浅川マキ。歌手。4年前、67歳で急逝した。
浅川マキは歌手ではあるが、2冊の本も出している。彼女が「構造」1971年6月号に寄稿した書評がある。ビリーホリデイ自伝「奇妙な果実」の書評であるが、読み始めると、浅川マキの歌を聞いているような気にさせる文章である。
今回は、その書評を掲載する。
![イメージ 1](https://livedoor.blogimg.jp/meidai1970/imgs/4/e/4ec1c36c.jpg)
【ビリーなら今頃どっかの港町 浅川マキ(歌謡曲歌手)】
ビリー・ホリデイの「身軽な旅」のレコードをかけながら、14年ぶりに再販された、ビリー・ホリデイの自伝「奇妙な果実」を、こうして手に持って、薄暗い部屋で、わたしは何やら、どうしようもない気持ちになって来るようだ。
ビリー・ホリデイのはなしはもうよそう。
何度もそう思いながらね。
出逢いは、10年位前、わたしが東京で暮らすようになった頃手にした3枚1組のレコードであったろう。
その頃わたしは横浜のシャンソン喫茶「トリスクラブ」で、メランコリーやひなげしのようにを唄っていた。
珍しくジャズバンドが何度か演奏してくれて、なかにヴァイブたたく中年の男が、何かと親しげにして来て、はなしと言えば、女房に逃げられて、いま娘とふたりであること、そしてビリー・ホリデイのこと、いつでもそんな風であった。
わたしがビリー・ホリデイの名前をはじめて知ったのである。
おとっつあんが15で、おっかさんが13の時に生まれたビリー・ホリデイの「波止場にたたずんで」が、どんなに沁みるうたかと、ヴァイブの中年男は熱を入れてはなしたあとで、きまってよかったら結婚してくれないかと、少し照れながらわたしに言うのである。
或る日、「トリスクラブ」に行って見たらその男は、もう仙台に帰ったらしいと言うことであった。
わたしは、ちょっぴり疲れて来ていた。新宿で、オーネット・コールマンやソニー・クラークに浸って、いつもの店を出ると、もう夜明けでたいがい寒かった。
「わたしが作り、吹込んだ曲の一つに、ジミー・モンローと私の結婚のいきさつをうたったものがある。結婚のあと、私が気をつけねばならないと、心にいいきかせていた一事があった。あの美しい白人英国女のことだ。彼女はまだ滞在していた。彼はそれを肯定しなかったが、私は知っていた。
ある夜、彼はカラーに口紅をつけて、帰宅した。この時は、母はブロンクスに移り、私共はニューヨークに滞在中は、そこを借りていた。私は口紅をみた。彼は私に気付かれたことを悟ると、弁解をつぎつぎと並べ出した。私には耐えられぬことだった。他の女と何をして来たとしても、私に嘘をつく彼の態度には容赦ができなかった。いいわけをさえぎって私は、きっぱり言った。
『風呂を浴びていらっしゃい。何も言わないで(ドント エキスプレイン)。』
これで一切は終った筈だった。しかし私には、その夜のことが、どうしても忘れられない。
「何も言わないで、何も言わないで」頭の中でこの言葉が渦巻いた。私は何としても、この苦しさから抜け出さねばならなかった。この言葉をくり返しくり返し思いつめて行くうちに、この不愉快な経験は、悲しい歌に変わって行った
心のなかでくり返しているうちにひとつの歌が出来あがった。」(旧版より)
「いいわけはやめて、ドント・エキスプレイン」
いつの春にか、15の父と13の母、死人の腕の中に、女郎部屋の音楽、浮気な小娘、強姦の傷手、カトリック修道院、過ぎしひのまぼろし、従姉の無惨な死、大都会の迷い子、女中奉公、ブロードウェイの娼婦生活、いやらしい黒人客、ウェルフェア島の監獄、希望に燃えて、歌手への第一歩、禁酒法下のナイトクラブ・・・14年前に発行された初版の方には、こんな目次があった。
ベットに放置されたまま麻薬で死んでいったビリー・ホリデイが何故かレディ・デイと呼ばれた。
いま、アメリカでもロックの連中がよく口にするのが、ブルースの女王、ベッシー・スミスのことである。
ビリーも女郎部屋でベッシー・スミスを聴いた。まさにブルースそのものに違いない。しかし、そこにあるベッシーの世界は黒人以外のなにものでもない。
ビリーのうたは、そこからすでに歩き出していて、都会の中で暮らしており、女としての気どりすら身につけていた。だから現在のこんな世の中で渇いてしまっているもの達にも、ひどく沁みて来るのかも知れない。
ジム・クロウ(人種差別)のことや、麻薬、売春、ブルースのこと、そして南部のポプラの木に、私刑にあってさかさに吊るされている黒人のことをうたった「奇妙な果実」、そしてビリーの自伝が、ダイアナ・ロスの主演で映画になりそうだと言う話、それ等のはなしは、やはりあるのだけれども、実はわたしにとっては、いま、このレコードから流れてくる、ひとすじのうた、本当はそれしかないのだ。
最近、わたしは何処で暮らしても同じだろうと思っている。
きのうまで、何とかやって来た。そんなことを友達にはなしてみたら、笑って言うことには、「おまえさんは、もう終わっているよ」
それじゃあ、あんたはどうだって言うの、「おれも終わっているのさ」
あっちを向いてみようか。みんあけっこうすすんでいるよ。街角を曲がったけど、もう待つこともないしね。
いま、わたしはあんたを拾ったことで、少し満足しているのだから。
夕暮れの風が ほほをなぜる
いつもの店に 行くのさ
仲のいい友達も 少しは出来て
そう捨てたもんじゃない
さして大きな 出来事もなく
あのひとは いつだってやさしいよ
何処で暮らしても 同じだろうと
わたしは思っているのさ
なのに どうして知らない
こんなに 切なくて
町で一番高い丘へ 駆けてくころは
ほんとに泣きたいくらいだよ
真っ赤な夕日に 船が出てゆく
わたしのこころに なにがある
わたしは歌謡詩が好きだ。だからこうしてへたくそなのを書いて、ピアニカでメロディをつけてみる。
ビリー・ホリデイは、いくつかのブルースと「奇妙な果実」以外は、ほとんど当時の流行歌しか唄わなかった。
しかし、ビリーの口をついて出る時、それはみんなブルーズだ。
渋谷の教会の地下にある小劇場「ジャン・ジャン」でわたしは時々唄っている。
そのうち、常連と口をきくようになったりして、いろんなひとに出遇う。だから、そんな連中と、オリムピック道路を新宿まで、ずっと行くこともある。そして、夜明けまで、わたし達は必ずうろついてしまうはめになる。
三年程前に「夜が明けたら」と言う1枚のレコードを出した時、わたしにとって、それはまるでボールを投げるのに似ていた。
ボールは時々投げ返される筈だ。ボールを投げる、それはかっこいいことに違いない。
舞台でうたう時に、少しでも客を喜ばそうと思うことがあって、わたしのうたはそんな時、きまっていやらしいのだ。
客に向かってボールを投げることができないくせに無理をするからだ。だから、本当はいつだってわたしは自分に向かってボールを投げ続けていく。
時には、痛めつけられて立ちあがれないほどの暴球を投げつけてみたいと思ったりする。
わたしは、わたしから卒業できないのだ。
こんなわたしに、手紙をくれる人達がいる。手紙は大体ふた通りあって、俗に言うファンレターと、そしてもう一方は、自分から卒業できない連中が延々、自分のことを書いて来て、そんな連中の手紙は、切ない。
昔のことは忘れたよ
あんたのことも 忘れたよ
ガキのおいらにゃ 涙も出ない
流れ さすらい おちこんで
やっと咲きます このめくら花
遠いところで 死んでった
おいらの二十歳 あんたの温み
今のおいらにゃ 傷さえ失せた
狂い 狂って なお狂い
いつか散ってた あのめくら花
これを書いて来た奴に、わたしは会うはめになった。大学三年のこの男を見たとき、「戦争を知らない子供達」と言うフォーク・ソングが、何故あるのか、わたしは不思議に思ったりした。
ブルースなんて、そんなもの失くなってしまえ、と思っている奴、そいつらこそブルースだと言う。
先日、ゴスペルの女王、マヘリア・ジャクソンが日本にやって来た。もう六十才のマヘリアは黒人霊歌を唄う。記者や評論家の質問に「どうか、むずかしいことは聞かないでください。ただわたしのうたを聴いて下さい。」そして「うたっている時は、私の胸の中は、空っぽですよ。」そう言って笑ったという。そして公演の曲目のほとんどがメイジャーでマイナーの暗いものは、なかった。
もう自分を卒業したかのようなマヘリア・ジャクソンは越えているのだろう。
マヘリアに何か聴くとしたら、ジャズの源、サッチモさんは、お元気でしょうか、とそんなことしかないような気がするので、いまのわたしとは違うところにいるマヘリア・ジャクソンだと思う。十年前、はじめてマヘリアのレコードを手にした時、その魂のうたは、ひどくわたしをがんばらせてくれた。ある時は心が洗われて行った。
しかし、生活に疲れはじめた頃ひどく体の中を犯して来たのは、ビリー・ホリデイだった。
だからこの十年間、わたしはマヘリア・ジャクソンとビリー・ホリデイの間を揺れていたのかもしれない。
しかし、六十才になって日本にやって来たマヘリアが、やはり偉大であったのを思えばビリー・ホリデイは、最後まで街の歌手であったのだろう。
マヘリア・ジャクソンと写真を撮ったのだけれども、英語のよくわからないわたしは、ただひとこと「おっかさん」と言った。マヘリアは喜んでわたしを抱きかかえ込んでくれた。
ビリー・ホリデイは小さな女のひとだったと言う。
「クラブは満員だった。大抵は常連だったが、刑事が、沢山まじっているのがわかった。私は最初のステージを「愛する人」で終えた。常連が、新聞で、ルイがまだ保釈されていないのを読んでなかったとしても、刑事たちは知っていた。彼等は、私がこの曲を、こんなによく歌ったことはない、と言った。私も、この時以上に、この曲を身につまされて歌ったことはない。
麻薬売春課の一人は、カシミヤの外套にまで、涙を垂らして感動していた。だがステージが終わると、彼等は我にかえり、私の伴奏者を連れてゆき、衣服を脱がせて、持ち物を調べはじめた。これを見ながら何もしてやれない自分を考えると、涙がこぼれそうだった。
ショーが終わると、もう私は、この町に一刻も我慢がならなくなった。
やっとのことで手に入れたのは、混み合うバスの、シングル・シート2つだった。私は、フト、何度もそんな席でニューヨークに戻った二十年を思い出した。逮捕―保釈出獄、保証人への払いで文無しになり、二十四時間の不眠に打ちひしがれ、眠りこけている水兵にのしかかられ、ガタピシ揺られながら、監獄の臭いを思い出した日々のことを。」
しかし、伝説を造ることがうまいアメリカのことだ。ビリーホリデイのはなしも、うそっぱちかも知れない。
いま、この薄暗い部屋に流れているうた「イエスタデイズ」。このビリー・ホリデイのうたを聞くことができなかったら、わたしはビリーの自伝なんて、読む気にならなかったかもしれない。
ビリー・ホリデイ、あとにも、さきにも、二度と出ない歌手と思う。だからと言って、それが別に重大なことではない。うたなんて、目に見えなくて、形もなければ、匂いもないまるで化物のようなもので、ましてわたしとはあまりに違うビリー・ホリデイの世界など永遠に理解できないのだろうが、このひとすじの声が、何故かわたしをどうしようもなくしてしまうのだ。
けっこう、わたしなんて、「うた」にしがみついて生きて行くしかないのかも知れないが、考えてみれば、結婚してくれと言われたことは、ただの一度しかなく、あの横浜のシャンソン喫茶「トリスクラブ」のヴァイブの中年男も、なんだかこうなって来るとなつかしく思えるわね。
「疲れた?多分ね。でも私は、夫と共にいることによって、これらに一切を、すぐに忘れてしまうだろう。」
ビリー・ホリデイの自伝はそんな風に終わっている。
何処にいるの
わたしといつまでも居てくれるそんな男は
この町にも都会にも
わたしはいつでも一人とり残される
自分のものだといえる家は 何処に
男はいつでも わたしを通りすぎていってしまう
一生わたしはそんな男に めぐりあうこともない
そんな運命なのだろうか
だって やっとみつけると
おしまいには彼らは きまってこう言うの
「今になって そんなのは通用しないよ」ってね。
わたしはいつでも たった一人で。
作詞 ビリー・ホリデイ - レフト・アローン
(晶文社刊 780円)
![イメージ 2](https://livedoor.blogimg.jp/meidai1970/imgs/c/c/cc36397f.jpg)
(終)