
(ブログの字数制限を越えるため、No241-1とNo241-3の3つに分けてあります。)
今年は連合赤軍による浅間山荘銃撃戦とメンバーの総括による死から40年となる。連合赤軍をめぐっては、当事者や関係者の本が数多く出版されている。また、最近では若松孝二監督による「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」(2008年)の上映や、漫画「レッド」の刊行など、「連合赤軍」の意味を問う作業が続いている。 そこで、今回は当時の資料から、浅間山荘銃撃戦直後に開かれた2つの集会の様子を紹介する。
40年前の1972年2月19日、浅間山荘の銃撃戦は始まった。
この銃撃戦を受け、同年2月24日、東大安田講堂前で日本赤色救援会主催の銃撃戦支持人民集会が開かれた。
明大新聞にこの集会の様子が乗っているので、まずこの記事を見てみよう。
【明治大学新聞 1972.2.24】(引用)
『「連合赤軍断固支持 人民集会開かる 破防法体制化を拒絶せよ」
先日、警察権力は、その全ゆる暴力機能を駆使した捜査により、突如として榛名山、妙義山麗に点在していたと見られる連合赤軍の“アジト”摘発に乗り出した。
そうした権力の襲撃に徹底した反逆を開始した彼らは、19日より軽井沢「あさま山荘」を舞台に1500名を動員した機動隊に包囲されつつ孤軍奮闘している。
一方、それに呼応する人民集会が、24日6時より東大安田講堂前で開かれた。この「連合赤軍支持人民集会」は、日本赤色救援会主催により約80名の結集を獲ち取り、始まった。
まず、日本赤色救援会は基調アピールを行い、「われらが人民の軍隊―連合赤軍は大胆に銃撃戦を展開している。連合赤軍銃撃戦・断固支持!組織破防法の企みを許すな!連合赤軍に全ゆる支援の手を!」と、発言。ついで軽井沢現地で九ん体制を整え、ビラ情宣等の救援活動を行う救援センターからは、現地の状況―そこでの救援活動が述べられる。
大菩薩峠被告団(赤軍)は「今、世界赤軍兵士がまさに具体化するのは、革命的言辞を吐く60年代闘争の観念性の暴露であり、何よりも革命戦争を蜂起させる武器を握った権力との大胆な緊張関係の創出であり、それをリアルに全人民に提示しえたことにある」と戦闘宣言を終えた。
京浜安保共闘のアピールを受け、支援団体(革命救援会・日本反帝戦線等)の発言が続いた。封鎖中の安田トリデを背にした本集会は7時半過ぎ終えていった。
21日、「支持集会」に先立ち情宣を行う人々に、権力は強暴にも妨害、3人を不当逮捕した。この日、2時ごろより原宿―明治外苑間を9人(3人づつ3隊)で歩きながらビラ情宣していた。途中、巡回中のパトカーがこれを見つけ、ひとりをパクろうとした。暴力的にパトカーに引きづり込む官憲を、大衆の見守る中で抗議。不当逮捕に窮地した官憲、抗議した1人を殴る。そのうち誰かが通報したか、大挙した権力が強権的に3人をその場からパクっていった。
一方、23日3時ごろ本学・記念館前に日本赤色救援会の名で立て掛けてあった“立て看”が警察の手で破られるといった弾圧があった。
「連合赤軍・銃撃戦・断固支持」を掲げる意志の表示すら奪おうとする権力の犬に、R戦線・日本反帝戦線が厳重な抗議を申し入れた。(後略)』
銃撃戦は2月28日に終結するが、翌3月になると、山岳アジトでの「総括」による14名の死が明らかになる。この事実を受け、3月31日、日本赤色救援会・HJ裁判闘争支援委・大菩薩破防法裁判支援委の主催により「HJ(ハイジャック)二周年 銃撃戦万歳・故連合赤軍兵士追悼人民集会」が開かれた。
この集会は、本来なら1970年の「よど号」ハイジャック闘争2周年の集会となるところであったが、浅間山荘銃撃戦、そして総括による14名の連赤メンバーの死を受けた追悼集会となった。
「もっぷる通信特別号 3・31人民集会特集」(1972年4月20日発行)(写真)には、この集会の内容が掲載されているので、その内容を一部紹介する。
銃撃戦と連赤メンバーの死という衝撃的な事実を受けて、赤軍派と革命左派、そして両派関係者がどのように受け止めたのかが生々しく語られる。
集会では基調報告(日本赤色救援会)、「連合赤軍公判対策委員会」設置の呼びかけ、特別アピール(共産同赤軍派、日本共産党<革命左派>)、連帯の挨拶(救援連絡センター世話人丸山照雄)、獄中アピール(赤軍兵士上野勝輝他)、各氏アピール(佐野茂樹、重信房子)と続くが、ここでは、要約したものをいくつか掲載する。
(No241-2に続く)