
1960年代後半から70年頃の新聞記事を紹介するシリーズ。
今回は毎日新聞の「回転 安保‘60-’70」というシリーズの記事を紹介する。
【樺美智子さんからゲバルト・ローザへ】毎日新聞1969.8.23(引用)
<自己否定して突っ走る “学問もデモも”の時じゃない>
『この反日共系各派の学生大会で目立ったもの、女性。
東京の豊島公会堂と明大和泉校舎で3日間にわたって開かれた中核派の大会場。中核派といえば、ゲバルトで鳴る派。ムンムンとする若者熱気であふれる会場内は、ざっと三分の一の女性で占められていた。
一方、中核派とは水と油の革マル派の大会では、三人の女学生が中央執行委員入りした。中執はきわめて重要な役員である。
それに先立つ東大紛争では、大学院生の柏崎千枝子さんが「ゲバルト・ローザ」「けんかローザ」「ゲバ子」と、さまざまな異名を献上されながら、キャンパス内のいたるところに登場した。男顔負けの激しい討論、投石、丸太をかかえてのドア破り。(医学部本館)
安田講堂落城のあと、東大法文二号館で、闘争を支持する造反教官と反日共系学生の討論集会が開かれた。だが、双方の見解は「暴力」の点だけで分かれた。教官はあくまで「言葉」でたたかうことを主張。「この際の暴力」の正当性、不当性をめぐって、かってない深い対話が生まれようとしていた。そこで立ち上がったのが柏崎さん。
「きれいごとをいうんじゃないよ。お前ら(と教官をさして)教授会でどれだけ抵抗したんだい。いってみろ、いえないだろう。見せかけの同情や支持はごめんだよ。本気で闘う気があるんなら、バリケードのこちら側にはいってきたらどうなんだよ。」
言葉での闘いをいい張っていた折原浩助教授も頭を抱えた。マンガ本で机をたたき、「そのとおり」のヤジも出る。座はしらけた。
60年6月15日、東大生、樺美智子さん、国会前デモで死亡。白のブラウス、クリーム色のカーディガン、紺色のスラックス、白っぽいビニールの運動ぐつ。手には水玉模様のフロ敷き包み。
樺さんー所美都子さん(60年安保闘争に参加したお茶の水女子大生で、のちに東大新聞研究所に入り、60年安保後の左翼運動沈滞期にベトナム反戦運動で活躍、昨年1月死亡)-柏崎さん。
この3人の女性活動家は、60年から70年への時代の映像を映し出す。
みんな、勉強熱心のよい学生だ。しかし・・・
樺さんはデモと学問を両立させ得ると信じていた。当時の多くの学生がそうであったように、普通の通学服のまま、デモに出て行った。大学を拠点にして出て行った。「予定調和的だったのではないか。」と東大農学部助手の岡本雅美さんは考える。学生、研究者、科学者は「よいもの」であり、自己を肯定するためにも「安保反対」を唱えた、といえる。大部分の学生は権力を目の前にしても、どちらかといえば理性的に対応していた。
それが所さんなると、学生善玉論がややくずれはじめる。「体制が学生らを善たらしめない」。
ゲバルト・ローザ柏崎さんは70年の子。東大という城の中で研究者でいることは恥ずかしい。あんなくだらない教授たち・・・。城をぶちこわせ・・・。自己否定の論理が全共闘学生の頭を行きかう。感覚的に突っ走る。樺さんになくて柏崎さんにあるものは「自己否定」であり、激しいゲバルトだという。予定調和はくずれたのだ、という。
60年安保闘争の波がずっと静まってから、樺さんの追悼集が出た。周囲に人が、樺さんを追悼し、出した本だ。
柏崎さんは、闘争のさ中に表紙がピカピカの本を自分で出した。(写真)その本は書店ばかりか、機動隊に追われる前の新宿西口広場のフォーク・ゲリラ集会でも、地面に積まれて売られた。闘争する人間の個人の手記、心情告白の本がつぎつぎと出ている。東販の調べでは、ことし1月から6月までの半年で、闘争ものが39冊も出た、という。
東大全共闘の原稿料収入は七百万とも一千万円ともいわれる。
「棒で殴らず、書きなぐる」というわけか。それでも、原稿料収入は、うなぎ登りの保釈金支払いや闘争費用には焼け石に水。「さらに書け」となる。
反体制運動はカネもかかるが、カネになるという皮肉な時代。そこに柏崎さんは立っている。
女子学生がどんどん“闘争”の全面に出てきた。しかも、ヘルメット、ゲバ棒で“武装”し、投石の石を割り、運び、平気で投げる。「量、質ともに60年とはケタ違いだ。」と警視庁。革マル派などのデモでは女子は三分の一から五分の二。
ことしになってから警視庁につかまった女子学生は三百三十一人。60年には考えられもしなかったことだ。
東大ノンセクト・ラジカルの女子学生が言った。「男がだらしないからよ。」それだけだろうか。』
※ ホームページの全国学園闘争「図書館」の中の「東大闘争獄中書簡集」(第12号)に、柏崎千枝子さんの獄中書簡が掲載されています。
(終)