
1960年代後半から70年頃の新聞記事を紹介するシリーズ。
今回は毎日新聞の「回転 安保‘60-’70」というシリーズの記事を紹介する。
【カムイ伝では戦えぬ 悩む60年代の旗手】毎日新聞 1969年8月24日(引用)
『東大紛争の主役だった今井澄君(医学部4年)の手紙。
「(月刊マンガ誌のガロを贈られて)ご好意で4ケ月分を一気に読むことができ久しぶりになつかしい画に接することができ、大変うれしかったですが、やはり手ばなすときは、寂しい気持ちになりました。」(東京拘置所にて)
このあきれるばかりのマンガへの愛着。
ガロの投書欄から・・・。
「4・28闘争から帰って“昭和ご詠歌”(マンガ)を読んだ。闘争の前に読んでおけば、もっと冷静に沈着に国家権力と対決できた」(21歳の学生)
「ぼくは言葉によるコミュニケーションを否定する。言葉で論理を謳歌することは無意味です」(20歳の学生)
評論家の尾崎秀樹さんは「文章で語るより、マンガで切捨てる方が現実とマッチする」と分析する。「白戸三平のマンガは知識人までつつみ込んだ」という。
どこにもマンガがある。ビラと演説と大学教授が引っ張った60年安保。それならマンガは70年のイデオローグなのか。
白戸三平は東京湾に面した千葉の漁村にひとりで暮らしていた。練馬に新築の住宅がある。「落着かない」と夫人と二人の子供を残し、漁師から借りたフスマの破れた二階の家に住んでいる。
筋肉でこそ劣るものの、日焼けしたハダとひげ面のステテコ姿は、まるで漁師。貝やサカナを料理する包丁さばきも一人前だ。
マスコミぎらい、居所も秘密。「忍者武芸帳」-「サスケ」-「カムイ伝」と一連の“唯物史観マンガ”ですっかり有名になったが、全てはマネージャーの実弟、岡本真さんが取り仕切る。
が、会えば無類の話好きだった。夜釣りから安保まで、独特の話術は何時間でもあきさせない。
血のメーデーをたたかった。何人も皇居前広場で傷つくのを見た。「絵に残したい」と執念で現場に戻った。紙芝居作者時代、上塗りのシンナーで失神しかけた。貸本マンガ時代、仕事に熱中して、家が流されるまで水害に気づかなかった。
本名・岡本登(64)。プロレタリア美術運動で知られる岡本唐貴画伯の長男。59年から62年まで「忍者武芸帳」を書きついだ。徹底した組織不信と、敗北のかなたに未来を求める新鮮な史観で60年安保闘争にザサツした世代の共感を得た。
いまは大変なマンガブーム。毎年四百点の新刊、重版。五百万部。マンガ雑誌は、半年で一億八千三百万冊。
それなのに三平さんは「マンガは行きまっている」という。60年のマンガは貸本用のアングラ特価本がほとんど。1年で新作千四百点。ドロドロしたエネルギーにあふれていた。
テレビ漫画に押されて、貸本屋も没落。いまは貸本の新作、月に2、30点。作者の質も落ち、売れない。地表に出たマンガが隆盛をきわめているとき、その源流は枯れかけている。
「カムイ伝」の発表の場として64年、友だちの長井勝一さんと「ガロ」を創刊。反日共系学生の愛読書にのしあがった。カムイは非人を抜けて、忍者になり、そこを脱出して“抜け忍”となった。だが「抜けても抜けても体制がある」というトーン。主人公のうち百姓、正助は「統一と団結」を説き、浪人、竜之進はゲバルト至上主義。その間で、三平の分身。カムイが悩んでいる。70年を前にした現実を、そのまま表現したようなマンガだ。
「60年の敗北は団結がなかったからだ」という。その教訓からか、カムイ伝には「統一と団結」があふれる。「忍者武芸帳」を残酷といって非難した共産党機関紙「赤旗」も「カムイ伝」は推薦する。ところが、反日共系の学生からは「日共的になった」と不満の投書が来る始末。ガロの部数も減った。
「70年もこのままだと、体制にしてやられ、それをはねかえせないのではないか」と三平さん。自分も含めて、カムイ的ではいけないのではないか、と迷いに迷っている。
学生はいまや「カムイ伝はつまらない。佐々木マキのマンガを胸に機動隊にとび込みたい」という。佐々木マキ、林静一。筋もなく、何度読んでもわからない。だが、学生たちは「よくわからないようでも、深いところで感性に触れる」<ガロへの投書から>と主張する。マンガの世界も、分裂を重ねる一方のようだ。
70年を前にしての学生と機動隊の攻防戦。成田闘争では、セクトごとに軍団編成でのアタック。柱にとりついてセクトの砦を死守する“英雄”。戦記もののマンガそっくりの情景が各所で繰広げられる。
三平さんはつぶやいた。
「カムイ伝は失敗作です。マンガも状況を先取りしなければいけない。それなのに、現実の方がすっかり先に行ってしまった。アメリカを舞台にインディアンを描けばよかった」
マンガも追いつかないほど、めまぐるしい70年前夜の回転である。』
(終)