前回のブログで、1970年1月18日の「東大闘争1周年労農学市民集会」の記事を掲載したが、「平凡パンチ」(1970.2.9)に、この集会の様子と、ゲバ棒などの「武器」に関する考察の記事があるので紹介する。
「平凡パンチ」はすでに廃刊となっているが、当時は人気のある若者向け男性週刊誌であった。
(ブログの字数制限を越えるため、No267-1からNo267-3の3つに分けてあります。)
【平凡パンチ 1970.2.9号】(引用)
「なぜ全共闘はゲバ棒を捨てたのか?」
『ゲバ棒が姿を消した。かっては闘争の花形だったゲバ棒がまるで見られなくなった。ゲバ棒に代わる新し武器が生まれたからだろうか。それとも、闘争じたいが、もう、終わってしまったのか、彼らは、なぜゲバ棒を捨てたのか・・・
1月18日、東京・文京区・礫川公園。<東大1月決戦1周年労農学大集会>が開かれた。
集まった学生、労働者、高校生、浪人の数は、1万人。
徹底的崩壊を伝えられる赤軍派から、百人も参加しているのが注目された。
各大学全共闘が、セクトをこえて、かわるがわる演壇に立ちあいさつ。そこに飛び交うコトバは相変わらず激しいが、69年11月以前ほどには、もうひとつ熱気がこもらず、なにかむなしいコトバが、集まった1万人の頭に交錯し、空転している感じだ。
ややお祭りムードの会場で、ヤケに目立つのが、各セクトの旗だ。デンと中央にひるがえる赤地に白ヌキの中核の旗。
旗だけ見ている限りセクトいまだに健在なりといった感じだ。なかでも、赤軍派の旗が目につく。軍団組織の赤軍派は小隊ごとに旗をかかげているから、参加者百人のわりには、旗の数が多い。
そのあと、集会はデモ行進に移り、東大正門前を経て、大塚公園に向かった。35人の逮捕者を出す。
ヘルメットと旗だけのデモ。そこにはゲバ棒は1本も見られなかった。
いっぽう、日比谷野外音楽堂では革マル派が、<東大闘争記念、沖縄全軍労支援総決起集会>を開いていた。千八百人が参加。東京駅八重洲口までのデモ行進。3人が逮捕された。ここにもゲバ棒はなかった。
2つの集会を警備した機動隊の数二千。集会に集まった学生数に比して少ない。
なぜ、2つの集会にゲバ棒が登場しなかったのか。そして、ゲバ棒とはなにか、
フロントの見解。
「ゲバ棒とは原始的武器であり、ある意味では日本的発想をもったものだ。火炎ビンよりはカッコいい。
1・18の集会でゲバ棒をもたなかったのは、昨年の10・21や11月佐藤訪米阻止闘争で、大量の検挙者を出したりしたことで、実際にゲバ棒を持つ人間が減ってしまったからだ。また、1・18集会の性格そのものがゲバ棒を持つ性質ではなかった。」
革マル系の見方はまるでちがう。
「ゲバ棒とはなにか、という質問じたいがくだらない。闘争形態の物質的保障としてのゲバ棒であって、それに意味づけするのはナンセンス!
1・18において全共闘の連中がゲバ棒を持たなかったのは小児病的盲動的街頭闘争と日和見主義的カンパニア運動の間を増幅運動する全共闘の、後者のカンパニア的位置であった1・18集会であってみれば、それは当然のことである。」
非常に意味はとりにくいが、要するに、1・18集会は、日和見主義的カンパニア運動にすぎないから、ゲバ棒はいらなかったんだ、ということらしい。
また、1月22日、日比谷公園で開かれた<沖縄全軍労五日間スト連帯総決起集会>。
千人ほどの参加者が各セクトごとに、ぽつりぽつりと集会を開いている。
数においては、1・18に遠くおよばず、あまり意気はあがっていない。
そして、ここでもゲバ棒は見られなかった。
<ゲバ棒は終わったのか?>
彼らは、もうゲバ棒を持たないのであろうか、それとも持つ必要がなくなったのか、ゲバ棒の時代は終わったのか。
彼らがゲバ棒を捨てた理由はいろいろ考えられるが、箇条書きにすれば、ほぼ次のようになる。
.ンパニア集会であったため、持つ必要がなかった。
∋?宛〔笋きびしくなり、ゲバ棒を持っていれば逮捕される可能性がきわめて高い。そうなると、まず必要になるのが保釈金だが、セクトの金はほぼ底をついており、現在、留置されている仲間を救い出すことが先決だ。そのうえに新たな逮捕者を出せば、ますます金に苦労しなければならない。それはセクトの崩壊につながる。
このへんが大量逮捕を覚悟して戦った昨年11月決戦までの闘争と決定的に違う点だろう。
K寨茵▲殴佶世論楸畧錣良雋錣澄5‘安發隼蟠甬?イ農椰┐垢訃豺腓聾﨓呂鮖?辰燭、現在の警備力は大幅にエスカレートし、学生側とある距離をたもちつつ、規制を行っている。こういた力関係では、もはやゲバ棒の武器としての効用は、消失してしまったにひとしい。
ぃ僑糠の、いわゆる11月決戦での敗北は、学生側に機動隊との圧倒的な力の差をはっきりと見せつけた。
(No267-2に続く)