野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年11月

イメージ 1
(No317-1の続きです)

第1章 45周年の意味合いと45年後の現状況

(1)私たちは何を記念するか
-1968年11月22日日大・東大闘争勝利全国学生総決起大会と1969年1月18~19日安田講堂籠城戦一

一般的に「1.18~19安田決戦」という言い方がなされることがある。大学闘争の頂点と目
される東大闘争が最終的に権力の介入と対峙したのが安田講堂籠城戦であったのだから、この言い方は正しいといえようが、若干の割り切れない点も残るということです。
一つは、東大全共闘数十名の立て龍もり部隊を中心としながらも、その他の多数は党派の急ごしらえの支援部隊であったこと。確かにお茶の水地区よりの支援闘争の構えはあったものの、その進撃は制動されたこと。かなり当時の指導部の判断で本郷への突入ということは抑止されたということです。それに、学生側の不十分性とも言えるんですけれど、全都・全国の各大学全共闘への支援要請のイニシアチブはなかったということもありました。結果として、本フォーラムに集う、特に四大学の部隊はこの「決戦」と合流するということはありませんでした。
1969年の秋を期しての「70年安保決戦」ということが、当時から各党派によって呼号されていたということがあります。東大闘争の煮詰まりというものは、それに対して生起してきて、降って湧いた難問と、ちょっと言い方は悪いですけれども、なっていたのではあるまいか。その中で、「佐世保エンプラ闘争二周年」を構想していた中核派が、その力を安田籠城戦に振り向ける方針転換を行なったというのは事実だろうと思います。 したがって、「安田決戦」の真相は、東大全共闘の立て龍もり戦と中核派、ML派等の反権力支援戦闘との合成といえるものであったのではないかということです。
すでに党派レベルでは、四派共闘(共産同・ML派・第四インター・社労同)と中核派が接近しており、五派共闘がこの後成立して、1969年4月28日のいわゆる「中央権力闘争」へのアピールを出していくということがありました。その意味で、安田寵城戦は大学闘争と70年安保闘争との境い目に位置する反権力闘争的な位置を占めたもの、といえるのではなかろうかと思います。
それに対して、大学闘争の頂点をほかに見出すことができると思います。それは前年、11月22日、東大構内でかちとられた「11.22日大・東大闘争勝利全国学生総決起大会」であろうと思います(写真:毎日グラフ69..2.15より転載)。 日大の学友が述懐しているように、日大全共闘にとって東大闘争支援というのは必然ではなかったということです。同大会の背景には暗黙の前提がありまして、反日本共産党・民青ということでありました。しかし、そういう観点は、日大の学友には即共有しえないものであったと思います。しかし、そこを跳び越えて、闘う者の連帯を求めて東大に登場した日大部隊の雄姿に、いかに全都の学友が感激したか。その思いというものが今でも思い出されます。感涙にむせんでいた学生が多々いたというのは、決して誇張ではなかったと思います。
この闘う者の統一こそが、その先を切り拓いていくということが真に必要であったと思います。本フォーラムの視点は、まさにここに置かれていると言えます。それ故に本フォーラムは、明年の1.18~19を期して何かを開催するということではなくて、大学闘争の正に絶頂期としての1968年11月を念頭に置いて、その45周年を記念しようとするものであります。その辺の意味合いを一番初めに申しておきたいと思います。

(No317-3に続く)

イメージ 1
(No317-2の続きです)
(写真は毎日グラフ69..2.15より転載)

(2)私たちの周囲で一表面的な無化とその陰の諸逆風-

まえがきで述べたように、大学闘争は現在の目本社会のなかでは無化されております。バックナンバーになっているというのならまだよいのですが、それにすらなっていない。
万をもって数えた決起主体がほぽ体制馴化していれば、外の者が伝えてくれるはずもないとも言えるんですけれども、その外の者が実は様々な意識性を働かせて、無化の状況を作り出しているといえるのではあるまいか。その例を挙げれば次のとおりです。
∥寮の側の憎悪です。これはずっと引き続いておりまして、典型的には教科書の歴史記述からの締め出しているということが挙げられると思います。もちろん中学ではなくて高校くらいになると少し記述をしているような教科書もあります。
日本共産党(以下、「日共」と略す)の憎悪も根深いものがあります。典型的には、その影響下で出されたような岩波新書の歴史記述からも締め出されております。
4鰻犾Ε泪好灰濕臚海痢崟?峪柿顱彁亡僂箸いΔ發里あると思います。大学闘争とは即ち反権力闘争であり、反権力闘争は即ち軍事闘争である。軍事闘争とは即ち赤軍派である。赤軍派とは即ち連合赤軍であり、浅間山荘であるという、そういう論理学でいう一つの連鎖式みたいなものですけれども、その連鎖式の間というのは大変な飛躍があるということで、「浅間山荘」ということが特に若い人の脳裏に強く焼き付いているということがあると思います。
ぢ膤悗納続欧鮗?韻紳膤愎佑茲蠅力斉顱もちろん丸山真男氏その他いろんな方がいるんですけれども、この方々もだんだん亡くなられております。
以上は体制側からのものともいえるんですけれども、これにとどまらない批判というものが、我々の側に伏在していることを見る必要があると思います。
ゼ腓妨綢嚇な、若い主体からの内ゲバ・粛清批判というのが非常に強いものがあります。
Φ貔ぢ紂60年安保)より隠然とある「やりすぎ」論というのがあります。自分たちの闘いに比べて、60年代後半の闘いは異質である、やりすぎている、そういう論です。
体制馴化した主体の在り様に対する社会的レベルでの批判というのも広範に存在します。

批判の舌鋒はさらに鋭いものがあって、踏み込んで考える人からは、「要求は大したものではないのに、それをかちとる戦術は過激である」という、要するに要求と戦術が不整合であるという批判があります。これなどはなかなか鋭い批判で、生産的な批判にもつながるとは思うんですが、もう一方では、昔からある学生運動家の“平地に波乱を起こす”意図が流れているのではないか?という憶測に流れる危険性もあると思います。
極端な論者は、「若者の反乱は内ゲバと爆弾の血の海に沈んだ」式の表現をいとわず、党派批判へと結びつけています。
結局、私たちの戦術(バリケード・ストライキー大学占領/占拠)への激しい異和感があるということです。それが軍事闘争、内ゲバ・粛清の党派批判とないまぜになっているという状況が出てしまっています。
本フォーラムに集う私たちにとって、後者の党派批判に答えることはほぼ不可能であろうと思います。しかし、前者の日本の社会の隅々から湧き起こったともいえる激しい戦術的異和については今なお、なぜバリ・ストが出現したのか、学生は何を問うたのかとして再究明しなくてはならないと思います。

(次週に続く)

イメージ 1
東日本大震災と福島第一原発事故から半年後の2011年9月11日、霞が関の経済産業省前にテントが立てられた。このテントは「経産省前テントひろば」として、全国の脱原発運動の支えとして、共同のひろばとして、2年以上にわたり経産省前に立ち続けている。
しかし、国は2013年3月末に「(土地)明け渡し請求訴訟」を東京地裁に申し立て、現在、裁判闘争が闘われている。
10月5日(土)に開催された「明大土曜会」で、「経産省前テントひろば」の代表であり、この裁判の被告でもある淵上太郎氏に、裁判闘争に至る経緯と今後の展開についてお話を伺ったので、その内容を掲載する。
(文章が長くブログの字数制限を超えるため、No316-1 からNo316-4に分けて掲載します)

【10・5「明大土曜会」にて】
淵上『テントの裁判について申し上げると、アウトラインは皆さんご理解されていると思うんですが、5月に第1回の口頭弁論があって、その後、7月と9月に口頭弁論が行われて、次の予定は11月29日になっています。
口頭弁論が5月に始まった訳ですけれども、この段階で我々が何を考えていたかと言うと、主に2つのことを考えていた訳です。
一つはテントの存在そのものがどのように正しいものであるかについて、どう理屈付けするかという問題が一つです。とは言っても、さっさと結論を出されても困るということで、できるだけ裁判を引き延ばす、長くやることによってテントを維持するという二つが考えられたということです。

前者の問題で言うと、いろんな理屈が考えられて、まだ決まってはいないのですが、端的に言うと、経産省が管理しているこの土地、国有地ですが、テントに対して、この土地を使っていいとか、そこに居ていいという許可を出した覚えはない。従ってテントは不法なものなので直ちに出ていけ、要するに所有権を根拠にした提訴なんですね。
それに対して我々は、そういう問題ではない。所有権は元々はっきりしているではないか。ただし、今この状況(3月11日に事故を起こしてしまったという状況)の下で、事故の責任を負っている経産省の単なるフリースペースに我々がたまたまテントを建てているということだけで、大した問題ではない。このこと自身は大した問題ではないにもかかわらず、我々が主張している問題、つまり原発は良くないだとか、再稼働するのはとんでもないだとか、福島を何とかしろとか、この種の議論について、当然、国がそういう場所として容認すべきだ、そういう限りにおいて我々が存在しているのは正しいのだ、ということですけれども、これについては何故かと言うと、表現の自由だとか民主主義だとか、いろいろ言われている訳です。
民主主義の問題というのは、ただ単に国政選挙、地方選挙に留める訳にはいかない。選挙は民主主義の形式の一部で大事なことではあるけれども、それが成り立っているから我が国は民主主義であるとはとても言えない。民主主義的な表現の自由とか、民主主義は実践されなければならない。民主主義というものは自分たちが実行しなければならないものである。選挙に出ますとか、投票しますというのは、一つの問題ではあるけれど、唯一ではない。つまり我々が声を上げたり行動を起こしたりというのは根本的な意味で自由なものである、そんなことになる訳です。
もう少しこれを整理して、論点を明確にしてキチンとしなければというのが最近の問題です。

二番目の裁判上の諸問題ですが、引き延ばすということで考えられたのは、今、私と正清さんという人が2名被告として設定されている訳です。これは何で2名なのか。
実際上、テントに一番足繁く通っているのは決して私ではない。回数でいうと、経産省が調べてくれているんですが、昨年の8月以降は10位前後なんです。また、私は定例的に泊りはやっていません。同様なことは正清さんにも言える。
そうしますと、形式上、私がテントの代表であるというを決めたのが11年の10月の会議だったと思います。その時に役員を決めようということがありまして、それで代表に選ばれた訳です。
それからもう一つ、テントは9月11日の夕方から始まる訳ですけれども、同じ夕方から上関から来た若い人が座り込むということになった。彼らはその時に経産省の敷地の中でやらせろと主張して交渉していた。僕らは5時ちょっと前に、中に勝手にテントを建てちゃった。何の抵抗もありませんでした。先に既得権を作ってしまった訳です。
テントに居たら丸の内署が呼びに来て「とにかく何とかしてくれ」ということで、私が交渉の場に呼ばれて行ったんです。

(No316-2に続く)

イメージ 1
(No316-1の続きです)

若者たちの交渉は平行線だったんですが、丸の内署が「外だったら大目に見る」ということを言い出した。今度は「テントから出て行ってください」という話になって、「ハイ分かりました」ということにはならないので「出て行って欲しいということは分かった。出ていけという話があったことをテントの中にいる皆さんに伝えて、一晩かかかって審議してみましょう。」と言って引き取ったが、皆さん出て行かないということで、そのまま朝までいることになった。
朝の10時に返答をよこせということになっていたので、あまり議論はしなかったけれど、「出て行かないことになった」と返答して、この議論が2日間続くことになるんです。
同じことを3回もやることはできないので、「この土地を脱原発テントに貸しなさいという提案をするつもりだった」と言った訳です。そうしたら、「それはちゃんと手続きを踏んでもらわないと困る」ということで、文章を作って提出した。
提出した時は、まだ9条改憲阻止の会がお金を出してテントを借りたということがあるものですから、9条改憲阻止の会の名前で、この場所を貸せ、という文章を紙に書いて出した。その時に9条改憲阻止の会の代表として正清さんの名前が出ている。
以降、この名前で交渉が続く訳ですが、正清さんの名前はここでハッキリする。私は交渉の窓口だった。
テントが誰のものかという議論になった時に、どう考えても9条改憲阻止の会とは言えない状況な訳です。またテントを建てたのも、9条改憲阻止の会が独自に全面的にやった訳でもない。そこで、テントの所有なども含めて、改憲阻止の会は降りるということになり、10月の会議で経産省前テントひろばという名称も含めて確認された訳です。
その時の代表が私です。
ところが経産省との交渉ごとは改憲阻止の会の名前でやっているので、具合が悪い。
途中で9条改憲阻止の会とテントひろばの連名で文書を出したりしていたんですけれど、ある時から9条改憲阻止の会の名前をはずしちゃったんです。
そうしたら改憲阻止の会の名前がないものだから、向こうがビックリして、「そんなものは受け付けられない」と言ってきた。
向こうからは9条改憲阻止の会からテントひろばに承継がなされたかどうかについての証明を持ってこいという話になって、承継することにした。
そこから、経産省前テントひろばという名前が先方に公式に明らかになるという状況です。
名前と住所と印鑑がハッキリしているのが私と正清さんなので、たまたま被告になったということです。
テントは私と正清さんの2人が占有している訳ではなくて、何故、この2名を選んだのかというと、それだけの話にすぎない。これは法律的に意味があるのか。
そもそもこのテントは2人だけでやっているものではないので、テントの関係者全員が重要な関係者であって、テントの撤去に重大な利害関係を持っているんだ。従って関係者全員が法廷で発言する権利があるんだということを主張し始めている。
民事訴訟法の中に、被告になっていなくても、裁判に参加できる資格として補助参加というような制度があって、淵上と正清だけではなくて、皆が当事者なんだということで、補助参加なりの申請をするということを言っている。
11月の口頭弁論の後に具体的なことが出てくるかもしれませんが、もし申請をして一定の了解が得られれば、発言者が増えることにより一定の時間がかかる。
今、当事者として確認が得られている方は370人くらいいて、この人たちに全部キチンとした陳述書を書いていただく。全体として、この裁判が2人の裁判ではなくて、テント全体にかけられた問題であり、共同参加を決意している370人だけでもなく、言って見ればテントに対する裁判を撤回してくださいという署名をやっていますけれども、1万人を超えています。この人たちの課題として、この共同参加のことをどうしても追及したいということがあります。追及して一定の限度があれば、たぶん認められることになると思います。
今まで、行政訴訟の中で1万人近い方が共同参加というか補助参加をしている例が公害問題などであります。
問題は、裁判が長引けばいいのかというのが一つあるんです。テントの問題は第一審が長引いている限り、少なくとも我々は安心してあそこに居られる。安心してというのはどういうことかというと、仮処分が出ていますから、淵上と正清はあそこに居ていいことになっているんです。法律的にむしろ居なくてはダメみたいな形になっている。

(No316-3に続く)

イメージ 1
(No316-2の続きです)

私と正清さんがあそこに居ることを先方は認定している。その居る権利を第三者に譲ってはならない、承継してはならないとなっていまして、そのためには我々は居なくてはならないことになっている。従って、第一審が終わるまでは居なくてはいけないし、居る権利がある。これから先、もし数年でも我々があそこに堂々と居られるとすれば、運動全体にとって非常に重要なことだろうということで、長引かせるだけでも一定の意味があるんです。
しかし、5月の段階では3回くらいで裁判が終わって結審してしまうだろうという見通しがあって、ここをどうにかしようということでいろいろやって、結果として第4回まで行ってしまった。恐らくあと2回くらいやることになるのではないだろうか。3回目までに、訴えている内容の議論が少し始まった。

最近の問題から言うと、全体から見れば必ずしも大きな問題ではないけれども、裁判上の問題としては大きい、監視カメラによる人物の認定を先方が間違えてしまった。
私と一緒にやっているAさんを正清さんと思ってしまった。証拠写真が出てくる時にAさんを正清さんとして出している。「これはとんでもないことだ」と2回目から言われて、「これについてちゃんと釈明しろ」ということなんですね。彼らは「たまたま間違えただけなんだ」ということなんです。しかし、訴状には何月何日から正清が引き続き占有していると書いてある。その時の占有している証拠としては、監視カメラを見て勤務評定みたいなものを作って、それを証拠として正清が引き続きここに来ていると言っている。
それは単に証拠を間違えたというレベルの問題ではない。回数から言うと、正清よりAさんの方が回数が多いと思うんです。それをもって、たくさん来ているとか言われても話にならない。私としては、意見として訴状を書き直せと要請しています。
問題はそれだけではない。我々としては国有地であるかどうかを争ってもどうにもならない。国有地なんだけれども、単なる空地、フリースペースに我々が居ることがどうなのか、つまり民主主義や脱原発の運動との関わりおいて、ここをちゃんと本格的に議論していただきたい、やるべきだというのが我々の一貫した主張であり、そのようなものとして今後も頑張ってやっていくということになります。
今のところ、1回だけは狭い法廷でやられたんですが、2回目3回目は東京地裁の一番広いところでやれるようになって、それでも傍聴希望者の3分の1くらいしか入れない。4回目もできるだけたくさんの方においでいただいて、テントの裁判を巡る基本的な運動上の側面からの大きな力を是非発揮したいと思っていて、今のところ、皆さんの力でそういう形になってきているというのがテントを巡る状況です。

ただし、テントは裁判だけやっている訳ではありません。元々我々自身がここに2年居るとは思っていなかった訳です。最初の頃は1週間か10日という感じだったんです。
だからテントを買っていなかったんです。レンタルで借りたんです。ところが2日も経つと、10日で返す訳にはいかないとなって、結局、すぐ買い取ることにしたんだけれども、買い取った以上はずっと居るしかない訳で、そのうちに2つ目のテントを作ったりした。
特に2つ目のテントを作る時にどうだったのかということがありますが、これは福島の女たちを中心にして、東京の経産省周辺にテントがあるらしいということを聞いて、私のところに「テントに行って一緒に座り込みをやっていいですか」という連絡があったんですね。経産省のところに勝手に居る訳で、店子なので、「皆さんがいらっしゃることにいいとか悪いとか言いませんけれども、テントとしては歓迎します」ということで彼女たちが来ることになったんです。
男と同じテントじゃマズイということで、潔く新しいテントを買おうということで新しいテントを建てた。福島から「原発はいらない福島の女たち」ということで、当初は100人くらい来て、3日間あそこで頑張って、その後、全国の女たちということで1週間頑張った訳です。そこで我々と福島の女たちとの関係が深まっていくということがあって、帰る前にさよならパーティーをテント前でやりまして、そこでまたやろうということで別れて、また来てもらっている訳ですが、成り行きから言っても我々と福島の女たちの関係はそんなに簡単に切れる状況ではない。
実際にテントを作った後の交流は「原発はいらない女たちの会」が中心となって付き合いが続いている。割とゆったりとした団体なんですけれども、テントとの関係が比較的強くなってきて、今日に至るということになっています。

(No316-4に続く)

↑このページのトップヘ