していた。
当時で学生が100万、今、200万というふうに言われていますけど、少子化しても200万くらいいる、僕らが、ちょうど団塊の世代が大学に入ったころでさえ、まだ100万だった時代で、その膨張する大学の新しい体制に古い体制が追いついていかなかったというところで、全国で学園闘争が起こったんだろうというふうには思えます。
平和とか民主主義とかということについてですけども、当時でも自民党の右派や当時の新左翼なんかは「民主主義は与えられたものだ」という主張をしていますよね。
「戦後、GHQに与えられた民主主義だ。だから自主憲法」というのが自民党、新左翼なんかはポツダム民主主義、これも与えられた民主主義という言い方をしますよね。
だけど、そういうものとは僕らは理解していなかった。もっと輝いているものだと思っていた、ということはありますよね。だから、そういう事の中で起こってきた日大闘争であった。
もう一つ別の側面で言うと、これはベトナム戦争ですね。
当時、大きな学生や若い労働者たちをとらえてた意識というのはものすごい反戦意識です。戦争に反対するという意識の、ものすごい高揚してきた時代、その68年の1月にはテト攻勢というのがありまして、民族解放戦線がサイゴンで米大使館なんかを占拠するような闘いが起こって、ベトナム戦争で、ある時期の転換点を迎えていた時期です。
そういう時期にあたっていて、やっぱりベトナム反戦ということが一つの大きな底流になって、やっぱりもう一つ日大闘争を支えていたんではないかと、いうふうに思っています。
ということで、用意してきた話のうちのいくつかなんですが、時間の制限もあるようなので、この辺で一旦打ち切らせていただきます。』

司会『ありがとうございます。沢山お話を聞きたいところなんですけども、これより質疑応答の時間に移らせていただきます。何か眞武さんにご質問がある方は是非挙手をしていただけますでしょうか。質問のある方いらしゃいますか。では、そちらの男性の方。』

男性『映画の見所というか一番ここだというところはどこだったのか教えていただきたいと思います。』

眞武『観てもらえればね、それぞれの人が感じてもらえればいいと思うんで、僕が実際編集に携わった訳でもないし、ここを是非観てほしいというものはないんですけども、あれを観て、何でこんな事が起こって学生たちが何を考えて、何を言っていたのかを考えてもらう契機になればいいなと思いますね。
デモやったり集会やったり機動隊とぶつかったり、ということばっかりが続いていきますんでね、なかなか考える契機としては難しいかもしれないですけど、僕たちはもう60過ぎましたけども、あの当時十九、二十歳の学生でしたので、そういう今の若い人たちがこれを観る場合に、何なんだろうあれは、ということの一つの契機になっていただければと思います。
この後やられる「圧殺の森」という高崎経済大学の闘いは日大闘争の前年にあった闘いなんですけどね、これはまた悲惨な闘いです。
だからそういう一つ一つの中でこれを観てほしいというテーゼがあって出している訳じゃなくて、あくまでこういうことがありましたという当時からの記録ですから、たまたま芸術学部の闘争委員会でフィルムを買って一人の学生が撮り続けたフィルムを編集しただけですから、そういう元々こういうテーゼで撮りましょうと、こういう訴えがありますよという映画では僕は逆にないと思います。そういう意味で答えになったかどうか分かりませんが。』

(No225-4に続く)

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(No225-1の続きです。)

検閲制度を撤廃せよなんていうのはね、戦後23年経っている時代のスローガンとしては、こういうのがあったんだ、こういうことであんなメチャクチャな闘いが起こったということは確かなんですよね。
いろんな形で日大闘争の膨大なエネルギーを持った闘いがあったんで、これにいろんな意味での政治党派や何らかの政治的な意味付与や解釈というものがね、日大闘争やっている中でもいろいろ起こってきたんですが、日大生があれだけ闘った闘いというのは、このスローガンが一番思想を表している訳ですよ。
この日大生が何を求めていたかというのは結局は、この検閲制度の撤廃であり、集会の自由を認めろという、ある意味で自由を我々に戻せ、我々の手に、ということだったんですよね。
だから、この点が非常に分かりやすいから、あれだけの大きな闘争に逆になったんじゃないか、まあ、いろいろ難しい話をされたら、あれだけの学生が立ちあがらなかったんじゃないかと思いますよね。
非常にメチャクチャな闘いだった。
9月4日の時には、学生の投石で機動隊員が1人亡くなっています。翌年の2月には右翼の襲撃で文理学部の校舎で商学部の学生が1人、右翼の襲撃で殺されています(筆者注:70年2月、武蔵野台駅前での情宣中)。中村克己君という人です。
それから負傷者がどれだけ出たか数えきれないくらい出てますよね。それから逮捕者だけで、日大生が1,608人、これは日大の弁護団のタガ先生が書いた「1,608名の逮捕者」という本になっていますけれども、1つの大学闘争でこれだけの逮捕者を出して闘われた闘いというのはなかったと思うんですよね。
確かに東大闘争なんかもたくさんの人が逮捕されていますけれども、本当の東大生がどれだけだったのかということは、1月の18.19の東大の安田講堂の闘いを見ても全国からの動員された学生が多くて、東大生がいなかった訳じゃないんですよね。
あの闘いを見る東大生が一人もいなくて。全国の学生が集まってやったみたいなイメージを持たれているところもあるようですが、東大の学生も大量に入っています。
しかし、東大生があの全過程で逮捕されたのが1,000名もいくことは無いんじゃないですかね。だから1つの大学でそれだけの逮捕者を出しながら闘われた闘争というのは、日大闘争だけだったんじゃないかなというふうに思っています。
特に、この日大闘争が9月の繰り返し出てくる機動隊との衝突を経て、9.30大衆団交に向かう過程から始まって、特にいろんな形で論議がありました。
自分たちがやったことがどんなにすごいことかというのがまだよく分からないという側面もありますけれども、こういう過程で日大闘争がどうだったのか、日大闘争が勝利したんだろうか敗北したんだろうか、いろんな意見を言う人がいますけれども、僕は日大闘争というのは勝った、勝利した闘いだったんだろうと思います。
9.30で大衆団交をやって古田に確認書を書かせたから勝利だったというだけじゃなくて、もう日大闘争というのは大学闘争で考えられうる限りの事が起こって、人も死に、逮捕者も出してやってきた中で、いわゆる学園闘争としては行くところまで行っちゃったんですよね。
だから10月3日に時の首相が、こんな日大方式は認められない、ということを言い出して、その後、日大闘争は続いていきますけれども、苦しい状態を強いられることになりました。
しかし、日大で実際に闘った人間は、一度勝った、一度勝ったけれど勝利を確定することは難しいんですよね。実際、それを勝っちゃったから、それじゃもうバリケードを解いて、明日からまた楽しい学園生活を送りましょうというふうにはいかなかったけれども、勝っちゃったことは勝っちゃったんですよ。
だから、それについては僕ははっきり言えると思っています。
日大闘争があったのが1968年で、これを総括せよと言われてるんですけども、今から43年前の話なんですよね。
何で43年も経つと、それぞれの思い出の中で生きてるものでもあるし、一つは歴史として語られなけりゃならないようなものですよね。で、僕らは、何で学生があんなに立ち上がったのかと、もちろん日大の一つはそういう自由が非常に剥奪されているような大学の中で、非常に素朴に自由をよこせということで立ち上がったことでもあるんですけどね。
当時、68年から69年というのは全国の大学で約半分くらい、120校くらいで闘争が起こっている、紛争が起こっていると言った方が分かりやすいのかな。
だから、そういう時代が何であったのかいうことを次にちょっと話をさせてもらいたいと思うんですけども、今考えると43年前ですが、68年当時はまだ戦争が終わってから23年目なんですよ。

(No225-3に続く)

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(ブログの字数制限の関係でNo225-1からN0225-4の4つに分けてあります。)

No222で現役日藝生による企画「映画祭1968」について紹介したが、この映画祭も今日で終了した。
この映画祭の様子は気になるところだったので、初日(1月28日)のオープニングに行くことにした。
オープニングの上映作品は「日大闘争・続日大闘争」である。「日大9.30の会」から送られてきた案内で日大OBの席を確保していることを知り、(日大OBではないが、9.30の会の会員ということで)事前に席確保の申込みをした。
会場は渋谷の「オーディトリウム渋谷」(JR渋谷駅徒歩8分)という映画館。大学時代、渋谷経由で京王井の頭線「明大前」駅まで通っていたので、当時は渋谷でよく降りていたが、最近はとんとご無沙汰である。
渋谷駅を降りると人がいっぱい。歩くのに注意しないと人とぶつかりそうになる。
映画館は道玄坂を上り、円山町方面に入ったところにある。
道玄坂を上りながら、当時、この坂から円山町の方に入ったところにあった「ブラック・ホーク」という名前のジャズ喫茶の事を思い出した。
70年頃、何回か行ったことがある。CCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)やCSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)などの曲を流していた。
店内では会話が禁止で、ちょっと曲の感想など話そうものなら店員が来て、話すなら出て行ってくれというような雰囲気の店だった。
さて、ラブホテル街を通って映画館に着くと、日大関係者がすでに何人か来ていた。会場に入れるのは上映15分前ということで待っていると、続々と人が来て待合スペースは一杯に。
館内は約130席あるが、ほぼ満席となった。映画の上映前に学生たちが作った映画祭の予告編が流れた。良くできている。さすが映画学科というところか。
映画館で映画を観るのは何年ぶりだろうか?記憶にない。
「日大闘争・続日大闘争」のモノクロの映像がスクリーンに映し出される。
この1968年から69年にかけての時代の「風景」を、若い世代の観客はどのように感じるのだろうか。

2時間近い上映が終わり、トークイベントが始まった。
トークは日大全共闘芸術学部闘争委員会委員長 眞武善行氏、司会は日大芸術学部学生である。
このトークの内容をノーカットで掲載したので、見ていただきたい。 

司会『大変お待たせしました。これより元芸術学部闘争委員会委員長の眞武善行さんによる日大闘争・続日大闘争のトークイベントを始めます。今回のイベントの進行を務めさせていただきます私、日本大学部映画学科3年の○○と申します。よろしくお願いします。
このたびトークをしていただきますのは日大闘争当時、映画学科2年生の芸術学部闘争委員会の委員長をされました眞武善行さんです。それでは眞武さん、檀上までお願いいたします。皆さん盛大な拍手でお願いいたします。
早速ですが質問させていただきます。
今ご覧になった日大闘争なんですけれども、眞武さんにとってズバリ日大闘争とは何だったのか、お聞かせいただけますでしょうか。』

眞武『なかなか難しい問題ですけれども、まあ人生の全てがそこで作られてしまったというふうに言っていいんじゃないですかね。今日の立派なパンフレットを送っていただいて、「1968を総括せよ」というふうに出ているんで、これは結構大変なことになるなと思っていますけど、そんな感じですね。
それで総括になるのかどうか分かりませんが、与えられた時間の中でお話をさせていただきたいと思います。よろしくお願いします。
こういう映画祭が行われるということ自身、非常に驚きで信じられないような事が起こっているのかなというふうに思いますね。
というのは、この後上映される「圧殺の森」なんかの上映会は、到底日大でやれるようなものじゃなっかったんですよ。で、僕らも明治大学の上映会に観に行くというような状態で、まったく日大でこういうことが出来るなんて思ってもみなかった事を、こういう形で実現させてもらった学生諸君や教師の皆さんに非常に感謝したいと思います。
で、総括ということは非常に難しいんですけども日大闘争が何だったのかということだけ、お話したいと思うんですよ。
結論から言いますと、究極の民主化闘争だったというふうに言っていいと思うんですよね。
日大全共闘が掲げた5つのスローガンというのがあります。これは1つは検閲制度の撤廃、2つ目が集会の自由を認めろ、3つ目が使途不明金問題にからんで経理の全面公開、4つ目が全理事の退陣、それから5つ目に経済学部で行われた学生処分を撤回しろと、この5つのスローガンなんですよね。

(No225-2に続く)
















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