(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No282-1からNo282-3に分けて掲載します。)
3月3日(日)、明治大学リバティーホールで、経産省前テント広場やたんぽぽ舎などの主催で「福島原発災害に学ぶ 福島・首都圏の集い」が開催された
福島の現状については、マスコミでも伝えられることがほとんどなく、福島原発災害が引き起こした問題が忘れられ、風化させられようとしている。このような状況に立ち向かっていくためには、福島の方々の声を広く伝えることが重要だと考える。
集会では11名のゲストスピーカーの方が発言したが、今回はNo280に続き、2名の方の発言を掲載する。
(録音が聞きとれない部分など、発言の一部を省略しています)
郡司『続きまして、大熊町明日を考える女性の会、木幡ますみさん、お願いします。』
木幡ますみ(こはた ますみ)さん
【1954年郡山市に生まれる。1978年12月、結婚を機に大熊町野上に住む。農業(水田耕作)をしながら夫婦で学習塾を経営して生活を営む。3・11後は田村市の体育館そして会津若松市の仮設住宅で避難生活。その中で「大熊町の明日を考える女性の会」を結成し、その代表として活動。夫の前大熊町議・木幡仁さんとの共著で「原発立地・大熊町民は訴える」がある。】
木幡『こんにちは。今、会津若松の仮設に住んでいます木幡ますみと言います。2日前、家に一時帰宅しました。その時、雨がしたたり落ちるところで(放射線を)測りましたら、120マイクロシーベルトありました。(会場から「エー!」という声)とんでもない数字なんですけれども、私は帰ってきた後、もっとすごい話を聞きました。町長さんが、大河原という地区があるんですが、そこに除染の様子を見に行ったらしいんです。10僂箸いΔ鵑任垢、やった方は、だいたい30僂らいの土をはぎ取って除染したらしいと言いました。、そして、その後、みんなで「下がった下がった、よかったよかった」と万歳して、その後、お目出度いなと思うんですけれども、大熊地区で食べたらしいです。「お弁当ですか」と他の人が聞いたら、弁当じゃなくて大熊で作ったんだ、「うわー何ということだ」と思いました。
私は元々原発は反対です、本当に。私は実家が郡山なんです。私の実家の近くに仮置き場があります。誰も居なくなりました。若い人はみんな出て行きました。思うんです。原発を、何でこんな排出物を溜めることも何もできない、何で初めから原発を、いくら出稼ぎが困難だとかなんとか言っても、それを受け取ったんだと、それを受け取った人たちは完全に謝罪すべきです。それに対して私たちは文句は言いません。ただ、出ても何も掴むことのできない放射性廃棄物を、またこれを今度出たらどこに捨てる、消すことは出来ません、確かに。だけど、今、郡山、福島、中通りにおいては本当に人が住んでいるんです。毎日毎日、皆さん放射能の汚染に怯えながら暮らしています。
私たちは、2週間くらい前なんですけれども、福島のところで、西尾先生という北海道のがんセンターの院長先生がいらっしゃいまして、甲状腺の検査を受けました。
私は夫より長く一時帰宅で何回も行っているんですけれども、夫は元々腎臓が弱かったんですけれども、震災で逃げてから、普通、地震だったらまた家に帰って何とかなります。しかし、原発の事故で、夫は体育館で水も飲めない、塩分ばかり付いたものを食べて暮らしていたので、腎臓がとうとうパンクしてしまいました。それで、私の腎臓を、震災の年の6月にあげました。その時、私と夫は甲状腺の検査も受けました。あげる人、もらう人、どちらも異常があったら絶対にあげられませんし、もらえません。私も夫も甲状腺は何の異常もありませんでした。
ところが2週間前に西尾先生に診てもらいましたら、夫は嚢胞がひどく、そして結節がかなり大きく出来ていました。夫には一時帰宅は行かせなかったんです。私の方は嚢胞が軽く2つありました。その時、西尾先生がおっしゃるには、「郡山、福島、毎日毎日、放射能の汚染でみんな大変な体になっている。本当に嚢胞が出来て異常事態だ。」とおっしゃっていました。私もそう思います。
私たちの町長は「帰る帰る」と言われていますが、私は絶対100年経とうと帰れるとは思っていません。「何という鬼婆だ」と言われましたが、私の夫が退院したら町長選に出しました。そして絶対に帰れないということと、脱原発を訴えました。しかし、落ちましたが、でもそれよりも、大熊の人たちが昔だったら一言も反論ができない状況でした。しかし、今、皆さんも私たちは帰れないということをおっしゃっています。本当は帰りたいんです。だけど帰れない。子どものためにも自分のためにも将来のためにも、本当に帰れないとみんな思っているんです。
(No282-2に続く)