以前、重信房子さんを支える会(関西)が発行していた「さわさわ」という冊子があった(写真)。この冊子に、重信さんが「はたちの時代」という文章を寄稿し、連載していた。「はたちの時代」は、重信さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章であるが、「さわさわ」の休刊にともない、連載も中断されていた。
この度、「さわさわ」に掲載された部分と、未発表の部分を含めて、「1960年代と私」というタイトルで私のブログで公開することになった。
目次を付けたが、文章量が多いので、第一部の各章ごとに公開していく予定である。
今回は、第一部第一章である。
(「さわさわ」)
【1960年代と私*目次 重信房子】
第一部 はたちの時代
第1章 「はたちの時代」の前史として
1 私のうまれてきた時代
2 就職するということ 1964年 18歳
3 新入社員大学をめざす
第2章 1965年大学入学(19歳)
1 1965年という時代
2 大学入学
3 65年 御茶ノ水
第3章 大学時代─65年(19~20歳)
1 大学生活
2 雄弁部
3 婚約
4 デモ
5 はじめての学生大会
第4章 明大学費値上げ反対闘争
1 当時の環境
2 66年 学費値上げの情報
3 66年「7・2協定」
4 学費値上げ反対闘争に向けた準備
第5章 値上げ反対!ストライキへ
1 スト権確立・バリケード──昼間部の闘い──
2 二部(夜間部)秋の闘いへ
3 学生大会に向けて対策準備
4 学費闘争方針をめぐる学生大会
5 日共執行部否決 対案採択
第6章 大学当局との対決へ
1 バリケードの中の闘い
2 大学当局との闘い
3 学費値上げ正式決定
4 裏工作
5 対立から妥協への模索
6 最後の交渉─機動隊導入
第7章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書 2・2協定
2 覚書をめぐる学生たちの動き
(以降、第2部、第3部執筆予定。)
はじめに
私にとって「はたち」というのは、1965年から66年に当たります。この「はたち」の時代に私は新しい世界と新しい経験に出合いました。学生運動です。その頃のことを「はたちの時代」と題して、関西の友人たちが救援のために発行してくれていた「さわさわ」誌に掲載していました(2009年〜10年)。その後同誌が休刊し、このたび友人たちの諒解を得て、発表部分(第4章3まで)も含め掲載します。
第1章 はたちの時代 (1)
-はたちの時代 前史としてー
20歳というと、私たちの世代では、ポール・ニザン『アデンアラビア』冒頭の一節が浮かびます。「ぼくは20歳だった。それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせない。」20歳が、人生で最も美しい時かどうかはわからないけど、人生のわかれ日や転機の時であったように思います。少なくとも私にとって。
だから「20歳の時代」を自ら描いてみることは、意義のあることだと思っています。当時、ほとんどの人がそうであったように父母の育んできた家族の中で育ち、又その延長のような学校や近所の小さな社会に棲みついていた私。
その私は、高校を卒業して就職し社会の一員になった時、はじめて異質な価値観に、服従することをもとめられました。それが「世間」というものだと知った時、幻滅し、又、希望のよりどころとして、夜間大学の道をみつけました。
その時、私は18歳でした。この時から、1965年に大学に入学し、新しい自分を信じ、夢をひらいていく、輝く時代は、19歳から20歳に始まります。
働きながら学ぶという決断。そして、大学での新しい人生。そこには、20歳の夢も正義もその可能性も掌の中にありました。サークル活動から、自治会活動、愛情や、学費闘争へ。誰にでもあった20歳の時代を語るところから、あの時の自分を捉え返してみたいと思います。
1私のうまれてきた時代
20歳の私を語る前史として私のうまれてきた時代と環境に少しふれておきます。
私は丁度「第二次大戦」の敗北のあとに生まれました。1945年9月28日です。姉が、私の誕生日の日の古い新聞をコピーして送ってくれたことがありました。新聞の一面には、「天皇陛下 マッカーサー元帥と御会談」というもので、前日に、天皇とマッカーサーの会談があり、その後の新しい日本のアメリカ支配を象徴するような記事が載っていました。戦後、食料が不足し人々は配給制では足りず近郊農家に食料を買出しし、命を繋いでいました。食べることに困る時代に、少佐の退役軍人で、もとは教師の父のちょっとした知識を活かして、素人ながらパン屋を始めながら、戦後の我が家はスタートしたようです。食糧難の時代、イースト菌を手に入れ、パンを毎日作って売ると、飛ぶように売れたようです。世田谷の馬事公苑のすぐそばの家と、少し離れたポロ市通りにあった店を子供たちの為に一つに統合しようと、父の決断で、家族は世田谷の玉電上町駅近くに引っ越しました。私が2歳~3歳のころです。そこは、大きな角地で、広い庭の一角に「日の出屋」という屋号の食料品店としてスタートしました。
庭には、大きな白桃を毎年実らせる桃の木、数えきれない実をつける無花果があり、ブランコや木のぼりの毎日です。それに父が植えた葡萄棚や、柿、粟の木がありました。隣の家の少し高い石垣の境界にむかって広がるユキノシタの中には、大きな蝦蟇(がま)が住んでいました。子供心にも大きくて、じっとみつめる蝦蟇は家族の一員のように見えたものです。昆虫や蝦墓や蛙、鼠(ねずみ)に蚯蚓(みみず)やおけら、蜘蟻や蟻地獄。それらは子供時代の楽しい遊び仲間でした。
日本は敗戦から、復興へと速い速度で進みはじめました。近所の一段低い地の一角には、ひしめくように、黒いコールタールを塗った家が密集していて、そこは「朝鮮人部落」と呼ばれていました。その土地の話をする時に、大人たちは、声を潜めるのが不思議でしたが、私の父はそうではありませんでした。私は朝鮮部落の徳山さんや金さんの家に行っては、どぶろくを貰ったり、近所にたのまれて米を買ったり、おつかいもしました。又、反対に我が家の商品を届けに行っては、めずらしくて、家の中をのぞき不思議なアンズ(杏子)の味の飴を貰ったりしたものです。大きくなって知ることでしたが、当時は朝鮮戦争が始まり、日本共産党が武装闘争を路線として、社会革命を求めていた時だったのでしょう。朝鮮人たちは晴れ着のチマチョゴリを着て胸を張って行進すると、どの家も、「あぶない!」「こわいこわい!」と家の中に入る、そんな時代です。だから、「日の出屋」が彼らと、地域の日本人とのやりとりの、つなぎの場だったようです。「日の出屋」というか、私の父が、ご近所から一目置かれていて、いろいろな相談事をうける、そのような役回りをしていたのでしょう。
昔から我が家は、考えたことを家族で語り合います(父は1903年の生まれです)。父方の祖父は元士族の漢学者で大変厳しい人だったそうです。臨済宗の基礎となった「碧巌録」を訳した人だそうです。
しかし、父にとっては、父親の前で咳ばらいひとつ許さず、笑わないうちとけない人だったようです。
友人が父親とねそべって話をしているのはおどろきで、うらやましかったとのこと。自分が親になったら、子供とうちとけて話すことの出来る家庭をつくろうと考えていたようです。
小さい頃から、何故、月は落ちないのか?なぜ星は動くのか?なぜ花は咲くときをしっているのか。あらゆることを子供たちは質問し、こたえてくれる父を誇りにしていました。
又、私たち兄弟は、店番をしている父のまわりで、父の古事記や日本書紀、今昔物語や中国の様々な警句をきくのが楽しみでした。父は小さい時から、天下国家を子供と語り合うところがありました。父が民族運動血盟団などにかかわっていたことを話してくれたのは、67年10・8闘争の日です。それまでは知りませんでしたが、威厳のある人で、子供心に敬する気持ちがつよかったです。
父はいつも、人間の価値はカネの多寡によって決まるものではない。人間の正義、世の中の為に尽くことを教える人でした。そんな家族です。私たちは、いつもその対話の中で育ちました。当時の私は、よく交番に花を届ける子供だったようです。
朝鮮戦争後、特需で経済復興の足ががりを得た日本に、アメリカ文化生活のひとつ、スーパーマーケットが各地に出来はじめました。小さな規模のものでしたが、この大量仕入れによる安売りは、我が家のような小さな食料品店を直撃し以降、だんだん経営が成り立たなくなっていきました。丁度、父が癌の疑いで胃の摘出をおこない、結局、店を閉めて暮らし、その後、借金を清算して、町田へと引越しして行きました。私が中学の時代です。。どんどん貧しくなってしまったのです。
その為に、大学を出て、小学校の先生になりたかった私は、商業高校に行って簿記や算盤のスキルを身につけて、就職することは、その頃もう当然のことと考えていました。中学校を卒業して働くか、と言っていたくらいでしたから。、
こうして、子供時代の夢の「小学校の先生になる」ことを捨てて、商業高校に行きました。中学時代までは、少し勉強も出来て、たくさんの夢を描いていました。父の影響で、理科の大好きだった私は、生物・気象部から、中学までは化学部でした。二つ違いの姉が、中学時代に生徒会長をしていて人気もあったので、彼女が弁論大会や、スペリングコンテストや朝礼で表彰されるのを、恥ずかしく思いつつ影響もまた、受けてきました。詩やものがたりを書いたり演劇部などです。姉のように、弁論大会に選ばれることは苦手で、避けていたのですが、「お姉さんも出来たのだから」と、中学時代は姉の活発さに、まわってくる役廻りを、逃げまわったり、しぶしぶ引き受ける感じでした。.
商業高校は何だか先がみえているようで、勉強もしなくなりました。中学のように夢を描いても実現するだけの財政的裏づけがないし…と。小説を書き、渋谷(高校が渋谷にあった)の街で遊び“不良”にもなりきれずに、その分、勉強してみたりと、いう生活です。司書の先生から感想文を書くようにと言われて「橋のない川」を渡されて、読んだ時、不当な「宿命」ということに人間は尊厳をかけて闘うべきなのだ、と強く思いました。そして、その思いは常々、父の教えに強く結びつきました。それでも自分のいまと、どう生き方が結びついているのか、わからない・・・。そんな思いの中にいました。
そして、遊び、又、夏休み(63年)には、茅誠司東大学総長の提唱した「小さな親切運動」に共感し手伝わせてほしいと参加したり、青年の主張(63年秋)に参加したり、何かをしたいけれど、何をしていいのかわからない、そんな高校時代を過ごしていました。
(「重信房子がいた時代」から転載)
2 就職するということ 1964年18歳
高校三年生になると、就職にむけて、学校の体制や指導も重視されていきました。大学進学組はH組1クラスでA~G組まで400人位が自営業か就職試験を受けて、職場を選び、巣立っていくことになります。昔、私たちの高校は男子校だったのですが、私の時代には共学で男女半分くらいづつだったと思います。そのうち4分の1くらいが自営業だったかも知れません。
都立一商は昔の東京府の時代の旧い商業高校で進学する者は一橋や早大、明治などの商業部に多く、又、自営業者の息子娘たちは算盤簿記を学んで、家業を継ぐ人も多くいます。算盤と簿記は3級の資格をとらないと卒業できません。就職は引く手あまたです。代々、卒業生が職場で実績を残していて、真面目・勤勉と企業から求人が多いのです。当時は、一時期の証券・銀行ブームが引いて、製造業が一番人気でした。生産会社が、高度成長の中で増産増収で企業規模を拡大していく時で、高卒と大卒を、それぞれに企業現場では必要としていたようです。私たちの高校の卒業生は、企業の、現場の業務、実務の会計簿記・管理などが求められていました。
三年生の二学期くらいから、求人票がボードに貼り出されます。会社名・規模・業種・求人数・給料・条件(算盤や簿記何級など資格技術や、容姿端麗とか背の高さ等まで),試験の内容(筆記・知能テスト・面接等)などが書かれています。そのボードの中から、クラスの担任に希望を申し出て、成績と照らし合わせて、他のクラスの希望者と調整しながら、まず第一希望を確定していきます。そして、高校の推薦状とともに就職志願書を提出します。
私は、求人票の中で一番給料のよかっだキッコーマン(当時の社名は野田醤油)か東洋レーヨンをまず、考えました。当時、銀行や証券会社が、その年の、大体平均の給料を示すのですが、1万3500円くらいだったと思います。キッコーマンと東レは1万7500円で交通費なども支給・ボーナス3.5-4ケ月、など書かれていたと記憶しています。当時は、望むところには行けるし学校からの推薦資格がとれる、と担任からも言われていたので、深く考えず、一年目の給料額がよいという理由で、キッコーマンへ願書を出すことにしました。条件には、今ならセクハラで告発されますが、「155cm以上、容姿端麗」とありましたが、担当の先生が構うことないと無視していました。本社は千葉の野田にあり、日本橋小網町に東京出張所があって、仕事場はその日本橋ということです。
就職試験は、もう忘れてしまいましたが、やはり商業簿記や算盤関連や基礎的な学科もあったと思います。その後、書類と学科審査で合格した者たちが、第二次の面接試験に再び行きます。私の高校では三人受けて一人が不合格となって、私と、もう一人が面接試験に行きました。一人の不合格の人は、勉強もよく出来る人でしたが、多分、両親が健在でなく片親だった為に落とされたのだろうと、担任の先生が言っていました。当時は、両親がそろっているかどうかなど家庭環境のことも、うるさかったのです。
私たち高校生は、“さか毛”が流行っていて、昼休みや学校の帰りにはトイレの鏡の前で逆毛をたてて、お洒落したものです。就職試験の為の写真には、そんなことはしません。皆、髪をわざと、野暮ったく撫でつけた真面目な写真を貼って、提出します。それでも試験会場に行くと、就職の為にわざと野暮ったくきちんとしていて、あか抜けたお洒落を隠している人は、すぐわかります。
大体そういう人同士は、目敏く、友人になるものです。でも、キッコーマンの合格者は、総じて真面目な人が多かっだように思います。面接は、数人ずつ、趣味とか我が社を選んだ理由のようなものを聞かれたと思います。
私の家はもと食料品店をやっていて、キッコーマン醤油も売っていたので親しみがあり、給料が一番高かったからと、答えました。そんなことで、スムーズにキッコーマンに合格して入社しました。同期入社は約20人くらいの高卒に10人ほどの大卒の男たちでした。そして64年、高校の卒業式を終えて、キッコーマンの会社はまず、数日の研修を千葉の野田で行いました。4月、入社式の前だったような気がしますが、後だったかも知れません。
研修でば野田醤油の社史、工場の見学、新入社員の心構え、業界の現状などが、教えられます。「修養団」から講師が来て、女性は、男をたてて生きるとか、はじらいをもって振る舞い、笑顔もしとやかに、などという講義もありました。老男性講師の、婦女道みたいな話です。講師が去ると「古いね-、何考えてんだろう」など笑いがありました。それから、適正テストもありました。(これはもしかして、入社の時だったかも知れません。)夜、研修所の和室に、広々と、修学旅行のように布団を敷いて泊まったように思いますが、今となっては、それもおぼろげです。とにかく仲良くなった新入社員の他の高校から来た同年の仲間たちと、「婦女道にはまいったね」「あの話、古いわね」「今時、あんな話きく人いるのお?!」などと笑い合いました。又、大きな私たちの背丈の二倍もあるもろみの大桶に落ちて死んだ人もいるとか、野田の地元の高校出身の人が語りだすと、ネズミの死骸があったとか、キヤーワーと楽しく大騒ぎの話です。
最後の日に、この研修についての感想文を書かされました。数日して、確か入社式があったように思います。S人事課長から一人だけ呼ばれました。
「あの研修会なあ、『結構なお話でした』と、書かなかったのは君だけだよ」と言われてびっくり。え!みんな「古いわねえ、私たちにそんな話をしても意味がない」など言っていたのに・・・。と心の中で思いました。「君にとって本当のことでも、それを言って角を立てるのは、どうかな。」とS人事課長は笑って言いました。彼は訛りのつよい高卒のたたき上げで、課長どまりの停年まじかの実直そうな人です。S課長は「ハイハイと結構なお話でしたと、従っておくものだよ。これからは気をつけなさい。」と言いました。そのあと声を潜めるように、「テストによれば君は創造的か社交的な仕事が合う。「受付」か「企画」を考えているが、受付接客は好きかね?」と訊かれました。「いいえ、、受付接客よりも、何か業務をやってみたいです」とこたえました。呼び出されたのは私一人です。
戻ると、「どうだった?」「何?」と、みんな興味津々で訊くのです。感想文の話をすると、「えー?!『古い』なんて書いたの?!」と、みんなどっと笑いました。そうか・・・思ったことを、そのまま言ってはいけないのか、「結構なお話でした」と、みんな本当に書いたのか・・・遅ればせに「世間」という現実に触れた思いでした。そして幻滅しました。
私だって、対決的に、意見を批判として書いたわけではない。我が家でも和を大切にする方だし、そうして育ってきた。でも、自分の率直な考えをなぜ言ってはいけないのだろう。みんなも、なぜ言わないのだろう。この戸惑いが入社の第一歩になりました。
3、新入社員大学をめざす
こうして、高卒の女性が、受付や庶務、電話交換手、売上業務管理、データ計算の業務課、キーパンチャーなどの、男性の補助的な役割の多い中で、出来たばかりの食品課に配属されました。ここも男性の補佐的なしごとでしたが、責任を持てる業務でした。
キッユーマンはアメリカに進出するための輸出課を持っていましたが、カリフォルニアを目指した輸出課を通して業務提携の出来たデルモンテ社と三井物産、それに博報堂が組んでデルモンテ商品の日本上陸計画を始めました。このデルモンテの日本での販売の為につくられたのが、食品課でした。デルモンテケチャップをどう売るか、デルモンテトマトジュースをどう日本人に飲ませるか、それを企画宣伝・販売実績を上げて、フォローアップしていく為の新しい課として出来ていました。ようは、米企業の先兵です、今から考えると。その為他の課と違って市場調査や宣伝企画、試食会のマーケット見学など博報堂などと協力して、やりがいのある仕事です。
課長はとっつきにくそうな本当はやさしい慶応ボーイ、主任は企画力も能力もある早大卒、それに営業のエリートの大学卒の数人と高卒の人が営業、他に高卒の頭のよさそうな真面目な人が業務計算を仕切っています。女性は、課全体を円滑にすすめる役処で、主任の秘書的な庶務役を、仕事の出来る女性が一人で取り仕切っていました。10人の課です。そこに、私は配属されて主任や女性の指示に従って、業務を行いはじめました。
デルモンテを売る為に、「ケチャップのラベルを送ってきてくれた人には、先着1000名様にシームレスストッキングを一足送ります。」などと、キャンペーンを張り、売り上げを伸ばしていました。当時、貴重品だったシームレスストッキングを次々と送ったり、スーパーのディスプレイをチェックしたり、博報堂の持ってくるポスターやデザインに課の意見をまとめたりと、かなり楽しく仕事をしていました。きっと今も当時決まったコマーシャルソング「デールデルデルデルモンテ太陽のおくりもの」をつかっているのでしょう。
又、キッコーマンは「女性のたしなみ」を大切にする会社で、お茶とお花は5時の就業終了後、週一回、半ば義務的に講習を行っていました。勿論無料です。又「野田争議」として有名な労働争議が起きたことがあったとかで、以降はがっちりと会社の役に立つ組合がつくられ、そのもとに組合活動がありました。当時はそうした由来も知らず、労働者の権利、婦人の権利の為の組合というので誘われて、顔を出してしまいましたが、「茂木社長の配慮によってこんないい環境になった」というような話で、うんざりでした。それでも「野田文学」だったか、野田本社にあった文芸サークルと交流して、詩を書いたりしていました。
そんな時、食品課の高卒の男性が、中大の夜間大学に通っていることを知りました。又、業務課の女性が一人、法政大学の夜間に通っていることも知りました。この二人の話は、吃驚するほど嬉しいものでした。「夜間大学」!世界へのつてのない我が家には、そんなことを教えてくれる人はいなかったし、知りませんでした。又、父は、自分の大学に学んだ経験から、学問は社会で学ぶ方が良いと考える人だったので、大学入学の興味や知識もなかったのでしょう。絶対に大学に行こう!二人の話を聞きながら、熱く決意しました。
そんな64年の秋、突然、私は病気になってしまいました。
通勤の途中で、お腹の激痛に襲われてしまって気を失いそうになり、小田急線の向ヶ丘駅に途中下車して、駅の和室に連れ込まれました。町田の自宅からバス停へ→バスで小田急線の駅へ→そして町田から新宿へ→新宿から東京駅へ→東京駅の八重洲口からバスに乗って日本橋小網町へ、というのが私の通勤経路です。いそいでも自宅から1時間40分程かかって職場にたどり着きます。
その途中の向ヶ丘遊園で降りざるを得なかったのでした。会社に電話を入れて、駅長室で休んでいるうちに痛みも治まったので、町田の自宅に戻って、病院に行きました。自宅に近い、町田中央病院です。そのまま検査入院をしました。数日の検査の結果、どこも悪くないし又、痛みも、ケロリととれてしまいました。そこで、退院の支度をして、お金の払い込みを母がやりながら「最後に何もないと思うが、産婦人科でちょっと診てもらいなさい」と医師に言われて、産婦人科で診察すると、ここで初めて、卵巣嚢腫だと診断されました。こぶしくらいの大きさの嚢腫があるので直ぐ手術しないと又、いつ激痛に襲われるかわからないとのこと。又、病室に戻って、今度は、手術の体制となりました。この当時、日本中は東京オリンピックが始まる騒ぎの最中でした。
私は丁度良いチャンスだと、大学受験の問題集などを持ち込んで集中して受験勉強することにしました。手術し、受験勉強に熱中していると、同部屋の患者のラジオからオリンピック中継が流れてきます。アベベがマラソン一着になった中継やバレーボールの金メダルの応援など聞きながら又、勉強を楽しんでいました。
私はオリンピックよりも、先生になれるという人生の、目標に向かって、自分のオリンピックを実現するぞ!と、気持ちは晴れ晴れしていました。
64年、9月生まれの私は10月10日からのオリンピックの時には、19歳になっていました。私は姉や父や母に、すべての私の問題意識を語ってきました。でも、勉強して、大学に行くことは姉以外には、くわしく話しませんでした。もちろん父も母も知っていましたが、私が受験に受かってから、両親には自分から言おうと思っていました。自分の力で生きていくこと、19歳の私は一歩踏み出す希望に、その喜びを込めてすすみました。
1965年。受験して、大学に入る年。この年、私は19歳から20歳になっていく年です。
(つづく)