野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2014年05月

先週(No340)に引き続き、1970年の拓殖大学闘争の記事を掲載する。

【自治会執行部が解散 反対派の各セクト団結】1970.6.23毎日新聞(引用)
『“死の集団しごき事件”をきっかけに学内民主化要求が盛り上がっている拓殖大学の学生自治会(倉元省二委員長)は、大学側の休講措置に対抗して自主登校を呼びかけ、22日午後1時から学生大会を開いたが、全学行動委(反日共系)、民主化闘争委(日共系)を中心とする反自治会派の学生が自治会執行部をリコール、独自に「臨時執行部」33人を選出した。
臨時執行部は暴力追放と学内民主化をテーマに23日午後1時から同大キャンパスで大衆団交を開くことを大学側に要求しており、各セクトが大同団結して学校側と対決する構えをみせ“第二の日大闘争”の様相を見せてきた。
拓忍会の集団しごき事件で安生良作君が16日朝死んで以来、「暴力反対、大学民主化」を要求する学生の動きが表面化、19、20日と、自治会と反自治会系の学生が集会を開き、20日の自治会主催の追悼集会に反自治会系の学生がなだれ込む騒ぎが起きた。
大学側は22日から3日間休講措置をとったが、「学生の民主化要求を抑圧するものだ」と反発、自治会、反自治会の学生が同盟登校した。
午後1時から開かれた自治会主催の学生大会には、自治会解散を要求する全行委、民闘委の学生も合流、千百人の学生が参加した。
自治会は「拓忍会のしごき事件について」「休講措置について」「当面の課題について」の3つの議題を討議するよう提案したが、全行委、民闘委を中心とする学生のヤジと怒号の中で、挙手による採決の結果、自治会提案が否決され、倉元委員長ら執行部は解散を宣言、自治会を支援する体育会系学生とともに退場してしまった。
会場に残った約千人の学生は「自治会執行部は任務を放棄した」として改めてリコール、臨時執行部33人を選出した。
執行部の一人ひとりがマイクをとって「6・23大衆団交をかちとろう」「徹底的に戦います」とあいさつするたびに「がんばれよ」とホールを埋めた千人の学生から拍手と喚声がわき起こった。
このあと学生たちは「学内暴力の根源である麗沢会(りたくかい)=クラブ活動の総合体=の即時解散」「愛好会に名を借りた学内暴力団の解散」「学生自治の承認」などを要求して、23日午後1時から本館前のキャンパスで大学側の出席を求め、大衆団交を開くことを決め、午後4時半解散した。
これに対して、大学側は夜遅くまで教授会と大学委員会を開いて協議したが、三代川学生部長は「自治会執行部解散後の学生大会は正規のものと認めるわけにはいかない。大衆団交にも応じられない」といい、さらに体育会系学生は「学内秩序の破壊を見過ごすわけにはいかない」と硬化。
これに対しほかの大学では「裏切り者」「トロッキスト」とののしり合う全行委、民闘委が“反暴力”で大同団結、一般学生を巻き込んで、両者が対決の構えをみせている。』

【学生の動き緊迫 各所で集会】1970.6.23毎日新聞(引用)
『学生自治会をリコール、臨時執行部を選出した拓殖大学の学生約千人は、23日も同盟登校、午後1時からキャンパスで大衆団交を要求して集会を開いた。
安生君の死亡後、表面だった動きをひかえていた体育会学生も姿を見せ、セッタを引きずった学生が、キャンパスを行き来するなど学内は次第に緊張を増してきた。
学生たちは正午過ぎから続々と登校した。午後1時、退学処分になっている反帝学評のリーダー、K君がハンディマイクで、アジ演説を始めると、体育会や一部の学生から「お前は拓大生じゃないぞ」「引きずり出すぞ」とヤジが飛ぶ。
本館屋上のボリュームをいっぱいに上げたスピーカーで三代川学生部長が「K君、君は本学の学生ではありません。ただちに学外に出てください。学生諸君、学外者の言には耳を貸さないでください。不法集会はただちに解散しなさい」と繰返し呼びかける。そのたびに「やめろ、うるさい」のヤジ。
体育会系の学生がK君を連れ出そうとして、K君のまわりを固める学生ともみあう。どさくさにまぎれ、足をけり上げる学生、怒号とヤジが乱れとび、臨時執行部の学生の演説もよく聞きとれない。』

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【拓大、突然ロックアウト 機動隊が固め、押合い】1970.6.24毎日新聞(引用)
『“死のしごき事件”がきっかけで反日共系、日共系の各セクトが手を結んで学園民主化と暴力追放を訴え、自治会臨時執行部が発足するなど混乱の続いている拓殖大学は、24日朝、突然ロックアウトを行った。
ぞくぞく集ってきた学生たちは機動隊に守られた門の前で口々に「大学側のやり方はきたない」と訴えた。正午すぎ、大学の要請で機動隊員が西門前の学生の排除を始めて小ぜりあいが起こるなど“戒厳令下”の拓大紛争はますます深刻化の様相をみせている。
前夜遅くの緊急大学委員会で「23日の集会で体育会を中心とする学生がデモの学生になぐりこみ、けが人を出した。これ以上の混乱を見すごすわけにはいかない」とロックアウトを決めた大学側は、この朝、正門と西門の鉄トビラの上に「24日午前8時より学内秩序を維持するため当分の間休校し、学生の無断構内立入りを禁止する」という掲示を出し、同時に警視庁に機動隊の出動を要請、機動隊と大塚署員ら80人が門を固めた。
午後1時から大衆団交を要求して決起集会を開くことにしていた学生たちは午前9時ごろからしだいに集り、正午ごろには約300人に達した。機動隊の姿と、ピッタリ閉ざされた鉄格子の門を見てぼう然。
大学側の掲示を見上げて黙り込む者、歩道に腰をおろす者・・・小さな議論の輪ができ「大学はどういうつもりなのだ」「学内の暴力にこそ門を閉ざすべきだ」「こういう問答無用のやり方が学内に暴力をのさばらせるのだ」と怒りの声。(中略)

<「体育会、礼儀正しいョ」総長・中曽根長官はブ然>
拓大のロックアウトについて中曽根康弘総長(防衛庁長官)、三代川正一学生部長らは24日午前11時半から東京千代区の砂防会館で記者会見した。
“学園紛争のない最後の大学”と自慢していた政治家総長もさすがに堅い表情。「どうもお騒がせして申しわけありません」と席に着くなりロックアウトに至った「声明文」を棒読み、ついで切り口上で補足説明。
「正当な手続きによる話合いがいまのままではできない。一部過激派学生が政治闘争にすりかえる動きが顕著であり、東大、日大などの二の舞を踏まぬためにも休校措置を取った」「毎日デモでは古い体質を総点検したりする改革の時間的余裕がないんだ」とブ然たる表情。
ついで記者団の質問を受けたが“大物総長”も「体育会は規律正しい。武道をやる者は人間的エチケットを心得ている」と相変わらずの高姿勢。一問一答、次のとおり。

― ロックアウトしなければならない最大の理由は。
総長:きのうからの状態を見ると、もし学生がハッスルしすぎると暴力を引起こす危険性が出ている。学生たちのアタマをひやす意味で休校措置に踏切った。

― 当分の間というが、どのくらいか
総長:正規の手続きによる学生との話合いが軌道に乗るまでだ。1日から夏休みだが、解除の時期はわからない。

― 学生との話合いをどのように行なうのか。
総長:一部過激派学生の指導する臨時執行部は認めない。本校では前から自治会や文連、体連、寮ゼミなどの代表20数人と学校側が話合う「全学懇談会」がある。この会を生かしていきたい。

― 総長は体育会学生の暴力ざたなどを聞いたことがあるか。
総長:(それには直接答えず)体育会学生は人間的エチケットに反する者はいないとはいえないが、ごく少数だ。武道をやっている者は修練を積んでいる。体育会を右翼や暴力団というのはかわいそうだ。

― しかし学内にはヤクザのような人たちがいるし、この連中は学生なのか。
総長:どうなんです。(中曽根さんは三代川学生部長に答えをバトンタッチ。天井を向いて知らぬ顔)
学生部長:先輩などは、いれていなので学生でしょう。
(中曽根さん、ひとり言のように)近ごろの学生はみんな適当な格好をしているのでなあ。

― 一部の過激派学生とあなたは決めつけているが、きのうのデモにも千人もの学生が参加しているではないか。(中曽根さん答えず)
学生部長:1年生で学校のことがよくわからない子供さんたちが参加しているようだが、扇動しているのは政治活動にすりかえようとしている一部学生だ。』

(次週に続く)

久しぶりの全国学園闘争シリーズ。第9回目は、東京文京区の拓殖大学。
意外と歴史のある大学で、大学のホームページによると「明治33年(1900年) 台湾協会学校として東京に設立、明治40年 (1907年) 東洋協会専門学校と改称、大正7年(1918年) 拓殖大学と改称」とある。
初代総長は陸軍大臣桂太郎、そしてここに取上げる拓大闘争の時期には中曽根康弘氏が第12代総長となっていた。
今回も写真を撮りに行った(2011年)。最寄り駅は地下鉄「茗荷谷」駅。
大学は駅からはそれほど遠くない。10分もかからなかった。
周りは住宅地の高台で「なるほど文京区」という雰囲気である。跡見女子大が傍にあるのを初めて知った。古めかしい校舎があったので、写真をパチリ。(写真)


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拓大闘争が一躍注目を集めたのは1970年6月、新聞に載ったこの事件である。

【空手、死のしごき? 拓大】1970.6.16毎日新聞(引用)
『「退会したい」最後の練習
15日午後5時40分ごろ、東京文京区小日向3の4の14、拓殖大学(中曽根康弘総長)
の体育館で、同大政経学部1年、安生良作君(19)は、午後4時15分から約1時間20分の空手練習が終わって点呼のときに急に気分が悪くなって倒れ意識不明となった。
救急車で近くの病院に収容されたが、16日、午前1時40分、くも膜下出血で死亡した。
安生君は4月に入学してすぐ、同大の空手愛好会「拓忍会」に入会、毎週月、水、金の放課後に練習を行なっていた。
安生君は6月はじめから「練習がきついのでやめたい」と同会のリーダー、政経学部4年、斉藤憲治君に申出ており、15日は安生君の最後の練習日で30人の会員のうち、14人が参加していた。(中略)
大塚署では安生君の死因に不審を持ち、斉藤君ら練習参加者から事情を聞いているが、安生君の退会をあきらめさせようと、長時間にわたって安生君1人を集団でしごいた疑いが強いとして遺体を司法解剖するとともに警視庁捜査一課の応援で捜査を始めた。』

この事件をきっかけに一気に闘争が盛り上がりを見せる。
朝日ジャーナルの記事と、当時の新聞記事をから、その様子を見てみよう。

【“中曽根大学”ここに騒然】朝日ジャーナル1970.7.12号(引用)
『大学闘争が一つのサイクルを終え、大学が世間の耳目から遠のきつつある最中、空手愛好会メンバーのリンチ殺人事件が、これまで紛争と隔絶していた拓殖大学を、全国唯一の、ロクアウト大学におどり出させた。
自民党の“輝ける星”中曽根康弘防衛庁長官を総長にいただく拓大の学生たちは、リンチ事件が明るみに出て以来、学内で集会、デモを繰りひろげ、数日にして「拓大闘争によって、70年代大学闘争の転機をつくる」(6月25日、自治会臨時執行部の記者会見で)とまでに高まった。
20億円の使途不明金問題をバネとして起こった日大闘争の初期をほうふつさせる拓大生の高揚は、リンチ事件を「スポーツ団体の性格のゆがみ」「愛のムチの行過ぎ」とのみとらえた多くの論評が、いかに事柄を矮小化しているかを示した。
拓大生のさまざまなビラは「国家とともに歩んできたことを誇りとする、拓大70年の伝統と因習が、彼の死を招いた」と訴える。
リンチ事件をきっかけとした拓大生の立ち上がりもまた、日大、東大闘争と同じく、大学の腐敗、偽善の追及を通して、そのような大学をつくりあげた社会機構総体への告発にほかならない。(中略)』

【“拓忍会”徹底メス 逮捕の斉藤を追及】1970.6.19毎日新聞(引用)
『拓殖大学の空手愛好会「拓忍会」の“死のシゴキ事件”を捜査している警視庁捜査一課と大塚署は19日、朝、同会副会長斉藤憲治(同大政経学部4年)を傷害致死の疑いで逮捕した。(中略)
<民主化へ集会、デモ>
「安生君の死は拓大の封建的な体質が必然的にもたらしたものだ」「拓大に民主主義の根本、言論、集会の自由さえない」
安生君の死をきっかけに一般学生の間に“大学民主化”を要求する動きが表面化、19日午後1時すぎから構内のS館前に約500人が集まり集会を開いた。
S館の前の中庭やS館のベランダでは学生約500人が集会を見守っていた。
「学生自治会は体育会、学校側と結託し、学生の民主化要求をおさえてきた。安生君の死をムダにしないためにも、大学民主化をかちとろう」と、代表は携帯マイクであいさつするとドッと拍手がわき起こった。
これまで学内での集会の自由がなかったという学生たちは、つもりつもった不満を爆発させるかのように「大学民主化をかちとろう」「暴力反対」とシュプレヒコール。続いて大声で“インタ-ナショナル”を大合唱。これまで学生運動とはほとんど無縁だった同大は安生君の死をきっかけに民主化要求でゆれ動き始めた。
学生たち約200人は午後1時半すぎからS館前で「ワッショイワッショイ」とデモ行進。つめえりの学生服を着た体育会の学生が妨害しようとすると、まわりの学生から「帰れ帰れ、暴力反対」の大合唱が起こった。
午後2時すぎには、学生たち約300人が総長室や理事室のある本館1階廊下にすわり込んだ。』

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【拓大追悼集会 学生同士なぐり合う 一般学生自治会解散叫ぶ】1970.6.20毎日新聞(引用)
『空手愛好会「拓忍会」の“死のシゴキ事件”で2人の逮捕者を出した拓殖大学(中曽根康弘総長)では、20日午後零時半から学生自治会が学内の茗荷谷ホールで安生良作君の追悼集会を開いたが、前日に続いて全学行動委員会を中心にした一般学生も青空集会を開き、一部が“自治会集会”に乱入するなど、拓大キャンパスは避難と怒号がウズ巻いた。
自治会集会は前日の全学行動委員会を中心にした追悼集会とは違って、詰めえりの学生服を着た自治会学生がマイクで集会参加を呼びかけ、登校してくる学生に「オッス」とあいさつしながらビラを配った。
ビラには「この事件がわれわれに訴えている重要な点は拓大の一部に内在しているいろいろの非難さるべき因習である。一例がオッスの乱発による形式性と無言の圧力である」とあり、学生はあいさつとうらはらのビラにオヤッといった表情。
会場は約千人の学生でふくれあがった。
全学行動委員会系の学生もそのころから茗荷谷ホールのすぐそばで前日に引き続いて青空集会を開き、ホールの集会をボイコットして参加する学生もあり、このほうも千人以上にふくれあがった。
詰めえり学生服の体育会系学生が集会に割り込もうとすると「暴力団帰れ」と大合唱。わずか50メートルほどしか離れていないふたつの集会は、おたがいに相手を激しく非難、怒号とシュプレヒコールがキャンパスにこだました。
午後1時半すぎ、青空集会を開いていた学生のうち約300人はスクラムを組んでキャンパス内をデモ行進、ホールになだれ込んだ。
デモの学生たちは演壇にかけ上がろうとし、演壇の上と下で両派の学生約60人が入乱れてなぐり合いとなった。
会場から「暴力反対」のシュプレヒコール。約20分後、デモの学生が引揚げたため混乱は一応おさまった。その後、自治会側は追悼集会の解散を発表したが、約千人の学生は残ったまま小グループに分かれて討論をつづけ「暴力反対」「自治会解散」「安生君の死を政治闘争に利用するな」などと語り合っていた。(後略)』

(次週に続く)


新聞で見る1969年シリーズ。今回は1969年4月の毎日新聞に掲載された記事を紹介する。

【全学連中核派のマジメ特訓 妙義山も驚きました】毎日新聞1969.4.11  ―熱っぽく安保・沖縄 「講義」もいつしかアジ演説風にー
活動家の理論武装と戦意高揚をねらって各派それぞれ恒例の春の合宿を行った。いずれも東大闘争をはじめ、全国各地の学園闘争の中間のまとめや“70年安保”に向けての戦列強化などがその中心テーマだが、そこではいったい何が論じられ、何が語られたのか。「合宿に参加して闘う戦列に参加しよう」とのパンフレットを手に入れ、群馬県妙義山のふもとでこのほど4日間にわたって開かれた「中核派」の合宿をのぞいてみた。
ゲバ棒のふるいかた、バリケードのつくりかたでも教えるのか、という冗談を背に出かけた「合宿」は、案に相違して「革命の時が近づいた」「1970年代は1930年代に類似したものになろう」「日本帝国主義打倒」「安保粉砕」と熱っぽく、かつ大真面目で語られる。カタがこるほどの“不眠不休”の勉強会。ともかくも、初めて“公開”された合宿を通じて彼らの生態をドキュメントとしておくろう。

<ストで遅れる者は待とうや>
国労が運賃値上げに反対して時限ストを行った3月18日午前9時ごろ、通勤客でごった返す池袋駅前に、若者が二百人あまり集まった。髪の毛をバサバサに長くたらし、ふてぶてしいつらがまえが目立つ。
合宿の実行委員長小林輝美君(中核全学連書記次長)が台の上に立って、あいさつを始める。「国労のストのため一部の学友がまだ到着していないが、われわれはストを断固支持しているので、少々の遅れはがまんしようじゃないか」・・どっと笑い声が起こる。
そのまま観光バス4台に分乗して気長に待つ。バスに乗る時に“交通費”の前金として1人千円ずつ取られる。小林君は道路にしゃがみこんで集めた金の勘定。“タダ乗り”はいないか、遅れているのはだれか、参加名簿に照らして大学ごとにチュックしていく。
午前11時30分。予定より2時間半も遅れてようやくスタート。「4月の闘いを前に、合宿参加者全員が、俗世界を離れて、高い理論と強い組織的盛り上がりのため全力を尽くそう。妙義山まではこれから4、5時間かかる。疲れをいやし、エネルギーをたくわえるため、ゆっくり眠っていこう」と再び合宿実行委員長の短いあいさつ。バスガールがこれを受けて「みなさん毎日のご活躍ご苦労さま。どうぞごゆっくりおくつろぎください。」と車内放送を始めるが笑い声ひとつたてる者もいない。みな押し黙って本を読むか、眠りこけたまま、バスにゆられる。
妙義山のふもとの旅館に着いたのが午後4時。「合宿が成功しますように」と再びバスガール。

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写真「妙義山ろくの合宿所に乗り込む全学連中核派の学生たち。旅館の玄関には「歓迎 法政大学経済ゼミナール様ご一行」とあった。

<四千五百円の費用個人もち>
直ちに大広間で部屋割りと合宿参加費の金集め。1人1泊千円で3泊分の三千円。資料代が二百円、バス代が往復千三百円で合計四千五百円。
すべて個人負担の合宿費用だ。その間にも地元の群馬大生や山梨大生が会場づくりに余念がない。参加者は日大、群大など1校で30人から50人のマンモス部隊があるかと思うと、1人1校の“代表参加”もあって、全部で関東、東北地区51大学、約三百人という。ほとんど同時に、関西、九州、中・四国ブロックでも開かれたとか。
「委員長(金山克己君=横浜国大生)はじめ書記長、中執など我が派だけで三百人を超す活動家が獄中につがれていて、なお、この盛況ぶりなんですから」というのが彼らのご自慢。
午後4時50分、部屋割り終了。女性の参加者30余名は全員、別の旅館に部屋が割当てられた。
午後6時15分、てんでんばらばらに食事開始。全員がそろったところで一斉に「いただきます」などという光景は合宿中についに一度も見られずじまい。紙のように薄いトンカツ、魚、サラダ、野菜の盛り合わせ、トウフのすまし汁、どんぶりメシを5分か10分で平らげる。
午後7時、合宿第1夜の講義が始まった。「全学連主催・安保・沖縄ゼミナール」というのが正式テーマだ。小林実行委員長が立って「国家権力の弾圧、財政の圧迫、四月闘争への準備という苦しい状況の中で結集した諸君。闘いながらの、闘いからつかの間抜け出ての、苦しい合宿となったが、ここであらためて闘う情熱をともに学んでほしい」と強調する。
ついで法政大の学生の「安保・沖縄・研究報告=日米同盟を基軸にして」16枚のワラ半紙うらおもてにぎっしり謄写版印刷されたレジュメ(要旨)を報告者が読んでいく。「日米同盟を規定する世界史的条件」「世界経済の焦点―アジアにおける反植民地・後進国支配体制の動揺とその反動的再編」「日米同盟の再強化を基軸とする日本帝国主義の反動的登場」「日本帝国主義の攻撃の基本的動向」というようなこむずかしい「講義」が続く。
要するに「日本帝国主義はいまや“死の苦悶”に悩んでいるのだ。いまこそ追撃しよう」というわけである。
「70年代にはテキの正面突破を大胆に確認しよう。最後は機動隊を飛び越えて、自衛隊や右翼との直接対決も辞さないぞ」と“講義”からアジ演説にエスカレートしたところで、すかさず「イギナーシ」。午後11時すぎにようやく講義が終わった。
「闘いに追われて、明日のレジュメがまだできていない。各校1人ずつカッティングとスッティングのため代表を出してほしい」と要請。代表に選ばれた者は徹夜作業となった。

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<いい席は早くとらなけりゃ>
翌19日。午前7時半に「起床、起床」の声で起こされる。ドライヤーで髪の毛をこすりつけるようなおしゃれな子は一人もいない。冷たい水でブルルンと顔を洗う程度。もちろん寝間着などというしゃれたものはない。センベイブトンに洋服やジャンパーのままもぐりこんだだけだから、朝は簡単だ。午前8時、白菜のおつゆ、卵焼き、ノリ、ツケモノにどんぶりメシの朝食。講義にそなえて席取り競争が激しい。別館の女性が到着する前にいい席はみんな男が独占、数少ない残ったザブトンを持っていこうとした女子学生に「ナンセンス」。
午前9時20分「講義開始」。昨夜のレジュメをふまえての自由討論、「いまの体制や機構は根本からくだらない、つまらないんだ。すべてぶこわせ、ぶっ倒せ」「安保がなければいまや日本の支配階級はやっていけない。そのつっかい棒ともいうべき安保をたたきこわせ」と勇ましい。

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<詰め込み主義でまる三日間>
午後1時すぎ、カレーライスの昼食をはさんで、午後からは東大中核派支部による「大学を安保粉砕・日帝打倒のトリデに」の講義。夜は再び自由討論。午後10時半終了。再び明日のレジュメ作りのため、“徹夜代表”選出。
“全学連主催”はここで終わり、あとは“マル学同中核派主催”の合宿に切りかえ。20日は「現代帝国主義論と国際共産主義運動史」。「30年代の敗北を教訓として70年代を勝ちぬこう」と語られ、最終日の21日は「70年へ向けての展望・四月闘争への決意」として締め上げられた。
せっかく妙義山まできながら、山登りひとつない、つめこみの勉強会。午後5時すぎ、ようやくスケジュールを全部終了し再びバスで帰京。もったいないまでのエネルギーと驚嘆するばかりの勤勉さ、キマジメぶりである。』

(終)

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