野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年07月

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No298-1からNo298-3に分けて掲載します。)

今年の4月の「明大土曜会」で、「大震災義援!ウシトラ旅団」の2年間の活動について、旅団長のH氏からお話を伺った。
先週に引き続き、そのお話の内容を掲載する。

(写真はウシトラ旅団ブログより転載)
<要求を形にして繋いでいく>
私たちがやれることは、イベントをやる、イベントのお手伝いをやる、自治会の運営を支えるみたいなことしか出来ていないんですけど、やはり仮設には仮設の役割があって、その周りにどういう影響を及ぼすのかを考えます。仮設と仮設を繋いだり、仮設と借り上げ住宅の人たちを繋いだり、仮設と周辺住民の人たちを繋いでいきたいのです。実際には放射能の問題やら原発をどうしていくかという問題は、双葉郡の町々の行く末、いわきの行く末とも関わってくることなので、そこをどうやって結び合わせて行くのかという課題に取り組むことを、やり続けようと考えています。
少しずつですが、踏み込んだり、跳ね返されたりしながらの活動です。例えば、泉玉露の自治会に去年の総会でスローガンを挙げてもらったんです。「政府は我々の生活保障を行え」、二つ目は「東京電力は被害に応じた補償を直ちに行え」、三つ目は「富岡町当局は国・東電の補償実現を要求をする先頭に立て」、四つ目は「国・県・富岡町は双葉郡住民のための暮らしと健康を守る施策を直ちに実施せよ」、最後は「双葉郡は一つだ。共に力を合わせてこの困難を生き抜こう」、これが去年の自治会の決議として挙がって、自治会の集会場の入り口にズドーンと貼られました。ところが1年経ってみると、いつの間にかこれが剥がれている。つまり、それは自治会の人たちの意識もあるし、そこにそういうものがあるということについて、嫌だというか、別の路線を考える人もいる訳で、それが何となく剥がれて行くというのが、ある意味で今の被災者の気持ちや在りかたを象徴しているのではないかと思います。
だから、私たちはこれをやる時は、こういう風にしませんかと「かっちょい」で提案してやったんですけれども、ある種のそこまで踏み込むのかどうかというような迷いもありましたし、それでもスローガンを掲げてもらうようにした訳です。よその仮設住宅でそんな決議が上がったという話はまったく聞きません。それはそれで良かっただろうと思いますし、これをやって跳ね返されても、次の別の道を探していきます。例えば賠償問題、「皆さん賠償はどのようにされるか知っていますか」という基礎の基礎から勉強会をもう1回やっていく。東京から私たちが講師を連れて行って仮設でやってもらいました。泉玉露仮設では、恒常的な勉強会ができてその人達が賠償問題に取り組む中心になってきました。また、集会場だけでなくて、プレハブの路地みたいなところで爺ちゃん婆ちゃんが集まってお茶を飲んだり、酒を飲んだりしながらしているところに行って、話をして「何ができるんだろうか」と考えてみたり、そんな作業をずっと繰り返しています。
自治会なり住民の人たちの中に入って、ちゃんと彼らの要求やら何やらをくみ出しつつ、それを形にして繋いでいくというような具体的な作業がとても必要だなと思っています。そんなようなことを考えると、ボランティアで私たちのような考え方、動き方でやっている人たちは恐らくウシトラくらいじゃないかと思っているんです。どこまでできるか、何ができるかは別にして、本当は現実に求めらていることに応えようとするボランティアとかNPOはまだまだ足りないというか、できていないように感じています。
被災者が言葉にしていることもあるし、日々を生きるだけで疲れ果てきちんと言葉にできていないことも受け止めるようにして、自分たちで出来ることをやっていただけたらなと思います。

(No298-2に続く)

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(No298-1の続きです)
(写真はウシトラ旅団ブログより転載)

結構大変ですけど、だけどそれはとても楽しいことでもあります別々の学校に行っていて仲が悪い子どもたちを「仲良しにしてやるかぁ」と、「キャンプにでも連れて行くか」という試みをやったりもしました。目指した仮設の「子ども会」発足にはまだ辿り着きませんが。
(写真は)その子供キャンプで掲げた自治会旗です。自治会旗は私たちが作って、餅つきの時に持ち込んだものです。餅つきの打ち合わせの時に「賑やかにやりましょう、横断幕を作りましょう」と提案して、コピーやデザインをそこで話して作ったものなのです。自治会旗(横断幕)は今でもよく使われていて、「こんな立派な自治会旗あるところないよ」と自分たちは言っている訳です。ものすごく単純なことでも、できることをやっていくということが、一緒に進んで行ける方法の一つなのかなと思いました。というのは、この自治会旗を作る時に、12月の末でしたから、水戸の印刷所の人に「こういう物を作りたいんです」と頼んだら、「実は私も双葉郡の出身なんです。そういうことなら特急でやり ます」と言って急いでやってくれたり、全然見ず知らずのところにいきなり電話して、「獅子舞やってくれませんか」と頼むと、「いいよ」と言ってくれる。それも水戸の人でしたけれど、そういう心持の人は実はたくさん居て、どうやってそこに手を伸ばしていくのかということをやりさえすれば、考えさえすれば、私たちみたいに金も力もないところでも、ある程度のことは出来るわという経験だったのです。
この1年、避難区域の3区分が終わって、新しい暮らし方をどうやっていくのかというところで、被災者の人たちが試されるところに来ています。頑張って支援活動をやり続けたいと思っています。何かありましたら、またよろしくお願い致します。
ということで金も力もない中で2年間活動をやり続けてきましたが、何とか社会的信用と支援のお金を引っ張れるようにと、NPOにすることにしました。
今、申請中です。うまくいけば、夏にはNPOに出来るかなと思っております。
今日は申込書を持ってきました。正会員は総会に出て発言して議決権があります。年会費1万円。賛助会員は議決権はありませんが、総会に出て発言することが出来ます。もしよろしかったら、ご協力をいただきたいと思います。』

Y・R『皆さんもいろいろ判断して、出来るだけ協力してください。ウシトラは方位のことだそうです。』

H『東京から見て東北は丑寅の方角です。』

M・H『最初は演劇集団かと思った。』

H『それもよく言われます。』

Y・R『あとはホームページを見ていただければ、この間の活動が出ていますので、それを見て判断して、1万円出せば最後の議決権まであるそうですから、判断してください。
さきほど、我々から見えない福島のいわきの状況など聞かせていただいたんですが、その中で中央台にどんどん住宅が出来てきているという、この中央台というのはいわきですか?』

H『そうです。いわきです。』

Y・R『原発の事故がある前に宅地造成はされていて、そこに家が建っているというのは、民間レベルで全部やっているんですか。それとも県や行政がからんで、そこに作ってという仕組みなんですか。』

H『仮設はもちろん町が作る。周りに建っている新しい家というのは個人が建てている家です。』

Y・R『中央台というのは仮設もあるし、個人が建てているものもあるんですか。』

H『そうです。元々が団地ですが、そこに家が建っていなかったという状態だったんです。空いていたんです。今、双葉町の人たちの仮設住宅がある勿来の南台というところもその状態です。いわき市の中央台と南台は分譲地なんです。』

Y・R『そこは、仮の村レベルのそういうようなものとしてやろうというような、上からのプラニングじゃなくて、実際に民間の人が家を作るという形でつくられているんですか。』

H『それは仮の町とは全然関係ないです。』

N『資金の目途が付いた人が、個人で建てている訳です。ですから、その住宅が見え、仮設にも暮らし、様々な模様がある訳です。中央台は個人で資金の目途が付いた人が家をどんどん建てている。富岡の仮設の中にも、いわき市に息子さんが個人で家を建てる目途が付いたということで引っ越していくとか、日常的にも見える訳です。』

Y・R『行政がいろいろやっているうちに、民間の自力でいろいろやって、仮設もどんどん無くなっていくというのが、実際には進行しているということですね。』

N『一方で、双葉郡の行政を通じて、県及び国との関係で復興住宅構想という問題もある。』

H『復興住宅はまだ殆ど手が付いていないので、どうなるか全然分からないです。作ると言っても、数がそもそも少ないので。』


(No298-3に続く)

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(No298-2の続きです)

N『一方で、「仮設はこれ以上我慢できない」というのがあるから、そこで自民党がどのくらい金をばらまいて、そういうレールに乗っけたものをどれだけスピードアップするのか、という動きがもう一方にある。』

W『いわきのことは、私たちも少し関係があって、よく聞いているんですけど、結局、いわきの市民が富岡町の人たちを受け入れない、こちらに入ってくるのは、どちらかと言うと、そちらの声の方が大きい。今の話を聞くとバラバラで家は建てているということなんだけど、結局、富岡の人たちは戻れないですよね、戻らないと言っているから。そういうことで言うと、いわきが町として大々的には受け入れない。町ぐるみで、どうしようかという話は少しはされて いるんですか?』

H『それは無いと思います。打診とか、ここを貸してくれと言うことはあるかもしれませんけれども、それは決まって進んでいる状態では無いと思います。』

W『いわきでよく聞くんですが、非常に対立構造というのはひどくて、何でそういう風になるのかなと思うけど、非常に苦労されているのは分かります。』

H『確かに構造的には、いわきの市民が、「あいつら銭もらいやがって」とか、「いつもヒマそうにしてパチンコしかやることないだろう」とか、そもそもいわきの市長が、自らの立場をわきまえず同様の発言をするような状況がある。市長は市民のそういう気分に迎合するようなところがあって、あんな発言をしたと思うんです。そういう雰囲気というのは確かにあるんです。それはある種、当たり前なんです。今まで何も無かったところに二万五千人も人が来れば、暮らすことが大変です。病院に行けば延々待たされるし、渋滞はするしという状態になる訳ですから。それに対する反発というのは、例えば市役所の中に落書きがされているという話だったんですけれども、先々月だったかな、車が襲われたという例があって、そんな動きを阻止しなくてはという人たち、さっき言った中央台の消防団員の人たちなどは、わざわざ自分たちの車に青ランプ付けて、パトロールしているがごとくに振舞っている。必ずしも避難民を敵意で見ている人ばかりではないということも分かって欲しいんです。
泉玉露の仮設と、その周辺の泉の人たち、泉玉露の人たちというのは、私から見れば良好な関係で、何かあれば外からも入って来るし、一緒に泉の駅前のお祭りをやるというような関係にある。いわきも何だかんだと言っても、双葉郡との繋がりが深いんです。富岡からいわき市に働きに来ているのもごく当たり前のことでした。困難なところを一緒に生きていこうと考えるいわき市民だってたくさんいます。不満を排外的に表現するおバカな奴もいるというだけのことと思うんです。
ただ、事態がなかなか進まない中で、避難民もいわき市民もストレスはたまるし、不満のはけ口が避難民に向けられていく状況は進む可能性が大きい。経済格差をますます進行させようとする政策や、むき出しの差別をあからさまに言ってはばからない日本の今のありさまは、次には原発避難民や津波の被害でさまざまなサポートを受けている人達に対して、外国人や在日の人々に対する攻撃姿勢につながるようにして、避難者を差別し攻撃する状況を生み出すようになっていくだろうと思います。単に差別に反対するといった掛け声ではなく、そこを乗り越えて人々をつないでいく具体的な行動をやっていかないと、まずいと思います。』

Y・R『これから入っていくことは難しいので、この間、実績を作ってこられたウシトラ旅団を通して、我々が仮に出来るとしたら、そういう形でしか出来ないと思うんです。そいう意味では、できるだけ多くの人が正会員になっていただきたい、ということで、私の方からもお願いしますし、私も入ります。』

N『ウシトラを窓口にして、例えば仮設に行ってお茶を一緒に飲みたいという希望だとか、そういうことがあればどんどん繋ぎます。あるいはこんな企画がどうだろうかということがあれば、そういうことも実現していくような、そういう意味でウシトラはそういう窓口になっていく。』

以上、ウシトラ旅団旅団長のお話と、その後の質疑を掲載した。
ウシトラ旅団は、現在、NPO申請中である。ウシトラ旅団のブログをリンクしたので、ご希望の方は、ブログから正会員・賛助会員の登録をお願いしたい。
私は、とりあえず賛助会員に登録させていただいた。
また、ウシトラ旅団の支援により、8月に下北沢で行われる福島県立大沼高校演劇部の東京公演「シュレーディンガーの猫」(昨秋の県高校演劇コンクールで最優秀賞)も是非観に来ていただきたい。(写真)

<ウシトラ旅団ブログより引用>
「やれることをやる。好きなことを勝手にやる。できることを一緒にやる。
七たび旅して、われら丑寅の義兵とならん。」

(終)

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No297-1からNo297-4に分けて掲載します。)

今年の4月の「明大土曜会」で、「大震災義援!ウシトラ旅団」の2年間の活動について、旅団長のH氏からお話を伺った。
ウシトラ旅団とは、東京から見て丑寅の方角、東北に支援の旅に出るという意味とのことである。現在は、福島県いわき市の泉玉露の仮設住宅を中心に活動を行っている。
明大土曜会では、福島原発事故被災者の支援として、子どもたちの週末保養の活動を始めたが、支援活動の実績のあるウシトラ旅団との連携を図ることを目的として、今回、旅団長に来ていただいた。
今週と来週の2回に分けて、そのお話の内容を掲載する。
(写真はウシトラ旅団の幟旗)

Y・R『ウシトラ旅団の団長さんがお見えなので、お話を伺いたいと思います。』

H『お招きいただきましてありがとうございました。ウシトラ旅団の旅団長をやっていますHと申します。

<ウシトラ旅団前史>
(ウシトラ旅団の)前史の頃からということなので、簡単に触れます。震災直後に私は被災地の友人に荷物を送ったりしていました。それともう一人、いわきの友人に食料やら水やら子どもの絵本やらを届けていた友人がいて、その人とたまたま「どうしてるんだ」という話になり、「お互いそんなことをやっているんなら一緒にやるか」と、二人で活動を始めました。
私が最初にいわきに入ったのは(2011年)4月の3日でした。いわきの小名浜からずっと北上してみたんですけれど、海岸べりは本当にひどいやられようでした。
かって鳴き砂で有名だった美しい浜辺だったんですが、そこが海岸線が迫って砂浜が小さくなり、家屋が全てなくなっているとか、二階家が下の方を抜かれているとか、ボロボロになっているという状況でした。
そのようなことがあって、その1週間後に、仕事仲間や飲み仲間に声をかけて「ちょっとボランティアをやらないか」ということでウシトラ旅団が誕生したのです。
(ウシトラ旅団は)実際は10人くらいの人間がチョコチョコと動いている程度のものです。あとはメーリングリストで50人くらいと繋がっているというような体制です。

<泉玉露の仮設住宅に入る>
今、主要な活動の場は、富岡町からいわきに避難して来ておられる方たちの仮設住宅です。いわき駅から3つくらい手前にある常磐線の泉駅のすぐ近くにある泉玉露応急仮設住宅です。そこに四百人から五百人くらいで住んでおられる。ここは2011年の9月に仮設が出来て、11月くらいまでに人々が入り、私たちが行った時にはそこがいっぱいになり、自分たちの自治会を作ったばかりでした。
いわきにある富岡町民の仮設では一番大きな仮設になります。富岡町民はいわき市に五千人いると言われています。だから10分の1くらいなんですが、逆に言うと仮設住宅に入っている人たちというのは、それだけ少ないということです。あとは民間の借り上げ住宅、みなし仮設という風に呼ばれますけれども、そこにいらっしゃる方々、それからいわき市がそれまで持っていた雇用促進住宅、つまり失業してこれから職業に就きたいという人が入っている安いアパートみたいなものです。そこはかなり立派な3階建ての鉄筋コンクリートの建物ですが、そういうところに入っている。
仮設は割に被災者の姿が見えるんですけれども、みなし仮設にいらっしゃるという方たちの実際の姿が、私たちボランティアにはなかなか見えてこないという状況です。
それを何とかしなくてはと思って入っているボランティアの人たちがいるんですが、そういう人に支援する軸になっている社会福祉協議会はガードが固くて、どこに住んでいるか明らかにしないとか、どういう状況を抱えているか明らかにしないとか、個人情報という言い方をするんですけれども、なかなか支援者が入るのに困っているという状況が未だに続いていると聞いています。
私たちが行っているのは仮設住宅ですから、住民の姿が割に見えやすくて、しかも泉玉露の仮設の人たちは意識が明るいんです。それは富岡町の性格にもよると思います。外との関係も、前から住んでいる周辺の人々との関係も割と良好に進んでいるという感じです。
富岡町は第二原発が立地していたところです。第二原発は、富岡と楢葉にまたがってあります。そこから20劼らい北に上がったところに、事故を起こした第一原発があります。第一原発は大熊町と双葉町にまたがっている。大熊にあった4つの原発が次々にメルトダウン・メルトスルーしたり、危機に瀕したりして今の惨状になった。

(No297-2に続く)

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(No297-1の続きです)
(写真はウシトラ旅団ブログより転載)

富岡町には夜ノ森という桜の並木で有名なところがあります。町民が心の支えにし、故郷の象徴として語る夜ノ森は、事故を起こした大熊の第一原発と富岡町にある第二原発までの距離がほぼ同じくらいで、そういう意味で言うとすぐ原発事故の現場の近くなんです。
とにかく全員が退避して、9月に新しい泉玉露に入ってきた時には、皆さん、避難所から避難所へ移って行ったり、半年くらいアパートに行ったり、ということを繰り返して、くじ引きでやってこられたということです。
それまで富岡町で一緒に働いていたとか、同じ地区に住んでいたとかいう人たちは非常に少ない。
会長さんに話を聞くと、顔見知りが3人いただけだという言い方をしていました。人口が一万六千人ですから、そのうちの四五百人がこの仮設にやって来るというのはそういう状況になるのです。1回シャッフルされて、今まで一緒に助け合ってきて何かをやってきた人たちが、一切その関係を壊されたところで、もう1回寄せ集められているという状態なんです。
けれども富岡町は双葉郡の中では結構大きな町です。一万六千人というのは、ある意味で言うと双葉郡の都会です。かって群役所があったと聞きましたが、お店やら病院やら行政関係の代理の仕事をする機関などがちゃんとあって、例えば楢葉の人たちなどは「帰れ帰れと言われても、物が買えたり役所の仕事ができるというところがないところに行けなんて言うのはお笑い草だ」という言い方をしたりします。富岡町はそういう役割を持っていたところということです。
それは富岡町の人たちの意識にも反映していて、割に明るいと言うか、話に聞く大熊なんかとは違った印象があります。もちろん双葉郡の気質は同じようにあるのですが、大熊町の親父はマッチョな感じだし、女性も感覚は田舎のおばさんというのとちょっと違う。よく出てきて話をされている木幡ますみさんなどの話を聞いていると分かると思いますが、大熊町のガチッガチッとした感じと印象が違う。富岡町の人たちは割にソフトで気安い感じがする人たちが多い。その人たちが集まって来ているので、泉玉露の仮設は雰囲気として明るいんじゃないかなという気がします。

<仮設住宅での活動>
私たちは、大したことが出来る訳もなくて、ボランティアといっても、泉玉露仮設に行くまで、整体の先生を避難所に送ったり、仮設に入れたり、雇用促進住宅に入ってもらったり、その整体の先生と一緒に現場に行って、そこで治療を待つ間にお話をしてもらうようなことをやっていました。そのままの形をもって泉玉露に入りました。
有難かったことに、私たちが入り始める2ケ月前くらいから、テモテというキリスト教の小名浜の教会のボランティアの人たちが、とにかく机を並べてお茶だけを出して「皆さん来てください」というようなことをやっていまして、愚痴も含めていろんなお話が出来るようなことが集会場でやられていた。私たちは そこに入って行ったんですね。
ある意味、やりやすかったというか、そこからすぐ、年末に餅つきをやろうとういう提案をしました。そうしたら、「どうしようか考えているんだ」みたいなことがありまして、年が明けた1月初めに餅つきをやることになりました。できたばかりの自治会が、テモテの人たちと私たちが中心となって準備して、自分たちの手で餅つきをやることになりました。
この餅つきをやりきったことで、ある程度私たちに対する信頼感というか、出来るんだという話は見えたというところがありました。何が一番いいのかということは、仮設に住んでいる人たちが自分たちで自治会を作って、自分たちの手でやろうと思ったことが良かったのです。私たちみたいな者が持ち込みで「こんなイベントをやりますから来 てください」ではなくて、そこで一緒にやれたということが良かったんだろうなと思います。

(No297-3に続く)

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