
(No225-2の続きです。)
その当時の学生たちは、大真面目に自由だとか平和だとか民主主義というものを信じてたんですよね。
そういう言葉自身がまだまだ輝いている時代だったと僕は思っているんです。
また3作目ができる「三丁目の夕日」ですか、あの時代のちょっとあとなんですよ、68年というのは。
今度、3作目が64年の時代で作ってますけど、その4年後なんですよね。その64年というのは東京オリンピックがあった年で、僕らが高校生の時代です。
そういう時代には、まだまだ明るい未来とか、自由、平和、民主主義というような言葉を本当に信じて生きている人たちがたくさんいたんですよね。
そういうことがベースにあったから、ああいう闘いが起こったし、それが日大だけじゃなくて全国の大学で起こった。それは難しく言えば何で大学でそういうことが起こったのかということは、一つは大学が戦争というものをすり抜けてしまった、8.15をすり抜けて大学がきてしまった、ということが言えるだろうし、その後の日本の経済発展の中で大学そのものが大衆化していた。
当時で学生が100万、今、200万というふうに言われていますけど、少子化しても200万くらいいる、僕らが、ちょうど団塊の世代が大学に入ったころでさえ、まだ100万だった時代で、その膨張する大学の新しい体制に古い体制が追いついていかなかったというところで、全国で学園闘争が起こったんだろうというふうには思えます。
平和とか民主主義とかということについてですけども、当時でも自民党の右派や当時の新左翼なんかは「民主主義は与えられたものだ」という主張をしていますよね。
「戦後、GHQに与えられた民主主義だ。だから自主憲法」というのが自民党、新左翼なんかはポツダム民主主義、これも与えられた民主主義という言い方をしますよね。
だけど、そういうものとは僕らは理解していなかった。もっと輝いているものだと思っていた、ということはありますよね。だから、そういう事の中で起こってきた日大闘争であった。
もう一つ別の側面で言うと、これはベトナム戦争ですね。
当時、大きな学生や若い労働者たちをとらえてた意識というのはものすごい反戦意識です。戦争に反対するという意識の、ものすごい高揚してきた時代、その68年の1月にはテト攻勢というのがありまして、民族解放戦線がサイゴンで米大使館なんかを占拠するような闘いが起こって、ベトナム戦争で、ある時期の転換点を迎えていた時期です。
そういう時期にあたっていて、やっぱりベトナム反戦ということが一つの大きな底流になって、やっぱりもう一つ日大闘争を支えていたんではないかと、いうふうに思っています。
ということで、用意してきた話のうちのいくつかなんですが、時間の制限もあるようなので、この辺で一旦打ち切らせていただきます。』
司会『ありがとうございます。沢山お話を聞きたいところなんですけども、これより質疑応答の時間に移らせていただきます。何か眞武さんにご質問がある方は是非挙手をしていただけますでしょうか。質問のある方いらしゃいますか。では、そちらの男性の方。』
男性『映画の見所というか一番ここだというところはどこだったのか教えていただきたいと思います。』
眞武『観てもらえればね、それぞれの人が感じてもらえればいいと思うんで、僕が実際編集に携わった訳でもないし、ここを是非観てほしいというものはないんですけども、あれを観て、何でこんな事が起こって学生たちが何を考えて、何を言っていたのかを考えてもらう契機になればいいなと思いますね。
デモやったり集会やったり機動隊とぶつかったり、ということばっかりが続いていきますんでね、なかなか考える契機としては難しいかもしれないですけど、僕たちはもう60過ぎましたけども、あの当時十九、二十歳の学生でしたので、そういう今の若い人たちがこれを観る場合に、何なんだろうあれは、ということの一つの契機になっていただければと思います。
この後やられる「圧殺の森」という高崎経済大学の闘いは日大闘争の前年にあった闘いなんですけどね、これはまた悲惨な闘いです。
だからそういう一つ一つの中でこれを観てほしいというテーゼがあって出している訳じゃなくて、あくまでこういうことがありましたという当時からの記録ですから、たまたま芸術学部の闘争委員会でフィルムを買って一人の学生が撮り続けたフィルムを編集しただけですから、そういう元々こういうテーゼで撮りましょうと、こういう訴えがありますよという映画では僕は逆にないと思います。そういう意味で答えになったかどうか分かりませんが。』
(No225-4に続く)