(ブログの字数制限を越えるため、No236-1とNo236-2の2つに分けてあります。)
今年の初めから日大闘争シリーズを何回か続けたが、今回はその続編。先日の「映画祭1968」でのトークセッションの中から、最終日に登場した「ラッパの大将」こと、日大全共闘芸術学部闘争委員会行動隊長、山崎氏のトークをノーカットで掲載する。
(当時の写真は、写真集「日大全共闘」より転載)
司会『お待たせいたしました。ただいまより山崎晴久様による「死者よ来りて我が退路を断て」のトークイベントを行います。今回のトークイベントの進行を務めさせていただきます、日本大学芸術学部映画学科3年の○○と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
このたびトークをしていただきますのは、日大全共闘芸術学部闘争委員会行動隊長でありました山崎晴久様です。それでは山崎さん、檀上までお願いいたします。皆さん盛大な拍手でお迎えください。』
(檀上に上がって第一声)
山崎『まだ現役の行動隊長ですから!』(笑)
(マイクを差し出されると)
山崎『マイクいりません!』
司会『失礼いたしました。それでは早速質問の方に移らせていただきます。日大闘争時は何をされていたのでしょうか。当時は写真学科・・』
山崎『はい、2年生までは学生服を着て、日大生ですからね、通ってました。闘争が始まった時は6.11にたまたま行ったんですが、その後は闘う記録隊として報道写真を撮ってました。真面目でした。
あとバリケードの中に私はほとんど泊まっていましたから出席率は最高です(笑)。何で卒業できなかったのか不思議です(笑。)』
司会『山崎さんの「ラッパの大将」というお名前で皆さんご存知になられている方が多いと思いますが、名前の由来というのは。』
山崎『たぶん後輩だと思うんですが、ある日、私のところに豆腐屋のラッパを持ってきまして、これを首に付けろと言うから、「はい」って言って、私は後輩に任命された行動隊長です。安田講堂の学生たちとはちょっと格が違うんですが、腕っぷしは私の方が強いです。』
司会『9月30日の大衆団交の際に、紙吹雪をご覧になっていないとお伺いしたんですけど、その辺のお話をお聞かせいただけますか。』
山崎『あの時、中で体育会系の学生集会をやっていると、やばいから突っ込めと、芸術学部は結構バカばっかりなんです。あなた後輩ですよね(笑)。「行け」と言ったら行っちゃうんですよ。体育会系をどけて真ん中に陣取ったんです。そうしたら途中で緊急放送で芸術学部が襲われています、ということでまた江古田に帰ったんです。だから歴史的瞬間を見ていないから、私は日大闘争が勝ったという実感はないです。』
司会『今でも車のナンバーは930』
山崎『それはそうです(笑)。11・8の方が関東軍に勝ったからいいかなと思ったりしますが、930です!』
司会『改めて本日作品をご覧になられまして、何かご感想というか当時の思い出などお話いただけますでしょうか。』
山崎『実はスクリーンで見るのは初めてなんですよ。勝手に写されまして、私の肖像権はどこにいったんだろう。まあ、ご覧のとおり単ゲバで右翼です。ということで、左翼からかなり攻撃受けるんですけどね、左翼は頭がいいです、右翼は力があるんです。私はどちらかというと両翼ですから空を飛べるんです(笑)。左翼だけではだめです、右翼だけではだめです。日大全共闘というのは、そういういろいろなのが集まった多様性の中で初めて成り立つ。前の連赤でああいうふうになっちゃったのは多様性を認めない一神教だったからだめなんです。私みたいに多神教で大和魂と武士道にのっとってやればいいと思う。
日本大学は古田はその道を外したんです。佐藤栄作も外したんです。だから私は天誅を下したんです。』
司会『ありがとうございます。もう少しお話をお聞きしたいところなんですが、ここから質疑応答の時間に入らせていただきます。どなたか山崎さんに質問のある方いらしゃいますでしょうか。』
会場から『私、JUNと言いまして山崎君と同学年でした。遠くから駆け付けてくれてラッパさんありがとうございます。(山崎さんが立ち上がってファイティング・ポーズをとる)今はやりのやらせ質問っぽいんですけども、一つお答えいただきたい。ラッパさん、あなたは最近、某掲示板にこういう書き込みをされています。
ちょっと読みます。「教えてくれよ君たちが目指したものは、ってことは後輩たちは我々全共闘に総括せよと突きつけてきたのかな。思い起こすと我々は当時大衆団交でつるし上げを食らわした理事者たちの年齢になっている。
そして、主催した学生たちはチラシによれば「総括せよ」と突きつけているらしい。」というような意味のことを書き込みされています。
(N0236-2に続く)