1969年11月17日から1970年6月上旬まで発行された「週刊アンポ」(編集・発行人 小田実)の記事を紹介するシリーズ。
第2回目は「週刊アンポ」第3号に掲載された、69年1月19日の神田カルチェラタン闘争で逮捕された芝工大の2名の学生に対する警察暴力を告発する記事である。
【告発(その2) 警察暴力】(週刊アンポ No3 1969.12.13発行)
『今日、日本の国家秩序は、機動隊という名の数万の特殊な機能集団の防具つきの手によって支えられている。この集団は、あのグロテスクないでたちのまま、白昼街頭に立っていても誰も奇異に思わない程われわれの日常生活の中に入り込み、のさばっている。彼らは日夜、所と相手かまわず暴力を振るい続けることにより、われわれの「生活」を守っていると称している。
もう一度われわれは、彼らの姿の異様さにまゆをひそめる感覚(つい1、2年前までわれわれはそれを持っていた)をとりもどそう。あのいでたちは彼らの唯一の目的、「暴力をふるうこと」のために徹底的に考え抜かれているのだ。(中略)
<証言1 機動隊暴力の「効き目」>
今年の1月18日、19日の東大決戦の際、「お茶の水カルチェ」で機動隊に立ち向かい、逮捕された芝浦工大のA君は「あまりあの時のことを語りたくないな」といいながら、こう話してくれた。
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1969年1月19日、その日僕は中央大学の中庭で行われた東大闘争勝利の連帯集会に参加し、12時前後、東大(本郷)へ向けて出発した。
本郷二丁目の交差点まで来た時、見ると前方に百人くらいの機動隊がいた。他の学生はほとんど引き返してしまって、結局、そこに残ったのは、僕たち50人くらいになってしまった。そこでデモをくり返していると、後方から50人前後でやって来た部隊が真っすぐに機動隊に向かって進んでいった。僕もそこまで前進したとたん、それまで退く一方だった機動隊が一斉にこちらへ突進して来た。これはまずいと思って逃げたとたん、後ろにいた機動隊に足をかけられてころんでしまった。はね起きて5歩位逃げたけれど、すぐに押さえられヘルメットをはがされた。しかし、また振り切って逃げ、今度はヤッケの首をつかまれたが、前かがみになったらヤッケが脱げたのでまた逃げた。最後は体にしがみついて来たのでふりはらったが、前二人後一人の三人でおさえられ、その時右前にいた四人目の隊員に頭を、樫の木の楯を垂直に使ってなぐられた。頭から血がにじみ出て、一瞬目の前が真っ暗になってしまった。それからなお数人の隊員に顔をふまれ、右半分のまゆから頬にかけて血がにじんでいた。
本富士署に連れていかれ機動隊員の調べを受けていると、僕の前にいた学生が調べで黙秘するのを、逮捕した隊員が二人がかりで足をふんだり、頬をつねったり、髪の毛を引っ張ったりしていた。
夜までいくら傷が痛むといっても医者には見せてくれず、ようやく病院へ連れて行ったと思ったら名前をいわないと治療させないと恫喝をかけてきたが弁護士を呼んでくれと言うと、しぶしぶ治療させた。
顔面の擦過傷全治十日、頭部の裂傷は二針ぬって全治二十日であったが、現在でも寝不足すると傷跡がいたむ。
取り調べの時、黙秘すると、当時僕は少年だったので、刑事はしゃべらなければ練鑑送りだと言ったり、練鑑ブルースを口ずさんでみせたりまでした。
拘留23日目の時間ギリギリまで待たされて釈放された。あの23日間の苦痛を考えると、もうカンパニア闘争にしか参加できず、実力闘争などの時には、日和ってしまっているわけである。
最近常に、官僚も僕たちとどこもかわることがない人間なのに、どうして警察官の採用合格しただけで人を逮捕することができたり、なぐっても罪にならないのかと思っている。
A君のような体験は今日余りにも多く、マスコミのいう「ニュース性」を持たなくなっている。しかし、A君の素直な証言によって機動隊暴力の暴力たる根本的ゆえんがあらわれてくる。「自由意思の圧殺」、個人をきずつけ痛みつけることによって意思と行為をねじまげ、精神を破壊してまで支配の中に押さえつけ、くみこむ、それこそ権力の常に目指す所だ。
<証言2 機動隊暴力のエネルギー源>
A君と同じく1月19日逮捕された芝浦工大のT君は興味ある証言をしている。
気がついて周囲を見たら、機動隊しかいない。ヤバイ!と思って逃げ出した瞬間、うしろから折りたたみ式の楯でガーンとやられた。ふらつくところをタックルされて、おまけに80キロはあるというヤツに押さえこまれてしまった。バタバタもがいていたら、右目に強烈なストレートをくらって、戦意喪失。誰かが「手錠を前にかけるなんと、もったいない。後手にしてしまえ」なんてワメいている。しかし、それはまぬがれた。理由はほとんどの機動隊員が手錠はもっているが、そのカギを持っていないことだ。そうやって運ばれて、せまい露地につれこまれ、壁にガッチリ押さえられて所持品検査。
捕えた人数に比例して特典があるらしく、あまり関係のなさそうな隊員に向かって先輩らしいヤツが、「お前も捕えたことにしておくか」
「ハッ!お願いします」
なんてやってやがる。
車に乗せられて○○署へ行く。血が出ている奴が目についた。精神的にも肉体的にもまいって、かがもうとすると、「コラ!芝居なんかやめろ!」「こいつ芝居がうまいんだ」なんて仲間とニヤニヤしてやがる。狩りの獲物と同然だ。
取り調べの時、逮捕時の状況報告を見せられたら、あることないこと、ウソ八百。デカはそれに合わせて調書をとろうとする。あとで聞いたところによると、できるだけ勇ましく書いた方が、昇進の時、有利なんだそうだ。
T君のききもらさなかった対話の中に大事なことが示されている。機動隊は、1個の「肉体労働者」なのだという当たり前の事実が。彼らの「やる気」の源は、まさにこの出世欲なのだ。逮捕後の暴行の証言の中には、連行中立ち並ぶ周囲の隊員からリンチを受けた例が多い。逮捕した当の隊員は、その時点ではむしろ後生大事に、出世のもととなる「獲物」をかかえていく。他の隊員たちは責任のない所でその「他人の獲物」に暴行をふるう。時には連行中の隊員が「オイ、よせよせ」ととめることさえある。こうしたそれ自体犯罪的な情景は、この「出世欲」という要素を含んで考えると、いっそううすぎたないものとして映ってくる。
日大闘争の中で不幸にも亡くなった第五機動隊西条巡査部長(当時34才)について、東京タイムズ社会部編の「裸の機動隊」はこう伝えている。
『昇任試験に合格することは彼の大きな目標であったらしく、ユウ子さんと結婚した前後、繰り返し「二年以内に必ずパスしてみせる」と約束していたという。殉職三か月間の43年6月、希望して五機に入隊した。
「機動隊に移ったのは勉強できるからだと思います。だから、機動隊の中でも“学の五機”にはいれたことを非常に喜んでいました。勤務はとてもつらいようで、よくコボしていましたが、機動隊は幹部になるため一度はやらなければならないところ、と思っていたのでしょう。」
とユウ子さんは当時の夫の姿を思い浮かべながら語る。』
法を守る使命感も、個人的なイデオロギーも彼らを支える理由の一つではあろう。しかし、この出世欲こそが彼らの「やる気」の源なのだ。しかも、西条巡査部長(当時)は、そのために命を落としたのだ。
そう考えると、人間としての彼らの悲愴な位置が明らかになってくるし、さらに彼らを「やとい」自己の利害のために暴力をふるわせている、権力の中枢にいる人間たちの存在が鮮やかに浮かび上がってくる。
その人間こそ我々は最終的に告発していかなければならない。(後略)
(終)
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