野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2014年06月

先週(No342)に引き続き、1970年の拓殖大学闘争の記事を掲載する。
今回が最終回である。

日大・拓大生座談会 孤立と連帯のはざまで】朝日ジャーナル1970.7.12号(引用)

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『司会 高木正幸
高木:安住君死のリンチ事件で、拓大の学生が立ち上がった。世間からみれば拓大ではじめて学生運動がおこったと言われるが、実はここ2,3年潜在的に改革運動が続けられてきている。それが日の目をみなかったのは、日大と同じように、大学の管理体制下にがんじがらめに縛りつけられていたことと、大学側の先兵としての右翼=体育会系暴力装置が運動を押さえつけてきたことによる。そこで、まず、今回の拓大闘争の前史及び現状の報告から話してもらいたい。

拓大W:67年6月に“第一次民主化闘争”があった。当時のそれなりに民主派だった自治会が、授業料値上げ問題とか学生会館問題など、公開七つの質問状を大学当局につきつけた。それにたいして当局はなんら答えようとしなかった。そこで抗議行動として、本館前で200のすわり込み闘争をやった。そこへ例の日大芸術学部を襲撃した右翼が、日本刀をもってなぐりこんできた。翌日「拓禅会」「拓忍会」などの右翼暴力集団によって自治会室が占拠され、自治会は機能停止に陥った。そういう状況の中で、学生大会を開いたが、すごいなんてものじゃない。意見はもちろん言わせないし、ヤジをとばせば、ひっぱりだされてブッとばされる。体連・寮が総動員されていて、一番前の人間が手を振ると連中がワーッと拍手する。そういう構造によって「旧自治会執行部」がデッチあげられた。
なんとかしなちゃいけないと思って、ぼくらは拓殖大学学生連絡会議という組織を作って地下活動をはじめた。コツコツ地道な活動を続けた結果、代議員会をぼくたちがとった。それで表だった活動としては代議員会なり社研なりという形でやっていた。そこに68年11月の学園祭での“社研・現代政治研究同好会事件”がおきた。現代政治研が学生運動に関する展示をし、社研がロシア革命に関する展示をしたところ、右翼がやってきて、展示を破られ、テロられ、麗沢湖につけられて「オス」を50回言わされた。
それに関して、伊東学生部長名で、「たとえ拓大のためとはいえ、直接行動にでることは相手を利するのみの結果を招く。暴力排すべし。しかし挑発行為も排すべし。」という内容の大学側見解が出された。社研・現代政治研の展示は挑発行為であるというんです。そこでぼくらは、暴力事件を問題にして討論の輪をひろげ、声明文を持ちよって代議員会をもったが、またまた右翼にふみこまれ、軟禁状態を強いられた。12月には、ある程度の運動の盛り上がりをみせたが、冬休みに入ることによって結局つぶれていった。
そのいらだちのなかから、ぼくらは東大闘争にでかけていった。ぼくはそのまま逮捕され、起訴され、停学にされた。拓大というのは面白いところで、個人の政治活動を認めるわけです。要するに、右翼の活動はいっさい認められている。北方領土返還運動ならいい。日の丸行進だとちゃんとタテカンがでる。ところが、北方領土が沖縄に、安保に変わると、左翼だからいかんとくるわけです。だからぼくの処分理由というのはふるっていて、小菅拘置所での面会拒否と、学生部長からの事実経過の説明要求の拒否が理由にされた。
処分問題と並行して、「扶桑」の表紙の裏に、日大全共闘の写真がはってあることを理由に、発行直後に大学側によってすべて回収されたんですが、実はその写真をはったのは旧自治会のK委員長なんです。本当の問題がどこにあったのかといえば、社研なり、現政研なり、代議員会なりの文章の内容であった。それを旧自治会は自主規制によって肝心なところを伏字にしていた。
この処分事件・「扶桑」事件をきっかけとして、ぼくらは69年6月7日、“全学行動委員会”の結成大会を新大塚公園で開いた。そこに右翼がなぐりこみ。学生部職員もデカもいたけれど、40人がケガをし、6人の重傷者がでた。その怒りをぼくらは20日の集会にぶつけた。約一千人くらい結集して、はじめて学外デモをやった。しかし、ぼくたちの闘争のとらえ方が甘かったがゆえに、7月、8月と何もできなくて、書記局部分がみんな崩れていた。つまり、夏休みのあいだに、地方の支部を通じて直接家庭に圧力がかけられたんです。その結果、ぼくもやられましたけれど、ボンボンボンボン経済ストップが出た。その問題でつぶれていった。

拓大X:拓大の支部は全国で73支部あって、かなりの力をもっており、各家庭を掌握している。そこから親に恫喝がかかる。「おたくの息子さんは、大学でこういうことをやっている・・・」。ふつうの親御さんはそれに弱い。息子なり娘がケガをしたら困る。だから「やめてくれ。やめないんだったら、仕送りをとめるぞ」。

<なぜ運動がつぶれたか>
拓大W:昨年10月7日から、新しいメンバーを中心にして、ふたたび運動が盛り上がり、24日には初の学内デモも行った。そのあとぼくの退学処分が出て、運動はぺしゃんこ。ぼくは退学される1日前に、旧自治会主催の学生大会に入っていって、「処分に関して一言でいいからぼくに発言させろ」と要求した。ところが旧執行部いわく、「きみを処分したのはわれわれではない。学校当局によって処分されたんだから、ここで発言させることはできない」。そのあげくに暴力的にたたきだされる。
以来半年間、ぼくらはなぜ運動がつぶれたのかを徹底的に総括討論してきた。そのなかで出てきたのが、闘争の質、ぼくたち闘争を担う主体の側の団結の質の問題だ、ということだ。それまでは、拓大は前近代的封建的な大学であり、ふつうの大学並みにしたいという意識だった。しかし考えてみると、中曽根就任以来、「総長講演」で「70年代の自主防衛路線」だとか「国家安全保障論」とか、すさまじいものばかりやっている。拓大の根本的矛盾は、教育の内容であり、産学協同路線なんだ、とぼくらの意識が変わっていった。そういうものを学内的に保障するものとして、右翼学生の暴力的支配があり。言論出版弾圧があり、麗沢会体制がある。ぼくたちがいたずらに大衆から遊離するのを恐れて、単に暴力反対を叫ぶのではなく、意識的に安保を、ベトナムを、教育の帝国主義的再編を語ることが必要なんじゃないのか。彼らの弾圧に耐え抜き、粉砕できるだけの団結の質をもった運動体形成をしなくちゃいけない。そういう痛烈な総括の中から、“六月行動委員会”が作られた。

拓大Z:そこへ安住君の死。客観的にみれば、ぼくらとはちがう部分なんです。けれども、ぼくらが問題にしたのは、リンチ事件の温床を与えていたのはだれか、それはぼくらである、ということなのです。ぼくらは被害者であると同時に加害者である。安住君の死をまたひとつの事件として葬り去ってはならない。ぼくらは数多くみている、寮での原因不明の死亡事件。体連・文連のクラブにおけるシゴキなんてのは、日常茶飯事として拓大の秩序のなかにベッタリはまりこんでいる。以前にも早大生を殺しているし、池袋・新宿などの盛り場での傷害事件。拓大のれっきとした講師が傷害事件・暴行事件をおこして、そのまま大学におさまっている。めっちゃくちゃな事態が平然とまかり通っている。そういう拓大の日常的秩序のなかで、安住君は死んでいた。それは氷山の一角であり、おこるべくしておこったものだ。
「拓忍会」というのは、空手愛好会となっているが、それはカモフラージュにすぎない。「関東軍」なり、「朝鮮高校をなくす会」といった特殊な政治活動を目的とする団体である。安住君は再三再四退会届を出した。学校当局にも要請した。当局は「きみのことはわかった。まかしておいてくれ」と保証したにもかかわらず、実際にはなにもしない。安住君はみずからの解放をかちとるために、彼なりにささやかな抵抗をつづけた。その結果、死という代償をもって、はじめてそこからみずからの解放をかちとることができた。
ぼくらは67年以来のぼくらの運動にかけられてきた弾圧と、安住君にかけられた弾圧・虐待とは、本質的に同じだと考えた。だから、安住君の死を拓大闘争の突破口として利用するという気持ちはサラサラない。ぼくらは第二第三の安住君をださないとともに、安住君のご両親が「わたしは直接うちの息子に暴行をくわえた本人を憎むのではなく、拓殖大学の機構そのものを憎む」と語ったように、拓大総体の根底的変革めざすものとして、今回の闘争を位置づけている。
(中略)

<大状況の違い>
高木:最後に今後の闘争の展望について討論してもらいたい。
日大A:日大の場合大衆的な蜂起に成功し、全学的な波及をかちとることができたのにたいして、拓大ではそれほどまでに高揚していない。なぜか。ひとつには、68年当時の日大あるいは全国的な大学の状況と、今日70年における拓大の状況とが、大状況からして異なっている。すなわち、69年1月18.19日の東大闘争の頂点がああいう結果になり、それ以降の全体的な政治的ムードとして、大学を拠点とする闘争は、もはやひとつの大きな波を終えたのであるというキャンペーンが、要するに、68年当時から燃えさかった全共闘運動というのはひとつの悪夢だったというキャンペーンが、なんとなく流れている。もうすこし政治的にいえば、1月安田というのは、60年代の学生戦線を中心とする部分のひとつの決着としてつきだされたということ。一方で、国家権力の側は右翼暴力団や自警団など私的な暴力装置をもフル回転させた形で、われわれの陣営に対して極端な武力集中をかけてきている。もうひとつは、日大の場合には、5月23日の蜂起以降、ただちに全学共闘会議が結成された。拓大の場合、全学的な闘いのはっきりした方向をもった統一の中枢がないと、右翼、大学当局、さらには国家権力をも利用した敵権力の攻勢には勝てないだろうと思う。

拓大X:拓大の場合、すべての部分を含む臨時執行部ができている。この臨執が全学を代表する機関として当局にあたる。中曽根自身記者会見で「臨執は大衆団交代表団であって、自治会ではない」と語っており、裏返しに大衆団交代表団として認めている。そして、具体的に運動を担うのは、各闘争委員会。各闘争委員会がみずからのスローガンとみずからの個別任務をもって参加してくるなかで、ぼくら自身の相互連関をいかに実質化していくかが現在の課題である。
日大闘争において全学共闘会議は必然性をもって作られていった。ぼくらの運動形態も必然性そのものから出てこなければいけない。それこそ70年代の新しい運動形態であり具体的に考えているのは、全体波及ではなく、全体からの集約でもって拓大闘争を闘いぬくということ。そのためにはわれわれの行く先々での情宣が必要であり、全都、全国での組織化が問題であり、とりわけ茗荷谷地区の組織化が意味をもってくる。日大芸闘委は孤立無援の思想で闘った。僭越な言い方になるかもしれないが、ぼくらは孤立無援はお断りだ。そのためにはどうするのか。「拓大は唯一果敢に闘っている。だからきみたちも来い」では、やっぱり個別学園闘争の枠を思想的にも運動的にものりこえられない。拓大からの単なる波及ではなく、再度各学園が新しい局面を切り開くなかにおいて、質的なつながりをもっていく。その意味で、全国全共闘の初心の具現化みたいなものを考えたい。
とにかく権力側は金とヒマにまかせて、ぼくらの運動をよく分析している。拓大当局はぼくらの動向をみまもりつつ、学内再編をはかっている。多角的な闘争圧殺をねらっている。それと闘うには新しい闘争形態が必要だ。ぼくら自身でっかくかまえて、いわば余裕をもって闘いたい。

拓大Z:現在ロックアウト体制がしかれている。9月になってもロックアウトが続くことは十分予想される。では、ただとびこんでいけば粉砕できるかというと、そうではない。どれだけあらゆるグループをぼくらが汲みつくしていけるか、それがこの夏休みの最大の課題である。もし汲みつくすことができれば、9月以降の展望はそれこそ洋々たるものとしてある。(後略)』


※今回引用した朝日ジャーナルの記事は、以下のホームページの全国学園闘争「図書館」の全国学園闘争資料欄に全文を掲載しています。

明大全共闘・学館闘争・文連

(終)

先週(No341)に引き続き、1970年の拓殖大学闘争の記事を掲載する。

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【民主化へさらに熱気】1970.6.28毎日新聞(引用)
『“赤旗”のない紛争といわれた拓大紛争も、27日の集会で初めて学生たちが、自治会旗やサークルの旗を持って参加、エスカレートする気配が出てきた。
この日、午後1時から東京文京区大塚の窪町東公園で開かれた拓大自治会臨時執行部の「学園暴力追放。ロックアウト反対決起大会」にはロックアウトのきっかけをつくった23日の学内デモとほぼ同じ約千人が参加した。学生たちは「中国語共闘」「社思研」など赤、青、黄いろとりどりの旗をひるがえし、気勢をあげた。
“硬派大学”の学生運動として、インターも赤旗もない闘争だっただけに注目される現象。桜井委員長も「大学教職員や体育会、文連の中にも闘争支持の動きが生まれている。一万人学友、教職員と一緒に戦う幅広い民主化闘争にしよう」と呼びかけた。
集会、デモとも午後5時すぎ終わり、同執行部は28日に予定した学生大会は会場がとれないため中止、30日午後1時から窪町東公園で集会、参加者が五百人を越せば学生大会に切替え、今後の闘争方針を決定する。』


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【厳戒の中、説明集会 二ヶ月ぶりに校門開く】1970.8.24毎日新聞(引用)
『ロックアウト解除のタイムリミット9月1日を前に、拓殖大学は24日午後1時から学年別説明集会を報道陣をシャットアウトして機動隊、大学職員の警戒の中で学内の茗荷谷ホールで開いた。
この日の集会は4年生二千人が対象、同大学の正門が学生に開放されたのは6月24日から二ヶ月ぶり。
正門周辺には大塚署員、第二機動隊約50人が警戒、登校してくる学生の入校証と学生証をチェック。ものものしいふんいきで説明集会の幕を開けた。
開門時間の正午をすぎても登校してくる学生はまばら。午後1時半までに三百人が緊張した表情で教職員の“検問の列”を通り過ぎていた。
集会に参加する男子学生は「事件後、二ヶ月以上もたっての説明集会はおかしい」「この厳戒ぶりはどういうことなんだ」「もっと自由なふんいきでじっくり話合うべきだ」と話していた。
一方、拓大紛争を指導してきた学生自治会臨時執行部の学生約50人は、正午から東窪町公園で説明集会に抗議する集会を開き「大学ペースのごまかし反対、不当処分撤回」を決議、午後二時から大学周辺をデモ行進、他大学の反帝学評学生40人も拓大闘争を支援する集会を大塚公園で開いた。』

【「全学協議会つくる」中曽根総長が声明】1970.8.25毎日新聞(引用)
『(前略)大学当局は集会は大成功として9月1日から「学内デモをしません」など大学側に誓約書を提出した学生だけを学内に入れ、活動家学生を締出す“切捨て授業再開”を行なう方針を決めた。しかし、この日の集会に出席した学生の中にも大学当局が約束した体育会、学生寮などの体質改善についての具体策が示されなかったことに不満をもらす者もあった。
対話集会には約二千人の四年生のうち「誓約書」を提出した約五百人が出席、中曽根総長が拓大ビジョンについて「民族的国際大学、学園共同体、開拓精神の三本の柱でいくべきだ」と述べたあと、改革案が説明された。
これに対し。学生側から「大学側の責任はどうするのか」」活動家学生の処分がきびしすぎる」などの質問があったが、同総長らは「大学側の責任は正常化がすんでから検討する。学校の許可なく行なった学内デモについては今後も学則どおりきびしく処分する」と相変わらずの“高姿勢”で回答、8人の学生の質問で“時間切れ”となり閉会した。(中略)
三代川学生部長は集会後の記者会見で「授業再開は、集会と同じように警官隊に警備をつづけてもらい、誓約書を提出したマジメな学生だけで行なう。いまの段階で約一万人のうち六割が誓約書を出している。いつまでも誓約書をださない学生は授業を受けられず自動的に退学になってもやむを得ない」と強気の発言をした。(後略)』

【全学連 拓大闘争に連日起つ】1970.9.18「解放」(引用)
『<24日から連日説明会粉砕の闘い>
8月24日、当局の設定した対話集会に対し、近代化攻勢の中身を見ることの出来ぬ、臨執内少数派(民青・協会・革マルの癒着集団)が何ら方針を出しえぬ中(9・4法大の総長説明会に対して、中核派が「静観」を決めこんだのと一対をなす)公然とヘルメットをかぶり、拓大臨執と、それに連帯する全学連部隊は断乎たる粉砕闘争を貫徹した。
拓大臨執・全学連部隊は窪町公園・大塚公園に結集し、相次いで拓大正門に向け出発した。
正門は、当局の恐怖を物語るように、蟻のはい出る隙もない程、内は右翼暴力団、外は機動隊によって固められる中を先ず到着した拓大臨執の隊列は、断乎たる突撃を執拗に繰返し、更に全学連部隊が竹槍を先頭に、3名の不当逮捕をうけつつも強固なうず巻きデモを敢行した。
その間、学内では、カキ集めた右翼学生を前に、中曽根が「民族国際大学」をブチ上げていた。その後、デモコース後半で二つの隊列は合流し、雑司ヶ谷公園で共同の総括集会を持ち、今後の連帯と協力を確認した。(後略)』

1970年の拓大闘争へ至る歴史を、朝日ジャーナルの記事から見てみよう。

【“中曽根大学”ここに騒然】朝日ジャーナル1970.7.12号(引用)
『(前略)拓大生が記録する“弾圧と闘争の歴史”は次のようなものであった。
<第一次民主化闘争>
42年6月29日、学生約200人が学生会館の設立、クラス制度の確立など11項目を要求、本館前にすわり込むが、夜9時ごろ、拓禅会、右翼学生など7、80人が日本刀をもって「たたき殺すぞ」とおどした。
30日、体育系学生が自治会室を占拠、内部を荒らした。
<社研・現代政治研究同好会事件>
43年11月1日の学園祭で、社会科学研究会が赤い社研会旗を展示場に掲げ「学園民主化の旗のもと、すべての学友は団結せよ」と黒板に書いたところ、学生とOB数人が入ってきて次々になぐりつけ「頭を冷やしてやる」と学園内の麗沢湖に4人を連れていって中に押入れ、水の中で「オス」を50回ずつ言わさせた。
一方、現代政治研究同好会の部屋にも学生服の学生が来て、展示物を荒らした。
<合同代議員監禁事件>
同月19日、合同代議員会(自治会の1、2年生の組織)が社研事件について討論中、銃剣道部員、OBなど約10人が来て、集会を中断させ、東大結集を呼びかけたパンフレットを配った役員の足を蹴り、首をつかんで連れてゆこうとした。
学生はトイレに行くにも後をつけられて軟禁状態になり、議事を全部終わらぬまま閉会した。
<「扶桑」事件>
学内誌「扶桑」(自治会、麗沢会発行)の44年4月号の、社会科学研究同好会の紹介記事の中の9ヶ所が、いつの間にか次のように空白となっていた。
「拓大キャンパスに総結集した二千人の新入生諸君   右翼   学生を打倒し、学園の民主化を勝ち取る闘い・・・」「43年は「大学の年」と呼ばれた。  、  闘争を初めとして・・・」。この「扶桑」第10号は発行直後に大学学生部に回収された。
<小泉事件>
44年3月29日、商学部2年小泉佳久君が「1月10日、反帝学生評議会の東大7学部集会場(秩父宮ラクビー場)に向って行動したことに関連して、凶器準備集合罪の嫌疑により神宮球場前にて検挙され、1月22日に起訴になった。他大学の秩序を乱す行動に参加し、暴力否定の理念に徹すべき大学教養人として凶器準備集合罪の嫌疑を受ける挙動を慎まなかったのみならず・・・本学学生主事補が小菅拘置所に面会に赴いても面会を拒否し、又保釈後学生部長により再度にわたる質問を受けても「事件に関しては答えたくない」の一点張りで回答しなかったことは、拓殖大学学生としての本分にもとる行為であるから、学則により処分する」と無期停学に処された。
同君は後に、無届けの学内集会を指揮したなどの理由で退学処分を受ける。
<第二次民主化闘争>
「扶桑」事件、小泉君処分事件をきっかけとして、同年5月8,9、12日と学内青空集会が開かれ、数百人の学生が右翼暴力学生追放、検閲制度撤廃などのスローガンを掲げて討論した。
6月6日、学生大会が開かれ、社研の会長が「扶桑」事件を報告しようとしたところ、会場前方を占拠していた体育会系学生が妨害、マイクを奪うなどして大混乱。学生約200人が地下鉄茗荷谷駅まで無届けで初のデモ、同駅で抗議すわり込み。
同7日、新大塚公園で約200人が集会中、カーキ色の揃いの服の銃剣道愛好会のメンバーが、工事用鉄パイプ、木刀などをもってなぐり込み、3人が重傷で入院、15,6人がケガをした。
 集会で「全学行動委員会」が旗上げする。この日のなぐり込み事件で大塚署は大学側に警告する。同12、13日、新大塚公園で抗議集会。同20日、新大塚公園で全学総決起集会、大学までデモ。はじめ約200人だった学生が終わりには約千人にふくれ上がる。
大学側は門を閉鎖して、デモの構内進入をはばんだ。
8月から9月にかけ、立教大などで全学行動委、学年代表などの集会を開き、10月7日、教育大横公園で全学回答要求総決起集会。大学へ向け約200人がデモをするが、警察隊の規制を受ける。
10月15.16.17日、学内青空集会、同22日、大ホールで抗議集会。同24日、教授会弾劾集会、初の学内デモ。通用門前でビラを配っていた学生に、右翼系がなぐり込んだ。
初の学内デモをはじめ、第二次民主化闘争が最高の盛上がりをみせた昨年6月、中曽根総長は「親愛なる拓大生諸君」と呼びかける自筆の毛筆の書簡を印刷にし、全学生に配布した。
「拓大が東大の真似をすることはナンセンスであるし・・一部学生の学園秩序無視の行動は、秩序のもとに復帰しなければならない・・世間的には拓大の評価は「紛争のない最後の大学」というところにあった・・この期待がうしなわれて心ある人々の失望はいかなるばかりのものとなろうか・・我々は愛する拓大のために、国家社会の安定のために拓大を守り切らねばならない。」
だが、中にちらつかせた「処分」の文句も、いつ来るかわからない体育会系学生の襲撃に身体の危険をかけて立ち上がった学生には、脅しの効果をもつものでなかった。(後略)』

(次週に続く)

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