
このブログの大きな目的の一つは、「記憶を記録する」ことである。
そのため、当時、闘争に関わった様々な方からの投稿や証言を掲載している。また、当時の新聞記事などを編集した「全国学園闘争」シリーズも続けている。
先日、1967年から1969年まで明大の中核派で活動をしていたA氏から話を伺った。今回はその内容を掲載する。
1967年の第一次羽田闘争から1968年の10・21国際反戦デー、1969年の東大安田講堂攻防戦、4・28沖縄闘争など、激動の時代を駆け抜けた、ある元活動家の証言である。
今回を含めて、3週にわたり掲載する。
(文章が長くブログの字数制限を超えるため、No320-1とNo320-2に分けて掲載します)
(文章が長いので、筆者がタイトルを付けました。また、関係者は仮名にしてあります。)
(写真は1970年頃の明大和泉校舎)
<明大入学と中核派同盟員加盟>
Y『Aさんが明大に入ったのは67年ですか?』
A『67年の4月です。政経学部でした。』
Y『運動に関わるきっかけは?』
A『きっかけは、私は高校時代にスポーツ(陸上)をやっていたんです。1年浪人して大学に入学し、陸上部に入ろうと思ったんです。4月に和泉校舎の前でオリエンテーションをやっていました。そこに体育会系、文科系の出店が並んでいて、僕は陸上をやりたかったので、陸上部のコーナーを訪ねたんです。
入るつもりでいたんですが、その時に陸上部の人が「いいですよ」と言う訳ですが、条件があるということなんです。その条件は全寮制だということと、頭を坊主にしてもらうということだったんです。当時、私は叔母のところに住んでいたんです。大学生活を全寮制で坊主で過ごすのはどうかと思って、陸上部に入るのはあきらめました。
オリエンテーションの2日目に、文科系のサークルに入ろうかと思って歩いていたら、マルクス主義研究会から声をかけられた。声をかけたのがBなんです。
大学に入ったら、社会科学の勉強でもしようかという気もあったんですが、マルクス主義というのは高校でも勉強したことがなかったし、周辺にも友達にもそういう関係の人はいなかった。
「部室に来ませんか」と言われて、生協の裏の汚い学館(旧学館)の1階の小さな部室に行ったんです。マルクス主義研究会というのは出先みたいな形で、実際は法社会学研究会(法社研)がメインのサークルだったんです。
「マルクスの勉強しませんか?社会の問題をどう思いますか?」と聞かれたので、「ベトナムの反戦というのは大事かな」というような受け答えをしました。
その時のマル研のキャップがCで、そのCとBが「一緒に勉強しよう」と私を説得するんです。
それでやろうということで2.3日勉強したら、「今から明大の理事室に押し掛ける」と言われた。(学費闘争の2・2協定の後の学内情勢もあり)学部自治会がバスをチャーターして、和泉校舎から駿河台に向かいました。
マル研は5~6人、それと自治会役員のグループなどと、理事室に抗議に行きました。僕は大学に入ってから3日目くらいだから、何も分からない。駿河台校舎に行ってビックリしたのは、50~60人で理事室になだれ込んだんです。そして、部屋にあるガラスだとかを全部割ったんです。「これは学生のすることかな」と思った。何を抗議すると言っても意味がよく分からない。乱入した人たちはいろんなものをぶち壊したんです。「どういうグループか」と思いましたね。
私は普通の勉強をしようと思って授業に出始めていたんです。授業にしばらく出ていて、授業が終わったらマル研の部室に行ってマルクス主義の勉強をする。その時の講師がCだったんです。まだ、学生運動のこともよく分からなかったんですね。その後は日比谷公園で集会があるということで、日比谷公園に行って、初めて集会に参加してデモをしました。そんなことを4月から5月にかけて授業に出ながらやっていました。そのうち政経学部の自治会選挙があり、Cから「クラスの代議員に立候補しろ」と言われた。
マル研のメンバーは法学部中心で、政経学部の学生は少なかったんです。それでクラス委員に立候補しました。その時にもう一人立候補者がいて、それが民青系でした。私はその時は中核派という意識が無かったんですが、選挙の結果、私が当選しました。政経学部の代議員になれば、政経学部自治会の総会があるでしょ。総会を仕切っていたのが、当時2年生のY・RとRです。その頃Cが本性を現して、マル学同中核派だと言われた。そんな中で代議員大会に初めて出席しましたが少数の為、何もできませんでした。5月は基地反対闘争で砂川に行きました。それは明大というより、中核派のグループで行きました。
(No320-2に続く)