野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2012年11月

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前回のブログで、1970年1月18日の「東大闘争1周年労農学市民集会」の記事を掲載したが、「平凡パンチ」(1970.2.9)に、この集会の様子と、ゲバ棒などの「武器」に関する考察の記事があるので紹介する。
「平凡パンチ」はすでに廃刊となっているが、当時は人気のある若者向け男性週刊誌であった。
(ブログの字数制限を越えるため、No267-1からNo267-3の3つに分けてあります。)

【平凡パンチ 1970.2.9号】(引用)
「なぜ全共闘はゲバ棒を捨てたのか?」
『ゲバ棒が姿を消した。かっては闘争の花形だったゲバ棒がまるで見られなくなった。ゲバ棒に代わる新し武器が生まれたからだろうか。それとも、闘争じたいが、もう、終わってしまったのか、彼らは、なぜゲバ棒を捨てたのか・・・
1月18日、東京・文京区・礫川公園。<東大1月決戦1周年労農学大集会>が開かれた。
集まった学生、労働者、高校生、浪人の数は、1万人。
徹底的崩壊を伝えられる赤軍派から、百人も参加しているのが注目された。
各大学全共闘が、セクトをこえて、かわるがわる演壇に立ちあいさつ。そこに飛び交うコトバは相変わらず激しいが、69年11月以前ほどには、もうひとつ熱気がこもらず、なにかむなしいコトバが、集まった1万人の頭に交錯し、空転している感じだ。
ややお祭りムードの会場で、ヤケに目立つのが、各セクトの旗だ。デンと中央にひるがえる赤地に白ヌキの中核の旗。
旗だけ見ている限りセクトいまだに健在なりといった感じだ。なかでも、赤軍派の旗が目につく。軍団組織の赤軍派は小隊ごとに旗をかかげているから、参加者百人のわりには、旗の数が多い。
そのあと、集会はデモ行進に移り、東大正門前を経て、大塚公園に向かった。35人の逮捕者を出す。
ヘルメットと旗だけのデモ。そこにはゲバ棒は1本も見られなかった。
いっぽう、日比谷野外音楽堂では革マル派が、<東大闘争記念、沖縄全軍労支援総決起集会>を開いていた。千八百人が参加。東京駅八重洲口までのデモ行進。3人が逮捕された。ここにもゲバ棒はなかった。
2つの集会を警備した機動隊の数二千。集会に集まった学生数に比して少ない。
なぜ、2つの集会にゲバ棒が登場しなかったのか。そして、ゲバ棒とはなにか、

フロントの見解。
「ゲバ棒とは原始的武器であり、ある意味では日本的発想をもったものだ。火炎ビンよりはカッコいい。
1・18の集会でゲバ棒をもたなかったのは、昨年の10・21や11月佐藤訪米阻止闘争で、大量の検挙者を出したりしたことで、実際にゲバ棒を持つ人間が減ってしまったからだ。また、1・18集会の性格そのものがゲバ棒を持つ性質ではなかった。」
革マル系の見方はまるでちがう。
「ゲバ棒とはなにか、という質問じたいがくだらない。闘争形態の物質的保障としてのゲバ棒であって、それに意味づけするのはナンセンス!
1・18において全共闘の連中がゲバ棒を持たなかったのは小児病的盲動的街頭闘争と日和見主義的カンパニア運動の間を増幅運動する全共闘の、後者のカンパニア的位置であった1・18集会であってみれば、それは当然のことである。」
非常に意味はとりにくいが、要するに、1・18集会は、日和見主義的カンパニア運動にすぎないから、ゲバ棒はいらなかったんだ、ということらしい。
また、1月22日、日比谷公園で開かれた<沖縄全軍労五日間スト連帯総決起集会>。
千人ほどの参加者が各セクトごとに、ぽつりぽつりと集会を開いている。
数においては、1・18に遠くおよばず、あまり意気はあがっていない。
そして、ここでもゲバ棒は見られなかった。

<ゲバ棒は終わったのか?>
彼らは、もうゲバ棒を持たないのであろうか、それとも持つ必要がなくなったのか、ゲバ棒の時代は終わったのか。
彼らがゲバ棒を捨てた理由はいろいろ考えられるが、箇条書きにすれば、ほぼ次のようになる。
.ンパニア集会であったため、持つ必要がなかった。
∋?宛〔笋きびしくなり、ゲバ棒を持っていれば逮捕される可能性がきわめて高い。そうなると、まず必要になるのが保釈金だが、セクトの金はほぼ底をついており、現在、留置されている仲間を救い出すことが先決だ。そのうえに新たな逮捕者を出せば、ますます金に苦労しなければならない。それはセクトの崩壊につながる。
このへんが大量逮捕を覚悟して戦った昨年11月決戦までの闘争と決定的に違う点だろう。
K寨茵▲殴佶世論楸畧錣良雋錣澄5‘安發隼蟠甬?イ農椰┐垢訃豺腓聾﨓呂鮖?辰燭、現在の警備力は大幅にエスカレートし、学生側とある距離をたもちつつ、規制を行っている。こういた力関係では、もはやゲバ棒の武器としての効用は、消失してしまったにひとしい。
ぃ僑糠の、いわゆる11月決戦での敗北は、学生側に機動隊との圧倒的な力の差をはっきりと見せつけた。

(No267-2に続く)

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(No267-1の続きです)
ゲバ棒を持って、やみくもに突進することが、どれほどの効果をあげただろうか。強大な国家権力にねじ伏せられた敗北感、挫折感からくるゲバルトに対する懐疑。

このような情況のうちに<ゲバ棒時代>は終わろうとしているかに見えるが、ここで簡単に“ゲバ棒”の歴史を回顧してみよう。
1967年10月8日、第一次羽田事件で、花々しく登場し、11月12日の第二次羽田事件、68年1月の佐世保のエンタープライズ事件、つづいて王子、成田と闘争が進むにしたがってゲバ棒は、脚光を浴びるようになった。
しかし、68年10月の羽田闘争1周年全国統一行動、つづく10月21日の国際反戦デー。このころからゲバ棒は、武器としての実用価値というよりも、闘争のシンボルになっていったといえる。
もともとゲバ棒は60年安保のあと、全学連各派が分裂し、その時の内ゲバ用の武器として使われ始めたのが始まりで、それが街頭闘争戦術と結合し、学生運動の一時期を画するシンボルに転化したのだ。

<新しい武器を求めて>
しかし“ゲバ棒”が闘争のシンボルになるにつれて、かえって武器としての効力はうすれていき、その補強策として投石戦術が出現してきた。さらに68年10月の2つの闘争では群衆をまきこむことによって(新宿事件)、かなり大きな効果をあげた。
しかし、道路の敷石が、警備側によって事前にはがされ、群衆がしだいに学生から離れていくにつれて、この新戦法もゆきづまらざるをえなかった。
ここで新しく編み出されたのが火炎ビン戦法だった。
日大闘争で、福島県郡山の日大工闘委が、戦術的エスカレーションのひとつとして、いちはやく使用しはじめた、と自負している火炎ビンは“決戦安田城”で大量に使われ、新しい武器として大きくクローズアップされてきた。
火炎ビンに使用される薬品はまず、ガソリン。これも当初は、ビンの口に布をつけ、そこに火をつけて、投げる。着地と同時にビンが割れ、ガソリンに火がつく。一瞬燃え上がるが、それだけで実際的な効果はあまりない。
そこで考えられたのが、ガソリンに劇薬を混入させる方法だ。硫酸、硝酸、塩酸などのほかに爆発力を強めるナトリウム類。
しかし、この方法も劇薬類が直接、大量に人体に作用しないかぎり、武器としての意味はあまりない。
警視庁でも「ビンが直接、体に当たる以外は、火炎ビンは恐ろしいというほどではない」と言っている。
それに69年10月21日の国際反戦デー以降は、事前に発見する方針が出されて、五千六百本が、事前に押収されている。実際に使われたのは、半分以下の二千本くらい、と警視庁は見ている。
製造する苦労のわりに効果のない火炎ビン。学生側もその性能のエスカレートを研究している、といわれるが、他にどのような武器が考えられているのだろうか。
フロントは語る。
「単なる武器としての銃火器。けれどもさまざまな思想が語られているなかで、個人がどれほどその真の意味をとらえているのか、理論がはたして力となりうるのか、いま一度ここで問い返さないと、単なる武器のエスカレートになってしまうし、また、内ゲバの発生ともなる。武器のエスカレートより意識のエスカレートのほうが先だ」
具体的に、今後の新しい武器はこれだ、と明かしていない。
それはヒミツなのだろうか、それとも、もう新兵器の考案などでは、どうにもならない状態なのだという認識なのだろうか。
革マルも、武器のエスカレートということに特別の意味を認めていない。
「闘争形態を決定するのは、あるいは、ささえていくのは、その実体的力量であって、主体的条件が満たされていくかどうかが問題なので、新しい武器の不要・必要問題性はナンセンスだ。
替わるべき武器があるとすれば、それは、まさに現実に対決してゆくところの、われわれの主体性にほかならない」
ゲバ棒を捨てて、主体性だけで、力と対決していこうというわけなのか。
(中略)
相手の武器をうばって武器にしろ、というのがゲバラの教えだ。機動隊の装備はタテも含めて、全体で15圈タテは4.5圓任△襦
タテはもちろんのこと、乱闘服だけで10.5圓發△襪呂困ない。ヒジアテなどは、りっぱに武器の代用をなすのではないか。
しかし、このゲバラの教えも、機動隊に接近できて、そのうえ、相手の体力を上回る力を持っていなければ、意味はない。機動隊は毎日のように武闘にはげんでいる。
とても現実に学生側が、この教えを実行することは難しい。

(No267-3に続く)

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(No267-2の続きです)

<70年に強気のセクト野郎>
それなら、これからの70年闘争は、どのようなカタチをとるのだろうか。
フロントは「2・4、4・28、6・15といった具体的なスケジュールのほかに、春から新入生をまきこみ、全人民的に闘争を勝ち取っていき、非合法性活動を展開していく。具体的には都市ゲリラへの移行を意味する。」という。
実際にこのスケジュールは可能だろうか。セクトの再編が先ではないか。
「ここで注目されるのが赤軍派だ。主体はあばれたい盛りの高校生だ。当局をここにひきつけ、他の組織に力をたくわえさせるための擬装だ、とする説もがある。」(作家・佐野美津男氏)
こういった見方をふまえたうえでの、フロントのスケジュールなのだろうか。いくぶんか力不足が感じられるのだが。
「70年闘争は、学園、職場において組織活動をし、地道にシンパを集めていこう、というのが、どうもホンネのようだ。総評的にスケジュール闘争をシコシコやるしかない」(佐野氏)
もうひとつ、可能性は少ないにしても、テロの出現も考えられぬわけではない。先にふれたとおり、最近の規制の方針は学生側と接触せずに適当の距離をとる、ということになってきた。
この距離がかえってテロを生むというのだ。力で屈服させられたものは、テロの形で攻撃をする。11月決戦で決定的な敗北をうけた学生側は、あの闘いをどういう形で総括するか、おそらく苦渋にみちた見通ししか出て来ないだろう。
そうなれば彼らのなかから、なにがとびだすか、保証のかぎりではあるまい。
(中略)
彼らはいま、空白の状態にある。
<ゲバルトの季節>が終わって<冬の時代>なのだ。去年11月の蒲田決戦で、痛烈に打ちのめされた敗北感が、学生の間で支配的だからだ。
待っていた火炎ビンは来なかったし、心身ともに彼らはいま疲れはてている。
そして、70年をむかえた。当面の目標はなにか。なにもないのだ。
4・28が、やや考えられるだけで、彼らのエネルギーをブチ当てていく目標は失われた感がある。11月の佐藤訪米阻止阻止闘争が敗北に終わったと同時に、安保は彼らの手をはなれた、という言い方も許されるだろう。
ことしの6・15は、単なる記念集会に終わりそうだと観測するムキも多い。そして、沖縄は72年に返還されることが決まり、三里塚も成田も先が見えている。
闘争に見切りをつける学生がふえていることは事実だ。
いままで自分たちのやってきたことが違うんじゃないか、と彼らは考え始めている。
「高校時代から闘争をやってきた連中は、いまはもうパンクしてますよ。ショーモーしちゃって、いまは、なにもしていませんね。」とあるノンセクトラジカルの学生は語っていた。

<肉体労働かマリワナか>
(中略)
働きたいと考えている学生がふえているのだ。それも、自分の体を動かす肉体労働をしたい、と彼らは言う。
11月決戦の敗北が、そのいちばんの原因になっている。(中略)
60年安保のあと挫折感を持った連中は、マイナスの方向でしか思考も行動もできなかった。つまり、挫折感に酔っているうちに、なんとなくオトナになってしまい、そして10年たった。
しかし、70年安保のために主体的に闘った連中は、もう次の行動を起こしている。彼らに空白の時間はない。あれがダメならコッチにしよう、と行動的なのだ。
「肉体労働を志向せず、金儲けを志向しない連中は、マリワナに向かうか、フリーセックスにするか、グループ単位の芸術運動を志すか、なにをやるにしても、彼らはすでに自分たちの行動を起こしている。」』

この記事が書かれたのが1970年1月。確かにこの時期、70年安保闘争は、69年11月の佐藤訪米阻止闘争で終わった、という雰囲気もあったように記憶している。
しかし、このオチではガッカリしてしまう。「平凡パンチ」の記事なのでこんなところか、とも思うが・・・

(終)

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明大全共闘クロニクルはNo215以来1年ぶりの登場となる。
最近は明大土曜会の活動を中心にブログに掲載してきたが、「あの時代」の記憶を記録する作業も急がねばならない。

1970年1月、いよいよ70年代の幕開けである。1969年10月に機動隊が導入され、バリケード解除、全学ロックアウトが行われたが、11月の授業再開以降、和泉校舎での全学集会粉砕闘争、明大全共闘政治集会開催など、全共闘は100~150名程度の勢力を維持してきた。
1月に入っても各地区で活動が続く。

【全共闘は相手にせず 生田 全共闘団交を拒否される】明治大学新聞 1970.1.22
『生田地区全共闘は16日、工農両教授会あてに団交要望書を提出した。
要望書によると、「23日午後1時から工学部2003番教室で開催」したいとし、「21日正午まで」の期限付きで回答を求めた。
大学側はこれに対し「対策本部で全共闘との話し合いは拒否することを決定済み」として、この団交要求を教授会に諮らず“黙殺”の形をとった。
一方、全共闘系学生約20人は23日、午後1時頃農学部長質へ押しかけ岩本浩明農学部長に談判した。が、結局ラチあかず、「再度団交を要求する」ことを確認して引き上げ、工学部第1校舎会議室に向かった。学生達は中にいた教官ともみ合い、実力で押し出して占拠した。
学生は「工学部長を出せ」と要求したが、稲垣生田担当副学生部長が「工学部長は不在であるので、この部屋を出るよう」説得した。しかし、稲垣副学生部長は学生につかまり、午後7時半頃学生が解散するまで「ロック・アウト」などについての批判を受けた。』

続いて本校地区。
【学生、学館板塀を解除 大学側は4号館封鎖で報復】明治大学新聞 1970.1.22
『19日から開始される「後期試験」の「実力阻止」を叫んで、全共闘系学生は16日の午後4時すぎから、本校地区四号館前広場で集会を開いた。生田、和泉からの部隊を合わせて約50人が集結した。
5時頃、全共闘系学生は学生会館に向けてデモを開始した。大学側は11号館の特設出入り口と7号館扉をすばやくシャット・アウトしたが、学生は11号館、学館前の板塀を実力でまたたく間に解除し、学館広場になだれ込んだ。また、7号館検問所も同様に実力解除、6号館入口も一部壊した。(写真)
その後、再びデモに移り、大学院前から4号館の前を通り、法学部・10号館に向かった。そして10号館入口も破壊し、学館前に引き上げ、スクラムを組んでインターを斉唱した。
この全共闘学生の実力行動に対し、大学側はマイクで「学長告示に違反するので、即刻中止せよ。中止しない場合は力による措置を取る」旨の警告を発し、神田警察署に警備出動を要請した。
全共闘系学生の行動を見守る局学生、また11号館自習室では試験を控えて、勉強していた学生約30人があわてて避難する光景も見られた。
4号館前に戻った全共闘系学生は総括集会を開いたが「19日以降の後期試験阻止と入学試験断固粉砕を確認」して、早々に切り上げ、5時半頃解散した。
大学側は16日の全共闘系学生の実力行動に対する報復措置として、17日、4号館への「許可なき者の出入りを禁止」した。(後略)』

一方、東大闘争1周年集会が1月18日に開かれ、明大全共闘も参加した。
『「新左翼の健在示す 東大闘争1周年記念集会」
18日、「東大闘争」1周年を記念して午後1時半過ぎから、文京区の礫川公園で、全国全共闘連合、全国各県反戦代表者会議主催の「東大闘争1周年労農学市民集会」が開かれた。
この日、礫川公園は学生、労働者の各セクト部隊、各大学全共闘各ベ平連、地区反戦、高校生など1万人近い参加者を集め、文字通り70年闘争の幕開けを飾るものであった。
昨年11月、大菩薩峠での大量逮捕で壊滅的な打撃を受けた赤軍派が、1月16日の武装蜂起集会を機に再登場し、この日は百人ほどが参加。
集会はいつものように、各大学全共闘代表の決意表明に始まり、全国反戦代表の決意表明を最後に成田空港反対同盟委員長戸村一作氏からのアッピールを読み上げ、沖縄全軍労に対するアッピールを採択して集会を終え、午後4時過ぎ大塚公園までのデモ行進に移った。
大塚公園までのデモは初めから荒れ模様。ジグザグデモを繰り返すデモ隊に、私服と機動隊の一体化した相変わらずの激しい規制。整然とデモしている学生にまで襲いかかる勢いだった。デモコースにあたった東大正門前には放水車がズラリと並べられ、ガス銃を持った機動隊が立ち並ぶという厳重な警戒体制がしかれていた。そこをデモ隊が通りかかった時、正午すぎから「東大1月決戦総決起集会」を開いていた助手共闘、職員共闘などの“造反”教職員約6~70人が、正門の鉄柵ごしにシュプレヒコールをもってデモ隊に連帯の意志を表明し、インターを歌って気勢をあげていた。(後略)』

この集会にはたぶん行ったと思うのだが、覚えていない。
42年という時間は記憶を消し去るのに十分な時間だ。    

(つづく)

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