
(ブログの字数制限を越えるため、No232-1とNo232-2の2つに分けてあります。)
No230に引き続き、明大土曜会のメンバーであるH氏の福島県飯館村訪問記を紹介する。
放射能汚染で避難を余儀なくされた福島県飯舘村の住民を支援する手がかりを得ようと、避難している飯舘村関係者を訪問した時の報告である。
訪問記第2回目は飯舘村の「負げねど飯舘!!」リーダー佐藤健太さん。
(写真は【愛する飯 舘 村を還せプロジェクト「負げねど飯舘!!」フォトギャラリー】からの転載です。)
■3.11以降の飯舘村の若者たちのチャレンジ■
「負げねど」は年上の人もいるが、3.11以降に生まれた約25人の村の若者たちの活動媒体だ。佐藤健太(29歳)さんは護岸ブロック製造業、佐藤工業で働いていた。
「負げねど」は、せめて子どもさんや妊婦は危険な福島ではなく、公費で県外避難を村の行政に訴え、東電への補償を求めたり、マスコミ世論に飯舘の現状を伝える活動を続けてきた。立ち上がりは佐藤さんのツイーターからで4月16日に有志が集まった。
村当局は村での村民の生活や農業産業基盤を守るために、村周辺から約1時間の計画避難を考えていた。佐藤さんたちは、それでは一番影響を受ける子どもが危険にさらされると、村当局の放射能汚染認識の甘さ緩慢な避難計画の非を訴え意見は対立した。
4月21日に菅野村長と懇談し、今後20年30年と子どもの健康被害を見守っていくことで合意した。手帳の具体的アイデアを提供し、村独自の子ども健康手帳が発行された。
村当局は6月22日に役場機能を移転した、それとともに全村民の村外避難が完了した。約1,700戸ある村のコミニティは拡散した。「負げねど飯舘!!」はこの拡散したコミニティを何とかつなげる活動にチャレンジしようとしている。つながらなければ村の絆はだんだんとかぼそいものになっていく。着目したいのは自分たちの活動を、「住民運動(3.11以降の新たな共同体運動)として認識していることである。
佐藤健太さんは相当のイケメンなのだがお会いしたお顔は手に余る課題と格闘格闘の連続のためか、こころなしかお疲れのようだが、「「負げねど飯舘!!かわら版」を手に思いの丈を語りだしてくれた。
■佐藤さんへのQ&Aから■
Q 今一番の課題はなんですか?
佐藤 「2年後に村民は帰る」、村当局はそのための除染計画で頭がいっぱいのようで、拡散した村民のコミニティのためにはあまり機能していないのです。周辺の村と比べると計画的避難が遅かったので、避難住宅の確保先が県内バラバラになってしまいました。飯舘村の人がまとまって避難している所は少ないのです。若い家族は多くは県外に避難しました。放射能が村にもたらしたものの一つは「家族や地域の共同体の苦界」「見えない津波」なんです。
私としては村民相互のコミニティそれは村民であった証・絆ですから、心のよりどころとして守っていくことだと思っています。
10月1日に「負げねど飯舘!!」でこのかわら版を発行しました。「負げねど飯舘!!」で拡散した村民の電話帳づくりもスタートさせました。
Q 村から約1時間といっても多くの人が家族ばらばらになっていると聞いていますが?
佐藤 そうです1時間圏は壮年年寄り世代が多いのです、その中にも県外に自主避難したいと思っている人もいますが、今の所は自主避難の補償はラチが空きませんので、生計上留まっている人も多いのです。私たちの活動は「村に帰る」を最大公約数にしていますが、若い人は2年間も待てない、帰れないなら帰れないとハッキリ言ってくれというものまた多いのです。
Q 帰る前提が除染となってますが村は動き出したのでしょうか?
佐藤 一部で宅地の試験的除染をしたと聞いていますが、具体的動きはまだですが「宅地2年、農地5年、山林20年」の計画が村から出されました。除染の総予算は約6,000人の村民で約3,200億円です。国は第2次補正の予備費として2,200億円用意しましたが、その全てを飯舘村のためだけに投入してもまだ足りないのです。
実際に動き出したのは防災と除染を兼ねた集落毎(行政区)の雑草の刈り取りです、これとて村民の自主作業で進められました。
私も南相馬でやっている除染業者から聞いたのは「相対的線量低下効果」です。飯舘村は75%が山林です、セシウム134の半減期は2年ですから自然消滅で線量はそれだけ下がりますが、山林や農地や宅地のホットスポットから線量は循環して来ます。宅地の除染は相対的なものと思っている村民はたくさんいます。
(No232-2に続く)