野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2014年10月

浅川マキ。歌手。4年前、67歳で急逝した。
浅川マキは歌手ではあるが、2冊の本も出している。彼女が「構造」1971年6月号に寄稿した書評がある。ビリーホリデイ自伝「奇妙な果実」の書評であるが、読み始めると、浅川マキの歌を聞いているような気にさせる文章である。
今回は、その書評を掲載する。

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【ビリーなら今頃どっかの港町  浅川マキ(歌謡曲歌手)】
ビリー・ホリデイの「身軽な旅」のレコードをかけながら、14年ぶりに再販された、ビリー・ホリデイの自伝「奇妙な果実」を、こうして手に持って、薄暗い部屋で、わたしは何やら、どうしようもない気持ちになって来るようだ。
ビリー・ホリデイのはなしはもうよそう。
何度もそう思いながらね。

出逢いは、10年位前、わたしが東京で暮らすようになった頃手にした3枚1組のレコードであったろう。
その頃わたしは横浜のシャンソン喫茶「トリスクラブ」で、メランコリーやひなげしのようにを唄っていた。
珍しくジャズバンドが何度か演奏してくれて、なかにヴァイブたたく中年の男が、何かと親しげにして来て、はなしと言えば、女房に逃げられて、いま娘とふたりであること、そしてビリー・ホリデイのこと、いつでもそんな風であった。
わたしがビリー・ホリデイの名前をはじめて知ったのである。
おとっつあんが15で、おっかさんが13の時に生まれたビリー・ホリデイの「波止場にたたずんで」が、どんなに沁みるうたかと、ヴァイブの中年男は熱を入れてはなしたあとで、きまってよかったら結婚してくれないかと、少し照れながらわたしに言うのである。
或る日、「トリスクラブ」に行って見たらその男は、もう仙台に帰ったらしいと言うことであった。
わたしは、ちょっぴり疲れて来ていた。新宿で、オーネット・コールマンやソニー・クラークに浸って、いつもの店を出ると、もう夜明けでたいがい寒かった。


「わたしが作り、吹込んだ曲の一つに、ジミー・モンローと私の結婚のいきさつをうたったものがある。結婚のあと、私が気をつけねばならないと、心にいいきかせていた一事があった。あの美しい白人英国女のことだ。彼女はまだ滞在していた。彼はそれを肯定しなかったが、私は知っていた。
ある夜、彼はカラーに口紅をつけて、帰宅した。この時は、母はブロンクスに移り、私共はニューヨークに滞在中は、そこを借りていた。私は口紅をみた。彼は私に気付かれたことを悟ると、弁解をつぎつぎと並べ出した。私には耐えられぬことだった。他の女と何をして来たとしても、私に嘘をつく彼の態度には容赦ができなかった。いいわけをさえぎって私は、きっぱり言った。
『風呂を浴びていらっしゃい。何も言わないで(ドント エキスプレイン)。』
これで一切は終った筈だった。しかし私には、その夜のことが、どうしても忘れられない。
「何も言わないで、何も言わないで」頭の中でこの言葉が渦巻いた。私は何としても、この苦しさから抜け出さねばならなかった。この言葉をくり返しくり返し思いつめて行くうちに、この不愉快な経験は、悲しい歌に変わって行った
心のなかでくり返しているうちにひとつの歌が出来あがった。」(旧版より)
「いいわけはやめて、ドント・エキスプレイン」


いつの春にか、15の父と13の母、死人の腕の中に、女郎部屋の音楽、浮気な小娘、強姦の傷手、カトリック修道院、過ぎしひのまぼろし、従姉の無惨な死、大都会の迷い子、女中奉公、ブロードウェイの娼婦生活、いやらしい黒人客、ウェルフェア島の監獄、希望に燃えて、歌手への第一歩、禁酒法下のナイトクラブ・・・14年前に発行された初版の方には、こんな目次があった。

ベットに放置されたまま麻薬で死んでいったビリー・ホリデイが何故かレディ・デイと呼ばれた。
いま、アメリカでもロックの連中がよく口にするのが、ブルースの女王、ベッシー・スミスのことである。
ビリーも女郎部屋でベッシー・スミスを聴いた。まさにブルースそのものに違いない。しかし、そこにあるベッシーの世界は黒人以外のなにものでもない。
ビリーのうたは、そこからすでに歩き出していて、都会の中で暮らしており、女としての気どりすら身につけていた。だから現在のこんな世の中で渇いてしまっているもの達にも、ひどく沁みて来るのかも知れない。
ジム・クロウ(人種差別)のことや、麻薬、売春、ブルースのこと、そして南部のポプラの木に、私刑にあってさかさに吊るされている黒人のことをうたった「奇妙な果実」、そしてビリーの自伝が、ダイアナ・ロスの主演で映画になりそうだと言う話、それ等のはなしは、やはりあるのだけれども、実はわたしにとっては、いま、このレコードから流れてくる、ひとすじのうた、本当はそれしかないのだ。
最近、わたしは何処で暮らしても同じだろうと思っている。
きのうまで、何とかやって来た。そんなことを友達にはなしてみたら、笑って言うことには、「おまえさんは、もう終わっているよ」
それじゃあ、あんたはどうだって言うの、「おれも終わっているのさ」
あっちを向いてみようか。みんあけっこうすすんでいるよ。街角を曲がったけど、もう待つこともないしね。
いま、わたしはあんたを拾ったことで、少し満足しているのだから。


夕暮れの風が ほほをなぜる
いつもの店に 行くのさ
仲のいい友達も 少しは出来て
そう捨てたもんじゃない

さして大きな 出来事もなく
あのひとは いつだってやさしいよ
何処で暮らしても 同じだろうと
わたしは思っているのさ

なのに どうして知らない
こんなに 切なくて
町で一番高い丘へ 駆けてくころは
ほんとに泣きたいくらいだよ

真っ赤な夕日に 船が出てゆく
わたしのこころに なにがある

わたしは歌謡詩が好きだ。だからこうしてへたくそなのを書いて、ピアニカでメロディをつけてみる。
ビリー・ホリデイは、いくつかのブルースと「奇妙な果実」以外は、ほとんど当時の流行歌しか唄わなかった。
しかし、ビリーの口をついて出る時、それはみんなブルーズだ。

渋谷の教会の地下にある小劇場「ジャン・ジャン」でわたしは時々唄っている。
そのうち、常連と口をきくようになったりして、いろんなひとに出遇う。だから、そんな連中と、オリムピック道路を新宿まで、ずっと行くこともある。そして、夜明けまで、わたし達は必ずうろついてしまうはめになる。
三年程前に「夜が明けたら」と言う1枚のレコードを出した時、わたしにとって、それはまるでボールを投げるのに似ていた。
ボールは時々投げ返される筈だ。ボールを投げる、それはかっこいいことに違いない。
舞台でうたう時に、少しでも客を喜ばそうと思うことがあって、わたしのうたはそんな時、きまっていやらしいのだ。
客に向かってボールを投げることができないくせに無理をするからだ。だから、本当はいつだってわたしは自分に向かってボールを投げ続けていく。
時には、痛めつけられて立ちあがれないほどの暴球を投げつけてみたいと思ったりする。
わたしは、わたしから卒業できないのだ。
こんなわたしに、手紙をくれる人達がいる。手紙は大体ふた通りあって、俗に言うファンレターと、そしてもう一方は、自分から卒業できない連中が延々、自分のことを書いて来て、そんな連中の手紙は、切ない。

昔のことは忘れたよ
あんたのことも 忘れたよ
ガキのおいらにゃ 涙も出ない
流れ さすらい おちこんで
やっと咲きます このめくら花

遠いところで 死んでった 
おいらの二十歳 あんたの温み
今のおいらにゃ 傷さえ失せた
狂い 狂って なお狂い
いつか散ってた あのめくら花

これを書いて来た奴に、わたしは会うはめになった。大学三年のこの男を見たとき、「戦争を知らない子供達」と言うフォーク・ソングが、何故あるのか、わたしは不思議に思ったりした。
ブルースなんて、そんなもの失くなってしまえ、と思っている奴、そいつらこそブルースだと言う。

先日、ゴスペルの女王、マヘリア・ジャクソンが日本にやって来た。もう六十才のマヘリアは黒人霊歌を唄う。記者や評論家の質問に「どうか、むずかしいことは聞かないでください。ただわたしのうたを聴いて下さい。」そして「うたっている時は、私の胸の中は、空っぽですよ。」そう言って笑ったという。そして公演の曲目のほとんどがメイジャーでマイナーの暗いものは、なかった。
もう自分を卒業したかのようなマヘリア・ジャクソンは越えているのだろう。
マヘリアに何か聴くとしたら、ジャズの源、サッチモさんは、お元気でしょうか、とそんなことしかないような気がするので、いまのわたしとは違うところにいるマヘリア・ジャクソンだと思う。十年前、はじめてマヘリアのレコードを手にした時、その魂のうたは、ひどくわたしをがんばらせてくれた。ある時は心が洗われて行った。
しかし、生活に疲れはじめた頃ひどく体の中を犯して来たのは、ビリー・ホリデイだった。
だからこの十年間、わたしはマヘリア・ジャクソンとビリー・ホリデイの間を揺れていたのかもしれない。
しかし、六十才になって日本にやって来たマヘリアが、やはり偉大であったのを思えばビリー・ホリデイは、最後まで街の歌手であったのだろう。
マヘリア・ジャクソンと写真を撮ったのだけれども、英語のよくわからないわたしは、ただひとこと「おっかさん」と言った。マヘリアは喜んでわたしを抱きかかえ込んでくれた。
ビリー・ホリデイは小さな女のひとだったと言う。

「クラブは満員だった。大抵は常連だったが、刑事が、沢山まじっているのがわかった。私は最初のステージを「愛する人」で終えた。常連が、新聞で、ルイがまだ保釈されていないのを読んでなかったとしても、刑事たちは知っていた。彼等は、私がこの曲を、こんなによく歌ったことはない、と言った。私も、この時以上に、この曲を身につまされて歌ったことはない。
麻薬売春課の一人は、カシミヤの外套にまで、涙を垂らして感動していた。だがステージが終わると、彼等は我にかえり、私の伴奏者を連れてゆき、衣服を脱がせて、持ち物を調べはじめた。これを見ながら何もしてやれない自分を考えると、涙がこぼれそうだった。
ショーが終わると、もう私は、この町に一刻も我慢がならなくなった。
やっとのことで手に入れたのは、混み合うバスの、シングル・シート2つだった。私は、フト、何度もそんな席でニューヨークに戻った二十年を思い出した。逮捕―保釈出獄、保証人への払いで文無しになり、二十四時間の不眠に打ちひしがれ、眠りこけている水兵にのしかかられ、ガタピシ揺られながら、監獄の臭いを思い出した日々のことを。」
しかし、伝説を造ることがうまいアメリカのことだ。ビリーホリデイのはなしも、うそっぱちかも知れない。
いま、この薄暗い部屋に流れているうた「イエスタデイズ」。このビリー・ホリデイのうたを聞くことができなかったら、わたしはビリーの自伝なんて、読む気にならなかったかもしれない。
ビリー・ホリデイ、あとにも、さきにも、二度と出ない歌手と思う。だからと言って、それが別に重大なことではない。うたなんて、目に見えなくて、形もなければ、匂いもないまるで化物のようなもので、ましてわたしとはあまりに違うビリー・ホリデイの世界など永遠に理解できないのだろうが、このひとすじの声が、何故かわたしをどうしようもなくしてしまうのだ。
けっこう、わたしなんて、「うた」にしがみついて生きて行くしかないのかも知れないが、考えてみれば、結婚してくれと言われたことは、ただの一度しかなく、あの横浜のシャンソン喫茶「トリスクラブ」のヴァイブの中年男も、なんだかこうなって来るとなつかしく思えるわね。

「疲れた?多分ね。でも私は、夫と共にいることによって、これらに一切を、すぐに忘れてしまうだろう。」
ビリー・ホリデイの自伝はそんな風に終わっている。


何処にいるの
わたしといつまでも居てくれるそんな男は
この町にも都会にも
わたしはいつでも一人とり残される
自分のものだといえる家は 何処に
男はいつでも わたしを通りすぎていってしまう
一生わたしはそんな男に めぐりあうこともない
そんな運命なのだろうか
だって やっとみつけると
おしまいには彼らは きまってこう言うの
「今になって そんなのは通用しないよ」ってね。
わたしはいつでも たった一人で。
    作詞 ビリー・ホリデイ  -  レフト・アローン
(晶文社刊 780円)

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(終)

10月4日に「10・8山﨑博昭プロジェクト 50周年まであと3年」の「講演と映画の集い」が品川区の「きゅりあん」で開催された。当日の様子はNo359で概要を掲載したが、山本義隆氏の講演概要については、別途ブログに掲載することにした。
我々の世代にとって、山本義隆氏は東大全共闘の議長であり、日大の秋田明大議長とともに各大学の全共闘を代表する方である。1969年9月5日の日比谷公園で行われた全国全共闘連合結成大会で逮捕され、それ以降、あの時代のことは語っていない。その山本氏が、初めて「あの時代」を語った。
山本氏の講演の録音を聴きながらテープ起こしを始めたが、どうしても「あの時代」のことが頭を横切って、講演の概書き起こすことができない。講演を「概要」としてまとめるのは無理だと思った。講演内容を全部文字起こしすればいいのだが、それもどうかな、と思っていたところ、フェイスブックで、山本氏の講演をまとめた記事を見つけた。
当日参加されたIさんという方が、山本氏の講演をまとめたものである。
山本氏は駿台予備校の講師をしているが、Iさんはその教え子の方である。「あの時代」を経験した我々より若い世代の方であるが、客観的に山本氏の講義をまとめてくれていた。
Iさんにブログへの転載の許可を伺ったところ、快く承諾していただいた。
以下、Iさんのフェイスブックの記事を転載させていただく。(写真はプロジェクト事務局撮影)

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【山本義隆さん講演 まとめ】

『2014.10.4(土)「10.8山﨑博昭プロジェクト」が主催した講演会で山本義隆さんの講演を聞いてきました。
 「10.8山﨑博昭プロジェクト」は、1967年10月8日にベトナム戦争に反対する学生たちが佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止しようと羽田空港に通じる橋で抗議行動を行った時に亡くなった山﨑博昭さんを追悼するモニュメントを建て、戦争反対の意思表示を行う、というプロジェクトだそうです。山本義隆さんは、このプロジェクトの発起人の一人で、山﨑博昭さんの高校の同窓生でもあるそうです。

 私は駿台予備校で山本先生に物理の講義を受けました。山本先生の講義には、いつも他のクラスの生徒まで潜りにくるので、通路や黒板前のスペースは、床に座って講義を受ける生徒でびっしり埋まっていました。微積分を駆使する力学など、高校では習わない方法を使いながらも極めてわかりやすい講義でした。

 山本先生が初めて1960年代についてお話になるということで、お話を聞きにいきました。20年ぶりにお目にかかった山本先生は当時とあまり変わっていらっしゃらない印象でした。私のこともわかってくださってよかった(笑)。

当日は、ご自身の経験を、当時の情勢分析と歴史的分析も交えてお話になりました。メモや録画を参考に、山本義隆さんのおっしゃったことを箇条書きに並べます。

「私の1960年代 ―樺美智子・山﨑博昭追悼―」

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1960年東大に入学。安保闘争が沸騰に近づいている時期。クラスでは討論が行われ、ストライキ決議がなされたりしていた。
東大キャンパス内の駒場寮に入る。駒場寮には当時600人くらいの学生が暮らしていた。
東大に入ったのは、物理学と数学を学びたかったから。ほとんどノンポリだった。当時の政治意識は「当時の学生の政治意識の平均よりやや上」くらい。
駒場寮で600人で濃密な議論を行ったことはとても勉強になった。今思えば、学生運動にとってあんなに便利な環境はなかった(笑)。

全学連はブントが中心だった。ブントの状況分析は、
「岸内閣の安保改定は日本帝国主義の復活。安保改定阻止は日本帝国主義の復活を阻止すること。」というもの。安保改定阻止国民会議(社会党、総評が中心)も同様の分析だった。
一方共産党の分析は「日米安保は対米従属を強化する。安保改定阻止は対米従属強化を阻止すること。」というもの。

1957年に岸信介は「現行憲法下で核武装は可能。」「原発は軍事利用と紙一重。原発を産業利用していれば、おのずと核武装能力はついてくる。」「核武装を外交カードとして使う。」と国内にも米国にも明言している。
このことから、ブントの状況分析は正しかったと言える。

1960年5月19日の安保強行採決後、運動は盛り上がる。しかし主張は、「民主主義を守れ」に変わる。全学連指導部の意図とは違う盛り上がりだった。(当時全学連上層部とは関わってなかったので知らなかったが、後で本を読むとそうだったらしい。)

「60年安保を闘ったか」と問われると、「闘った」とはおこがましくて言えない。
強いて言えば、周辺で闘った。
でも6月15日にデモ隊(主催者発表33万人、警察庁発表13万人)と機動隊が衝突したことは衝撃だった。この時東大生樺美智子さんが死んだ。
この衝撃でノコノコ出てきた、という感じ。

関連して思い出すこと。
1969年1月18日19日の東大安田講堂での攻防戦の後、それまでは全共闘運動に加わってなかった、運動の周辺にいた人たちがわっと出てきた。
自分の60年安保はそんな感じ。

岸内閣は、安保改定後、憲法改変、軍事力強化を目論んでいた。
しかし1960年7月に岸内閣退陣。池田勇人内閣成立。
池田内閣は核武装を言わず、軍事的ヘゲモニーはアメリカに任せ、日本は金儲けに専念する、という方針。

1960年秋から大学は平静になり、物理学科に進学。
こういうところが東大生のいやらしさでね(笑)、勉強しました。

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1950年の朝鮮特需から始まっていた高度経済成長
1955〜56年 神武景気 
朝鮮戦争(日本の植民地支配の後遺症)を利用して日本は金儲けをした。

1960年とはどういう年か。
安保闘争の年でもあるし、理工系ブームが起こった年でもある。

1960年に理系学部が増員 理科一類は150人増員して600人 その後毎年増加 
原子力工学科ができた年 科学技術万能の時代

これまで理工系ブームは3回あった。
1.明治維新 直後 福沢諭吉 啓蒙主義
2.昭和10年  東大に第二工学部(軍事工学科) 海軍の要請で造船学科 
  平賀 譲 海軍中将で三菱造船顧問(軍艦の神様)で造船学科教授 
       東大総長にもなった(昭和13年)
3.1960年

1960年以降
「平和」「民主主義」「科学技術の進歩」これらが絶対的な真理、絶対的な正義となった。

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1962年大学管理法闘争

大学管理法の目的
1.学生運動押さえる
2.研究体制の合理化(教授の既得権が侵害される面もあった) 
 
1962年11月 全都銀杏並木会議 5000人の学生が東大に集まる。
他大学からも学生が集まる。大学当局との対抗関係を作る。
茅誠司(東大総長)が文部省と交渉 大学管理法つぶす

一次処分を受ける。
茅誠司かんづめ事件(これは実はハプニングだった)
二次処分を受ける。

戒告(譴責)を受ける
処分を言い渡した理学部教授(学生委員)は実は教職員組合の執行委員だった。
(教職員組合は学生処分に反対声明を出していた。)

「大学の自治を守ろう」と言った地球物理の教授に
「大学の自治とは何か?」と問うたら、その答えが、
「この静寂である。」
世の中の動きにかかわらず、砂漠の中のオアシスのように学問に専念する静寂な環境を守ることが大学の自治である、ということ。言外に学生運動を牽制していた。

しかし実際は学問は社会に直結していた。
1960年代の地球物理(海洋学気象学 環太平洋地域の海洋、気象、地震学)は、ほとんどが軍事研究。米軍立川基地から軍用機で学会に出かける教授もいた。

処分撤回闘争(それも二次処分撤回闘争など)は負け戦なので、政治的読みが出来る人は普通やらない。しかし引っ込みつかないので、ほとんど誰もいないのに続けた。

安田講堂の前に「理学部山の会」のテントを借りてきて看板の上に座りこみ。
入試の前日に大学本部の職員に水をかけられて終わり。

大学4年時 まじめに勉強
1964年大学院物理学教室素粒子論研究室に入る。

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1966年5月 日本物理学会主催の半導体国際会議 
開催費用の一部に米軍から資金提供を受けたことが明るみに出る。

水戸巌さんらと以下の決議を取る運動を行う。
1.責任者は米軍資金の導入の誤りを認める責任を取る
2.日本物理学会は今後一切軍隊を関係を持たない

「物理学会は学問をする学会なのだから、そこに政治を持ち込むのはけしからん」という教授たちもいた。
しかし
「資金提供を受けること自体が政治的」
「学会は米軍を支持するのか」
といった反論が上がる。すると最終的に
「科学はそれによって進歩するからいいじゃないか。」という話しになった。

共産党の見解
「学会が米軍に資金援助を受けるのは、日本の文教政策の貧しさによるものだから、政府に研究資金を要求すべき。」

しかし実際は、当時、世界トップレベルの加速器を作ることが現実課題として出てきた。研究費が少ない、というのは理由にならなかった。

そもそも、米軍の資金を導入したのは、ソニーや東大といった研究費が豊富にある環境にいる研究者。むしろ研究費が少ない環境にいる研究者が、米軍の資金導入を一番厳しく批判していた。

1966年9月9日 賛成700:反対199で決議は可決。
今でもこの決議は生きている。

「研究が進むことがそんなにいいことなのか。」
「場合によっては研究をサボタージュすべきだ。」
という考えが、学者の内部から出てきたのは、あの運動が初めて。

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米軍ベトナム介入激化
東大ベトナム反戦会議立ち上がる 中心となったのは所美都子さん
東大理学部 大学院生中心
目指したのは、
「上下の関係でなく、反戦の意思を持った個人が横につながる運動」

1967年10月8日第一次羽田闘争 佐藤首相ベトナム訪問
佐藤内閣は軍事基地、弾薬庫、野戦病院提供を通じてアメリカを後方支援していた。
1967年11月11日 エスペランティスト由比忠之進さんが首相官邸前で佐藤内閣のベトナム加担に抗議して焼身自殺
1967年11月12日第二次羽田闘争 佐藤首相訪米
1967年11月13日 ベ平連が「米空母イントレピットからの4人の脱走兵を保護してスウェーデンに逃した」との記者会見

60年安保時の学生の意識  
ブントの方針はともかく、多くの学生の意識は「日本が戦争に巻き込まれるのが困る」という一国主義的なもの
岸首相への反感(A級戦犯 占領軍の権力にうまく入り込んで首相になった)

しかし
1967年での反戦意識は「日本が戦争に加担していること」を問題としていた。

1956年から1973年まで高度成長
高度成長後半を支えたのはベトナム特需
1966年から1971年まで毎年10億ドルが企業に入っていた。
1960年代後半のベトナム反戦運動は、一国主義から戦争への加担に反対するものへと変化していった。

また、量質ともに最高の軍事力を持つ米軍にベトナムが勝った、ということは訴えかけるものが多かった。

ベトナム反戦運動の主体は、
三派全学連
ベ平連
反戦青年委員会
と言われている。

東大ベトナム反戦会議はその周りをうろちょろしていた。

しかし、「うろちょろしていた個人」が結構たくさんいたのではないか。
一人、少人数で運動に参加した人たくさんいた。

1967年暮れから1968年1月2月
王子野戦病院
一人または少人数で連日通っていた。

新聞報道では、
「三派全学連が帰った後(三派全学連は当時はスケジュール的に行動していた)野次馬が暴れている」と報道された。
しかし「野次馬」の中には個人参加、小集団参加、土地の人がいっぱいいたように思う。(土地の人が家からペンチや物干しを持参して参加した、など。)

1967年くらいから全共闘的個人の戦い「党派の指導をはなれた個人の運動」は始まっていた。

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1968年1月 佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争
1968年1月 東大医学部青医連(青年医師連合)スト
学生運動というより職能組合の労働協約の運動
登録医制度粉砕

研修カリキュラムを自分で作りたいと言っても大学は話し合いに応じない。
病院長を捕まえようとしたら医局長が割り込んできて小競り合いになった。 
学生、研修員が大量に処分される。
局長だけに事情聴取をするが、学生には事情聴取なし。
その場にいなかった学生まで処分された。
全学的には知られていなかったけれど、処分には敏感だったから早くから医学部の人たちと一緒に行動していた。
1968年3月卒業式中止
1968年6月15日 医学部学生が安田講堂占拠
6月18日 大河内総長が機動隊1200人を導入

運動が全学化したのは秋から

各学部で教授会とやりあって、教授会の対応が酷かった。
一例
医学部の処分についての教授の意見「『疑わしきは罰せず』は法の常識だが、東大医学部では通用しない」
それに対して法学部の学生が「法学部教授はなぜ黙っているのか。」
外で言っていることと中で言っていることは全く違う。

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ちょっと話しがそれますが。
1969年 丸山真男批判 
「言っていることとやっていることが違う」ダブルスタンダードを批判
丸山真男は、東大闘争にはずっと沈黙していた。唯一、文学部長が監禁されたことに対する批判声明に法学部教授として連名した。
「自分が批判していた『無責任体制』が東大で行われているにもかかわらず、自らが批判していた「民主主義を弾圧するやり方」と同じことを自分がやっている。」
「丸山先生も学内の柵の中で生きている、早い話、普通の人なのだ。」と思った。
閑話休題。

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6月20日 全学集会
6月28日 大河内総長会見(心電図付き) 
 座り込み
 講堂再占拠するかどうか 延々と議論

全学闘争連合
 青医連 医学部 大学院 ベトナム反戦会議が中心
各学部の自治会のメンバー(実際は党派の代表)
全部で共闘会議

党派との複雑な関係
医学部生が逮捕されて代わりに司会をやるようになった。

7月2日 安田講堂再封鎖 全ての人に解放
 60年安保時に駒場寮で議論を重ねたことの重要性から
 講堂占拠に反対しない人は誰でも入れて議論を行った。
 夏中これをやった。
 自分は縁の下の力持ちとしてありとあらゆることをやった。(映画の映写機を区役所まで借りに行って腕が取れそうに重い映写機を持ち帰った、とか。)
 大衆的な運動ができるようになった。

秋以降 代表者会議200人で会議
党派とノンセクトのすったもんだは最後まであった。
自分が議長になったのは、どの党派にも属さなかったから。消去法で残った安全パイだったから。
自分は昔も今も政治音痴。何度も「強気に出ろ」と言われたがそうできなかった。今思えば強気に出た方がよかったところもあった。

当初は「共闘会議」と名乗っていたが、後に「全共闘」と名乗るようになる。
「全共闘」という言葉は日大から輸入した。
日大全共闘は、文句なしに、本当の意味での全共闘。
武装した右翼とのゲバルトに強かっただけでない。
学生大衆の正義感と潜在能力を最大限発揮した運動。
戦後最大の学生運動。
考えると涙出る。
東大全共闘は日大に恩義がある。
借りがある。返しようがないけど。

東大闘争 理学部工学部が中心

60年安保以降
「平和」「民主主義」「科学技術の進歩」これらは絶対的なプラスのシンボル

しかしベトナム反戦運動で「平和を守る」の意味が変わってきた。

「民主主義を守る」の意味もようやく変わってきた。
 
民主主義は結局は秩序として現れる。
秩序ができると秩序に取り残されるマイノリティーが生まれる。
マイノリティーが自己主張をしようとすると秩序に手をかけることになる。
場合によっては暴力的にならざるを得ない。
それを無視して「民主主義を守れ」はないだろう。
1968頃から
「民主主義を守る」だけでは、マイノリティーを抑圧することになる、なりかねない、そういう意識が入ってきた。

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「科学技術の進歩」について。
理科系の学部が学科共闘で学科の垢を洗い出し、問題が明らかになってきた。

ヨーロッパでは科学と技術は別
技術 職人 経験主義的
科学 思想
科学と技術結びついたのは19世紀半ば

蒸気機関 
ジェームス・ワットが改良  ワットは職人
1840年代 熱力学第一法則第二法則 
物理学的根拠を持って蒸気機関が改良されるようになった。
科学技術としての蒸気機関

エレクトロニクス
1800ボルタ電池
恒常的に流れる電流 それで発展
1820年
電流の磁気作用
1830年代
有線の通信施設

日本には、ペリーによって、蒸気機関とモールスの通信施設がもたらされた。
徳川幕府は価値がわからなかった。 
本当の価値を理解したのは明治新政府(薩摩長州)。
薩摩長州は西洋の科学技術の威力を知っていた。
西洋と闘ったから。薩英戦争、下関戦争でコテンパにやられる。
彼らはヨーロッパの技術の優秀さを骨身にしみてわかった。
技術の優秀さはまずもって軍事技術に現れた。
戦争に勝つのは優秀な軍事技術(銃)を持っている方。

日本には「科学」と「技術」は「科学技術」として入ってきた。
明治2年電信設備 5年蒸気鉄道 
西洋の科学の優秀さ=技術の優秀さと理解されていた。

しかし実際は、科学と技術とは相当に違いがある。
特に20世紀の科学は原子、分子、原子核を対象とする。 
原理主義な科学と技術までの距離はとても大きい。

物理化学の科学理論の作り方
対象をシステムとして捉える。
周りを環境・外界として切り離す。
完全にコントロールした理想的なシステムを作り、そこで起こる現象についての法則を見出すのが科学。
その科学法則をそのまま拡大しても技術にはならない。
実際の環境には相互作用があるから。

大気汚染などの「公害」
工業化の過程での技術の問題(費用をケチるなど)と考えられている。
しかし半分の責任は科学にある。
科学のあり方からして。

例えば、
化学の研究は試験管の中だけに注目。
廃液のことは考えなくてもよい。

原発を学者側から言い出したのは、伏見康治。
結果として学者から原発産業を補完することになった。
放射性廃棄物の問題は現在では周知されている。
しかし原発開発初期はそうではなかった。
伏見がインタビューを受けて
「物理学者として当時廃棄物をどう考えていたか?」と聞かれ、
「その頃はそんなこと考えていなかった。」と答えた。

自然科学の原理論では、環境との相互作用は最低限しか考えない
「公害」問題の半分は科学そのものの問題でもある。

「公害」問題が現れ、東大闘争の中でも「研究そのものの意味」にまで考えが至るようになった。

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60年代の3大シンボル「平和」「民主主義」「科学技術の発展」に対する疑問が10年かかってようやく生まれてきた。

しかし「その後何だったのたか。」と問われると、返す言葉がない。

3.11原発事故が起こり、今や戦争とファシズム前夜のようになってきた。
若い頃は、戦前の人たちに、太平洋戦争が起こったことに対して、「なぜあの戦争とファシズムを止められなかったのか」と問いかけたが、今、10代20代に同じことを問われるんじゃないか、と思う。
官邸前に何度か行ったが、そこで10代20代の若者にこれを言われたら返す言葉がない、と思う。
何もやらなかったわけではないですが、結果的に3.11をもたらすことになった。
悔しい思い、情けない思いでいっぱい。
67年68年から50年も生きてきて現実と折り合いをつけながら生きてきて、今73歳ですが、心入れ直して、残りやれるだけのことはやりたい。
個人がばらばらにされているので個人的にしかでしかできないだろうが、個人的にできることをやらなあかんかなぁと思っている。
今日はありがとうございました。

【山本義隆さんのお話はここまで。】

その後懇親会で少しお話しをすることができました。

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私が、「福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと」について、とてもわかりやすかった、と申し上げたら、「物理学者なら誰でも知っていることを書きました。」と言われました。

「これまで60年代のことをお話しにならなかったのに、この期に及んでお話しになったのは、やっぱり、今の状況を考えてのことですか?」とうかがったら、「水戸喜世子さんに強く頼まれたから。」とのお答えでした。

他の方の質問に対して、
「自分は当時からずっと政治音痴。よく『思想的に誰に影響を受けましたか?』と聞かれるが、特に誰かの影響を受けたことはない。その都度自分で判断してきた。」ともおっしゃっていました。

また、別の方のお話しでは「東大闘争の時、いろんな人がアジったが、声が大きいばかりで何言ってるのかわからないことも多かったけど、山本が話すと、意味がすーっと頭に入ってきた。」とおっしゃっていました。

私は学生運動の知識は、フォー・ビギナーズ・シリーズの「全学連」を読んだだけです。
でも大学には、色々な自治会や党派が活動していたので、友人たちから話しを聞いたり、立て看やチラシを見たりはしました。
印象に残っている言葉は、誰が言っていたのかは忘れましたが「日本で『平和を守る』と言うのはおかしい。日本の現在の状況は他の国の犠牲の上に成り立っているから。」ということです。

山本義隆さんのお話しには、私の知らない事件や団体などがたくさん出てきたので、調べながらまとめました。

ネットで検索したところ、10.8羽田闘争は、運動の転換点と言われているらしい。学生の運動が「素手」から「ヘルメットと角材」になったから。(ただし機動隊は昔から棍棒を持ってました。)
「ヘルメットと角材」が世間に流布されている「学生運動」のイメージ。そして「暴力」だったからという理由で「学生運動」を全否定する人も多いように感じる。私も非暴力がよいと思う。
しかし私は、山本義隆さんが提示なさった「平和」「民主主義」「科学」に対する問題意識はとても納得できる。また多くの人たちが徹底的に議論をした、というのはとても大事なことだと思う。

最後に。
所美都子さんを調べてみたら、こんな文があった。

「10・21のストを成功させるため何が自分にできるか考えてみた。
東京駅頭にプラカードを持って立つ。十七日から仲間が立ち始めた。
今日も夕方六時から入時頃まで東京駅八重洲中央口に立つ、明日も。
東京駅の群衆にもまれるなかで、自らのすり切れた反戦の肯志を再びよみがえらせ、それがその群集の中の火種となって育つことを夢み「一人であっても意志表示ができるのだ」ということが当り前となるように。」    
 (「東大ベトナム反戦会議」アピール)

お茶の水駅での花くばりは、所美都子の独創的なアイディアであった。プラカードを持って彼女一人雑踏に立ち、街行く人に花を渡す。主張を書いたビラも持たず、声をあげて呼びかけもしない。花を手わたされた人は、自分の頭で花とプラカードを結びつけなければならない。与えられた、ビラにかかれた「反戦の意志」ではなく、みずからの答えをださなくてはならない。彼女はそこから何かが生まれるかもしれないと信じている…。


50年近く前から、「スタンディング」をなさっていた方たちがいたのですね。』

以上、Iさんのフェイスブックから転載させていただいた。
山本義隆氏の講演のまとめ以外の部分もとてもいい文章である。
「10・8山﨑博昭プロジェクト」を通して、我々より若い世代を含めて、いろいろな方と繋がっていければと思っている。

<お知らせ>
山﨑博昭プロジェクトへの賛同依頼
プロジェクトの賛同人の申込みは随時受けております。下記アドレスからお申込み下さい。
「10・8山﨑博昭プロジェクト」  http://yamazakiproject.com

また、このプロジェクト」を支える事務局スタッフ(ボランティア)及びサポーターを募集しています。ご自分の出来る範囲で結構ですが、当面はワードやエクセルで文字を打つ作業などが中心になると思います。志のある方の参加をお待ちしています。プロジェクトを一緒に支えて行きましょう。事務局までメールをください。
メー ル:monument108@gmail.com 

(終)


10月4日、品川区・大井町駅前にある「きゅりあん」で「10・8山﨑博昭プロジェクト 50周年まであと3年」の公開イベント「講演と映画の集い」が開かれた。
この「集い」の内容について、今週と来週の2回に分けて報告する。
今週は当日の午前中の羽田・弁天橋訪問と献花、そして「講演と映画の集い」の概要を掲載する。

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(チラシ)

「講演と映画の集い」は午後からであるが、これに先立って午前中に、発起人と希望する参加者による羽田・弁天橋訪問と献花が行われた。
参加者は「きゅりあん」1階に集合してマイクロバスで弁天橋に向かうことになっている。バスの定員があるので、事前申込制で集合場所で待っていると、IWJ(インデペンデント・ウェブ・ジャーナル)を見てやってきたという方が現れた。この「集い」は、数日前にIWJでのネット中継が決まったばかりであったが、それを見てわざわざやってきたのである。マイクロバスは定員があるので乗れないという事を伝えると、タクシーで現場まで行くとのことだった.
バスは出発し、道路の混雑を心配したが、交通渋滞もなく比較的スムーズに20分ほどで弁天橋に到着した。
バスを降りて歩きはじめると、警察官が現れ、「何をしているんですか」としっこく訪ねてきた。発起人の辻さんが「羽田の今と昔の歴史を訪ねるツアーです」と言うが、それでも食い下がる。辻さんが「弁護士の辻です」と名刺を差し出して、相手の警察官も「羽田空港交番の○○です」と言って、ようやく我々から離れた。
マイクロバスから不審な高齢者が続々降りてくるので、職務上、聞かざるを得なかったのではと思う。ちなみに、マイクロバスを降りたところのすぐ前に交番がある。

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(警察官と対応する発起人)

参加者は弁天橋を渡り、発起人の一人でもある弁護士の北本修二氏(大手前高校・京都大学同期生)から、当時の様子について話を聞いた。次いで、同じく発起人の一人である詩人の佐々木幹郎氏(大手前高校同期生)からも話を聞いた。

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(弁天橋で話を聞く参加者)
山﨑博昭君が亡くなったと思われる場所を見つめる実兄の山﨑建夫氏。

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(山﨑建夫氏の写真)

現在の弁天橋の風景。

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(弁天橋その1)

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(弁天橋その2)

その後、羽田空港近くにある大鳥居のそばの緑地で、緑地に置かれたテーブルの上に献花用の花を置いて参加者全員で黙祷を行った。その後、献花用の花を中心に記念撮影。バックは弁天橋である。
土曜日ということもあり、弁天橋の下や、その近くには大勢の釣り人がいた。空にはカワウが舞っている。

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(献花用の花と弁天橋)

献花用の花を対岸の緑地の石の上に置き、マイクロバスで会場の「きゅりあん」に戻った。

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(献花等の花)

「講演と映画の集い」は12時半開場であるが、ポツリポツリと参加者がやってくる。この「集い」は事前申し込み制であるが、申込みをしないでやってくる方がいる。聞いてみると、9月23日の亀戸中央公園で配ったチラシを見てやって来た方が多い。当日、チラシを配っていた我々にしてみれば、それを受けてせっかく来ていただいた方を断ることは出来ないので、立ち見でOKであれば参加していただくことにした。
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(受付の様子)

チラシをよく見てみると、「どなたでも参加できます」ということが書かれている。これはあくまでも参加対象は限定しないということなのだか、誰でも予約なしに入れるということにも読める。お問い合わせ・予約というところに、小さく「定員になり次第締め切りとさせていただきます」と書かれているが、そこまで気付かないのだろう。
「集い」に予約していて当日来ない方も1割程いたので、予約外の方をカバーできるかと思いきや、定員を20名ほどオーバーする大盛況となった。
集会場でのチラシ配布や関係者へのチラシ送付など、汗をかいたことが報われたと思う。
開会までの間、正面のスクリーンに当時のニュース映像などが流れた

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(スクリーンの映像)

「講演と映画の集い」は予定通り13時半から始まった。
司会は発起人の一人である佐々木幹郎氏である。
発起人代表として、山﨑博昭君の実兄、山﨑建夫氏から挨拶があった。

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(吊り看板)

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(山﨑建夫氏)

【山﨑建夫氏挨拶】
「お集まりの皆様、本当に今日はありがとうございます。また事務局の方、走り回って準備していただいて、今日も最後までいろいろお世話になります。本当にご苦労様です。ありがとうございます。
あれから47年経ちましたけれども、僕らにとってはまるで昨日の出来事のように思い出されます。それと、こちらは歳をとっていくのだけれども、弟は写真の中で歳をとらない、いつまでも18歳です。
弟はさっきの紹介にもありましたように、羽田で亡くなったんですけれども、ヘルメットを被っていなかったですね。部分的にヘルメットを被った部隊が出てきました。最近お聞きしたんですけれども、ああいう部隊もいたそうです。ただ、朝日ジャーナルの中に紹介された記事では、ヘルメットを被っている部隊じゃない部隊で、それが警察官、機動隊によってメッタ打ちにされて死んだんですけれども、新聞はそうはならなかったですね。
学生たちや労働者はみんな知っているから、次の闘いからみんなヘルメットを被ってきました。頭を守らなければいかんから。そのヘルメット姿の学生たちを家族でテレビで観たりしますね、佐世保である王子である、東大もそうですね。その一人ひとりが弟に重なりますね。家族みんなで応援していました。
1周年の集会では母親は『博昭のしたことは間違っていなかった』と、はっきり集会で言い切りました。そのように家族も変わってきました。ところが当時の新聞報道やニュースを見ていると、もう警察の発表をそのまま鵜呑みにして全面展開するから、学生の奪った装甲車によって弟は殺されたということがずっと広がっていきます。根拠は何か?警察発表だけなんです。警察発表を基にして大新聞は全部それを展開します。だからものすごい温度差があるんですね。運動している人たち、その周りの人たちは頭をやられたんだ、殺されたんだ、だからヘルメットを被って自衛せないかん、それでも次に俺がやられるかも分からんことがあっても行くんですね。周りの人たち、ちょっと離れたところにいる人たちは『可哀そうにな、同じ仲間に殺されてな。』というような意識でずっときているんです。
この落差はものすごい激しいですね。
その証拠の一つになったのが、新聞でしょっちゅう繰り返された胸にタイヤ痕があったということを鑑識の係員が新聞で証言しています。ところが、この点だけ限っても、遺体を検死した牧田院長、それから遺体に立会われた小長井弁護士、そして私も解剖室で彼の遺体は見ている訳です。誰もそんなスジの入ったものなんて見ていない。解剖室では解剖する医師が『きれいな体やね、これは頭しかないわな』。お互いに3人居たけれど口止めしましたね。
この後の映画では、牧田さんが『耳から血を流していた。頭蓋骨が挫滅して死んでいる』という死体検案書を出して、映画の中でもそう語っています。だけど、世間にはそう広がっていかなかった。新聞の報道は怖いですね。それ以降、マスコミはあまり好きじゃなくなったんですけれども、だけど東京新聞がこの集会のこととか、運動のことを取り上げてくれて、やっと広まっていく。
この運動がきっかけになった水戸喜世子さん、この人が救援会の活動でお世話になってずっと付き合いがあったんですけれども、しばらく離れている。大阪で原発に反対の運動で活動するという投書をされたんです。それがきっかけで会いたくなって連絡を取って話をしているうちに、この運動、50年経つんやから何かこの若い青年の生き方を後の世にも知らせようという話がなされ、そこからこの運動が始まってきたんです。そういう意味ではマスコミの方にもお世話になっているんです。
最後に二つお願いをして、一つは今日も弁天橋で当時の参加者の話を新たに聞くことが出来ました。ここにも弁天橋におられた方もおると思うんですね。どういう状態だったのかということを、分かりましたらメールででもお教えいただけたら助かります。
それと、賛同人ですね。これに是非ともなっていただいて、この運動を支えていただきたいと思っております。よろしくお願いいたします。」

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(会場の様子)

続いて映画「現認報告書」(約1時間)の上映があった。会場は立ち見も出る満席である。
映画の上映後、休憩を挟んで後半のプログラムが始まった。最初に当日参加した発起人の自己紹介と挨拶があった。
当日参加した発起人は以下の9名の方々である。
山﨑建夫(山﨑博昭実兄)
佐々木幹郎(詩人、大手前高校同期生)
辻 惠(弁護士、同上)
三田誠広(作家、同上)
宮本光晴(経済学者、同上)
山本義隆(科学史家、元東大全共闘議長、大手前高校同窓生)
小長井良浩(弁護士、当時遺族代理人)
水戸喜世子(十・八羽田救援会)
山中幸男(救援連絡センター事務局長)

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(発起人の写真)

この中から水戸喜世子さんの挨拶を掲載する。

【水戸喜世子さん挨拶】
「水戸喜世子です。どうも今日はよくおいで下さいました。
ここに水戸巌がいないのが私は本当に残念ですし、みなさんにも申し訳なく思います。
60年安保があった時は、ちょうど私は大学の学部を卒業して、夫はドクターを終えて、結婚をして関西に行きました。関西に行ったときの思いは、本当に60年安保の真っ最中で、私たちは樺さんが亡くなった時に日比谷公園の中で一晩中泣き明かした、そういう思いをもって60年に関西に行きました。
60年に関西に行って、向こうで関西の大学に就職をして、その間、日韓闘争とかいろいろな活動がありましたけれど、必ずしも思い通りの闘いが広がった訳ではなくて、たまたま転勤で東京大学の原子核研究所に助教授として迎えられたのが67年だったんですね。
運が良かったのか悪かったのか分かりませんけれども、67年に東大に戻ってきまして、10・8羽田が起きました。
私の夫は現地に参加しました。反戦青年委員会として原子核研究所の何人かを募って参加をして、私と小さい子どもたちは夜の間中、本当に無事に帰ってこれるのだろうかと一睡もしないで朝まで起きて過ごして、夜明けとともに帰ってきた時は、洋服も全部血まみれで、『怪我人を全部運んでこうしてああして』と、でも本人は本当に意気軒昂で晴れ晴れと60年安保の仇を取ったようなつもりで、『やったぞ』と帰ってきたんですね。
それで私たちもホッとしたんですけれども、それもつかの間で、新聞では暴徒キャンペーン。翌日の新聞では学生が学生を轢き殺した、学生は暴徒になったという、本当にプロレス見出しの、どの新聞もそうでした。
それで、すぐに吉川勇一さんに連絡を取って「自分たちで若者の反戦の志を暴徒にさせられてはいけないんだ」ということで、文化人の署名を、電話を片っぱしからかけて、羽仁五郎さんとか日高六郎さんとか当時はいらっしゃいましたね。みなさんすぐに応諾してくださって、素晴らしい文章ができて、学生の反戦の志を、やり方にはいろいろ問題があっても自分たちは支持するんだという支持声明を出してくださって、それがきっかけで救援センターが生まれました。
私は生まれて初めて警視庁に差入れに行って、学生を轢き殺したという運転していた学生に毎日差入れに行って、彼は起訴もされないで、一切黙秘でがんばり通して、救援運動の勝利を実感して、その後は救援運動は大変なことになりまして、羽田、成田、王子闘争と、連日、時には千人くらいの逮捕者が出て、私は小さい子どもを家に置きっぱなしで事務所の机の上で毎日寝るような日が続いたことも、その1年2年は大変でした。
でも救援運動があって、権力は本当に困ったと思います。逮捕されても誰がどこにいるか、党派別であればすぐ分かるでしょうけれど、各党派みんな救援連絡センターに弁護士選任を入れてくる訳ですから、一番困ったのは権力だと思うんですね。
それを今、山中幸男君(救援連絡センター事務局長)が曲がりなりにも継いでやってくれていて、日本の人権を守るという、一人の人民に対する弾圧は全人民への弾圧として受け止めるという思想は引き継がれていると思います。
それの出発点は10・8であるし、山﨑君のお母さんと私は、その悲しみを受け止めることはできなかったんですけれども、少しでもその気持ちに沿いたいと思いながら、今また建夫さんと繋がれて、こういうことができて本当にうれしく思います。
これからまた賛同人を集って、できれば私たちの思いが、彼らの思いがずって繋がっていくように、反戦の思いが繋がっていくように、モニュメントができたらいいなと思います。
よろしくご協力ください。」

発起人の挨拶後、「私の1960年代―樺美智子・山﨑博昭追悼―」というテーマで山本義隆氏の講演が始まった。山本義隆氏が公の場で当時のことを発言するのはたぶん初めてのことである。そんなこともあり、当日は、マスコミ数社とテレビ2社の取材が入り、IWJのネット中継も入った。IWJのネット中継をご覧になった方も多いと思う。
会場の前にテレビカメラなどが並ぶ中、山本義隆氏の講演が始まった。

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(会場の写真)

山本氏は9月に風邪を引いたということで、「声がかすれる」という話をしていたが、60年安保闘争から東大全共闘までを振り返り、科学と技術の話を織り交ぜながら、約1時間10分の講演を行った。講演が進むにつれて声に張りも出て来て、とてもいい講演であった、予定を少しオーバーしたが、話し足りなかったところもあるかと思う。
(山本義隆氏の講演の概要は、後日、ブログに掲載予定です。)

最後に発起人の一人である辻恵氏から閉会の挨拶があった。

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(閉会挨拶の写真)

閉会挨拶の中で、これまでのプロジェクトの経過説明があった。
1点目は弁天橋の近くにモニュメントを建てる土地を取得するための交渉を続けている事。2点目はベトナムの首相に対し、このプロジェクトに対する何らかのメッセージを具体的にいただきたいということで交渉をしている事。
3点目は死因究明で、当時の関係記録を検察庁に問い合わせをしている事。
この3点についてプロジェクトとして主に活動を行ってきたという説明があった。
そして、今後のことについては、「50周年まであと2年の集会を来年の10月に。50周年まであと1年、そして2017年にはロシア革命100年、羽田闘争50年の10月集会を是非実現したい。今日の催しを含めてパンフレットを作って、もっといろいろな方々に知っていただくように、広げて行くような活動をしていきたいと思う。あと3年、やれるだけやっていきたいと思うので、今日を出発点として皆さんと共にこのプロジェクトを盛り上げて行きたいと思う。今後ともよろしくお願いしたい。」という閉会の挨拶があった。

「10・8山﨑博昭プロジェクト 50周年まであと3年」の公開イベント「講演と映画の集い」は大盛況のうちに終了した。

<お知らせ>
山﨑博昭プロジェクトへの賛同依頼
プロジェクトの賛同人の申込みは随時受けております。下記アドレスからお申込み下さい。
「10・8山﨑博昭プロジェクト」  http://yamazakiproject.com

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