2010年6月、1冊の本が出版された。「叛逆の時を生きて(朝日新聞出版)」。1960年代後半から70年初頭にかけての「あの時代に、学生運動に加わった人たちはどんな思いだったのか、なぜ、あんなに学生運動が盛り上がったのか、急速にしぼんだのはなぜなのか」、当時の学生運動に関わった人たちや関係者に取材した本である。2009年に朝日新聞紙上でも連載された。
この本の中に、明大から取材を受けた人がいる。
「革命家になろうと思ったことはなかった」米田隆介(「叛逆の時を生きて」より引用)
(前略)安田講堂ではセクトの外人部隊のひとりに米田隆介がいた。明治大学自治会の委員長で社学同のメンバーだった。米田は攻防の始まる3日前、安田講堂に入った。
「安田講堂に入れば逃げられないことはわかっていた。それまでのさまざまな闘争で先輩が次々に逮捕されていた。今度は自分の番だと思っていた。ためらいはありませんでした。」
たてこもるねらいはなんだったのですか。
「ひとつは、権力に抵抗して闘いの火を広げること。もうひとつは、社学同の組織をアピールし、組織拡大をめざすことでした。安田講堂攻防の後、全国各地の大学で新たに闘争が起きた。その意味では、効果があったのかもしれません。」(中略)
安田講堂の攻防では5階のバルコニーにいた。道路からはがした敷石が投石用にたくさん用意されていた。
「あれはかなり重かった。機動隊の頭に当たると、亡くなったり、大けがをしたりする。その前年に、日大で警察官が亡くなっていた。そうかといって、投げないわけにいかない。直撃しないように投げた。機動隊員の近くに落として、バーンと割れるように。」
攻防が終わったときは、放水でずぶぬれだった。
「冬の夕方だったから、ともかく寒かった。これで暖かいところへ行ける。しばらく休める。そんな気持ちだった。」(後略)
(安田講堂攻防戦の写真)
米田氏は、当時、明治大学学生会中央執行委員長であったが、社学同の行動隊長として東大安田講堂に籠り、1969年1月18日と19日の攻防戦を闘った。
先日の明大土曜会で、米田氏から46年前の東大安田講堂籠城に至る経緯や攻防戦の状況など話を伺ったので、その要約を掲載する。
【明大土曜会での米田氏の話】
<東大安田講堂籠城に至る経緯>
2008年の時に東大の駒場祭に呼ばれて、東大闘争について話をして欲しいということで、東大助手共闘の最首悟さん、東大全共闘の片桐さんとともにパネラーで話をしたことがあります。
69年に東大安田講堂に入った時は、明治に全共闘はなかった。私の意識としては、明治の中執委員長としてではなく、社学同の一員として入ったということを駒場祭でも話をしました。
69年1月10日に駒場で民青とやった時の写真があります。荒君とか私とか久保井さんとか大下君も写っています。これは荒君の本「破天荒伝」の中に使われている写真です。
私にとっては、東大闘争は全共闘運動という意識は全くなくて、三派全学連の宣伝合戦、70年安保に向けて自分たちの勢力をどれだけ増やしていくかというのが主題の闘いであった訳です。
当時のブントがどうなっていたかというと、68年の10・21防衛庁闘争の時に、後の赤軍派のグル―プは火炎瓶を使えということを言っていて、それに対して東京のさらぎさんなどのグループはそれはできないということで、それの折衷案として丸太を抱えて防衛庁に突っ込こんだ。前日の10月20日に、明大の池原さんを隊長にして20名程の部隊がトラックに乗って防衛庁占拠を目指して、一部占拠した。そういう闘争があって、ブントの中も東京系と関西系に分かれていた。
1月16日の夜、ブントの政治局メンバーから、社学同の指導部であった委員長の荒岱介、ブントの学対部長の高原浩之に「機動隊の導入が近いが、革マル派から連絡が入った。彼らは法文二号館から出ると言っている。社学同も安田講堂から出ろ」と何とも信じられない方針が出たそうです。私はこのことは直接聞いていませんが、安田講堂に荒君と高原さんが戻ってきて、そんな事を言っていたという記憶はあります。
高原さんが「出ろってなんや。学生は皆、死ぬ気でやっとるんや。敵前逃亡しろと言うのか、」と言ったことに対して、「政治局の決定に従えないなら、全てお前らの責任だ。」ということで大ゲンカになって、対外的には社学同だけでやる、ブントの政治局の許可を得ない、社学同の勝手な判断でやったという形になった。
その時の社学同のメンバーは、委員長が荒さん、ブントの学対が後に赤軍派に行きますが高原さん、北海道から山内さん、中大の久保井さんなどがいた。明治では、当時社学同が30人くらいで、トップが池原さん。明治は学費闘争の後に上の世代が皆いなくなったので、学費闘争が終わった時の66年入学の1年生のグループと65年入学の小森さんなどが中心だった。その小森さんが67年8月頃に運動を辞めてしまう。学費闘争の時の中執の大内委員長の後に、中執委員長代行を小森さんがやっていたが、「米田を中執委員長にする」ということで去っていった。生田は篠田さんなどの力があって、妹尾さんがキャップだったと思う。池原さんが68年10月に逮捕されて、社学同の組織のキャップは両川君がやった。両川君も11月に逮捕される。やる人間がどんどんいなくなる中で、本来、僕は中執委員長だから残った方がいいと思ったけれど「しょうがないから行くか」ということで入ったのが、私が東大安田講堂に入る経緯です。
1月18・19日に至る具体的な経過を話しますと、1月15日の安田講堂前で行われる「東大闘争勝利・全国学園闘争勝利労学総決起集会」に向けてブントとしては同志社を中心に関西からも動員して200名くらい集まった。当初は全員籠城という意気込みだったが、そうもいかないということで、指導部レベルでは、荒君も高原さんも、山内君も久保井さんも村田さんも全部入らない。米田が入れということで私が入り、関西から来た100名くらいは人選して半分くらい返している。関西から50、東京から50で全部で100名くらいが入る事になった。
(1.18部隊配置図)
当初、ブントが守る場所は安田講堂ではなかった。資料の1.18部隊配置図の安田講堂の後ろに「(理)1号」とある理学部一号館だった。この建物は安田講堂の裏手の斜面になっている低い位置にある。東大の正門玄関から安田講堂に向かって左側がML派の列品館、その隣が中核派の法学研究室、その奥が革マル派が守るはずだった法文2号館で、マスコミにアピールするのは正面がメインなので、安田講堂の後ろにいたのではやってられないとうことで、荒君が安田講堂にいた今井さんのところに行って、「68年の6・15の時に医学連が安田講堂を一時占拠した実績があるのでブントは安田講堂だ」ということで無理やり入り込んで、解放派と「出て行け」「そうはいかない」と殴り合いのケンカになったが、今井さんが仲裁してブントが入る事になった。
(安田講堂攻防戦写真)
<1月18日の状況>
1月18日、午前7時30分に青医連が立てこもっていた医学部の図書館の封鎖が解除され、22名が逮捕された。8時15分頃、300名位のデモ隊が正面玄関から入ってきた。機動隊は安田講堂を攻めるために正門は検問していなかったのではないか。デモ隊は安田講堂の前までやってきた。外にもこういう部隊がいるということで、こういう仲間もいるんだと思い、悲壮感はあったがやる気になった。デモ隊は銀杏並木を1周して機動隊に押出された。
革マルはいないということだったんですが、実際には法文2号館にいました。革マルはここで12名逮捕されています。まあアリバイですね。私は安田講堂にいたので見えるんですが、何もないのに革マルのヘルメットを被った人間が屋上に出て来て、その後、機動隊が出て来て、ほとんど抵抗なしで逮捕されていった。そういう意味では革マルは敵前逃亡したが、アリバイ的に12名を残していた。
列品館では、明治の滝沢君が東大闘争の中で一番重い刑を受けている。放火が付いた。都市ガスを引いて、先にノズルを付けて火炎放射器のようにしていた。ML派は38名が逮捕されたが、見ていてもすごかった。ノズルの先から火が出ていて、その他に火炎瓶も投げるので、建物の中で燃えて煙が出てきた。休戦協定を結んで、怪我人を一人降ろした。消防車が来て放水して火を消したが、また火が付いて、ML派はそこで闘いを止めた。
私はブントの隊長ということで安田講堂に入っているし、滝沢君も列品館で頑張った。そこそこ明治も頑張ったということです。
18日の闘いでは、中核派が法学研究室で闘って、建物内部の闘いは見られないが、屋上でゲバ棒で機動隊と最後までやり合っていた。第四インターもここに入っていて、167名が起訴された。安田講堂以外では、ここが一番数が多かった。18日に一番最後まで闘ったのはここです。
1月ですから4時か5時には暗くなる。機動隊の放水も5時10分には終わっています。
その日の安田講堂は1階に機動隊が入ってきた。安田講堂の正面玄関は3階になっていて、裏側から機動隊が1階に入ってきたが、暗くなったので5時過ぎに引き上げた。それで「1日持ったな」という記憶がある。この日はまだ安田講堂の中を行ったり来たりできた。
<1月19日の状況>
(安田講堂の断面と各党派の配置)
東大の島泰三さんの「安田講堂1968-1969」という本と、私の記憶でによると、安田講堂の屋上には各党派の旗振りが一人ずついた。ブントは上原君が最後まで旗振りで残った。6階部分には中核派、5階の左側に社学同の関東の部隊が50名で右側がケンカした解放派が40人くらい、4階には東大全共闘の全闘連と青医連のグループが30人くらい、3階の後側は東大全共闘40人、3階の正面には関西の社学同が50人と第四インターのグループがいた。
1階は誰もいなくて、1階から入ってきた機動隊が階段を上がって来るのを防ぐという形になっているので、2階に中核派がいた。一番の闘いは1階から2階に上がる過程だった。
3階の正面玄関は、屋上から我々の部隊が火炎瓶をどんどん投げるので、機動隊は鳥籠みたいなものでやってくるが、一升瓶の火炎瓶の効果でなかなか入れない。すんなり入れるのは1階だから、ここから入ってきた。1階と2階の階段にバリケードを作っているが、中核派がバリケードの隙間から火炎瓶をバンバン投げていた。機動隊は消火器で消して、バリケードを確実に1個づつ取り除いていく。向こうも簡単に引いたりしない。実際に闘いになったのはここです。
機動隊が2階に上がった段階で、勢いもなくなって、2日目で水を浴びて体力を消耗しているので、3階の社学同の部隊はメタメタにやられていた。この時点で、東大の防衛隊長の今井さんからは「抵抗はするな」という指令が出ていた。午後2時くらいには実質的に抵抗は終わりで、4階まではちゃんとした階段があるが、5階から上は人が一人くらいしか通れない階段なので、そこにバリケードを作って抵抗すれば1日でも2日でも持ったと思いますが、下の部隊が降伏しているので、上の部隊も止めようということで、その時点で抵抗は終った。
機動隊は外側に仮設の階段を作って5階に入ってきた。5階で抵抗せず、インターを歌いながら逮捕された。逮捕されたのは午後5時頃だった。
僕たちの部隊は殴るけるの暴行は受けなかった。というのは、新聞社も従軍記者みたいな形で来ていましたから、手で殴ることが出来ないので足で蹴ったりしていましたが、そういう状態でした。以上が私が体験した東大闘争です。
なにせ寒かったという記憶がすごくあります。放水というのは、そういう意味で効果があった。特に私たちの部隊は5階のバルコニーに出て火炎瓶とか敷石を投げる役割だったので、出れば必ず上(へり)から水を浴びるので、水の中に催涙液のような薬品が入っていて、私も2ケ月くらい足首に火傷をしたような炎症があった。医務官は火傷だと言って薬を塗っていましたけど。外でやった人はだいたい火傷したんじゃないか。どうやってトイレに行ったかと食事をどうしたかは全然覚えていない。
逮捕されたのが682名で、そのうち起訴されたのが474名。起訴されなかったのは未成年の人だと思う。大学別で言うと、東大が一番多くて83名、次は広島大で29名、これは中核派が頑張ったんですね。早稲田が23名、同志社18名、同志社はほとんどがブントだと思います。明大が16名、法政が16名、東北大が14名、芝工大も14名、京大が13名、山形大が9名、九大が6名です。全国82大学から来たそうです。
その内訳は9割くらいが党派の動員です。党派の会議で安田講堂の守る場所を決めていた。東大の片桐さんのように自分の意志で入った人もいるし、地方から個人で入った人も何人かいたようです。
(安田講堂攻防戦写真)
<逮捕後のことなど>
私は午後5時37分に、5階のバルコニーで皆と一緒にインターを歌いながら逮捕されて、成城署に連行されました。そうしたら、私の高校の先輩だという検事が2日目くらいに面接に来て、どうだったのか話をしてくれれば先輩が何とかするみたいな話をしてきた。警察は逮捕した時点で、出身高とか人脈をフルに使って、懐柔策はすごかったです。誰が入れと言ったのかなど聞かれたが、しばらくしたら「荒がお前に行けと言ったんだろう」とか、指揮系統を全部知っていた。成城署に行って、23日で起訴されて、刑務所から保釈されたのが70年の1月10日ですから、ほぼ1年です。判決が71年に出て、凶器準備集合・不退去・公務執行妨害で懲役2年6ケ月。ML派で放火が付いた人は5年になったが、それ以外は最長で2年6ケ月。ブントでは、僕と荒君、上原君もそうかな。
私は翌年の72年の6月に控訴を取り下げた。それは、連合赤軍の問題や浅間山荘事件もあったし、僕らが最後まで属していた戦旗(荒派)も中で4人組が出来たり、4人組というのは僕と両川君と早稲田の本多君と大下君で、全員66年入学の同じ学年です。当時、荒君と対立することがあって、もうやってられないと思った。自分が何かで死ぬことは仕方ないとしても、内ゲバで誰かを殺せという世界に入ってきたので、そこまではやれないということで、控訴を取り下げれば刑務所に行く道もあったので、6月に控訴を取り下げて静岡刑務所に行きました。翌年の10月に出所したので、1年4ケ月入っていた。
以上簡単ですが話を終わります。
(安田講堂攻防戦写真)
米田氏の話の後、明大土曜会参加者からいくつか質問が出された
<質問>
質問1「山本義隆さんはその時はいなかったんですか?」
米田「山本さんはもちろん外に出ていました、今井さんとホットラインがあったということですが、今井さんの方が学生運動の歴史が長いし、実際的には今井さんが決めていたと思う。」
質問2「東大全共闘と党派との関係はどうだったのでしょうか?」
米田「東大全共闘といっても党派がいる訳だから、色の付いていない人はまずいない。党派会議もやっていた。60年安保の世代がいろいろやっていた。
表向きは東大全共闘だけど、実際は党派の交渉をやっていたのではないか。ブントは久保井さんが会議に出ていた。
17日の夜に、指導部は各部隊の責任者を残して安田講堂を出た。」
質問3「全学連との関係は?」
米田「あの時は全学連という意識はない。三派全学連は結成直後に割れて、中核派とかブントとかの党派の全学連だった。そういう意味で完全に党派。」
質問4「あれから46年経って、今から考えると東大安田講堂に籠ったことについてどう考えますか?」
米田「ああいう時代だからね。あの当時の学生運動のピークをどこに見るのかということもあるけど。全共闘系だった人はその後に来たと思うし、僕は三派全学連を作った時がピークだったと思う。その後、どんどん分かれて行く訳だから。そういう意味では66年の学費闘争の最中に全学連を再建した時が、気持ちとしては一番高揚していた。」
N「その流れの頂点から、東大闘争は下降に向かう最後の闘いみたいな感じだった。」
米田「それがちょっと遅れて地方でいろいろ起こり、高校生のレベルまで行った。中学生(全共闘)までいた訳だから。」
S「我々の世代は全学連の最後の世代で、2つくらい下の世代は全共闘の雰囲気を持っている。それがある程度続いて全国的に広がったというのは、全共闘の方はあった。我々も明治に入った時に、1年くらいで全学連が再建されて、明治もいいかげんなんだけれど盛り上がった、社学同も30人くらいしかいなかったが、(学内を)仕切れた。それが66年の学費闘争でなくなってしまった。」
(終)