先週(No342)に引き続き、1970年の拓殖大学闘争の記事を掲載する。
今回が最終回である。
【日大・拓大生座談会 孤立と連帯のはざまで】朝日ジャーナル1970.7.12号(引用)
『司会 高木正幸
高木:安住君死のリンチ事件で、拓大の学生が立ち上がった。世間からみれば拓大ではじめて学生運動がおこったと言われるが、実はここ2,3年潜在的に改革運動が続けられてきている。それが日の目をみなかったのは、日大と同じように、大学の管理体制下にがんじがらめに縛りつけられていたことと、大学側の先兵としての右翼=体育会系暴力装置が運動を押さえつけてきたことによる。そこで、まず、今回の拓大闘争の前史及び現状の報告から話してもらいたい。
拓大W:67年6月に“第一次民主化闘争”があった。当時のそれなりに民主派だった自治会が、授業料値上げ問題とか学生会館問題など、公開七つの質問状を大学当局につきつけた。それにたいして当局はなんら答えようとしなかった。そこで抗議行動として、本館前で200のすわり込み闘争をやった。そこへ例の日大芸術学部を襲撃した右翼が、日本刀をもってなぐりこんできた。翌日「拓禅会」「拓忍会」などの右翼暴力集団によって自治会室が占拠され、自治会は機能停止に陥った。そういう状況の中で、学生大会を開いたが、すごいなんてものじゃない。意見はもちろん言わせないし、ヤジをとばせば、ひっぱりだされてブッとばされる。体連・寮が総動員されていて、一番前の人間が手を振ると連中がワーッと拍手する。そういう構造によって「旧自治会執行部」がデッチあげられた。
なんとかしなちゃいけないと思って、ぼくらは拓殖大学学生連絡会議という組織を作って地下活動をはじめた。コツコツ地道な活動を続けた結果、代議員会をぼくたちがとった。それで表だった活動としては代議員会なり社研なりという形でやっていた。そこに68年11月の学園祭での“社研・現代政治研究同好会事件”がおきた。現代政治研が学生運動に関する展示をし、社研がロシア革命に関する展示をしたところ、右翼がやってきて、展示を破られ、テロられ、麗沢湖につけられて「オス」を50回言わされた。
それに関して、伊東学生部長名で、「たとえ拓大のためとはいえ、直接行動にでることは相手を利するのみの結果を招く。暴力排すべし。しかし挑発行為も排すべし。」という内容の大学側見解が出された。社研・現代政治研の展示は挑発行為であるというんです。そこでぼくらは、暴力事件を問題にして討論の輪をひろげ、声明文を持ちよって代議員会をもったが、またまた右翼にふみこまれ、軟禁状態を強いられた。12月には、ある程度の運動の盛り上がりをみせたが、冬休みに入ることによって結局つぶれていった。
そのいらだちのなかから、ぼくらは東大闘争にでかけていった。ぼくはそのまま逮捕され、起訴され、停学にされた。拓大というのは面白いところで、個人の政治活動を認めるわけです。要するに、右翼の活動はいっさい認められている。北方領土返還運動ならいい。日の丸行進だとちゃんとタテカンがでる。ところが、北方領土が沖縄に、安保に変わると、左翼だからいかんとくるわけです。だからぼくの処分理由というのはふるっていて、小菅拘置所での面会拒否と、学生部長からの事実経過の説明要求の拒否が理由にされた。
処分問題と並行して、「扶桑」の表紙の裏に、日大全共闘の写真がはってあることを理由に、発行直後に大学側によってすべて回収されたんですが、実はその写真をはったのは旧自治会のK委員長なんです。本当の問題がどこにあったのかといえば、社研なり、現政研なり、代議員会なりの文章の内容であった。それを旧自治会は自主規制によって肝心なところを伏字にしていた。
この処分事件・「扶桑」事件をきっかけとして、ぼくらは69年6月7日、“全学行動委員会”の結成大会を新大塚公園で開いた。そこに右翼がなぐりこみ。学生部職員もデカもいたけれど、40人がケガをし、6人の重傷者がでた。その怒りをぼくらは20日の集会にぶつけた。約一千人くらい結集して、はじめて学外デモをやった。しかし、ぼくたちの闘争のとらえ方が甘かったがゆえに、7月、8月と何もできなくて、書記局部分がみんな崩れていた。つまり、夏休みのあいだに、地方の支部を通じて直接家庭に圧力がかけられたんです。その結果、ぼくもやられましたけれど、ボンボンボンボン経済ストップが出た。その問題でつぶれていった。
拓大X:拓大の支部は全国で73支部あって、かなりの力をもっており、各家庭を掌握している。そこから親に恫喝がかかる。「おたくの息子さんは、大学でこういうことをやっている・・・」。ふつうの親御さんはそれに弱い。息子なり娘がケガをしたら困る。だから「やめてくれ。やめないんだったら、仕送りをとめるぞ」。
<なぜ運動がつぶれたか>
拓大W:昨年10月7日から、新しいメンバーを中心にして、ふたたび運動が盛り上がり、24日には初の学内デモも行った。そのあとぼくの退学処分が出て、運動はぺしゃんこ。ぼくは退学される1日前に、旧自治会主催の学生大会に入っていって、「処分に関して一言でいいからぼくに発言させろ」と要求した。ところが旧執行部いわく、「きみを処分したのはわれわれではない。学校当局によって処分されたんだから、ここで発言させることはできない」。そのあげくに暴力的にたたきだされる。
以来半年間、ぼくらはなぜ運動がつぶれたのかを徹底的に総括討論してきた。そのなかで出てきたのが、闘争の質、ぼくたち闘争を担う主体の側の団結の質の問題だ、ということだ。それまでは、拓大は前近代的封建的な大学であり、ふつうの大学並みにしたいという意識だった。しかし考えてみると、中曽根就任以来、「総長講演」で「70年代の自主防衛路線」だとか「国家安全保障論」とか、すさまじいものばかりやっている。拓大の根本的矛盾は、教育の内容であり、産学協同路線なんだ、とぼくらの意識が変わっていった。そういうものを学内的に保障するものとして、右翼学生の暴力的支配があり。言論出版弾圧があり、麗沢会体制がある。ぼくたちがいたずらに大衆から遊離するのを恐れて、単に暴力反対を叫ぶのではなく、意識的に安保を、ベトナムを、教育の帝国主義的再編を語ることが必要なんじゃないのか。彼らの弾圧に耐え抜き、粉砕できるだけの団結の質をもった運動体形成をしなくちゃいけない。そういう痛烈な総括の中から、“六月行動委員会”が作られた。
拓大Z:そこへ安住君の死。客観的にみれば、ぼくらとはちがう部分なんです。けれども、ぼくらが問題にしたのは、リンチ事件の温床を与えていたのはだれか、それはぼくらである、ということなのです。ぼくらは被害者であると同時に加害者である。安住君の死をまたひとつの事件として葬り去ってはならない。ぼくらは数多くみている、寮での原因不明の死亡事件。体連・文連のクラブにおけるシゴキなんてのは、日常茶飯事として拓大の秩序のなかにベッタリはまりこんでいる。以前にも早大生を殺しているし、池袋・新宿などの盛り場での傷害事件。拓大のれっきとした講師が傷害事件・暴行事件をおこして、そのまま大学におさまっている。めっちゃくちゃな事態が平然とまかり通っている。そういう拓大の日常的秩序のなかで、安住君は死んでいた。それは氷山の一角であり、おこるべくしておこったものだ。
「拓忍会」というのは、空手愛好会となっているが、それはカモフラージュにすぎない。「関東軍」なり、「朝鮮高校をなくす会」といった特殊な政治活動を目的とする団体である。安住君は再三再四退会届を出した。学校当局にも要請した。当局は「きみのことはわかった。まかしておいてくれ」と保証したにもかかわらず、実際にはなにもしない。安住君はみずからの解放をかちとるために、彼なりにささやかな抵抗をつづけた。その結果、死という代償をもって、はじめてそこからみずからの解放をかちとることができた。
ぼくらは67年以来のぼくらの運動にかけられてきた弾圧と、安住君にかけられた弾圧・虐待とは、本質的に同じだと考えた。だから、安住君の死を拓大闘争の突破口として利用するという気持ちはサラサラない。ぼくらは第二第三の安住君をださないとともに、安住君のご両親が「わたしは直接うちの息子に暴行をくわえた本人を憎むのではなく、拓殖大学の機構そのものを憎む」と語ったように、拓大総体の根底的変革めざすものとして、今回の闘争を位置づけている。
(中略)
<大状況の違い>
高木:最後に今後の闘争の展望について討論してもらいたい。
日大A:日大の場合大衆的な蜂起に成功し、全学的な波及をかちとることができたのにたいして、拓大ではそれほどまでに高揚していない。なぜか。ひとつには、68年当時の日大あるいは全国的な大学の状況と、今日70年における拓大の状況とが、大状況からして異なっている。すなわち、69年1月18.19日の東大闘争の頂点がああいう結果になり、それ以降の全体的な政治的ムードとして、大学を拠点とする闘争は、もはやひとつの大きな波を終えたのであるというキャンペーンが、要するに、68年当時から燃えさかった全共闘運動というのはひとつの悪夢だったというキャンペーンが、なんとなく流れている。もうすこし政治的にいえば、1月安田というのは、60年代の学生戦線を中心とする部分のひとつの決着としてつきだされたということ。一方で、国家権力の側は右翼暴力団や自警団など私的な暴力装置をもフル回転させた形で、われわれの陣営に対して極端な武力集中をかけてきている。もうひとつは、日大の場合には、5月23日の蜂起以降、ただちに全学共闘会議が結成された。拓大の場合、全学的な闘いのはっきりした方向をもった統一の中枢がないと、右翼、大学当局、さらには国家権力をも利用した敵権力の攻勢には勝てないだろうと思う。
拓大X:拓大の場合、すべての部分を含む臨時執行部ができている。この臨執が全学を代表する機関として当局にあたる。中曽根自身記者会見で「臨執は大衆団交代表団であって、自治会ではない」と語っており、裏返しに大衆団交代表団として認めている。そして、具体的に運動を担うのは、各闘争委員会。各闘争委員会がみずからのスローガンとみずからの個別任務をもって参加してくるなかで、ぼくら自身の相互連関をいかに実質化していくかが現在の課題である。
日大闘争において全学共闘会議は必然性をもって作られていった。ぼくらの運動形態も必然性そのものから出てこなければいけない。それこそ70年代の新しい運動形態であり具体的に考えているのは、全体波及ではなく、全体からの集約でもって拓大闘争を闘いぬくということ。そのためにはわれわれの行く先々での情宣が必要であり、全都、全国での組織化が問題であり、とりわけ茗荷谷地区の組織化が意味をもってくる。日大芸闘委は孤立無援の思想で闘った。僭越な言い方になるかもしれないが、ぼくらは孤立無援はお断りだ。そのためにはどうするのか。「拓大は唯一果敢に闘っている。だからきみたちも来い」では、やっぱり個別学園闘争の枠を思想的にも運動的にものりこえられない。拓大からの単なる波及ではなく、再度各学園が新しい局面を切り開くなかにおいて、質的なつながりをもっていく。その意味で、全国全共闘の初心の具現化みたいなものを考えたい。
とにかく権力側は金とヒマにまかせて、ぼくらの運動をよく分析している。拓大当局はぼくらの動向をみまもりつつ、学内再編をはかっている。多角的な闘争圧殺をねらっている。それと闘うには新しい闘争形態が必要だ。ぼくら自身でっかくかまえて、いわば余裕をもって闘いたい。
拓大Z:現在ロックアウト体制がしかれている。9月になってもロックアウトが続くことは十分予想される。では、ただとびこんでいけば粉砕できるかというと、そうではない。どれだけあらゆるグループをぼくらが汲みつくしていけるか、それがこの夏休みの最大の課題である。もし汲みつくすことができれば、9月以降の展望はそれこそ洋々たるものとしてある。(後略)』
※今回引用した朝日ジャーナルの記事は、以下のホームページの全国学園闘争「図書館」の全国学園闘争資料欄に全文を掲載しています。
明大全共闘・学館闘争・文連
(終)