イメージ 1
(No327-1の続きです)

一方、全共闘系学生は8時近くになって徐々にその数を増し、約20名ほどが、学生証の提示を拒否して入構しようとしたため、これを阻止する職員10名ほどと小ぜり合いを繰り返した。職員に入構を阻止された全共闘系学生は正門前で抗議集会を行い、強く大学当局のロック・アウト態勢を非難した。集会はこの後しばらくしてすわり込み集会となり、実質的にピケ状態となった。
また、この頃になると、登校する学生が増え始め、大学側がスピーカーで「学生証を提示さえすれば入構できます」と何度も繰り返すにもかかわらず、入構する学生は少なく、正門前付近一帯は、集会を見守る500名ほどの学生でうずまった。
また、この間全共闘系学生80名ほどは検問突破を図ろうとし、再々入口付近で職員ともみ合ったが、いずれも押し返され失敗に終わった。
10時頃、事態を重視した大学側の要請で機動隊100名ほどがかけつけ、ピケを排除し、制圧にかかった。全共闘系学生と一緒になって一般学生も「カエレカエレ」と叫ぶなか、機動隊が制圧にかかる混乱に乗じて全共闘系学生らは検問を突破し、校内に流れこんだ。
その後、学生らは警官、職員らと押し問答をくり返し、警備にあたっていた職員が学生に
つめ寄られる光景も見られた。
この後、全共闘系学生は正門付近で集会を開き、キャンパスをデモ行進した後、第一校舎におもむき校舎内を同じくデモし、授業阻止行動を行い、11時頃解散した。
この日は、正午から「和泉祭」の前夜祭が予定され、一方で全国全共闘の主催による「5・29全国学園ゼネスト」もこの日とカチ合ったことによって、和泉祭実行委員会内部でも、戦術面で苦渋の色が見え、星野貞司委員長は「今は何も言いたくない」と、この日に先立つ会見では言明を避けていた。』

【一万三千人が結集 5・29関東総決起集会開く 明治大学新聞1970.6.4】(写真)
『全国全共闘が呼びかけた「5・29全国学園ゼネスト」に呼応した形で、本学全共闘は和泉で抗議集会を開いたが、部隊はそのまま午後4時から明治公園で行われる「全国全共闘総決起集会」に向かった。
本学全共闘および東大全共闘は、最近とみにゲバルト関係にある中核、ML派の中に割って入り、中央に座を占めた。
その集会はその後、全国反戦、全国全共闘共催の「カンボジア侵略反対全関東労学総決起集会」に切り替わり、労働者、学生1万3千人(主催者側発表)が結集した。
午後6時すぎに始まった労学総決起集会は、神奈川県反戦、群馬県反戦の司会で続けられ、各セクトの代表が壇上に上がった。
内ゲバはなかったものの、中核派とML派は、それぞれの決意表明の中でののしりあった。中核派は「六月安保決戦を通し、社共に代わって日帝のアジア侵略を内乱へ転化する、つくりださねばならない」とし、「日帝のアジア侵略阻止の闘いに敵対し、排外主義に転落するML派」を攻撃。これに対し、ML派も「この重大な六月決戦から逃亡している」と中核派、ブントを非難した。
集会は「6・14労学市民大統一行動へのアピール」を拍手で採択し、その後日比谷公園までデモ行進を展開した。』

1970年5月は、この5・29集会で終わり、いよいよ6月闘争に突入していく。

(続く)