2週に渡って「記憶を記録する」シリーズとして、1967年から1969年まで明大の中核派で活動をしていたA氏の回想を掲載してきた。今回が最終回である。
1967年の第一次羽田闘争から1968年の10・21国際反戦デー、1969年の東大安田講堂攻防戦、4・28沖縄闘争など、激動の時代を駆け抜けた、ある元活動家の証言である。
(文章が長くブログの字数制限を超えるため、No322-1からNo322-3に分けて掲載します。筆者がタイトルを付けました。また、関係者は仮名にしてあります。)
(写真は「毎日グラフ」より転載:1969.1.18東大安田講堂)
<東大闘争への関わり>
A『その頃から東大闘争が始まってくる訳です。
11・22は感動しましたね。全国総決起集会ということで、各大学は全共闘として出ているので、明大も全共闘として出た。明大から500名位来ていた。
夕方4時、5時頃から東大の安田講堂前で座り込んでいた。集会が始まる前は、各党派のアジテーションばかりやっていた。いつ始まるかと思っていたら、まだ日大が来ていないということだった。日大の三崎校舎から東大まで距離がある。その間に機動隊とやりあって、夜の8時頃「ようやく日大が到着しました」とアナウンスがあり、3,000名位の日大部隊が無事に到着した。安田講堂前の中央部分を開けて、皆が拍手して迎入れた。
そのシーンが感動的で今でも忘れられない。
ようやく集会が始まり、1万人くらいの全共闘系学生が揃った。集会終了後、東大では民青が教育学部を中心に陣取っているから、「今から教育学部の民青をたたき出す」ということで、教育学部周辺を8千から1万人が取り囲んだ。民青は待ち構えている。デモを何回も繰り返したが、東大の外には機動隊がいる。内ゲバが始まったら介入する構えだったが、その日は内ゲバはなかった。
それが終わって、1月になると東大が煮詰まってきた。
私は1月9日に、中核派の行動隊として安田講堂に入った。いよいよ1月15日、成人式の日、私も覚悟しました。それまでは何とか切り抜けて来たけれども、1月15日は東大で玉砕しようと思って、安田講堂に決死部隊として立てこもった。
15日に機動隊が来るということで、私が選ばれて、安田講堂の中段のバルコニーのところで中核旗の下に哨兵のように立っていた。ヘルメットを被って、機動隊の放水車の放水に飛ばされないように足には鎖を巻いた。中核派の部隊はメインの部隊で、講堂の中の階段はコンクリートでふさいだ。結局、その日は機動隊は入らなかった。夜、東京部隊は除隊となり、私は夜の12時頃、最終電車で帰った。中核派の地方部隊はそのまま寝泊まりした。18日の朝、下宿で機動隊が安田講堂に入ったことを聞いた。それで、すぐに御茶ノ水に行った。御茶ノ水の明大通りから石を持って安田講堂に向かおうとして、機動隊と闘ったが前に進む事は出来なかった。安田講堂にいた中核派の部隊は地方部隊が主力です。
(参考)【サンデ-毎日 1969.2.20】
『<安田講堂籠城日記>
1月9日
(中略)全共闘は「闘争の圧殺者、民青を実力粉砕」という強硬方針をうち出した。機動隊導入の危険をあえておかしても学内の民青勢力を攻撃する。全都から動員した数千人の反日共系ゲバ部隊は安田講堂から教育、経済両学部になだれこんだ。
激しい流血の乱闘。午後8時、機動隊が導入され構内をかけぬけて安田講堂前に集結した。安田城攻撃か。講堂の中は緊張したが、機動隊は催涙ガスを乱射しただけで撤退した。
(中略)
1月15日
闘争勝利労学総決起大会。安田講堂前は11・22についで再び数千の反日共系学生。支援の青年労働者で埋めつくされた。安田講堂に残って全員逮捕を覚悟で闘う籠城部隊は約400人と決まった。(後略)』
(No322-2に続く)