野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年07月

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(No297-2の続きです)
(写真はウシトラ旅団ブログより転載)

私たちウシトラ旅団は元々力がないですから、初めから人の力を借りることを考えていました。一番最初にいわきの方に連絡をとったのは、いわき自由労組という小さな労働組合に物を送ったりしていました。それは、初めから労働組合を支援をするというよりも、労働組合を通して被災者の人たちを支援できるかなと、言葉は悪いけれど、その人たちの褌で相撲を取らせてもらうというつもりでやっていました。
これが見事に当たりまして、個人商店みたいな小さな労働組合ですけれども、その人たちが、仮設で餅つきをやるぞという話になった時に、例えば小名浜の地区労が持っているテントやらマイクやら鍋やら餅つき機やら、さまざまな物を声をかけあってあっという間に持ってきてくれる。彼らに一緒にやりませんかと言うと、家族連れで仮設の中に入ってきて、一緒に楽しむというそんな様なことが出来たんです。
それがあって、自治会と支援者で、これから自治会の活動をどうするかということを恒常的に考えられるような機関を作れないだろうかという提案をして、テモテとウシトラと自治会の役員によって、会議をやることになった。自治会支援者活動調整委員会、通称「かっちょい」というものを作って、月に1度、「かっちょい」をやる。そこでさまざま問題になっているようなことを話しあい、こんなこと出来るかなということで、2月から動き始めました。そこで計画されて準備されて、同じように花見もやって、これも非常にいい形でできました。
花見で問題になったのは、富岡には夜ノ森という東北地方でも有名な桜の名所があり、爺さん婆さんたちはとにかくそこに行って桜を見たいと言う。ちょうど去年の花見の前ころ、試験的な除染をやるという動きがあったんです。結局、続けられたらしくて、今年も桜の幹の皮が剥がれてひどい状況、痛々しい状況の中で桜が並んでいる。去年の3月は、夜ノ森に行く行かないという話をしていました。私たちは行くことには賛成できない、「私たちは反対だ」と言おうと決めていました。ただ、どうしても行くという者を止める訳にはいきませんから、それだったらバスに乗せて降りないようにして「突入花見作戦をやるか」みたいな話をしていました。
もし行くとなったら、東京からもバスを出して、そこに私たちも乗って行って見ようということになったんですが、そこではなくて、いわき市の花見の名所があるので、そこに行ってやろうと決めて、私たちは東京からバスで行って、そこで一緒に花見をしました。そのようなことをやってきました。
そんなに難しいことは出来ないし、すっきり尖がった主張をして何とか出来る訳でもないので、オロオロしながらでも仮設の人たちと力を合わせて、一緒にやっていくということをずっと目指してきました。

<仮設住宅をめぐる課題>
今、仮設の問題で言うと、皆さん疲れてきているし、去年の暮に話を聞いた時に、仮設で7人亡くなっている。やっぱり、疲れは溜まっているし、先の見込みがないというので、精神的な支えでもなかなか難しいところがあります。
経済的にも、東電から入ってくる精神的損害賠償で生活が成り立つ人もいるし、全然そうではない人もいる訳です。しかも、仮設の人たちは年齢層が非常に高い。というのはバラバラにされた時に、それまで3世代くらいで暮らしていた人たちが、関東圏や全国に散っている。子どもを戻したくない、という若い夫婦は福島県内に戻らない。福島県内に残っているのは、お祖父ちゃんお祖母ちゃんの夫婦、あるいは独り者の高齢者が仮設にいるという状況です。そういう意味で言うと、家族バラバラ、地域で培ってきたつながりも断ち切られてという、しんどい状況を抱えてこれまで2年間を過ごしてこられた。
これから先何が起きるかと言うと、政府が復興住宅というのを作って行く。そこに入る時に、また同じようにくじ引きみたいなことをやって、せっかく出来てきた仮設でのつながりをバラバラにされる恐れがある。あるいは優先的に困っている人から入れるということをやる、お爺ちゃんお婆ちゃん、体の悪い人だけがそこに行って、コミニュティーも崩壊したまま行かざるを得ない。このやり方は一見、人道的に見えて、ちっともそうではないんです。阪神淡路から18年経って、復興住宅では今、老いて孤立した生活を続け、誰にも知られずに死んでいく人が多発するひどい状況になっている。原発の被災民もこのままいってしまうとそういう状況になりかねない、ということを抱えている。

(No297-4に続く)

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(No297-3の続きです)
(写真はウシトラ旅団ブログより転載)

仮の町だとかいろんなことが言われていますが、仮設には五百人くらい住んでいるわけだから、その人達をバラバラにせずに、低層階のちゃんとした住居を作って、近所の人とも付き合えるような施設を作り、周辺の人たちと交流できて何とか生きられるようにできないのかと思います。できればそこでまた2年前のように、子供と孫がいっしょに暮らせるようにできたらなおいい。それでも帰りたいと思う人は何十年かそこで頑張れるという形を「村」として作り、そこで暮らすことが出来れば少しは展望が見えてくるかもしれません。けれども、今の状況でこのまま進むと、阪神淡路で起こったようなひどい状況の中で打ち捨てられていく、棄民化されていくということが起こるだろう、と言えると思います。
そういうことを考えて、ボランティアの人たちも何とかしなくては、ということで動いています。いわきの場合、「3・11被災者を支援するいわき連絡協議会」というのがあります。事務所が中央台という分譲地にあります。被災するまで全然家が建っていなかったところだったんですけど、一気に仮設住宅がたくさん出来たんです。楢葉や広野の人たちが何千人も仮設に住んでいる。補償金を使いながら、もう1回自分たちの生活再建をいわきでやろうと決断した人たちは、そこに新しい家を作っています。津波で家をなくしたいわき市民の新しい家も周りに出来てきている。私たちが被災した年の4月に行った時は、本当にガラーンとした感じだったのに、今やそこにいっぱい新しい家が建っている状態です 。
震災直後の3月4月の頃に、中央台で被災者を受け入れていた消防団員のおじさんなどが中心になって動いて、被災民に対する支援を続けている。それが少しずつ実を結んできて、いろんなボランティアの人やら、社協やら、行政も含めて入れながら動かしていっている。福島では初めての試みの組織的な形になっているらしくて、注目されています。

いわきは地震・津波で被災しているところなんですね。原発事故による放射能汚染もある。被災者でもあり、被災者を受け入れているところでもあり、かつ、原発の収束作業に向けて出撃拠点の町でもある。そういう意味では複雑なことになっていて、それがとても入り組んでいます。仮設から朝5時頃に自分の車に乗ってJヴィレ ッジまで行く人もいれば、いわき市に住んでいて、専用バスに乗ってJヴィレッジまで行って、そこから福島第一原発に入るという人もいる。その周りでやっている除染労働などの拠点でもあるので、それこそ、少しまっとうな除染労働をやる会社から、ヤクザな連中までいるというのが入り乱れてあります。
そういう人たちが五千人から一万人くらい入ってきている。避難した人も一万人くらいいる、双葉郡から避難してきた被災者が二万五千人くらいいる、気を付けてみると大変な状況にあるということです。そういう状況について「被災者がいるから、自分たちが迷惑している」と反発を持っている元から居るいわき市民もいる。これをどうやって解きほぐすというか、お互いを繋いでいくかということを考えなければいけないだろう。』

(次週に続く)

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