野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2014年03月

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(No332-2の続きです)

そして、それが人の手によるものだということです。
3年が過ぎても、日本はこの問題から一歩も前に進んではおりません。そんな混沌とした状況の世の中に子どもたちが育つ環境があります。
「たらちね」の活動から見えてくる現実は、事故の検証も出来ない、子どもを守ることも出来ない、そんな大人たちの情けない姿と子供たちの悲しみばかりです。
3年をあえて節目とするならば、初めの一歩を、今日のこの日から踏み出したと思います。そして、一人でも多くの大人たちに本気で子どもを守るという気持ちで、残りの人生を歩んで欲しいということ、それが被災地で活動する私たちの願いです。
以上です。ありがとうございます。』(拍手)

この後、坂本龍一さん(音楽家)のゲストスピーチがあり、引き続き原発現地から、中村きくえさん(八幡浜・原発から子どもを守る女の会)、石地優さん(原子力発電に反対する福井県民会議・事務局次長)からのスピーチがあった。
最後に.集会決議が読み上げられ、集会は閉会した。

4大学共闘は、集会後、東電本社前に移動した。途中「いたばし さらば原発」のノボリを持った日大のO氏と一緒になり、東電本社前に到着。
東電本社前抗議の呼びかけ団体は、たんぽぽ舎と経産省前テント広場である。
抗議行動の冒頭、抗議趣旨の説明があった。

『みなさん、こんにちは。(異議なし)趣旨説明を行います。今日は原発ゼロ統一大行動の一環としまして、東電本店合同抗議闘争を行います。未だに事故は収束しない、ますます状況は悪化しています。こんな東電を残しておく必要はありません。(そうだー)徹底的につぶしましょう!
福島では東電はいかにやる気がないか。何と2億4千万ベクレルの放射能がタンクから漏れ出している。東京電力が一応タンクの管理をしていた訳ですが、警報機が鳴ったって放りっぱなし、バルブの栓が開きっぱなしになっている。そして自動停止を止めて、手動式で、すれすれまで2億4千万ベクレルのストロンチウム入りの汚染水を溜めに溜めた。あれはどう見ても、手に余ってわざと漏らしたとしか考えられない。(そうだー)
もはや東京電力には当事者能力、管理能力がない。こんな東電つぶしてしまうしかない!福島の子どもたちは今現在、26万人検査しました。そのうち何と75人ですよ、甲状腺がん。通常であれば100万人に1人しか出ないと言われる子供の甲状腺がんが、26万人の子どもたちのうちから75人ですよ。山下俊一は機械が良くなったから発見されたなんて言うな!ふざけんじゃない!我々素人が見たって福島原発の放射能が原因だということがすぐ分かりますよ、26万人で75人ですからね。
しかし、東京電力はこういった状況を見捨て、計画では柏崎刈羽原発全7基を2016年までに全て再稼働するなんてことをぶち上げました。許されない!この7月には6号基、7号基を稼働するんだということを宣言しています。私たちは絶対に許しません!(拍手)そして国、安倍原子力帝国は何を考えているかと言うと、エネルギー基本計画の中において、原子力発電はベースロード電源だとか、基幹電源とかいろいろ言い方変えてますが、要するに原子力発電をこのまま存続する、そして核燃サイクルも動かすという宣言をしました。
そして規制委員会の田中俊一は、この3月中ごろまでには再稼働する原発を絞り込むというようなことを言っています。絶対に許すことは出来ません!東電への闘いは、この原子力帝国との闘いとなります!
本日の東京電力解体合同抗議行動、最後の最後まで福島の声を、そして私たちの怒りをこの東電にぶつけていこうではありませんか。(拍手)』

続いて参加者からの抗議スピーチが行われ、たんぽぽ舎、「反原発自治体議員市民連盟」などがスピーチを行った。
参加者は主催者発表で500名(実数はその半分程度か)。参加者の中には反原発ジグザグ会のヘルメット姿も見える。道路を挟んで線路寄りには私服らしき人たちがたむろしている。
抗議行動の最後は参加者全員でコール。
「原発反対!」「再稼働反対!」「被曝労働やめろ!」「ピンハネやめろ!」「汚染水とめろ!」「東電解体!」「子どもを守れ!」「命を守れ!」
怒りのコールが東電本社前に響き渡った。

<集会のお知らせ>
伊達判決55周年記念
「今こそ伊達判決を生かそう!」―危険な安倍政権に対する対抗軸をー
日時:2014年3月30日(日) 午後1時~5時(12時30分開場)
開場:明治大学リバティータワ1階大ホール(御茶ノ水)
内容:
○記録映画「流血の記録・砂川」
○基調講演「伊達判決の現代的意義と安倍政権の正体」
○特別報告「砂川事件再審請求の根拠と意義」
主催:現代史研究会・伊達判決を生かす会

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ボブ・ディランが今年の春に4年ぶり7回目となる来日ツアーを行うとのことである。ボブ・ディランの初来日は1978年だった。東京では武道館で公演が行われ、私も友人のK君と一緒に武道館の2階席から、スポットライトを浴びて遠くに見えるボブ・ディランを見ていた。
公演の1曲目は確か「ミスタータンブリンマン」だったかな・・・。
(写真は1978年のボブディラン来日公演のパンフレット表紙)

先日、NHKのプレミアムアーカイブスを見ていたら、こんな番組を放映していた。
ルポルタージュにっぽん「ボブ・ディランがやってきた」(1978年)
インタビュアーは、作家の村上龍氏。当時26歳。
テーマは<ディランを聴いて青春を模索した様々な人々に出会い、様々な人生を知りたい>
今回は、この番組の内容を掲載する。ボブ・ディランについての番組ではあるが、村上龍と様々なジャンルの人とのインタビューを通して、あの時代が見えてくる。
(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No331-1からNo331-5に分けて掲載します。)


【ルポルタージュにっぽん「ボブ・ディランがやってきた」】NHK1978年放映

1 記者会見

スーパースター、Mrボブディラン!(拍手)
司会「大変にお疲れのところ 誠に恐れ入ります。私たちは、貴方の来日を長年待ち焦がれておりました。心から、歓迎の言葉を申し上げたいと思います。
かってはですね、反戦歌、いわゆるプロテストソングを主に歌われていたと思うんですが、愛をテーマにされた心境の変化というのはどういうことなんでしょうか。」
ボブ「プロテストの曲が、自分の一番素晴らしい愛の歌だと思っています。」
司会「一般にフォークの神様と言われていますが、そのことについては、どのようにお思いでしょうか。」
ボブ「私はフォークの神ではありません。」
司会「それでは何でしょうか。」
ボブ「ただの人間です。」

2 初日コンサートの様子

「やせっぽちのバラード」が流れる
初日の観客数12,000人。岡林信康・沢田研二・井上陽水・美空ひばり・駐日アメリカ大使夫妻などが公演を見に来る。
<字幕>
ボブディラン:1941年生まれ。20歳でデビュー。「風に吹かれて」「時代は変わる」「戦争の親玉」「ライク・ア・ローリングストーン」と世界中の若者に熱狂的な支持を得、一躍平和・公民権運動のオピニオンリーダーとなる。
日本の若者の文化・思想にも大きな影響を与えた。発売LP22枚、売上50億。

3 中山ラビ(フォークシンガー)(大学時代、ディランの歌を自ら訳しフォーク活動に入る。東京公演には連日足を運んだ。)

村上「同じ歌手としてね、ボブディランをどう思うか。」

中山「私、大真面目に音楽をやっていると思って、惚れ直しましたけどね。やっぱり、ああいうすごい人が、ちゃんと生きている、ちゃんと生活して生きている。」

村上「ミック・ジャガーなんか結構楽しく生きている感じがするんですけれど、あれはどうですか?」

中山「やっぱり、ディランだってそうなんじゃないんですか。」

4 児島鉄平・23(フォークシンガー)(高校時代ディランの歌に出会い、歌手になることを決意。)

「とにかく素敵だった。でも、それ以上は言いたくない。自分の一番好きな人を人前に晒しているみたいな、そんな感じで一生懸命見ていたから。結局、今日、日本にいるんだったら、日本に今いるディランが好きですね。」

5 泉谷しげる・29(フォークシンガー)(“ディランの子”と呼ばれる歌手の一人 代表作「春夏秋冬」「国旗はためく下に・・・」)

泉谷「えーっと、僕が聴いたのは68年くらいだと思うのね。その頃っていうのは、わりと学生さんがノリまくってて、西口周辺でドーンとやってった頃、始まる頃だよね。僕なんかもちょうど会社ひけて、すぐそういうところにワーと行ってね・・・」

(No331-2に続く)

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(No331-1の続きです)
(写真は1978年のボブディラン来日公演のパンフレットより)

村上「その頃は泉谷さんは(歌は)やっていなかったんですか。」

泉谷「いたずらではしてたけど、プロになろうとかそういう気はなくて、とにかく漫画家になりたかった訳よ。自分の職業というのはそれしか考えていなかったからね。音楽というのは遊びだと思っていて、その頃、ディランいいいいと言ってる訳、周りの奴が。分かんねえんだよ、とにかくどれ聴いてもグニャグニャグニャグニャ歌ってて、鼻水たらしたような歌を唄ってるでしょ。何でこんなのがいいの、と言った訳、俺は。生理的なところがいい、と言う訳。生意気言って、このー、という話になったんだけどね、そこで。」

村上「本当はものすごく好きなんでしょ。」

泉谷「ものすごく好きです。好きだから、かえって好きーと言いたくないというか、フンという感じで軽く見ていたいというか、本当はドキドキすると思いますよ。」

6 岡本おさみ・36(作詞家)(代表作「襟裳岬」「旅の宿」)

村上「ディランというのは好きとか嫌いで言えばどっちでしょう。」

岡本「僕はすごい好きです。」

村上「最初のコンサートに行かれたらしいですが、どうでしたか。」

岡本「僕はすごく構えて聴きすぎたと思うのね。一番初め。それで一部が終わるまで、すごく肩張っていた自分があって、たぶんファンだから緊張したんだと思うんですね。だけど、一部の休憩があった時に、向こうはすごく若返ろうとしているような感じを受けたのね。」

村上「ディランがですか?。」

岡本「うん、それで、お客さんは何かちっとも若返っていない・・・」

村上「ハッハッハッ、客の方が若返っていない。」

岡本「つまり昔のいっぱいいろんなものを引きずったまま来ているという感じがすごくあって、それで自分も一部が終わったところですごい気付いたのね。今日は二部はもっと楽に聴こうと思って聴きはじめたら、何か遥かなる歌の旅路というような、年齢みたいなものを全部超えちゃて、何か、あ、少年がいる、という・・・」

7 高橋三千綱・29(作家)(66~69サンフランシスコ州立大学に留学)

村上「3年間いたんですか、アメリカに?」

高橋「シスコにね、アメリカって言ったってさ、サンフランシスコだけだからね。」

村上「いつ頃ですか?」

高橋「えーっとね、66年から69年まで。西太平洋側の最大の学生運動が、ちょうど学生だったうちの大学だった。」

村上「あ、本当。」

高橋「ぶんなぐられてね。ちょうどベトナム戦争はなやかりし頃じゃない。だからボブ・ディランって聴いたけど、今、反戦なんて言われているみたいじゃない。そういう風にして聴いていたという記憶はないね。」

村上「向こうの人も?」

高橋「うん。」

村上「本当。やっぱり普通の歌として、日本で言えば井上陽水みたいな、そういう風に聴かれていた訳?」

高橋「そうだと思うけどね。」

村上「ガールフレンドなんかも、そういう風に聴いていた訳?」

高橋「ワインなんか飲みながら、流れているのはボブ・ディランとかさ。」

8 沢田研二・30(歌手)

沢田「前から5番目のアリーナだったですけどね、ほとんど正面で、顔もよく見えました。ボブディラン自身がすごく機嫌よさそうだったし、一部はちょっと眠たかったけど、二部は知ってる曲も3曲くらいあって、結構、見て良かったなと思いました。」

村上「そうですか。」

沢田「やっぱり大物ですしね。いちファンとして楽しんだということです。」

「風に吹かれて」が流れる
<字幕>
“男が男と呼ばれるまで 幾つの道を歩まねばならないか?
白い鳩が砂浜でやすらぐまで 幾つの海を超えねばならないか?
大砲を永久になくすまで 幾つの弾の雨がふらねばならないか?
友よ、その答えは風の中に舞っている。“

9 清水哲男・40(詩人)

「プロテストはプロテストなんだけれども、誰でもがどんな立場からでもイエスと言える、賛成できる歌な訳。だから党派を超えると言えばそれまでだけれども、歌で人生を考えるということはいいんだけれども、それをレコードなんかで、学生なんかが学校終わって帰ってきて、密室で聴いている訳ね。何か、そんなことしているより、麻雀でもして酒でも飲んで、もう少し具体的な人生にぶつかった方がいいな、という気もするのね。」

(No331-3に続く)

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(No331-2の続きです)
(写真は1978年のボブディラン来日公演のパンフレットより)

10 牛 次郎・37(劇画家)(代表作「包丁人味平」「釘師サブヤン」)

「終わっちゃう時、どんな終わり方をするのかというのがすごく興味あるね。例えば、ビートルズがああいう解散の仕方したでしょ、プレスリーが死んだとか、ジェームス・ディーンは一番カッコイイ死に方をしたけど、ボブ・ディランはどうやって終わってくれるのか、終わりに興味があるね。
3つ終わりを見てきたから、4つ目の終わりやっぱり見たいね。」

11 立木義浩・40(写真家)

「早い時間にボーンと山を散歩なさった方だから、何かやぱり傲慢なところが当然出てくる訳でしょ。傲慢な部分というのは、写真屋さんというか、映像の分野の人が一番興味を持つ、小説も同じだろうけども、欠陥人間の方がむしろ興味を我々としてはいだく訳じゃないですか。写真というのは、たった1枚の写真でベトナムの戦争が終わったりとか、それから筑豊の子どもたちが幸せになったりとかそういうことはない訳ですよ。たかだか写真じゃないかというところから出発しないと、写真が面白くならないからね。」

12 つかこうへい・29(劇作家)

「嫌いでもないけどね。喫茶店のコーヒー飲んでいる時の音楽だったらいいけどね。それ以上にシャシャリ出られるとさ、オイオイちょっとちょっと、という感じになるけどね。芝居はさ、どこか戦争に賛成しましょうじゃなけりゃ芝居になんない訳だからね。
でもいいよな、戦争反対って言っててさ、金儲けできるんだからな。羨ましいよ、俺は。」

13 加藤哲郎・36(プレイボーイ編集デスク)

村上「結構、僕自身、ディランを知れば知るほど、どんどん醒めて行く部分がある訳。それはディランに関してでなくても、何かに醒めていくんだよね。」

加藤「そうね。割とこう醒める時期でしょ。ディランも醒めている、ディランがもう今はラブを歌ったり、平和、ピースだとか小市民的な歌をものすごく歌っている訳じゃない。
カーター大統領が選挙のコピーに使うぐらいの受け入れられ方というのは、キャパが違う訳でね・・・」

14 女性

「今度離婚するんでしょ?女の人一人を幸せにできなくて、世界が変わるとか、時代が変わるとか、言う資格があるのかな・・・」

「激しい雨が降る」が流れる
<字幕>
世代がディランを作り ディランが世代を作った(ニューヨーク・タイムス)
コトバという武器でわたしは抵抗し すばやくツバをはく(ボブ・ディラン1963)
愛しかない それが世界を動かしている(ボブ・ディラン1968)
私の友人“ディラン”を聴くと時代がどう動いているかよくわかる(カーター大統領)

15 高石ともや・37(フォークシンガー)(最もボブディランの影響をうけた歌手の一人。60年代後半「受験生ブルース」など数々のメッセージ・ソングを発表し、フォーク運動のリーダーとして活躍。現在、福井県納田庄村の廃校に住み、農作業のかたわらフォーク活動を続けている。)

高石「去年の7月から住んでいるんだけど、十字で仕切ってね、広すぎるから、ここが理科室なんですよ。理科室跡は水が出てくるんです。昔、災害の後って、水害の後とか、みじめなイメージがあった訳、よそうかなと思ったけど、やってみたらそれほどでもなくて。
要するにジョン・バエズとボブ・ディランと僕と、同じ歳だという意識があるんですよ。リサイタルを半年後にやる時にそれを考えたんですね。ジョン・バエズだったら俺だったら銭を払うと思う、五百円なら五百円。ボブ・ディランでも払うと思う。まだ出たばっかりの高石ともやに、皆が何を期待してお金を払うだろうかと思う訳。というのは、ボブ・ディランが、僕が25歳で始めるまでにやったことという、そのハンディキャップはあるからね。そのハンディキャップをずっとやってきた。ボブ・ディランが自分で自分の歌を唄う前にブルースやったり、オールドタイムやったり、いろんな人を訪ねたり、その育みが日本というか、僕らのフォークになかった。その状況が日本にないのがものすごく寂しくてね。で、60年代の終わりからここに来たというのは、それをやりたくて、結局資料調査で、ここだったら食いつなげるでしょ、長いこと。」

村上「今日、新幹線で京都で降りましてね、高石さんのところに行くって言ってハイヤーに乗ったんです。なかなか着かないんです。運転手の人が猪が出るとか・・。高石ともやという人はこんな山の中で何をするつもりなんだろう、大人がギター1本で何かするというのはどういうことなんだろう、それを絶対聴いてやろうと思って来たんですよ、ここに。馬鹿だから、あいつ(高石ともやの息子)とキャッチボールしていると何か染まっちゃうんですよ、空気に。」

高石「ハッハッハッ」

(No331-4に続く)

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(No331-3の続きです)
(写真は1978年のボブディラン来日公演のパンフレットより)

村上「空気に染まっちゃう訳。犬がいたり、廊下にスキーが置いてあったり、何か分かっちゃうんですね、ああ、いんじゃないかと。」

高石「俺としてはフォークソングという人に出会って、人生曲げられてね、まだこんちきしょう、まだこんちきしょうって、自分だけだったのが 奥さんとか、子どもまで引きずり込んじゃっている訳。ちょっと意地になっているんだね、やっぱり。その女に出会っちゃったら、とことん行くより損はないんじゃないかという・・・」

16 七字英輔・30(コマーシャル雑誌編集者)(ビートルズとディランに育てられた世代を自認。いくつかの音楽雑誌を編集)

七字「60年代というのは輝ける年代だったですね。つまり日本では黄金の60年代と言うけれども、僕らの高校時代というのはディランはともかくとして、ギンズバークだとか、テラワークだとか、つまり経典な訳ですよね。そういう意味での非常に近い感性なんです、ディランもね。
だから決して無関係じゃないし、そういうディランというのはとっても好きですし、自分の感性を作ってきたのも、そういう感性をテコにして今まで生きてきているのも、あの当時の一種の何て言うのかなあ、ヴァイブレーションだというような気がしてますね。実感としてね。」

村上「僕はちょうどそれに憧れて出てきたから、こんなこと聞くのかもしれないですけれども、カウンターカルチャーというのは、日本に60年代の終わりごろ果たしてあったのだろうかと考えるんですね。」

七字「つまりなかったんですよね。なかったんだ、ということはつまり今だから言えるのであって、当時の我々はあったような幻想があった訳ですよね。例えば新宿西口広場なんていうのはカウンターカルチャーだった訳ですよ。つまりウッドストックにはならなかったけれども、そういう芽みたいなものはあったんだ、という風に考えたいということが。正に僕は渦中にいましたからね。」

「時代は変わる」が流れる

17 芥 正彦・32(演劇家)(1969年 三島由紀夫と東大全共闘の討論集会を企画)

村上「何か質問するというのもあれだし、芥さん、自由に話してください」

芥「ディランに関しては前から意識してたというのかな、あいつはデモにいかないもの。それだけでも俺は好きだったね。とにかくあの有象無象さ、お前らも行ったんだろうけど、デモというのが気に食わなかった訳。とにかくあれをバーッと切ったりね、とにかく奴らの前にバーンとでっかい鏡を置きたいというか。だから演劇になったんだと思うんだけれど・・・あれだけは何か人間の尊厳からはずれる気がしてさ、今でもそうなんだけどね。そこはどうなの、君?」

村上「僕ですか?」

芥「俺はデモというのは一切嫌いだし。」

村上「行ったことありますよ、高校時代。」

芥「フン、まあ、お祭りだから行くんだろうという感じもするんだけどさ。」

村上「お祭りほど楽しくはなかったですけどね。」

芥「あと、70年代というのは、いろんな宗教の時代の前触れじゃないかという気がする訳。60年代は分かんなかったんだけれど、ディランだって一個の宗教を作った訳だしね。俺は絶対、宗教にならないつもりだけどね。地下、そういう意味ではアングラというのは知らないけど地下というのはあるよね。今まで一銭も稼いでないし、とにかく自分の血や汗を一ミリも売りたくないみたいな・・・君にとって地下とは何だという話を聞きたいね。それが大体、君の80年代だと思うから。」

村上「全くそうだと思う。」

芥「俺は俺だよ。やっぱりここにいるだろうな。餓死してるかも分からんしさ。ただ、世の中が俺に与えてくれたものに関しては、俺も俺なりに愛するから、それはそれで俺は返してきている訳。だから愛を告げられなくなったら、俺はいなくなるな。」

18 西岡恭蔵・30(フォークシンガー)(ディランを信奉し「ディラン供廚箸いΕ丱鵐匹魴訐)

「今、一番染まりたいと願っているのはね、魂を高揚さすこと。自分もそうだし、お客さんもそうだしね。で、例えば今、龍さんと会ったらね、2人でやっぱり何らかの形で魂を高揚させたいなと思うね。それは歌であっても何でもいいと思う。大げさなことだけど、自分の意識も人の意識も少しずつ少しずつ、時代に即応して変わっていくしね。根本的なのはやっぱり、俺たちは時代と対決している気分だと思うのね。それを感じていたいしね、曲げたくないしね・・・」

(No331-5に続く)

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