野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年12月

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このブログの大きな目的の一つは、「記憶を記録する」ことである。
そのため、当時、闘争に関わった様々な方からの投稿や証言を掲載している。また、当時の新聞記事などを編集した「全国学園闘争」シリーズも続けている。
先日、1967年から1969年まで明大の中核派で活動をしていたA氏から話を伺った。今回はその内容を掲載する。
1967年の第一次羽田闘争から1968年の10・21国際反戦デー、1969年の東大安田講堂攻防戦、4・28沖縄闘争など、激動の時代を駆け抜けた、ある元活動家の証言である。
今回を含めて、3週にわたり掲載する。
(文章が長くブログの字数制限を超えるため、No320-1とNo320-2に分けて掲載します)
(文章が長いので、筆者がタイトルを付けました。また、関係者は仮名にしてあります。)
(写真は1970年頃の明大和泉校舎)

<明大入学と中核派同盟員加盟>

Y『Aさんが明大に入ったのは67年ですか?』

A『67年の4月です。政経学部でした。』

Y『運動に関わるきっかけは?』

A『きっかけは、私は高校時代にスポーツ(陸上)をやっていたんです。1年浪人して大学に入学し、陸上部に入ろうと思ったんです。4月に和泉校舎の前でオリエンテーションをやっていました。そこに体育会系、文科系の出店が並んでいて、僕は陸上をやりたかったので、陸上部のコーナーを訪ねたんです。
入るつもりでいたんですが、その時に陸上部の人が「いいですよ」と言う訳ですが、条件があるということなんです。その条件は全寮制だということと、頭を坊主にしてもらうということだったんです。当時、私は叔母のところに住んでいたんです。大学生活を全寮制で坊主で過ごすのはどうかと思って、陸上部に入るのはあきらめました。
オリエンテーションの2日目に、文科系のサークルに入ろうかと思って歩いていたら、マルクス主義研究会から声をかけられた。声をかけたのがBなんです。
大学に入ったら、社会科学の勉強でもしようかという気もあったんですが、マルクス主義というのは高校でも勉強したことがなかったし、周辺にも友達にもそういう関係の人はいなかった。
「部室に来ませんか」と言われて、生協の裏の汚い学館(旧学館)の1階の小さな部室に行ったんです。マルクス主義研究会というのは出先みたいな形で、実際は法社会学研究会(法社研)がメインのサークルだったんです。
「マルクスの勉強しませんか?社会の問題をどう思いますか?」と聞かれたので、「ベトナムの反戦というのは大事かな」というような受け答えをしました。
その時のマル研のキャップがCで、そのCとBが「一緒に勉強しよう」と私を説得するんです。
それでやろうということで2.3日勉強したら、「今から明大の理事室に押し掛ける」と言われた。(学費闘争の2・2協定の後の学内情勢もあり)学部自治会がバスをチャーターして、和泉校舎から駿河台に向かいました。
マル研は5~6人、それと自治会役員のグループなどと、理事室に抗議に行きました。僕は大学に入ってから3日目くらいだから、何も分からない。駿河台校舎に行ってビックリしたのは、50~60人で理事室になだれ込んだんです。そして、部屋にあるガラスだとかを全部割ったんです。「これは学生のすることかな」と思った。何を抗議すると言っても意味がよく分からない。乱入した人たちはいろんなものをぶち壊したんです。「どういうグループか」と思いましたね。
私は普通の勉強をしようと思って授業に出始めていたんです。授業にしばらく出ていて、授業が終わったらマル研の部室に行ってマルクス主義の勉強をする。その時の講師がCだったんです。まだ、学生運動のこともよく分からなかったんですね。その後は日比谷公園で集会があるということで、日比谷公園に行って、初めて集会に参加してデモをしました。そんなことを4月から5月にかけて授業に出ながらやっていました。そのうち政経学部の自治会選挙があり、Cから「クラスの代議員に立候補しろ」と言われた。
マル研のメンバーは法学部中心で、政経学部の学生は少なかったんです。それでクラス委員に立候補しました。その時にもう一人立候補者がいて、それが民青系でした。私はその時は中核派という意識が無かったんですが、選挙の結果、私が当選しました。政経学部の代議員になれば、政経学部自治会の総会があるでしょ。総会を仕切っていたのが、当時2年生のY・RとRです。その頃Cが本性を現して、マル学同中核派だと言われた。そんな中で代議員大会に初めて出席しましたが少数の為、何もできませんでした。5月は基地反対闘争で砂川に行きました。それは明大というより、中核派のグループで行きました。

(No320-2に続く)

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(No320-1の続きです)
(写真は1970年頃の法政大学)

日比谷での集会なども経験して、明大の夏休みは7月初めからでした。それで、マル研はCとBが中心メンバーだったんですね。夏休みに入るので、研究会で合宿をするということになった。場所が明大の山中湖セミナーハウス。そこに行ったマル研の新入生が3人いた。そこで2日間くらい「ドイツ・イデオロギー」とか「経哲草稿」の勉強をしました。最終日の前の晩、Cに呼ばれて、「3ケ月間様子を見てきたが、マル学同中核派に入れ」ということで、加盟書に署名した訳です。そこで中核派の一員(同盟員)となりました。』

Y『その頃、明治では中核派は何人くらいいたんですか?』

A『和泉のマル研は12名位いた。本校は分からない。
それで7月に中核派、社学同、社青同解放派の三派全学連の大会が、日にちを分けて法政大学、東京工業大学で開かれました。法政大学は中核派の拠点、東京工大も中核派の拠点だったんです。三派全学連ですから、党派間のヤジが激しいんです。
その頃、学内ブントで一番がんばっていたのはY・R、それとR。それと、I・Tが毎日毎日、一人でアジテーションをやっていたが、立ち止まって聞いている人は誰も居ない。ブントは「2・2協定」の後遺症なのか、元気がなかった。
Y・RとRは自分たちがブントなのに「S・K一派」を、「裏切った」ということで批判していた。ブント内でケンカしている訳です。我々のグループはCが圧倒的な存在感なんです。
そんな中で9月から10月にかけて、いよいよ10・8(第一次羽田闘争)に向かうことになります。そこに向かう過程で、今でも忘れられない光景に遭遇しました。

<10・8前夜>
10・8に向かう前にCが秋の闘争方針を発表した訳です。「この秋に学生運動の全てをかけて、中核派の存在をかけて闘う」と宣言する訳です。その頃、各大学に前進社の書記局からオルグが派遣されていたんです。横浜国大出身のMという男が、明大和泉の担当として来て、Cと協議して指導方針を決めていました。
10月6日に日比谷公園で三派全学連集会があり、そこで社青同解放派と中核派の間で内ゲバがあったんです。そこでMが社青同解放派に殴られた。
それが大きな伏線になるんです。
10月7日、佐藤訪ベトナム阻止で8日に羽田に行くということで、中核派部隊は法政大学に泊まり込みだった。私も和泉校舎から中核派のグループで行きました。当時、中核派は法政大学の経済学部と文学自治会を押さえていたんです。法政大学の六角校舎内に経済学部自治会室があり、そこで、8日の闘争を前に、7日の夕方から三派全学連の書記局会議が開かれました。それで社青同解放派の幹部二人が出席した。その場で中核派は、社青同解放派に前日、Mを殴った自己批判を求めた訳です。僕は目撃したんですが、それが凄まじいリンチなんです。10月7日の夕方くらいから六角校舎の中で、「昨日の行動はどうなんだ、お前たちは。」と延々と、その幹部二人がリンチされたんです。解放派を代表して打ち合わせ来ているだけなんだけど、修羅場になってしまった。
私は経済学部自治会室の廊下にいましたが、うめき声が聞こえる。中に入る機会があって見たら、椅子と椅子の間に横にさせられていて、足のすねをたたき折られているんです。それをやっているのが中核派の学生幹部、それに上部団体の幹部たちも取り囲むようにして見守っていた。「今から闘争をするのに、何故、10月6日の日比谷公園の小競合いで、Mを殴ったのか。自己批判を求める。」ということで、中核派は総出でその2人を責めていた。夜になって、今度はブントと社青同解放派が黙っていない。自分たちの役員が、8日の打ち合わせで行って監禁されているという情報が入った。それで、明大ブントと中大ブント、それに早稲田の社青同解放派が中央大学に集まり、夜の11時くらいに奪還に来た。中核派は600人くらいが泊まり込んでいたんですが、向こうは1,000名くらいが来て、法政大学を包囲していた。
我々は法政大学の中庭で待ち構えている訳ですよ、内ゲバ寸前ですよ。
僕らは内ゲバは不可避だと思って待ち構えていたが、ブントと社青同解放派は中に入らなかった。後で分かったことですが、機動隊が見守っている中で、明日の事が大事だということでそこで釈放したのでしょう。12時ころ、内ゲバにならずに戻って行きました。
泊まり込むといっても蒲団もある訳じゃない、雑魚寝です。ところが、朝の3時頃、今から武闘訓練だということでたたき起こされたんです。
それで30分か1時間くらい訓練したんです。仮眠を取って10月8日の朝を迎えましたが、ろくすっぽ寝ていない。』

(次週に続く)

※ お知らせ
首都圏反原発連合主催の集会とデモが、12月22日(日)13.00~17.00、日比谷野音・国会議事堂周辺で行われます。(自由参加)


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2週に渡って、11月3日(日)に御茶ノ水の連合会館で開かれた「言っておきたいことがある 大学闘争45周年記念フォーラム」の基調報告を掲載してきたが、今回は最終回となる。
今まで第1章「45周年の意味合いと45年後の現状況」、第2章「大学闘争の再究明のために考える」を掲載したが、今回は第3章「45周年を経てこれからのために」を掲載する。
(文章が長くブログの字数制限を超えるため、No319-1 からNo319-3に分けて掲載します)

【基調報告「大学闘争の再究明と45年後の全共闘世代」】
大学闘争45周年記念フォーラム実行委員会

『教育大 M氏

第3章 45周年を経てこれからのために

大学闘争敗退の後、70年以降、一部活動家の後退戦はあったものの、多くの学生たちは、機動隊監視下の学内に戻り、卒業していった。そして、その後の市民社会で生きていくために、あえて戦後民主主義的秩序への根源的批判は自ら封じ、むしろその枠組みでの改良の途を探る体をとるようになっていったと思います。こうして、大学闘争は意識的にも無化されていきました。冒頭述べたように隠微な逆風というものは吹いていますが、それはやむをえないことであったと思います。全共闘は、後退戦を組織戦として戦うことはできず、雲散霧消してしまい、その中での全共闘主体の紐帯は寸断され、学生たちは個々人バラバラに市民社会に散っていったのである。個人として、戦後民主主義的秩序と対決することはきわめて困難なことであったとも思います。
その結果、それ以降は日本において大衆闘争は沈滞してきたという重い事実があります。長きにわたって、大学闘争を凌ぐ闘争というものは皆無であったと思います。そのなかで、今日、日本の経済・社会は90年代以降のバブル崩壊とともに、長い“停滞の時代”に入っていると思います。戦争直後の復興の時代、その後の成長の時代、そして停滞の時代がある訳です。世界的にみても、これほど社会・経済の矛盾が高まりつつも、それへの抵抗が大衆闘争へと高まらないというのは深刻な事態であると思います。その要因が何処にあるのかを考えつつ、私たちは永らえて45周年を迎えた今、今後のために何を意識し、生きていくべきか?ということで、いささか述べさせていただきます。

当然、本フォーラムでは、総括という硬い言葉は降ろしております。総括を行なって方針を出すという旧来の行き方はなかなかとりがたいことがあります。もちろん、現情勢を見れば、憲法問題、原発問題等々重大問題が山積みしていて、如何にそれに取り組むべきかという焦眉の問題が沢山あります。 しかし、それらへの対処は、また別の場所を構えて論じていきたいと思っています。もちろん、この場でそのことを提起してはいけないと言っているのではありません。主な目的としては、そこに向けられないということ言っています。

(No319-2に続く)


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(No319-1の続きです)
(写真は日大闘争の記録「忘れざる日々Vol.4」)

(1)隠微な諸逆風への関与と反論

第1章(2)で、現状況ということで、無風状態で無化の状態の中で、いろいろなことを述べました。しかし、これらの記述というものは非常に客観的で甘いものかもしれない、と一面、思っております。「戦後日本が悪くなったのは、大学で学生が暴れて以来だ」式の言辞すら流れています。要するに大学闘争が悪かったということではなくて、日本が悪くなったのは大学闘争のせいだという、問題の拡大であります。悪い事の元凶視されているフシさえあります。ここまでくると、反駁というより雪冤(せつえん:冤罪をそそぐ)の対象といいたくなる。
当時の大学人はほぼ死に絶えているが、このようなステレオタイプの定形的認識が再生産されることはなきにしもあらず。そういうことに関しては断然反論せねばならないと思います。

(2)高齢化の中でのアンガージュマンの在り方を熟考すること

アンガージュマン、我々の若い時にはよく聞かれた言葉です。各自の体調、病状の患いというものがいろいろとあると思います。また下手をすると先の世代(親)と後の世代(子)の間に押しつぶされる危険かあります。そのなかでアンガージュを志すことは非常に大変なことですけれども、いくばくかのことはなさればならない。そのために熟考すべきことを三点あげたいと思います。
(アンガージュ:参加。特に、知識人や芸術家が現実の問題に取り組み、社会運動などに参加すること。)
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もちろん、その世代の役割は何かということを見出すその中身は、もちろん個々人で違うと思います。それは大いに違っていいと思います。しかし、一つ申し上げたいのは、まったく戦争を知らない世代として、日本の来し方行く末に何を言いうるのか?そういう視点はあるのではないか。いわば戦前の人たち、戦中に生まれて焼け跡に育った世代の人たちには、それぞれ認識にバイアスがかかります。戦前の方は、やはり明治国家は良かったということがベースになります。戦中から焼け跡の人には、戦争に対する非常な反発、批判というものが強力にあります。私たちはそうではなくて、せめて江戸期を含めたこの200年程度を直視し、日本の来し方行く末に関して物言うべきでばないか。私はあえて明治維新後とは申しません。もって前から考えなくてはいけないと思います。例えば西洋でいえばナポレオンの時代、日本でいえば文化文政、徳川家斉の治世あたりからもすでに考えなくてはいけないと思います。これを狭く歴史認識の問題に限ってはならないと思います。
それは私たちの世代の、生きて続くこの世代の問題でもある。例えば私たちの曽祖父の世代、曽祖父のまたもう一つの世代、そういうものの中で私たちはどう生きて来たのかを考えるべきだという、広い話です。
それが一つ。

経験、見聞を生かし、残すこと
青年時代に限らず、自分の関わってきたいささかでも価値ありと思えることをまとめて、語りまた書き継ぐことです。最近は「自分史」ということも良く言われます。「自分史」的レベルでも、自ら総括するよすがにはなると思います。そういうことも含めて、是非とも自分の関わってきたものの中で、何が良かったのか、残すべきかということを見つめていただきたい。これはいつかやろうと思っていると、遅くなります。これは前倒ししてやるべきことです。

「郷党」のためを図ること
ここで「郷党」(きょうとう)という漢語で難しいようなことを言いたいのではありません。
職業生活からのリタイアとなると、ならば地域でというのが近来のお決まりの文句であると思います。しかし、この地域生活の在り方というのが、熟考すべきものがあります。。例えば、一つの生き方として、今までは大都会で過ごしたけれども、これからは生まれ故郷に戻って、そちらでいろいろやりたいという方がおられます。それは素晴らしいことだと思います。それにこしたことはないんですけれども、田舎の無いものには、なかなかそれもできない。多くは都市部にへばりつかざるをえないというのが、私たちの世代の事情です。これは戦後の特殊事情かもしれません。意識的に「郷党」を結び、そのために尽力するという生き方を工夫していかなくてはいけない。ですから、地域への一定の距離をとりながら地域とどのように結んでいくのか、一工夫もふた工夫も必要になる。別にNPOを否定している訳ではありません。ただ、こういう話をすると、じゃあ地域でNPOを作ってやろうという短絡した議論に結びつきがちなので、NPOを奨励する訳ではないと申し上げた次第です。

(No319-3に続く)

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(No319-2の続きです)
(写真は「置文21」編集同人編著「回想の全共闘運動」)

(3)本フォーラムに会した私たちの共通にしうること

最後に、これは一人ひとりの問題です。
多くの存在、志向の違いがあるなかで、共通にしうることを求めると、心構え的なことになってしまいますけれども、敢えて申し上げたい。
,笋籠段未弊鎖静態度を保持すること
いろいろな考え方があると思いますが、以下の二点を挙げたい。
(i)権威、専門家への不信ということです。現今の原発問題を挙げるまでもなく、私たちのこの初心、初心としてこのことは強くあったと思います。この初心は保持されなくてはいけないと思います。
(ii)敵対の記憶の尊重。日本では水に流して忘れるというか、長い年月の経ったものについては、水に流すということは、日本的精神態度のよくない点ではないかと思います。かなりエネルギーを遣って、敵対の記憶を保存して尊重していくことは、まさるべきことではないか思います。この二つを挙げたいと思います。

大学闘争の経験、見聞そして“良き体験”の伝達
日大のみなさんが「記憶を記録に」のモットーを掲げて様々な活動を今されています。そういうものに学んで、まず語りついで書いていくこと。それを身の回りから始めていくこと、それを心がけたいと思います。とくに力を込めて言いたいのは、「孫の世代へこそ語れ!」ということです。というのは、子の代には望みがたいことが多々あります。親のやったことに反発するというのが子の世代の常態です。しかし、孫の世代になるともう少し客観的に見る余地が出てきます。それから、孫の世代に言えばより永く伝わるということです。そのことを力を込めて申し上げたい。

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日大の中村克己君が虐殺されましたが、それだけでもなく、自殺者を含めて逝った者は多々おりました。年とともに多くの学友がその後に続いていることも、まぎれもない事実です。ここに、「歴史の実体というものは逝く水のごとき死者の連鎖の中にある」ということを思わざるを得ないということです。であるからこそ、この死者を悼み偲ぶことは、自らの想いを新たにすることでもあり、絶対に必要だと思います。
私ごとを述べて申し訳ないんですけれども、私が教育大を出て政治活動を志す時期がありまして、その時に私も含めて6人の友人がおりました。それで活動を始めて行ったんです。しかし、この数年に6人のうち半数は亡くなりました。3人しか残っていません。残った者の1人は入院しています。
そういうような事実というものもありまして、最後のことを強く申し上げる次第です。

このような心掛けも、みなさんがご健勝であればこそできることです。最後にみなさんのご健勝を強くお願いいたしまして基調報告にかえたいと思います。』

以上、11月3日に行われた「大学闘争45周年記念フォーラム」の基調報告である。
フォーラムでは、基調報告の後、実行委員会の構成メンバーである中大、旧教育大、慶大、日大からそれぞれ個別の報告があった。
また、この基調報告についての質疑などもあったが、その内容はまた機会を見てブログに掲載していきたい。

中大のO氏が「大学闘争について語るのはこのフォーラムで最後。だから言っておきたいことを言う。」と語っていたが、「記憶を記録する」作業は必要だ。
あの時代をことを他の世代に語らせるのではなく、あの時代をくぐり抜けてきた者として、後の世代に記録を残していくことが、われわれの世代の責務ではないだろうか。
あの時代に何があり、自分はその中で何を感じ、何をしてきたのか。記憶は時間の経過とともに忘却の海の中に消えて行く。多くの当事者が語り、記録を残すことによって、パズルが組み合わさるように大学闘争の全体像が明らかになっていくと思う。

「記憶を記録に!」

(終)

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