野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2012年08月

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(ブログの字数制限を越えるため、No255-1からNo255-3の3つに分けてあります。)

No250で、明大土曜会のメンバーであるH氏の福島県飯館村訪問記を紹介したが、今年の5月に「飯館ふぁーむ」を再訪したO氏のレポートがあるので、それを紹介する。
 伊藤さんは3月10日、福島県の猫啼温泉で4大学共闘のメンバーと交流し、講演を行っている。

1.日時:5月19日~20日(土日)
2.訪問先:郡山→飯舘村(いいたてふぁーむ農業研修所管理人、伊藤延由さん)

■川俣町を越え、峠を登りきると飯舘村だ。だんだん線量が高くなってきた。線量計は、1.9、2.2、飯舘ふぁーむのある野手神地区にはいると、4.0マイクロシーベルト/hを越えた。

■観測点40ヶ所の総平均は(5月10日発表の村の資料から)

地上1 m 4.43マイクロシーベルト/h(前回4月26日 4.70)
地上1cm 6.04マイクロシーベルト/h(前回4月26日 6.35)

前回から5%程度下っているが、依然人が住める環境でない。
この環境で屋外10時間、屋内14時間(屋内の1/3とカウント)一年間過すと年間被曝量約24ミリシーベルト程度。
100ミリシーベルト以下は安全だとする御用学者氏にすれば問題ない線量と言うのでしょうが、震災前は年間1ミリシーベルトが基準だったはず。(いいたてふぁーむ伊藤さんの記録より)

■いいたてふぁーむは、IT企業(株)エム・ オー・シーの農業研修施設。伊藤さんは定年後、この施設の管理人として、農業研修の指導をしていた。3.11後は、飯舘村から松川町に避難したが、いまでは飯舘村に戻り、飯舘村から避難した人、避難を拒否して住まい続ける人たちと一緒に活動している。村の方針は、除染をしていつか帰村を薦めようというものだが、「山林が80%の飯舘村で除染を進めるには無理がある」「村が本当に村民を守る気があるのなら、全村避難で『新天地を求めるしかない』と主張する。(伊藤さんのお話)

■一方、飯舘村の田んぼは除染実験中です。

除染技術を模索しているのです。
飯舘村と村民をモルモットにして。
そして徐々に除染では震災前に戻せないと判ると、20ミリシーベルト/年間以下で帰村させると言っています。
20ミリシーベルトの影響はタバコの害よりも低いと言います。
待ってくださいタバコは嗜好品吸う人がリスクを承知で吸うのです。
放射能は人が好むと好まざるに関わらず24時間365日吸い続けるのです。
万一ガンが発症しても証明のしようが無いのです、日本人の二人に1人はガンになるから、そして三人に1人はガンで死ぬから。

■飯舘村の小宮地区(野手神も入る)では、住民の反対を押し切って、仮置き場を作り、除染のために削り取った雑草などを黒いビニール袋に詰め込んで、野積みにしている。

「あんなへっぴり腰の雑草刈りでお金が貰える、産廃業者は巨額の除染資金を使い放題」(地元民の感想)

(伊藤さんの話)
除染して農業の復興と言いますが、賞味期限が切れ掛かっている我々の代では無理です。
私は孫達に300年たたないと元に戻らないと言っています。
除染して帰村一辺倒の復興策のみで村は復興しない。
今村がやるべき事は災害復興住宅を建設し、一日も早く仮設や借り上げ住宅から村民を救い出すこと、その目処を示すこと。
建設場所も飯舘村に拘らず、子ども達と安心して暮らせる場所と言う条件を満たす場所に建設すること。
除染の効果が無いこと(人が安心して住める環境に戻せない)が徐々に明らかになっている中で、帰村の目処も示せない、ストレスはつのるばかり。
村民の命を守ることこそが村が行なうべき最優先課題のはず。

■除染や帰村に対する村民アンケートを実施しない菅野村長

飯舘村では、村長など行政側と村民の対立が続いている。村長側は、あくまで除染による帰村を求め、避難については消極的な対応。これは南相馬や川俣、川内村などでも行政の対応は同じ。住民の命よりも行政を維持することに目が向いている。これは国の政策がそうなのだから、いたしかたない面もあるが、実際に村の子どもたちの命を守る気概があるなら、もっと視野をひろげて、あらゆる策を講じるべきだというのが伊藤さんの意見だ。そのためには、きちんと村民の希望や考えを調査するのは当たり前のことだ。しかし、村長は村民アンケートの実施を拒否しているという。
そこで、伊藤さんら「新天地を求める会」では、地元の出版社と共同して、住民アンケートを実施した。アンケートを実施するには、避難した村民の住所を把握する必要がある。しかし、村は個人情報保護を理由に避難先の住民名簿の開示を拒否した。
 
(No255-2に続く)

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(No255-1の続きです)

それでも諦めずに、ある方法でかなりの数の避難先の村人の住所を入手。アンケートを実施。その結果は、6月に地元出版社を通じて発表される予定になっている。
 伊藤さんは「帰村を勧める村の期待を大きく裏切る結果がでると思います。飯舘村にはもう帰れないと思っている人が多いのはわかっていました」と語気を強めた。

美しい飯舘村の原風景。新緑の美しい風景の空気や土には高線量の放射性物質が隠されている。
翌日、朝飯前に登った野手上山(標高600メートル)では、以下のような線量だ。
山頂の神社の賽銭箱脇、コンクリートの部分はウエザリング効果で4マイクロシーベルト/h程度だが、コンクリートの切れ目に溜まった落ち葉の線量は8.03マイクロシーベルト/hと高い。
草むらや腐葉土の上は依然7~8マイクロシーベルト/hである。

村は、山の上から除染していくという。この山をどうやって除染するというのだろうか。

【資料 
■ 伊藤さんら「新天地を求める会」の方針
昨年の11月に同会は、以下のような要望書を飯舘村に対して提出した。

<飯館村の建設を目指す署名> 2011年11月18日
                              
 飯舘村菅野村長は独善的に放射能除染計画を発表しましたが、村民の生命、健康を担保にした村役場の存続のみを狙った村役場の為の村役場による計画と断じざるを得ません。 我々村民有志は坐して死を待つよりも新天地を求め明るい未来を築く運動を起こしたいと思いますので下記の様に提案します。

•村の除染計画は住民投票に持ち込み全面撤回を求める。
•安全安心な地の提供を国に求め自治権を持った新飯舘村を建設して移住する。勿論個別に他所への移住は自由。
•新飯舘村建設、移住の原資を捻出する為に飯舘村に福島県の除染廃土の中間処分場の設置を認める苦渋の選択と引き換えに村民所有不動産の国による買い取り借り上げを求める。 事情によっては核廃棄物最終処分場も受け入れも排除しない。
補足説明:除染計画の実行による問題点と本提案の理由及び展望
 自分の将来は自分の手で決めましょう。そして住民の生命と健康保全を大前提に、可及的速やかに未来を見据えた村民による村民の為の明るい新飯舘村の村作りを目指したいと思います。
•除染が計画通り進行しても、今後最低3-5年間は全面帰村は無理である。この間、村の第1次産業(農業、林業、酪農)の主力の担い手である高年齢層は避難生活に疲弊し、さらに加齢により事業の再開は望むべくもない。
•若年層及び子供を持つ所帯は健康、経済的理由から帰村することは望むべくもない。従ってよしんば帰村が実現しても村は姥捨て山に陥る。
•除染は実証技術ではなくむしろ失敗した事例が多い。除染が途中で放棄された村を想像するだけでも恐ろしい。まさに山河破れて役場残るという風景になる。
•除染期間中の生活を維持する経済支援は東電任せで、それも何時打ち切られるか判らない。村は危険な除染作業で生計を立てさせる意図であり19世紀的搾取労働である。 さらに、形だけの除染が実行されれば東電も国も除染の効果に関わらず補償、賠償を拒絶する可能性が高い。
•すでに国土交通省の発表で村の路線価はゼロ評価に落ち、持てる住宅土地を処分して新規まき直しをする機会は断たれた。生き甲斐もなく、経済的基盤も失い、恨みを残して村人は消え去るのみ。
•福島第1原発による放射性廃棄物、廃土の保管を他県に求めることは不可能であり、むしろ我々が犠牲となって全国より回収して保管することは国家的にも意義深いことであり、 土地を手放す意義、慰めも少しは得られる。さらに受け入れ基地ができたことで原発廃止の動きを加速させる効果もあろう。
•飯舘村は高齢化、過疎化が進み、TPPが締結されればさらに深刻な事態を迎える。今回の放射能汚染はその抗し難い傾向に止めを刺した。しかし、災いを転じて福となすたとえの様に放射能を石油に置き替えましょう。 処分場を受け入れるということは飯舘村に石油が出たと同じことである。石油埋蔵量は限りがあるが、最終処分場となれば10万年は持続する。メガソーラーや小規模水力発電、風力発電などの大規模発電施設としての土地利用も考えられる。 将来的に、新飯舘村の収入源として退去した後の土地利用を目指すこともできる。
以上

(N0255-3に続く)


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(No255-2の続きです)

【資料◆
<要望書>  2012年1月20日 新天地を求める会
はじめに
 東京電力と政府及び自治体は3月11日の福島第1原発の爆発時に初動を誤り住民の生命を危険にさらした。さらに飯舘村では一部の事業者の操業を故意に認めることにより全村避難時期をいたずらに伸ばし、現在も被曝しながらの企業存続を続けており、事態を悪化させ続けている。加えて、独善的に放射能除染計画を発表して住民の生命、健康を担保に除染を進めている。 この計画は村役場と一部の企業の存続のみを狙った村役場の為の村役場による計画と断じざるを得ない。

要望要旨
 無策な行政の指示をひたすら待てば、坐して死を待つという事態に陥るのは必定。従い、我々は自らの意思で生き甲斐を求め『新天地を求める会』を設立して署名運動を始めました。 その趣旨に則り下記提案を政府に届けて政府の施策に織り込むべく活動されることをお願いしたい。
•新飯舘村を建設して移住する。勿論、個別に他所への移住を妨げるものではなく、現飯舘村に残ることも拒むものではない。
•無駄な除染予算を新飯舘村の建設資金の原資の一部に充てるものとする。同時に東電とともに国は直ちに住民の資産および物質的・精神的損害に見合った十分な賠償を行い、さらに自主的な新飯舘村建設のための支援を行うものとする。
•放射能対策はその封じ込めが原則であり、飯舘村を放射能対策総合基地に指定して中間貯蔵施設の建設をする。条件によっては最終処分場をも受け入れる可能性も排除しない。
•新飯舘村の復興を長期的に支援する為に現飯舘村での自然エネルギー発電事業、放射性廃棄物管理費用などの収益と現状の地方交付税を充当する。
•新飯舘村に移住出来ない、あるいは残留する村民に対して国は東京電力と共に直ちに住民の資産および物質的・精神的損害に見合った十分な賠償を行い、住民の自発的で自由な生活設計を可能ならしめるものとする。
除染計画の問題点と本提案の背景
•現除染計画は森林に至っては20年を目標としており、数年間で全面帰村を目指す村の除染計画は根本的に矛盾。さらに政府の掲げる帰宅困難地域等の3分割案が実行されれば村が以前の姿を取り戻すことは最早望めない。
•村の第1次産業(農業、林業、酪農)の主力の担い手である高齢者層は避難生活に疲弊し、さらに加齢して年々加速的に事業の再開は困難となる。
•若年層、及び子供を持つ所帯は健康、経済的理由から帰村することは望むべくもない。よしんば一部帰村が実現しても村は限界集落に陥るのは必定。
•除染は実証技術ではなくむしろ失敗した事例が多い。さらに除染は農地、森林などの生態系にまで影響を与え、台風、豪雨等による自然災害の温床ともなる。まして不幸にして除染が途中で放棄されれば、荒廃した村が残るだけで、費やした税金は無駄になる。
•避難期間中の経済支援は東電による損害補償及び精神的苦痛慰謝料のみであり、それすら何時打ち切られるか判らない。他方、村役場は危険な除染作業に村民を従事させて生計を立てさせる意図であり、これは19世紀的搾取労働である。これは被害者の復旧に被害者を使役する詐欺的行為である。
•他方、移住をしたくても既に村の路線価はゼロ評価に落ち、持てる住宅、土地を処分しても新規まき直しをする機会は断たれてしまった。今後、基本的な生活の自立も困難になることが予測され、希望も生き甲斐も無く仮設住宅に住む村民は鶏舎のニワトリの如しである。
•福島第1原発による放射性廃棄物、焼却灰、廃土の保管、処分を他県に求めることはその拡散であり、受入側の住民感情からも科学的、経済学的見地からも不条理、不可能である。 むしろ我々が犠牲となってその場を提供することは国家的にも意義深いことであり、故郷を手放す意義も、慰めも少しは得られるという苦渋の決断である。
•それでなくても飯舘村は高齢化、過疎化が進み、TPPが締結されればさらに深刻な事態を迎えるのは必定だが、今回の放射能汚染はその抗し難い傾向に止めを刺した。しかしこの災害を奇貨として国の英知を結集して新飯舘村を建設出来ればこれぞ税金の有効利用と言えよう。
•新飯舘村を受け入れる自治体においても実質的な住民の増加、経済活動の活性化が見込まれ、資金的な負担を一切負わずに耕作放棄地などの活用がされていない地域を提供することとなるため、メリットは大きいと考えられる。
以上

※「新天地を求める会」のこうした活動に対して、菅野村長はじめ村当局は、公共施設での政治活動の禁止、署名活動の禁止を通告してきた。

(終)

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(ブログの字数制限を越えるため、No253-1からNo253-3の3つに分けてあります。)

先週に引き続き、広島で被爆した原子爆弾被爆証言者、米澤鐡志さんのお話を掲載する。

【原爆投下直後の惨状】(続き)
『ちょっと歩いたら、たまたまトラックが来まして、トラックは軍が出した重症者を収容するトラックだったんです。トラックが止まって、「この中に重症の者はいないか」と言ったんです。そうしたら我々と一緒にいた兵隊が「この親子は怪我はほとんどしていないが、疲れているから歩けないし、引っ張ってきたんやから乗せてくれ」と言ったら、「まあいいだろう」ということで、兵隊たちが母と僕を荷物のようにトラックの中に放り込む訳です。
トラックの中に放り込むまれて見たのは、周りの人は複雑骨折であちこち脂身は出ているし血は出ているし、すごいんですよね。それで中には虫の息の人もいるし、もしかしたら死んでいた人もいたかもしれない知れませんけど、そんな状況で私も母もビックリしてまた上げそうになったんですけど、その中で一番だったのは、トラックのはす向かいにいた女の人が、不図見たら目がポコッと穴が開いているんです。人間は目玉が落ちたらここの開け方はひどいですよ、こんな大きな穴がポコッと開いて目玉を手のひらで受けて、それを見た時、母も私も抱き合って、あの記憶は一生忘れないですね。
【疎開先へ戻る】
それどやって矢賀という機関区の駅、救援列車がそこに来るというのでトラックで運ばれたんですが、そこに着いたんです。
そこでは大人の男の人が、上半身裸で来たんじゃないかと思うんですが、腰蓑みたいに皮膚を腰からぶら下げているのが印象に残っていますね。列車がホームで突き当たりのところがありますね、そこに重症の人が結構おったんです。
亡くなった人もいるし、虫の息で低い声で「助けてくれ」と言っている人もいるんです。何でそんなところにいるのか、後で考えたら、ちょっとでもそこが涼しいからいたんじゃないかと思うんですけど、僕らはホームの上でリュックを枕にして横になっていた。
3時過ぎに救援列車が来まして、救援列車に乗ったんですけど、もう我勝ちに窓から乗る人もいるし、なかなか乗れない人もいるし、僕なんかデッキを通ってやっと列車に乗ったんですけど、列車の中もガラスが全部壊れていますから、ガラスの破片だらけの中に入っていた訳です。それで、途中で死者なんかを降ろしますから、朝6時半に出た志和口の駅に夕方に着いたんです。死者を最初に降ろして、重症者を担架で降ろして、最後に自分で動ける者が降りる、僕らはヨロヨロしながら降りたんです。
そうしたら、私たちが広島に出たことを疎開先の親戚の叔父さんが知っていたんで、叔父さんと村長が迎えに来ていたんです。それで僕らが降りてきたんで「いやー無事だったか」と言って非常に喜びまして。ところが僕らはクタクタやから、そこから疎開先まで10キロありましたから、とてもじゃないけど帰れる状態じゃなかった。
村長が「親戚の家が志和口の駅前にあるのでそこに泊めてやる」ということで、親戚の家に入れられて顔を洗ってお茶を飲んだ。その時はもう戻さなかったですね。その晩はそこに泊めてもらって、次の日の昼くらいにやっと重湯を出してもらって、昼過ぎに母と二人で山の中の兄弟が待っているところに行き着いた訳です。それが8月6日と7日の出来事だったんです。
【原爆症の発症と内部被爆問題】
それで終わればよかったんですが、敗戦が8月15日ですね。私の家は4代続いた医者でして、性能のいいラジオがあった。ラジオが山の中でなかなか入らんですが、敗戦で天皇の放送があるというので、部落の十何軒の人たちが全部僕の家に来まして、天皇の放送を聞いたんです。私はおかしいなという感じがしたけど、非常に暗い雰囲気だったので、戦争が負けたんじゃないかという感じがしたんですが、中無は良く分からない。
それで村の人が三々五々帰って行ったら、母親が「戦争は終わったよ、お父ちゃんが帰ってくる」と言って泣いていたんです。それはうれし涙だったんですね。
子供は次々に生まれるは、父親は甲斐性が無いし、兵隊に取られるはで大変ひどい目に遭って敗戦になって、これで先が見えたということで喜んだ訳です。それが8月15日のことなんですけれども、それから2日後、17日の朝、起きて目が覚めたら枕カバーが黒いんですよ。おかしいなと思ったら、髪の毛がビシーと枕カバーに付いているんですよ。

(No253-2に続く)

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(No253-1の続きです)

こうやったら髪の毛がパラパラ落ちるんですよ。痛くもかゆくもないですよ。あれっと思って握ったら、その頃子供は5ミリもない丸坊主ですが、こうやるだけでパラパラと全部落ちてくる訳です。
それで「えらいこっちゃ、お母ちゃん、髪の毛が抜けるで」と言ったら母親も同じで、櫛を入れたらザッと抜けるんです。その日のうちに母も私も髪の毛が全部抜けて、丸坊主になるんです。そうしたら、その晩から2人とも熱が出て、高熱が出て嘔吐が始まるんです。40度以上の熱が毎日続いて、朝方になると少し戻ってくるんですが、ところが喉が渇くでしょ、それで水かお茶を飲むとまた上げるんです。そんなんで生きた心地が全く無くて、それが2週間以上続いたんです。
結局、9月1日に母親は全身に青あざが出来て亡くなるんです。母が亡くなったということで、お祖父さんが広島で開業していたんですが、大江健三郎の広島ノートに出てくる被爆しながら医療をしていた医者で米澤貞二というんですが、その祖父さんが長男の嫁が死んだということか、重症かというかどっちかで山の上に上がってきて、私を一目見て「鐡志はこれはダメじゃ」と言って、往診カバンを持ってきていたんですが、何もせずに帰ったんです。
それで周りもそう思ったんですね。ところが不思議なことに、叔父さんが帰ったすぐ後に大量の回虫を嘔吐したんです。丁度うどんのような長さの虫ですが、当時国民の99%は持っていた。それが洗面器に半分くらい出て、鼻からも口からも出て、意識が朦朧としている中で出たんです。周りは回虫が出るくらいやからもう終わりだろうと判断して、もう葬式の準備ですわ。そうしたら不思議なことに熱が引いたんです。熱が引いて喉が渇きますから、上げてもいいから欲しいんですよ。それで「お茶が欲しい」と言ったらお茶を飲ましてくれて、そうしたらお茶が美味しいんです。
「もっと欲しい」と言ったら周りがびっくりしまして、すぐ重湯をこしらえてくれて、上げないし、お腹は骨と皮ですから、「もうちょっと欲しい」、もしかしたらこれは助かるかも分からんと周りが考えまして、自然薯とか卵とか鳥のスープとか、生まれて初めてというくらい美味しいものを食べました。
それで17件の部落のうち7軒が親戚なんですが、あんなひどいのがもしかしたら生きるかも分からん、ということで毎日何か持ってきてくれるんです。それで元気が出てきて、10月の末には完全に回復して学校に行けるくらいまでになったんですけど、学校にいってからも大変だったのは、頭が丸坊主なので、その頃は差別がきついですからキンカンキンカン、ハエが止まったらすぐ滑るとか囃し立てて、悪い奴は頭をなでる、最後はソロバンでこうやる奴がおる。僕は非常に負けん気が強かったから、すぐにでやったり、棒切れ持って殴りかかったりして、あんまりストレス感じなかったです。
実は皆さんにお話しておきたいのは、さっき言いましたように妹が親父が戦争に行った後に生まれた子で、まだ1歳になったかならずかだったんですね。その妹が、母親が6日に被爆して7日に帰ってきて、熱が出るまで10日足らずですが母乳を飲ませたんです。
そうしたら10月に入ってからポツリポツリと髪の毛が抜けだしたんです。そして10月19日、母の49日に息が絶えたんです。ですから、内部被爆というのがいかに恐ろしいかということが、この妹の例でも明らかでありまして、このことは福島の事故のように内部被爆を無視したり軽視したりすることに対する重大な警告になると思っています。妹が死んだときも、僕らも原爆で死んだとは思っていなかったです。父親も帰ってきて、僕のすぐ下の妹が、死んだ妹の「髪の毛が抜けたのは原爆の所為と違うやろか」と言ったら医者である親父が「それはないだろう」と否定しましたから。後には被爆したことがはっきりしたんですけれど。
【何故生き残ったか】
皆さんに是非知って欲しいことが一つ二つあるんですが、1つは何故、私が生き残ったかということが大きな問題としてあると思うんです。
私が乗っていた電車が、当時広島では木造の電車で鋼鉄製が2.3台しかなかったんですが、その鋼鉄製の電車だったんです。ですから三千度の光線を浴びた時にすぐに火が上がらなかったんですね。それが一つ大きな原因。それと人垣が一番大きいんです。昔被爆の話をした時に、京大の工学部の荻野さん、電磁波で有名な人ですが、30年くらい前に私の話を聞きまして「君は周りの人が全部放射能を吸い取ってくれたんだ」と、人間の体というのは一番放射能を吸いやすい、満員電車だったのが第2の原因ですね。

(No253-3に続く)

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