(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No326-1とNo326-2に分けて掲載します。)
先週の続きです。1970年5月の明大新聞で当時を振り返ります。
本校(駿河台)では二部学苑会を巡り、民青が学苑会大会を画策。それを阻止しようとする二部を中心とする全共闘系学生と衝突した。
【全共闘・民青 学苑会を巡り対峙 「大会」が直接の因 明治大学新聞1970.5.28】
『5月22日に「学苑会」大会を呼びかけていた民青系学苑会(黒崎儀夫委員長=二商・四年)と、この「大会」を「日共民青のデッチ上げ分裂策動である」とするML系学苑会(炭谷久雄委員長=二法・四年)およびそれを支援する反日共系の各闘争委が、当日夕刻本校11号館前で衝突を起こした。一昨年の「7・4内ゲバ事件」ほどの大規模な混乱はなかったが、4月新学期が始まって以来、本校地区では緊迫した空気をかもし出した。なお、大学当局はこの日の二部の授業を二時限目から全面休講とした。
炭谷学苑会、二部共闘、明大全共闘、および反日共系の各闘争委の学生約150人は午後4時半すぎ、本校9号館前の中庭で、「民青デッチあげ粉砕集会」を開いた。大学当局はこれら各地から参集してくる学生に対し正門で、学生証の提示を求め、ヘルメット学生に対し、閉門し、入構させまいとした。しかし学生は暴力で開門、学生解放戦線(ML派)、反帝学評、反帝戦線、ベ平連、新寮闘委などは集会を開き、「和泉で追い出した民青を駿河台からも追放せよ」と決意を表明。記念館前まで時々デモを行った。
一方、民青系学生は11号館で約200人が「暴力学生カエレ」のシュプレヒコールを繰り返した。マロニエ通りを挟んだ7号館前にはノンヘルの全共闘系学生約100人が民青系学生と対峙。学館前は久しぶりに学生で埋まった。ノンヘル全共闘系学生が通りをデモり、民青系学生がスクラムを固くする。デモとスクラムが接触すると双方、足で蹴り合った。
午後5時20分、大学当局は民青系学苑会大会の開催予定場である91番教室の使用不許可を掲示した。
中庭で集会を開いていた全共闘系学生は、午後6時半ごろかけ足で11号館に向かい、ノンヘル学生と合流、約300名が11号館前で民青系学生と小ぜり合いを起こした。そのうち全共闘系学生はタテカンを壊し始め、ベニヤ板を剥した民青系学生は内から入口をシャット・アウトし、扉を押さえたが、全共闘系学生の力に圧倒され、扉が開けられた。数を増やした全共闘系学生約500人は一旦引き上げ、7号館―5号館―10号館をデモ行進し、再び11号館への突入を試みた。
民青系学生は2階から投石、放水し、消火液で対抗した。くらやみ迫る学館広場での上と下での攻防戦を、一般学生は7号館の階段からすずなりになって見つめていた。全共闘系学生は、深追いせず7号館入口に引き上げ、集会を開いた。
衝突はそれ以後進展せず、11号館前の民青系学生は、バリケードを組み立てた机、イスを片付け始めた。
大学当局は、この混乱のため、二部の授業を全面休講措置にし、7号館前の全共闘系学生に、解散するようマイクで呼びかけた。
午後7時30分ごろから、民青系は約300人が流会となった学生大会を変更、全共闘系学生に対する抗議集会を開き「団結により全共闘を放逐しよう」と訴えた。
午後8時すぎ、約400人の全共闘系学生は集会を終え、お茶ノ水駅に向けて道路いっぱいにデモをくり広げた。駅前の交番脇には機動隊が待機していたが、規制に乗り出す素振りもみせなかった。
駅前広場での総括集会は「民青を粉砕した」ことを報告、確認し、午後8時15分ごろインターの斉唱で解散した。(後略)』
5月22日の二部学苑会を巡る民青と全共闘系の衝突を受け、明大新聞に学苑会対立の歴史が掲載されているので見てみよう。
【学苑会対立の経緯 明治大学新聞1970.5.26】
『<解説>
今度の衝突事件は、学苑会の主導権をめぐる反日共系(主流派=学生解放戦線、反帝学評など)と日共系(反主流派=民青)の対立から起こったものである。これまでの経緯を辿ってみれば、昭和39年12月15日、学苑会臨時学生大会において駿台法学会、商雄会中心の民青系中執に対し、駿台文学会、政経学会を中心とする社学同系学生が中執の議事運営問題からこれを認めず、別に学苑会中央執行委員会を組織するに至った。
このため、二つの中執が学苑会に存在するという変則的事態が生じ、学苑会は法・商執行部を握る民青系中執派と、文・政経執行部の反中執派の間の抗争場となった。
(No326-2に続く)