野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年12月

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2週に渡って「記憶を記録する」シリーズとして、1967年から1969年まで明大の中核派で活動をしていたA氏の回想を掲載してきた。今回が最終回である。
1967年の第一次羽田闘争から1968年の10・21国際反戦デー、1969年の東大安田講堂攻防戦、4・28沖縄闘争など、激動の時代を駆け抜けた、ある元活動家の証言である。
(文章が長くブログの字数制限を超えるため、No322-1からNo322-3に分けて掲載します。筆者がタイトルを付けました。また、関係者は仮名にしてあります。)
(写真は「毎日グラフ」より転載:1969.1.18東大安田講堂)

<東大闘争への関わり>
A『その頃から東大闘争が始まってくる訳です。
11・22は感動しましたね。全国総決起集会ということで、各大学は全共闘として出ているので、明大も全共闘として出た。明大から500名位来ていた。
夕方4時、5時頃から東大の安田講堂前で座り込んでいた。集会が始まる前は、各党派のアジテーションばかりやっていた。いつ始まるかと思っていたら、まだ日大が来ていないということだった。日大の三崎校舎から東大まで距離がある。その間に機動隊とやりあって、夜の8時頃「ようやく日大が到着しました」とアナウンスがあり、3,000名位の日大部隊が無事に到着した。安田講堂前の中央部分を開けて、皆が拍手して迎入れた。
そのシーンが感動的で今でも忘れられない。
ようやく集会が始まり、1万人くらいの全共闘系学生が揃った。集会終了後、東大では民青が教育学部を中心に陣取っているから、「今から教育学部の民青をたたき出す」ということで、教育学部周辺を8千から1万人が取り囲んだ。民青は待ち構えている。デモを何回も繰り返したが、東大の外には機動隊がいる。内ゲバが始まったら介入する構えだったが、その日は内ゲバはなかった。
それが終わって、1月になると東大が煮詰まってきた。
私は1月9日に、中核派の行動隊として安田講堂に入った。いよいよ1月15日、成人式の日、私も覚悟しました。それまでは何とか切り抜けて来たけれども、1月15日は東大で玉砕しようと思って、安田講堂に決死部隊として立てこもった。
15日に機動隊が来るということで、私が選ばれて、安田講堂の中段のバルコニーのところで中核旗の下に哨兵のように立っていた。ヘルメットを被って、機動隊の放水車の放水に飛ばされないように足には鎖を巻いた。中核派の部隊はメインの部隊で、講堂の中の階段はコンクリートでふさいだ。結局、その日は機動隊は入らなかった。夜、東京部隊は除隊となり、私は夜の12時頃、最終電車で帰った。中核派の地方部隊はそのまま寝泊まりした。18日の朝、下宿で機動隊が安田講堂に入ったことを聞いた。それで、すぐに御茶ノ水に行った。御茶ノ水の明大通りから石を持って安田講堂に向かおうとして、機動隊と闘ったが前に進む事は出来なかった。安田講堂にいた中核派の部隊は地方部隊が主力です。

(参考)【サンデ-毎日 1969.2.20】
『<安田講堂籠城日記>
1月9日
(中略)全共闘は「闘争の圧殺者、民青を実力粉砕」という強硬方針をうち出した。機動隊導入の危険をあえておかしても学内の民青勢力を攻撃する。全都から動員した数千人の反日共系ゲバ部隊は安田講堂から教育、経済両学部になだれこんだ。
激しい流血の乱闘。午後8時、機動隊が導入され構内をかけぬけて安田講堂前に集結した。安田城攻撃か。講堂の中は緊張したが、機動隊は催涙ガスを乱射しただけで撤退した。
(中略)
1月15日
闘争勝利労学総決起大会。安田講堂前は11・22についで再び数千の反日共系学生。支援の青年労働者で埋めつくされた。安田講堂に残って全員逮捕を覚悟で闘う籠城部隊は約400人と決まった。(後略)』

(No322-2に続く)




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(No322-1の続きです)
(写真は「前進」より転載:1969.4.28沖縄闘争)

<69年3月 京大闘争支援>
今度は3月に京大で始まった。
私は中核派の部隊の一員として夜10時頃東京を出て、京都まで夜行列車で行った。朝6時頃、京都に着いて京大闘争の支援で、学内封鎖の後、街頭闘争で官憲と激しくやりあった。翌日戻ってきた。

(参考)【毎日新聞 1969.3.2】
『<機動隊、京大構内に出動 あすの入試に備え先制 全共闘系学生と衝突>
この日京大周辺に集まった反日共系学生は京大生400人、京都府下の他の大学生、府高連の高校生500人、このほか府外からの外人部隊500人の計1,400人(京都府警調べ)。外人部隊の内訳は東大、日大、明大の3大学の180人をはじめ、中大27人、東海大20人、九州大7人、北大7人など。
このうち1,000人は午後二時前行動を起こし、校内をジグザグデモ、一部学生が時計台前で「入試粉砕総決起集会」を開いた。この間応援の外人部隊はゲバ棒、鉄パイプをふりかざして荒れ狂い、正門など3つの門を占拠、出入り口封鎖戦術をとった。(中略)
<東一条に“解放区”>
午後9時45分、学生たちはデモに移り、構内を行進した後、北門から百万遍交差点へ出て東大路通りを南下した。しかし、東一条交差点で機動隊が蹴散らしにかかったため、再び激しく投石、見物の群衆も含め約2,000人で東大路通りはいっぱいになった。デモ隊は投石を続けながら機動隊を追いかけ、巻き込まれた見物の市民数人がけがをした。(中略)11時過ぎには全共闘学生らはさらに百万遍から南約50メートルの地点にもバリケードをつくりはじめた。東一条から同バリケードまでの間、約300メートルの東大路は“解放区”となった。(後略)』

<69.4.28沖縄闘争>
4月は4・28沖縄闘争に参加した。
この時に我々は新橋に行って、首相官邸になだれ込もうとしたんです。虎の門の首相官邸の近くの高架道に上って、それから降りた記憶があるんです。機動隊に追われて、7~8メートルの高いところから飛び降りた記憶があるんです。道路上に落ちて、そこから逃げたんです。銀座でやっていて、あそこまで行っているんです。

(参考)【朝日新聞 1969.4.29】
『<「沖縄デー」東京中心に荒れる 新幹線や国電がマヒ 学生・警官 新橋―銀座で衝突>
(前略)前夜から都内10大学に泊まっていた反代々木系学生は、学内で集会やデモを続けたのち、午後3時半ごろから一斉に行動を開始した。
午後4時ごろ、まず赤ヘルメットの学生約200人が世田谷区代沢の佐藤総理私邸に押し掛け、催涙性の粉末が入ったビンを邸内に投げ込んだ。首相は鎌倉から帰ってきた直後で、私邸を護衛していた北沢署の警官約100人がガス弾を発射して規制、機動隊約300人がかけつけ学生を追い払った。
また国電御茶ノ水駅付近の明大、中大などの集まっていた学生は、午後3時半ごろから道路にバリケードを築いて「解放区」を作ろうとはかり、警官隊と衝突、東京医科歯科大病院にたてこもっていた学生数百人も、デモを組んで都心方面に向かおうとし、警官隊とぶつかった。警官隊はガス弾で規制し、同地区の交通は一時完全にマヒした。この衝突で学生数十人が逮捕された。
また、これより前、国電品川駅にも反代々木系学生約150人が押しかけ、京浜東北線が一時ストップ。国電新橋駅にも4時ごろ学生が集まり、警官隊とぶつかった。
世田谷署上馬交番や神田署神保町交番にも学生が押しかけ、交番をこわすなどの騒ぎが続いた。
新橋駅に集まった学生たちは、駅構内で新幹線の架線をこわそうとするなど、不穏な動きを続け、さらに同駅から霞が関方面に突っ込むおそれが強まったため、警視庁が午後6時
15分に規制を開始した。新橋、有楽町の両方面から線路上に追い詰め学生を多数逮捕したが、学生は火炎ビンや投石で抵抗した。さらに東京交通会館前など数か所に看板や道路標識でバリケードを築き、鍛冶橋交番や駐車中の乗用車2台に放火するなど、東京駅から有楽町一帯は深夜まで騒然とした空気だった。
また、渋谷駅でも学生が警察のジープをこわす事件があり、夜10時すぎにも代々木公園の大会に参加し、恵比寿までのデモに加わった反戦青年委の青年約千人が、デモの解散後、渋谷に引返して、渋谷署中通交番に投石する騒ぎがあった。』

(No322-3に続く)

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(No322-2の続きです)
(写真は映画「八月の濡れた砂」のDVD)

<選択の時>
その頃、私は本来は大学3年生になるが、授業も出ていないし試験も受けていないので留年です。御茶ノ水に進学できないので、和泉校舎で頑張っていた訳です。
その後、7月に全学連大会があって、9月5日の全国全共闘結成大会に中核派の部隊として参加していた。会場の日比谷野音で赤軍派が登場してブント(関東派)を蹴散らしたのを目撃しました。その後、何回か集会に出た。私の学生運動の記憶はそこまでです。
私の学生運動の記憶は、67年の4月に始まって、69年の10月頃までです。
明大中核派の組織も消耗者が続出して、ほぼ壊滅状態だった。
その時は、今後どうするかということで選択を迫られた。Bは書記局入りの道を選んだが、私はプロとして活動をしていく決断はできなかった。
単に学生運動を続けるということだけでは許されない情勢となっていた。もう一歩進めるためにはプロとしてやる以外にない、と選択を迫られた。一挙に飛躍を求められた訳です。
一方で、ブント系は赤軍派という形で、対権力武装闘争として方針を打ち出した。 
プロ活動家としてやっていくのかどうかという中で、私を含め大多数の人間にとっては、思想を捨てた訳ではないんだけれども、プロとしてはやっていけないという道しかなかった。そこまでに至れば中途半端な学生運動はできない。私は、そこで離脱せざるを得なかった。69年の秋に運動から足を洗ったということです。
1年遅れで3年に進級して御茶ノ水に行った。和泉校舎にも体育の授業で出かけて、部室にも顔を出していた。ただ、組織や運動の第一線から離れていることに対する自己嫌悪みたいなものがあって、今後の人生を考えていた。その中で映画をよく見たんだけれども、ある1本の映画に出会った。藤田敏八監督の「八月の濡れた砂」という映画です。
新宿の昭和館という汚い映画館で、たまたま観たんです。若者の反抗を描いている映画なんですが、途中から涙が出てきました。最後のシーンで、主人公がヨットで沖に出る、この若者たちはどこに行くのか、ヨットだけが延々と映し出されている。そこに主題歌がかぶっていく。このヨットはいずれ、どこかに戻らなければならない、そこは実社会にしかないんです。ヨットの中では勝手なことが出来たけれど、ヨットはどこかに戻らなければいけない。戻った時に待っているのは実社会。私の「夏」の終りを告げる映画になった。

<明大土曜会への参加>
卒業して、ある会社に就職して、それからは30数年間、集会とかデモとか全く関係ない生活を送っていたんです。
それで、仕事の関係で東京地裁に行くことがあり、7~8年前、「今日の裁判」を掲示しているところに重信房子さんの名前を見つけた。重信さんはまだ頑張っているんだ、と思って、重信さんが逮捕されたことは新聞で知っていたが、大学時代は重信さんとは全く接点がなかった。重信さんの本などを読んでみると、「人民革命党綱領」というのが載っていた。大学卒業から30数年、企業社会の中に浸かっていたけれど、それを読んでみると、私の中にストンと落ちるものがあった。「オリーブの樹」の最後に重信さんと会う方法ということが書いてあったので、Yさんを通じて、重信さんに東京拘置所で面会することができたんです。
重信さんは喜んでくれて、別れ際に「明大の土曜会というのがあるから、そこに是非入った方がいい」と言われた。土曜会というのはどういう人がやっているかも知らないし、連絡方法も分からないし、そこはそれで終わった。
それから3年くらい経って、明治公園での脱原発の集会に40年ぶりに参加したら、そこに明大土曜会の旗があったんです。旗を持っていたのはY・Rで、横にKがいたんです。一緒にデモをしながら話をしたら、「是非、土曜会に」ということで、明大土曜会に参加する事になったのです

<最後に>
いつの時代にも、人には「夏の季節」がある。私の「夏」は狂おしいほどの「政治の夏」
であった。短い期間であったが、その「夏」に体験したことが、私の終生の価値観となった。人生の「秋」にさしかかった今、思う事は、次の世代にどういう社会を残してあげられるのか。私達の若い時よりも、現在のほうが、格差が広がり、貧困が深まり、社会の矛盾は深刻化している。そのような情況で、どうしても残さなければいけないもの、一つは「平和憲法」、もう一つは「脱原発社会」であると思っている。この二つの課題の達成に向けた活動に、「同じ夏の匂い」を共有する仲間たちと共に、今後とも関わっていきたいと思う。』

(終)
※ 来週のブログは正月休みです。次回は1月10日(金)の予定です。

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先週に引き続き「記憶を記録する」シリーズとして、1967年から1969年まで明大の中核派で活動をしていたA氏の回想を掲載する。
1967年の第一次羽田闘争から1968年の10・21国際反戦デー、1969年の東大安田講堂攻防戦、4・28沖縄闘争など、激動の時代を駆け抜けた、ある元活動家の証言である。
(文章が長くブログの字数制限を超えるため、No321-1とNo321-2に分けて掲載します。筆者がタイトルを付けました。また、関係者は仮名にしてあります。)
(写真は「命燃ゆ青春 ザ・全共闘」より転載:1967.10.8第一次羽田闘争)

<67.10.8第一次羽田闘争>
10月8日は、朝6時頃、飯田橋駅からプラカードみたいなものを持って電車に乗って、羽田に向かった。
中核派の部隊600名が駅に着いたら、「走れ!」ということで、プラカードを外した。プラカードはもう角材になっている。すぐに機動隊が来たけれど一瞬にして粉砕、機動隊を叩きのめした。
それまでは素手でスクラムを組んで突撃していたんだけど、10月8日に初めて機動隊を叩きのめした。すごい解放感、勝利感があった。それでまっしぐらに羽田の弁天橋に向かった。弁天橋を渡れば羽田空港に行ける。いろいろ羽田空港に行く橋があって、ブントは稲荷橋、革マルは穴森橋。この弁天橋の闘いが一番有名なんだけど、この闘いに参加した訳です。前哨戦で機動隊をたたき潰して弁天橋まで行った。橋のところに装甲車がずらりと置いてある。その装甲車を突破しないことには中に入れないから、装甲車に一挙に押し寄せた訳です。中核派部隊は泊まり込みも含めて1,000名以上いた。装甲車を巡る攻防が始まった。その中でとうとう装甲車を奪った。警官は装甲車の鍵を付けたまま逃げたんです。1台の装甲車を中核派が押さえた。その装甲車を利用してバックでほかの装甲車にぶつけた。我々はそれに付いて行った。向こうは放水車で対抗していた。僕も装甲車の下で一進一退でごちゃごちゃやっていた。そのうちに「闘い止め!」という号令がかかった。「仲間が死んだ」ということだった。それが山崎博昭だった。それで一瞬、闘いを止めた。Kが放水車の上から、「今、仲間が死んだ」と言って黙とうした。それ以上我々は弁天橋から先には行けなかった。
そんな中、佐藤はベトナムに飛び立った。昼くらいには闘いは終った。その時はほとん逮捕者は出ていない。

Y『Kさんの話がありましたけれども、Kさんは前日も法政大学に入っていたんですか?』

A『僕は記憶にない。だけど、10・8羽田闘争の現場指揮官だった。』

A 『それで、10・8は我々は無傷だった。それから1週間たって、三派全学連の中で山崎博昭をどのように追悼するかということでモメた。中核派は樺美智子にならって、全学連として幅広く国民葬にすると主張した。ところが、ブント、社青同解放派、ML派は人民葬にすると主張した。そこでまたモメた。ただ、山崎君は中核派のメンバーだから、かなり大規模な追悼集会が行われた。(注:10月17日、日比谷野音にて山崎博昭君虐殺抗議中央追悼葬儀が行われた。)
10・8は大勝利に終わって、その闘いを見て全国で衝撃を受けたということです。』

Y『昔のアジテーションでも必ず出てきましたよね。10・8の地平を受け継ぎというのが。』

A『我々の実際の部隊は、そんなに格好いいものではないんです。寝ぼけまなこで、前の日に武闘訓練をやって、その武闘訓練も機動隊に対する武闘訓練なのか内ゲバの武闘訓練なのか分からないままに深夜に延々とやっていて、10月8日はやっとの思いで羽田まで向かったという感じです。
機動隊とやって勝って、その後、各大学に戻って、私も和泉校舎の中で10・8の意味を問うてアジテーションをやりました。そういった中で次の闘いということで、11月12日に佐藤がアメリカに行くと言うことで、10・8は偶然的要素が強かったんですが、訪米阻止の第二次羽田闘争では意識的に全国から集めて、羽田でもう1回やるということで、私も参加しました。完全に角材を持ってやりあっている中で、大量に逮捕されて、私もそこで逮捕されたんです。(注:三百人を超える逮捕者)
警察署に連れていかれました。ただ、逮捕者も相当出たので、すぐに出ることができたんです。その時初めて逮捕されたんですが、すぐに出られたので、また大学に戻って、10月、11月の羽田闘争を踏まえて学内でのオルグ活動をしていました。それに対抗していたのがブントです。羽田闘争から佐世保、王子、三里塚と続く「激動の7ケ月」の中で、中核派も和泉校舎の中で勢力を増してきて、シンパも含めて20~30名になった。

(No321-2に続く)

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(No321-1の続きです)
(写真は「毎日ムック」より転載:1968.10.21国際反戦デー)

その時期と前後するかもしれないが、和泉校舎でブントによる中核派への襲撃事件があったんです。ブントが中核派の伸張を恐れて、夜中に駿河台の部隊を中心にマル研の部室を襲い、マル研の部員をリンチした。その事が影響したのだろうか、キャプテンのCが離脱した。彼は当時、法学部3年生で法社研の中心メンバーであり、マル研の創設者であった。
Cが学問的なものに飽き足らず、実践を求めてマル研を創設したということです。
その彼が抜け、Bが中心とならざるを得なかった。

<成田闘争で負傷>
68年の3月に三里塚で成田闘争があり、現地に行った。
今でも傷が残っているんだけれど、3月10日に成田で機動隊と激しくやりあった。最前線でやっているから、機動隊ともみ合う中で、ヘルメットは被っていたが、頭に機動隊の警棒の直撃を受けて意識不明で倒れた。気が付いたら野戦病院で傷の手当を受けていた。

(参考)「れんだいこ」HPより転載
『3.10日、空港反対同盟と全国反戦青年委員会共催で「空港粉砕・ベトナム反戦総決起集会」を成田市営グランドで開催。反対同盟の1300名をはじめ、三派全学連、反戦青年委員会、べ平連など全国から労.学.農・市民1万人参加。集会後再び全学連2千名が機動隊と衝突。衝突後の解散集会に、機動隊5千名が"全員検挙"で突入し198名が検挙される。空港反対派に3百名以上の負傷者を出す。』

成田闘争が終わった直後に王子闘争があり、Bが中核派全体のデモの指揮をやった。
私は成田で負傷して、しばらく静養していたので、王子には行っていない。
指導部が獄中にあり、Cもいないという中で、明大中核派は困難な状況にあった。、
Bは3ケ月くらい拘留されていて5月頃に戻ってきた。Bは商学部だったから、自治会を民青と闘って取った。中核派が明大商学部自治会を押さえ、Bが初代の委員長になった。
我々は明大商学部自治会を防衛するということで、学内で活動をしていた。
私は、その頃は学校の授業に出る事はなく、負傷から戻って、精力的に学内で活動をやっていました。

<68.10.21国際反戦デー>
68年の10・21がすごかった。
この日、午後2時頃、我々は法政大学に集まった。「今日は反戦デーだから中核派は新宿に行く。新宿騒乱を起こす。」ということで、法政大で決起集会を開いた。ブントは前の日に丸太を持って防衛庁に突っ込んでいた。
夕方4時頃、「いよいよ出発だ」ということで、飯田橋の駅から中核派が200人位、総武線に乗った。我々兵隊は闘争方針なんか言われていない。どういう闘争をするのかも知らされていない。そんな状況で中核派の1員として総武線に乗り込んだ。総武線に乗って、代々木の手前で「全員降りろ」という指示があり、線路に降りた。それで線路づたいに新宿に行った。電車はストップした。電車を降りて新宿まで500メートルくらい、線路の石を拾って投げながら線路の上を走って、機動隊が来たが全部粉砕しました。
新宿駅は解放区になりました。それで完全に駅を占拠して、その後東口に出て群衆と合流した。それで伊勢丹のあたりまでずっとデモをやって、もう何万というデモ隊です。我々200名の部隊が新宿駅に突撃したことによって、群衆が我々を守って、警察は全然手を付けられない。我々は東口から伊勢丹前まで何回も往復して、その都度、デモ隊の数が膨れ上がる。そんな中で他党派なども駆けつけてくる。
深夜になって、騒乱罪が適用になった。ところが、我々は夕方5時から闘っているので、「今日の闘いは勝利だった」として夜10時には解散した。
中核派の中心部隊は夜10時頃には帰路についた。ところが群衆は収まらない。騒乱罪が適用された時間帯には中核派は本当はいないはずです。』

(次週に続く)

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