1960年代後半から70年頃の新聞記事を紹介するシリーズ。
今回は毎日新聞の「戦無派」というコラムの記事を紹介する。テーマは「ヘルメット」。
明大新聞編集部も出てくる。
【防具から武器へ たたかいの“意思表示”】1969.8.2毎日新聞(引用)
『<砂川のころから使用>
いまはもう、デモにはゲバ棒とヘルメットがつきもので、一種の“常識”にすらなってしまった。が、色あせた“60年安保”の写真集を見ると、ゲバ棒はおろか、ヘルメット姿も見当たらない。
そして、制服の警官が1人、デモ隊の中にまぎれ込んで、傷ついた学生の手当てをしている写真まである。ガス弾が飛び、投石がうなることもある現在のデモから見ると、月とスッポン。(中略)
それが、いつの間にかデモ隊の中から投石があらわれ、警官隊が強力なタテを持ち、というようにエスカレートした。
「メットが本格的にかぶられるようになったのは、42年の砂川闘争の頃でしょう」と、明大新聞の編集員たち。「うちが、デモ取材用のメットを買ったのはもっと遅く、あの羽田闘争のときでしたが、従来のメットではまだ安全とはいえないので、この4月に新しいのを買ったほどです」(中略)
「現に、うちの編集員が取材に行ったとき、投石を頭に受け、メットのおかげで助かっている。身を守るためにも丈夫なものが必要なんです」というわけで、8個も買いそろえたそうだ。同紙編集部にとって、ヘルメットはあくまで「身を守る道具」というわけ。
しかし、時にはゲバ棒も持つ活動家にいわせると、ヘルメットは単に「身を守る道具」ではなく「たたかいの意思表示」だ。「その証拠に」と、全学連大会のために上京した広大生はいう。「広島あたりのデモはまだ、ヘルメットが必要なほど荒っぽくないが、それでも大部分の学生が“たたかいの意思表示”としてメットをかぶっています。
あくまでも“攻撃の武器”なのです」
<銃をとるのと同じ意味>
だからヘルメットをかぶるのは「銃を持つのと同じくらい重い意味を持つし、それだけの決断もしている」そうだ。
「いや、革命のために銃をとるべきときがきたら、ぼくらはメットをかぶるのと同じ気持ちで銃をとることになるでしょう。」とまでいう。
つまり、彼らの心の中では、ヘルメットも銃も本質的には同じものなのだ。
彼らのヘルメットが安ものの三百円から四百円どまりで、コンクリートの道にたたきつけると、ヒビ割れてしまうほど弱いのも、それが「身を守る道具」ではないからだろうか。
「それがもし本当だったら、60年安保をたたかった我々より、ずっとラジカルになっていますね」と“安中派”の三善高志氏はこういっている。
「われわれがヘルメットの存在を知ったのは、安保の終わった夏から秋にかけて、三池闘争の支援に行ったときでした。あのホッパー前で、警官隊と激突する労働者たちがみんな、保安帽、つまりヘルメットをかぶっているを見て、これが“たたかい”というものかと、アゼンとしたものです」
三池の労働者に全学連式のデモを教えてやろうと、勇んで出かけた学生たちが「あぶないから引っこんでれ」といわれ、目を丸くして驚いたとかいう時代の話だ。
そのあと、全学連の派閥争いをめぐって、内ゲバが行なわれるときに、ヘルメットをかぶったものが何人かいた。が、警官隊に対してかぶるという発想は、まだ出ていなかったですねと、三善氏はいう。
<わからぬ入手経路>
ところで、そんなヘルメットがどこで手にはいるかというと、意外に難しい問題だ。「反対派の学生にゲバをしかけて、奪ってきました」「共闘会議の部屋に行くと、なんとなく手に入る」などという学生が大部分で、ヘルメットを売っている店を案外知らない。
また、たとえ正解でも「電気工事器具を売っている店」「デパート」「アメ横」などと答えはまちまち。
職業別電話番号簿によると、同じかぶりものというわけで「帽子店」の中にはいっている。が、それも当然で、いま東京には「ヘルメット専門店」はなく、電気工事器具やオートバイなど、ヘルメットを必要とするものと一緒に、あちらこちらで売られているのだ。
「闘争委員」と染めぬいた腕章、ハチマキ、組合旗などと一緒にヘルメットも扱っているK店(千代田区外神田)では「機動隊にも学生さんにも売っている」そうだが、だからといって「テレビの“天と地と”に出てくる堺の鉄砲商人とは違いますよ」と色をなした。
「こちらは人を傷つけるものではなく、人を守るものを売っているんだ。とくに学生さんの方は、いまは若気のいたりで、ああいうことをやっていても、将来のある人たちだからね。傷つけたくないという気持ちでいっぱいだよ。こういう私だって若いころ、警官よりコワイ憲兵の目を盗んでマルクスを読んだクチなんだから」
そのK店はビル街のはずれにある木造の2階建てで、いまにも倒壊しそうな感じだが、それがかえって“昭和戦国”のムード満点だ。』
(つづく)