野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2014年01月

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No326-1とNo326-2に分けて掲載します。)

先週の続きです。1970年5月の明大新聞で当時を振り返ります。
本校(駿河台)では二部学苑会を巡り、民青が学苑会大会を画策。それを阻止しようとする二部を中心とする全共闘系学生と衝突した。

【全共闘・民青 学苑会を巡り対峙 「大会」が直接の因 明治大学新聞1970.5.28】
『5月22日に「学苑会」大会を呼びかけていた民青系学苑会(黒崎儀夫委員長=二商・四年)と、この「大会」を「日共民青のデッチ上げ分裂策動である」とするML系学苑会(炭谷久雄委員長=二法・四年)およびそれを支援する反日共系の各闘争委が、当日夕刻本校11号館前で衝突を起こした。一昨年の「7・4内ゲバ事件」ほどの大規模な混乱はなかったが、4月新学期が始まって以来、本校地区では緊迫した空気をかもし出した。なお、大学当局はこの日の二部の授業を二時限目から全面休講とした。
炭谷学苑会、二部共闘、明大全共闘、および反日共系の各闘争委の学生約150人は午後4時半すぎ、本校9号館前の中庭で、「民青デッチあげ粉砕集会」を開いた。大学当局はこれら各地から参集してくる学生に対し正門で、学生証の提示を求め、ヘルメット学生に対し、閉門し、入構させまいとした。しかし学生は暴力で開門、学生解放戦線(ML派)、反帝学評、反帝戦線、ベ平連、新寮闘委などは集会を開き、「和泉で追い出した民青を駿河台からも追放せよ」と決意を表明。記念館前まで時々デモを行った。
一方、民青系学生は11号館で約200人が「暴力学生カエレ」のシュプレヒコールを繰り返した。マロニエ通りを挟んだ7号館前にはノンヘルの全共闘系学生約100人が民青系学生と対峙。学館前は久しぶりに学生で埋まった。ノンヘル全共闘系学生が通りをデモり、民青系学生がスクラムを固くする。デモとスクラムが接触すると双方、足で蹴り合った。
午後5時20分、大学当局は民青系学苑会大会の開催予定場である91番教室の使用不許可を掲示した。
中庭で集会を開いていた全共闘系学生は、午後6時半ごろかけ足で11号館に向かい、ノンヘル学生と合流、約300名が11号館前で民青系学生と小ぜり合いを起こした。そのうち全共闘系学生はタテカンを壊し始め、ベニヤ板を剥した民青系学生は内から入口をシャット・アウトし、扉を押さえたが、全共闘系学生の力に圧倒され、扉が開けられた。数を増やした全共闘系学生約500人は一旦引き上げ、7号館―5号館―10号館をデモ行進し、再び11号館への突入を試みた。
民青系学生は2階から投石、放水し、消火液で対抗した。くらやみ迫る学館広場での上と下での攻防戦を、一般学生は7号館の階段からすずなりになって見つめていた。全共闘系学生は、深追いせず7号館入口に引き上げ、集会を開いた。
衝突はそれ以後進展せず、11号館前の民青系学生は、バリケードを組み立てた机、イスを片付け始めた。
大学当局は、この混乱のため、二部の授業を全面休講措置にし、7号館前の全共闘系学生に、解散するようマイクで呼びかけた。
午後7時30分ごろから、民青系は約300人が流会となった学生大会を変更、全共闘系学生に対する抗議集会を開き「団結により全共闘を放逐しよう」と訴えた。
午後8時すぎ、約400人の全共闘系学生は集会を終え、お茶ノ水駅に向けて道路いっぱいにデモをくり広げた。駅前の交番脇には機動隊が待機していたが、規制に乗り出す素振りもみせなかった。
駅前広場での総括集会は「民青を粉砕した」ことを報告、確認し、午後8時15分ごろインターの斉唱で解散した。(後略)』

5月22日の二部学苑会を巡る民青と全共闘系の衝突を受け、明大新聞に学苑会対立の歴史が掲載されているので見てみよう。

【学苑会対立の経緯 明治大学新聞1970.5.26】
『<解説>
今度の衝突事件は、学苑会の主導権をめぐる反日共系(主流派=学生解放戦線、反帝学評など)と日共系(反主流派=民青)の対立から起こったものである。これまでの経緯を辿ってみれば、昭和39年12月15日、学苑会臨時学生大会において駿台法学会、商雄会中心の民青系中執に対し、駿台文学会、政経学会を中心とする社学同系学生が中執の議事運営問題からこれを認めず、別に学苑会中央執行委員会を組織するに至った。
このため、二つの中執が学苑会に存在するという変則的事態が生じ、学苑会は法・商執行部を握る民青系中執派と、文・政経執行部の反中執派の間の抗争場となった。

(No326-2に続く)

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(No326-1の続きです)

学苑会中執は40年41年と民青系が握ったが、41年12月、おりからの学費闘争の最中に行われた学苑会大会で、スト権確立問題から社学同ML派が中執を奪権し、坂田新執行部が誕生した。同中執は42年の学費闘争において“ボス交”と言われている「2・2協定」を、社学同統一派(全学闘争委員会=大内義男委員長)を除いた三派全学連とともに、同協定を認めない態度を堅持し、大学当局に最後まで闘いを組んだ。
坂田中執は42年5月31日の学生大会で滝沢執行部に引き継がれた。翌年7月3日には、中執の主導権をめぐって今回を上回る乱闘が、トラックで角材、ヘルメットを運搬して、学苑会室の明け渡しを要求しながら、ゲバルトを行使してきた民青と、これを防衛するML派の間において、駿河台学生会館と二号館で行われている。
その後、中執は7月6日の学生大会で大野新執行部(社学同ML派)へと引継ぎ、翌年12月6日の臨時学生大会では炭谷久雄(法四)委員長、本間晟豪(文四)副委員長の現執行部体制を築いた。同体制は外で街頭闘争、内で昨年の大学立法粉砕無期限バリスト闘争を闘いながら、全共闘運動を構築してきている。
一方、民青系も43年7月に瀬戸中執を発足させ、次いで武田中執と続き、昨年6月に現執行部(反主流派)黒崎中執を選出し、現在に至っている。黒崎中執派は学苑会中執として認めるように大学当局に要望しているが、認可されないできている。そこで、大学当局がロックアウト体制の下に、現在のⅠ部学生会・Ⅱ部学苑会の妥当性に疑義を挟むといった“学生自治”に対する牽制を仕掛けてきているのに乗じて、民青独自の学苑会学生大会を成立させ、大学当局に認めるよう要求するものと一般的に見られている。
なお、二部学生課に提出された22日の91番教室における集会届出用紙によると、当日は商雄会大久保武美副委員長(Ⅱ商三年)を責任者とする商雄会(Ⅱ部商学部学生自治会)主催の「大学改革についての討論会」が行われることになっており、出席予定者は1,000人と書き込まれている。
これに対し二部学生課は大学構内に置かれた立看、アジビラなどから判断して、当日の集会が届出用紙記載どおりに行われないおそれがあるとして、商雄会責任者に、①学長告示を守り、集会を届出通りに実施する②学苑会大会なる集会を行う場合は、混乱が生じるので中止させる場合がある、の二点を確認させたと言っている。
当日午後5時20分、全共闘学生が91番教室に近い本館中庭で集会を開いていた時、大学当局は混乱が生じたとして、中川学長名で集会の中止を宣告している。
なお、主流派の炭谷執行部は6月11日午後5時半より、本校91番教室で45年度の学苑会学生大会を予定しているので、多少の混乱が生じるものと思われる。
今回の民青系学苑会学生大会粉砕行動について、本間晟豪学苑会副委員長(主流派=学生解放戦線)は「21、22の両日は、反革命集団、民青のデッチ上げ学生大会であり、日共の指導の下に中大、明大、法大、専大などにおいて自治会乗っ取りの全国統一策動をかけてきたが、全面的に粉砕していった。今後も日共=民青のデッチ上げ集会を断固粉砕していく」と語っており、学苑会中執をめぐる抗争は今後さらに激発するものと思われる。
21日の衝突に対し、松田孝学生部長は「事件に対する措置はこれから協議して決定するが、あのような暴力行為は二度と繰り返して欲しくない」との大学当局の見解を示している。
いずれにせよ、今度の事件を各自が真剣に考察する必要があるだろう。激動する社会にあって、個々人が政治問題から逃避することはできない。沈黙することが体制側の支持者と見られる時代である。一大学内の問題でないばかりか、ただ単なる”暴力“や”破壊“という問題でもない。両者の対立には、階級闘争か議会運動かの運動論をめぐる根本的な相違が存在することを見抜かなければならないであろう。現代のがんじがらめの社会を、新たな人間性復権の社会へと変革していくには、大衆示唆運動ではどうしようもないことを60年安保闘争で知ったわれわれは今、70年安保六月行動期を迎え、新たな”飛躍“として、行動しなければならない時期を迎えている。60年安保闘争で、本学構成員全員が一丸となって「岸内閣打倒、安保廃棄」を叫んで国会への街頭行動を行った本学の情勢は現在、大きく変化している。学生追出し策が昨年末進められ、寮生までも退去勧告が出されているのが本学の現状である。六月行動を行うか否かの選択の岐路に立たされているのは他ならぬわれわれ一人ひとりだと言えるだろう。』

(次週に続く)

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No325-1とNo325-2に分けて掲載します。)

連載を続けてきた明大全共闘クロニクルも大詰めに入る。(No310の続きです。)
1970年5月、翌月の6月闘争に向けて、明大全共闘内部でも党派間の内ゲバが公然化し、
明大全共闘は実質的に解体していく。

5月1日、ブントが2~30名で和泉を制圧。4月から続くブントとMLの内ゲバの続きである。
5月13日、ML派系の「新入生闘委」の結成大会が和泉で開かれた。

【「新入生闘委」が結成 13日和泉で1年生討論集会 明治大学新聞1970.5.4】
『5月13日正午すぎから和泉校舎306教室で「1年生クラス闘争委員会準備会連絡会議」主催による「1年生討論集会」が開催された。この討論会は50名を越える新入生が参集し“新闘委”と書かれたヘルメット数個が最前列に配置されていた。
安達文幸君(法一年)の討論会趣旨説明から始まり、全明全共闘議長関口成一君(商四)から明大闘争の経過報告が行われた。その後、討論に移った。
この討論会は「大学そのものが社会から鋭く問い返されている現在、自らの思想性と能動性によって真の社会をみつめ社会に働きかけねばならない。その初歩的、かつ根本的な討論を全学に起こし、自ら実践の中で階級形成してゆく」ものとして設定された。
何故、大学に入学したのか、大学とは何か、といった自らの存在に対する問いかけを行う中から、自らの闘争主体を確立しようという問題等が提起され、長時間に渡って熱心に討論が続けられた。そして、午後5時すぎ、「新入生闘争委員会」を14、5人で結成したが、この闘争委員会はアンチ・セクトではないことを確認した。』

5月15日、和泉・商学部自治会(中核派)では、15日の愛知外相の訪ジャカルタに抗議して、1日ストライキを実施した。
(写真は5月14日の商学部臨時学生大会。私も写っています。)
【和泉・商スト決議 愛知外相訪ジャカルタに抗議して 明治大学新聞1970.5.4】
『「アメリカ帝国主義のカンボジア侵攻阻止」「5・15愛知外相訪ジャカルタ阻止」などを叫ぶ和泉・商学部自治会(井花清委員長代行=商二)は、14日、午後2時30分から和泉・第二校舎一番教室にて、商学部臨時学生大会を開き、5・15商学部スト権確立に向けての討議を行った。その結果、4時過ぎに行われた投票で、出席代議員42名(委任状を含む)のうち、賛成26票、反対11票、棄権・白紙5票と「スト」賛成が過半数に達したため、5月15日の和泉地区商学部1日ストライキの実施が確定した。
予定より30分ほど遅れて始まったこの商学部臨時学生大会には、昨年6月17日以来の久々の学生大会とあって、各クラスからの代議員を含め約300名ほどの学生が会場につめかけた。
大会は、まず議長に岡本君(商二)を確認した後、全学連中央書記局(中核派)の松尾書記次長が挨拶に立ち、「日米帝国主義の打倒に向けて、今こそ決起を」と訴えた。その中で松尾氏は「委員長不在の学生大会は無効と、日共=民青がわれわれのカンボジア侵攻阻止行動に対して敵対を図っている。」と強く日共系を非難した。続いて、昨年の10・21以来現在もなお東京拘置所に拘留され続けている、互井賢二商学部自治会委員長の獄中からのメッセージが披露された。
この後、井花委員長代行が「米帝のカンボジア侵攻を是認する、日帝を突破するカギは商学部学生にある」として「5・15商学部スト」を提起し全体討論に入った。
討論では2年10組をはじめとする約10クラス代議員が、クラス決議をもとに決意表明を行った後、4時過ぎ議場を閉鎖し「スト権確立」に関する投票が行われた。委任状を含めた出席代議員42名のうち、「スト賛成」が過半数の21票を上回ったため、スト権が確立し、翌15日に商学部ストライキが決行されることになった。
大会はこの後、インターを斉唱し、4時半ごろ終了し、20名ほどが中庭をデモ行進した。
翌15日には、午前10時ごろ和泉校舎正門前に約50人が結集し、中庭で行われていた明大総決起集会に合流した。
また、午後1時すぎ、商学部自治会系の約50人は和泉校舎付近をデモ行進した。正門付近には50名を越える機動隊が配置されていた。商学部ストライキに対する一般学生の関心は薄く、授業妨害もあったが、さしたる混乱も生じなかった。

(No325-2に続く)

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(No325-1の続きです)

このストライキに対し、当局は18日学長、商学部長名で次のような掲示を出した。
<商学部学生諸君へ>
去る15日、前日の商学部学生大会においてスト権が確立されたと称して、一部の者が大学側の制止にもかかわらず大学の器物を持ち出し、また授業妨害の行為に出たことは極めて遺憾である。
学生委員の選出も学部全クラスについてはまだ終わっていない状況で開かれ、また学部学生会規約に照らしても不備な点のあるこの学生大会が果たして正当性をもつかについては大きな疑義が持たれることであり、もともと大学はこのような大会決定には拘束されるべきものでもないので、平常通り授業を行う方針で臨んだ。
しかるに前記のような行動が強行され、他学部の授業にまで迷惑を及ぼしたことは、許しがたい行為であり、このような行動に出た人たちの責任は重大である。猛省を促したい。
また他の多くの学生諸君には。このような不祥事が今後繰り返されることのないよう、それぞれ言動に慎重を期されることを切に要望する。
5月18日
学長 商学部長』

5月15日、私も商学部の学生として1日スト決議を受けて学内集会と授業阻止行動に参加した。1号館の入り口で大学職員と衝突。1号館前で集会を行い、授業粉砕闘争。その後、中庭での集会に合流し150名で学内デモを行い、再度の中庭集会の後、日比谷野音の「愛知訪ジャカルタ抗議集会」へ150から200名の部隊で向かった。

【全共闘が抗議集会 18日外相、ジャカルタで出発 明治大学新聞1970.5.21】
『愛知外務大臣はインドネシアの首都ジャカルタで開催される「アジア会議」に出席するため15日、日本を発った。
この会議は事実上、アジアの反共国家の集まりであるため、日本がこれに参加することに対して、内外から激しい反対運動が盛り上がっていた。
特に、外相が出発する15日は、全国全共闘、革マル派などがそれぞれ抗議集会を開いて気勢を上げた。
全国全共闘は午前6時過ぎから多摩川緑公園に約2,000名を集めて集会を開き、大田区民広場前―六郷橋―萩中公園の順でデモ行進した。デモ途中の大田区民広場前では、全共闘学生と革マル派の衝突が一部で起こったが、大きな衝突には至らなかった。さらに解散まぎわ、全共闘学生が機動隊に投石したため、19名が検挙された。
また、夕方の5時からは、全国反戦、全国全共闘主催の「米帝のカンボジア侵略反対、愛知訪ジャカルタ抗議集会」が日比谷野外音楽堂で開催され、労働者、学生、市民約5,000人の結集をみた。全国反戦、全国全共闘のアッピールが述べられた後、在日米人行動委員会からタドタドしい日本語を使って、米帝への力強い闘争宣言が発せられ、会場から盛んな拍手を浴びた。
激しい内ゲバなどもあり、会場はたびたび混乱したが、8時過ぎから機動隊の片側規制の中を、霞が関―虎の門―新橋―八重洲口の順でデモ行進し、そのまま解散した。』

5月20日、全国学生解放戦線臨時大会が和泉で開かれた。ML派は全国動員で150名が参加した。
翌21日も全国全共闘の集会が行われ、各派の内ゲバが続いた。
(写真は5月21日の集会:「戦旗」より転載)
【六月に向け決起集会 全国全共闘日比谷で開く 明治大学新聞1970.5.21】
『「米帝のカンボジア軍事介入反対」「日帝のアジア進出の道を阻止せよ」と叫ぶ全国全共闘連合は中央総決起集会を21日午後5時頃より、日比谷野外音楽堂で開き約5,000人の結集をみた。会場では各セクトごとに席を陣取り、内ゲバに備えて本学全共闘学生が緩衝地帯をつくっているのが目についた。
集会はまず八派から六月決戦へ向けての決意表明がなされ、続いて各大学全共闘代表の“5・29全国ゼネスト”へ向けての決意が表明された。また、久しぶりに全国全共闘連合副議長の秋田明大日大全共闘議長の決意表明のもなされた。各大学全共闘の挨拶の途中、闘争方針で対立している中核派と反中核連合である学生解放戦線・反帝学評・フロントなど計500人が会場内で旗竿をふりかざして内ゲバを演じた。
集会は収拾のつかないまま閉会、7時半すぎよりデモに移った。大蔵省上・虎の門・西新橋・数寄屋橋・東京駅八重洲口の順でデモ行進したが、商業紙への取材妨害暴行事件に対する配慮からか、この日は機動隊の規制もゆるやかで、珍しく検挙者を出さなかった。』

(次週に続く)

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今年は1969年1月の東大安田講堂攻防戦から45年目となる。神田カルチェラタンからも45年。この時期になるとブログに「東大安田講堂攻防戦外伝」を掲載しているが、今回は「サンデー毎日」に掲載された野坂昭如氏(作家)の記事を掲載する。
(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No324-1とNo324-2に分けて掲載します。)
(写真は「サンデー毎日」1969.2.20号より転載)

【1・19と私 野坂昭如】(サンデー毎日1969.2.20号)(引用)
『1月19日午前六時半、近くに住む週刊記者A氏が迎えにきた。この日、東大構内へ入るには、報道の腕章が必要で、それを貸してもらうべく、また、ぼくは警察機動隊のそばへ近づいたことがこれまでなく、A氏は安保改定以来、羽田、新宿とたびたび経験しているから、今日の先達とたのむ気持ちもある。(中略)
赤門前の、隊員の列を分けて、構内に入る。職員と腕章を付けた老人が一人いるだけ。道を横切って、ふくらみきった太いホースが五本延びている。歩くにつれ催涙ガスが眼にしみるが、そのよどみ方はきまぐれで、涙が出たりひっこんだりする。映画の撮影現場の如く、安田講堂の周辺だけが、放水投石怒号でごったがえし、ほんの二百メートルはなれると、大学構内日曜の朝にふさわしく、深閑としずまっていて、なにやら現実感がうすい。
(中略)NHKの腕章がやたら目立ち、トランシーバーで連絡をとりあっている。後詰めの隊員が、アルバムに貼られた、学生活動家の写真をながめている。放水は水圧の関係か、二、三分勢いいいが、すぐに老人の小水の如く、しぼんでしまう。(中略)大型ヘリコプターがドラム缶のようなものを吊り下げ、飛来して、催涙液を散布する。こちらまでしぶきがとんで、眼が痛い。
「ああ、ヘリコプターよりの催涙液は、さして効果なく、かえって地上に被害ある故、中止されたし、どうぞ」「了解、なおこの交信は傍聴されているおそれあり、気をつけるように、どうぞ」「わかりました、どうぞ」隊員の一人が、大型トランシーバーで連絡をとる。
ヘリコプターは二度、三度まわって、今度は、乗員の一人が、ねらいさだめて、催涙弾を投下する。(中略)
お茶の水に向かう。本郷三丁目を中心に、おびただしい機動隊がいて、通行人も歩道いっぱいにあふれている。立ち止まることは許されず、中にはあからさまに文句を言う男がいる。お茶の水駅の近くで喫茶店に入る。明治大学の通りは、商店すべて店を閉めているが、横丁は、シャッター半ば降ろしながらも、営業し、A氏に注意されて、みると駅前の交番が、打ちこわされ、中からおびただしい水が流れ出ている。コーヒーいっぱい飲んで、中央大学へ向かい、ここも、ここも門をバリケードで固め、人一人ようやく通れる入口からのぞくと、ヘルメット姿の学生が、いわゆる集会中で、十人、二十人と少数ながら、旗押したてた連中が、つぎつぎと吸い込まれ、入ろうとしたら、「闘う意志のない者は、駄目」と、さえぎられる。フランス人記者があらわれ、やはりフランス語で断りをくう。(中略)
また東大へもどる。(中略)目にみえる、屋上の投石者たちはまだいい、くらがりの中で、絶対に勝ち目のない闘いいどもうとする若者は、なにを心の支えとしているのか、ぼくは、よほど、安田講堂に籠城しようかと、考えた、機動隊の側からばかり見ていては片手落ちで、全共闘と共にいる、たとえば報道関係者がいてもいいはず、いや、当然必要であろう。籠城側がゆるさなかったのかもしれないが、このおびただしい腕章の群れを見ると、不思議な気がする。(中略)指揮者が、マイクで放水の目標を指示する。左側の屋上に、男が仁王立ちとなり、なにかしゃべっているが、ききとれぬ「かえりたまえ、すぐ、立ち去れ」とだけわかり、自分にいわれているようで、まともに男を見られない。なんのために、ぼくはここにいるのか、いやしくも全共闘支持を、たとえ心情的共感にしろ、ゆるぎないはずなのに、「頑張れ」と、声ひとつかけられない、機動隊が怖いのだ。(中略)
ふいに、時計台右側の窓から、スピーカーがあらわれ、男の声でしゃべりはじめる、よくききとれない。放水車がスピーカーを狙うがとどかぬ。スピーカーは赤い布団でおおわれている。「お茶の水で、バリケード構築中の学生が一人死んだ」報道の一人がいう。「しばらくこのままですね。もう一度お茶の水へ行きましょうか」A氏が提案し、腹が減ったからにぎり飯をほばりつつ、本郷三丁目を過ぎて、ふと前方を見ると、道いっぱいに群衆がいて、十字路になった角の、ガソリンスタンドを中心に、二方向で楯をかまえる機動隊と、対峙している。

(No324-2に続く)

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