野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2012年06月22日

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(ブログの字数制限を越えるため、No245-1とNo245-2の2つに分けてあります。)

今年は連合赤軍事件から40年。
5月13日、40年の節目ということで、「連合赤軍事件の全体像を残す会」主催の「浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍」シンポジウムが都内で開かれた。
当事者として植垣康博氏(赤軍派)、青砥幹夫氏(赤軍派)、雪野建作氏(革命左派)、前沢虎義氏(革命左派)が出席。塩見孝也氏(赤軍派議長)、三上治氏(叛旗派)、鈴木邦男氏(一水会代表)、森達也氏(映像作家)、山本直樹氏(漫画家)など多数ゲストを交えて、5時間近く様々な事が語られた。
このようなメンバーと多彩なゲストが一同に会する集会は、今後開催されることがないだろうと思い、シンポジウムに参加した。

シンポジウムの概要は以下のようなものであった。
●主催:連合赤軍事件の全体像を残す会
●日時:2012年5月13日(日) 午後1時30分~6時30分
●会場:目黒区民センター

司 会:金 廣志  椎野礼仁
当事者:植垣康博、青砥幹夫、雪野建作、前沢虎義

第1部「映像でふりかえる」
当時の資料映像で構成(制作:馬込伸吾)
第2部「当事者世代が語る」
●ゲストパネリスト
塩見孝也、三上治、鈴木邦男
第3部「連合赤軍事件が残したもの」
●ゲストパネリスト
森達也、田原牧、大津卓滋
第4部「若い世代にとっての連合赤軍」
●ゲストパネリスト
雨宮処凛、山本直樹、ウダタカキ、小林哲夫、赤岩友香

会場は400名ほどが入るが、参加者は半分程度。思ったより若い人たちが多い。NHKの取材陣がカメラでシンポジウムの様子を撮ったり、参加者にインタビューをしていた。(翌日の朝のNHKニュースで放映されたとのことだが、私は見ていない。)
受付で写真撮影OKということを聞いたので、前の方の席に陣取った。
雪野氏の開会の挨拶の後、第1部として当時の資料映像を新たに編集した映像の上映(約20分程度)があった。
第2部からは、連合赤軍当事者とゲストパネリストのトークである。
今回は第2部の発言を中心に紹介する。
司会の金氏は、元赤軍派で、指名手配されるも、15年間の逃亡生活を送り逃げ切った経験を持つ。
もう一人の司会は椎野氏。元社学同(戦旗派)。
この2人とは「日本赤軍!世界を疾走した群像」という本の出版記念会でお会いした。

第2部「当事者世代が語る」では、最初にゲスト・パネリストが現在抱えている問題意識やシンポジウムに向けて議論したいことを語り、それに対して当事者がその意見に答えていく、という形式で進められた。

ゲストパネリストからの発言(要約)。
塩見『連合赤軍問題というのは、革命左派と赤軍派という路線の違う両派が野合して反対派を粛清した、その根底にはスターリン主義に対して批判的態度をとらなかったことがある。連赤事件というのは、現在の反原発闘争の中でも未だトラウマになっている。これを総括していかなければならない。』

三上『赤軍派に対して批判的立場に立っていたが、外部的な批判はしたくないので、自分の中で複雑な矛盾的感情を抱きながら連合赤軍事件を見ていた。我々が共同的なあり方として振る舞っている人間の歴史性というものは、もっと違った形で我々を無意識を含めて拘束していて、それはなかなか見えないけれども、運動の本当の場面、命をかけたりとか、一番共同的なものが全面的に力を発揮してくるような場面になると、それが出てくるのではないか。その事に対して我々が内在的にどのように自覚し、そのことを不断に運動の中で超えていくという考え方、思想がないと、そこのところが越えられなかったのではないか。
連合赤軍事件は事実としては解明されていくだろうが、そこで起こった精神的、心理的展開というものが謎として残されていくのではないか。
このことは現代の政治運動や社会運動や権力との運動の中でも、少しでも緊張感のある、本当の意味での闘いに近づいたら、必ずもう1回喚起されるてくる残ってくる問題と考える。』

鈴木『左翼の人たちの言っていることは難しくて分からない。失敗した革命だからああいう形でさらし者にされたんだろう。もし革命が成功していれば、その革命の前には、そういう非常に貴重な、また痛ましい犠牲があったという形で皆に悼まれる、称えられることだったと思う。
それが、日本では革命が出来なかったから、ほら見ろ、革命なんてやろうとする人間は皆こうなるんだ、という形でさらし者にされたのではないか。
みんな夢を持って、また運動が楽しかったから、善意でもって当時は革命運動に入っている。どこからそれが間違ったのか、それはきちんと検討する必要がある。
浅間山荘で警察官を2人殺している、それからもう一人、果物を届けに行った民間人も殺している。ここに居る人たちはみんな自分たちとは関係ないと言うかもしれないけど、仲間が殺した。僕はそれはきちんと謝罪すべきだと思う。

(No245-2に続く)

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(No245-1の続きです。)

できたら一緒に追悼会でもやるべきだと思う。その上で何故ああいう事件が起きたのかを、きちんと自分たちで語る、また自分たちはこういう意思で、こういう夢を持って運動をやったんだ、ということを、革命運動の楽しさをもっともっと話すべきだと思う。
そうでないと、何時まで経っても暗い連合赤軍のイメージからは払拭できなのではないか。』

次に、ゲスト・パネリストの発言を受けて連合赤軍当事者の発言(要約)。

青砥『あの事件の後、私が一番感じていたのは、土壇場で人間として踏みこたえられなかったな、という思いが非常に強かった。
連合赤軍が、その中の人間に対して、死を突きつけてもいいんだという状況があったことは確かだと思う。
それに対して抵抗する気持ちも当然たくさんあった、ためらいもあったが、一方で共産主義化とか、援助のための暴力であるとか理屈を受け入れていく自分もあった。
ためらいと、そういったものを受け入れていく自分があった。そのことを考え続けてきたのが、その後の私の40年間だった。スターリン主義というのは外にあるのもではなくて、忍び込んでくるものだ。』

前沢『塩見さんが野合があったというが、実際にはあそこに行き着く前に組織の思想的な問題が解体していて、一緒になった時は両方とも思想の殆ど無い組織が方針でくっついた。現実の方針でくっついた。
今、警官を銃撃して倒そう、その1点で一致して、もうその前に我々の理論というのは、たぶん放棄されて、それが原因だと思う。
最終的に脱落者をどうするかという問題を、結局、危ない人間は消しちゃうという、たぶん、あの事件の本質はそういうことだったと思う。
口先では共産主義化とか、同志の援助だとか言われて、本当かなと思いながらも、それに対して違うとは言い切れなかった。だからああいう形になった、と僕は思う。
すでに山に入る前から、我々は思想的に武装解除を自分でしていて、あそこに行ったんじゃないか。』

植垣『野合問題ということで、実際のこういうことをやっている世界に居ると思想問題を考えるヒマも余裕もない。そういう中で一緒にやっていこうとなったのは、経験が同じなので、経験を通じた意識の方が先行していたことが大きかったと思う。
当時は党のためとか言われると、そこで思考停止という人間でした。残念ながら、それ以上、物事を考えることができなかった、ということです。
もう一つは、自分自身が武装闘争の中で死ぬんだ、という思いでいるので、自分が死ぬということを前提にすると、他人に対しても死を強制していくということに対して、それ程の緊張感が無かったという面もある。
連合赤軍が結成されたということは事後報告。だから連合赤軍が結成されたというのは、僕ら軍の方の人間にとっては、まるで他人事のようなことだった。』

雪野『その当時、我々がやろうとしていた武装闘争、その思想、それを私が支持していた、そこに責任を感じる。そういう闘争を支持していたから、準武力的な闘争を一部含めることについては同意していた。それについて責任を感る。だから、銃を持ってきたとか、それを作ったとか、渡したとか、それよりも責任を感じるのが、当時の我々の政治思想、軍事方針。』

この後、ゲスト・パネリストと当事者の発言を踏まえて、武装闘争の必然性があったかのか、また、武装をどのように考えていたのか、前段階武装蜂起のイメージなどについて話が交わされた。
第3部と第4部については、印象に残った言葉をいくつか紹介する。

青砥「全共闘白書という本が以前に出た。その中には全てのページに連合赤軍事件の所為で活動を辞めましたということが書いてある。我々も社会運動とか階級闘争に悪い影響を与えたことは十分承知しているが、辞めたのはあんたの勝手でしょう。」

植垣「(若松孝二監督の「実録連合赤軍 浅間山荘への道程」の最後の場面での台詞をふまえて)勇気がなかったのではなくて、勇気がありすぎた。」

※このシンポジウムの第1部での開催挨拶と、第2部「当事者世代が語る」での発言を、リンクしているホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」の「時代の証言者」コーナーに掲載しています。
なお、発言が聞き取れなかった部分は省略していますので、発言の全体を知りたい方や第3部・第4部の発言を知りたい方は、「連合赤軍事件の全体像を残す会」発行の「証言10号」(2012.7発行)をご覧ください。

(終)



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