10月31日、東京・飯田橋の中華料理店で明大活動家OB会が開催された。今回は、このOB会の報告、特に呼びかけ人の一人である土屋源太郎さんの発言を中心に掲載する。
このOB会は1950年代に明大に入学し、砂川闘争に参加した方々が多いが、明大土曜会からもY氏、H氏と私の3名が若手?として参加した。
このH氏からOB会参加報告が送られてきたので、まず、それを見てみよう。
【明大OB会参加報告 明大土曜会H】
<明大1950年代OBの会が10月31日に飯田橋の中華料理店で開催されました。参加は31名(内土曜会から3名)です。
1951年~60年明大入学の活動家だった人が28名参集されました。圧倒的に1953年~55年入学が多いのです。土屋源太郎さん(明大中執委員長、都学連委員長、全学連書記長、「伊達判決生かす会」共同代表)53年法、中村幸安さん(1960年明大中執委員長)55年工といった塩梅です。
当時女子大生の方7名いらっしゃいました。*来られなかった方の名簿には28名記載されていました。皆さんの近況報告と明大土曜会年代では知らない思い出話やエピソードが披露されました。入学から60年たっても「明大の学生運動をやったという一点とその青春譜」の集まりでした。
共有されている運動の思い出は、60年安保の時は卒業していた方も多いので、圧倒的に1956年と57年の砂川闘争でありました。
そこから話題は、土屋源太郎さんの「砂川闘争と伊達判決」「最近の砂川事件再審請求」「アベ政権安保法案と、昔と違っている組織力を背景としない若い人たちの国会デモ」となりました。
1960年代やや後半からの明大の学生運動は1953年の「明大民主化全学ストと勝利」に基礎(本源的蓄積)を置いていることを改めて実感いたしました。
日共の五全協から六全協の混乱混迷の中、明大では53年の若手教授や革新派職員と一緒になった、明大全学ストとその勝利で、「明大固有の運動と組織の力量が高まった」と思います。
その力は56年からの砂川現地闘争への全都大学一番の動員になり、「明大の部隊は常にデモ隊の一番前か最後尾であった」(土屋源太郎さん 談)。
また、60年安保では本校から国会前までデモ隊が途切れることなく続く「全明全学ストライキ」が展開されました。
そして60年代の半ばは60年安保ブンドの混乱と崩壊もあり、各党派の運動・明大独立社学同運動や三派全学連結成や明大学費闘争になったと思います。
1950年代OBの集いは来年も行うとのことです。若い世代に伝えること若い世代との連帯も求めていらっしゃいます。
明大土曜会の幾つかの活動や今も砂川闘争を継承している砂川現地の反基地平和運動の構造なども報告いたしました。>
OB会では土屋源太郎さんが司会・進行を務めた。
その土屋源太郎さんの発言(要約)を中心に掲載する。

土屋
『砂川事件というのはどういうものだったのか。今の若い人と話をすると、北海道の炭鉱の話じゃないかと思われる。そういう意味で言えば、砂川闘争、砂川事件というのは、(安保法制の関係で)お陰様で広まりました。新聞の取材、原稿依頼、いろいろありました。
実はこの再審請求、あまりにも田中耕太郎とアメリカ大使と、最高裁判決で差し戻しということについて、非常におかしい汚いやり方をして、明らかに憲法37条違反だということで再審請求しています。請求人は4人でやっています。

東京地裁で審議入りは難しいかなと思いましたが審議入りを認めました。早ければ年内、来年の春には出るだろうと思います。この再審決定が出れば大変なことになる。安倍政権にとって(安保法制の)法的根拠が全く覆される。仮に却下ということになると、この却下というのは大変難しい。判決文で再審請求(決定)をする方がよっぽど楽なんです。
却下の場合は、あの(米国)公文書館の文章から何から全部どうするのかやらなくてはならないから、当然そこにはいろんな矛盾が出てきますから、これは我々は上告して闘いを続けます。何年かかるか、私がどこまで生きているか、まだまだ頑張って行きたいと思っています。
さっき、砂川闘争60年の話がありました。今年でちょうど60周年。1955年に第1回があってて、56年、57年と3度にわたって闘いがあった訳です。この度、11月5日に立川で大掛かりな集会があります。是非参加して下さい。
砂川の再審請求と砂川闘争について、弁護士が中心となって、安保法制で砂川最高裁判決使ったということで、急きょ作った本です。是非、買って下さい。それともう一つ、Y君たちが計画して作った本があって、よかったら買ってください。砂川闘争の写真も結構載っています。』

土屋
『沖縄について考えた時に、当時、砂川の闘争もあり、沖縄の闘争もあって、いろんな形で闘争があった。確かに本土の闘争では、砂川も立川基地を返還させるということで勝利したかもしれない。ただ、そこで一つ大きい問題は、その結果どうなったかというと、我々が砂川闘争をやった時代は約8割弱が日本の本土に米軍基地があった。ところが何と今、その基地の約73%が沖縄にある。何故かと言うと、我々が闘って勝利した結果が沖縄に基地が移った。だから海兵隊だって岐阜とか甲府にいたんです。その海兵隊が結局、沖縄に行ったんです。だから今の沖縄の人たちが本当に言うのは、当時いろんな事情があったにしても、我々はあの砂川闘争と併せて沖縄の基地反対闘争ができなかった。これは大きい反省すべきことではないか。本土がもっと沖縄の問題を共通の問題として、同じように取り組む必要があるだろう。ところが残念ながら今の状況というのは、本土でもそういう意識は薄すぎる。関心が薄い。

だから、今、辺野古で呼びかけをしているんだけれども、大挙して沖縄に行くことが大事なんだ。今までどちらかというと沖縄の人たちは本土でギャアギャア言うな、本土は本土で闘えと言ったけれど、こうなってきたら、やっぱり本土からも押しかける。できればチャーター便を5~6機用意して乗り込む。現地で、砂川闘争ではないけど、すごい闘いをやって機動隊でも何でもどんどん出させてそこで激しい闘いをやると世界的にも反響が起こる。米国内でも反響が起こる可能性がある。そういう運動にしない限り止められない。何故ならば、安倍というのは異常人格者だから、法律もへったくれもないんだから、そういうやつと闘うにはこっちもまともな発想ではダメ。まともな発想じゃない闘い方をするべきだと私は思う。だから、この歳でいろんなところで言っているのは、この運動を組め。組んで組んで、それでチャーター便でも何でも出して、年寄りでも何でもみんな乗っけて、Y君が中心になってそういう運動を展開して、沖縄で本当の抗議行動、体を張った行動が大事だと思っているで、是非これを考えて欲しい。その時には是非参加して欲しい。私も一番最初に行くから。もう1回捕まってもいいと思っている。』

土屋
『異論はあるかもしれないけれお、中国の脅威論は全くのインチキ。抑止力というのも全くのインチキ。日本と中国、中国とアメリカ、皆さん知っていますか?日本の輸出総額の18%が中国、アメリカの輸出総額の19%が中国、こんな国同士が戦争しますか?戦争したらお互いが経済的に破たんします。そんなことあり得ないじゃないですか。その他にも言ういことはいろいろありますが、安倍が言っている中国脅威論は全くの噓。安保法制を通すための詭弁。だから彼ら何でも有りなんだよ。菅官房長官がグァムに行って海兵隊を移すポーズを取りたい。これでみんな騙されちゃうんだよ。政府は努力をしているんだと思う人も出てくる。海兵隊が1万9千人沖縄にいると言っているけれども、実際はそんなにいませんよ。1万人を切るくらい余裕がある。それをたった3千人をグァムへ移すのに3千億だという。こんな馬鹿げた話がありますか?』

土屋)
『今、大学だって自治会すらない。それでクラブ活動もほとんどない。ですから、とっかかりそのものがない。ここのところ国会でシールズという若い人たちが参加したり、明治は安保法制に反対するオール明治の会を作ってそういうものに参加しようと、そういう若い人も入ってくることもあるだろうけれど、その辺をどうやっていったらいいか。これは非常に悩むところですね。

よく言うんだけれども、集会をやったりいろんなことをやっても来るのは70代から80代だよな。50代は数が少ない。集会をやっても似たような人が来るんだよ。金太郎飴だよ。これも悩みなんだ。
静岡で「総ががり運動」を何とか作りたいということで、3人で動いた。ところがものすごい抵抗があった。共産党と一緒にやりたくないとか、社民党系と民主党系のスローガンの違いとか、なかなかうまくいかない。だけど粘りに粘って1ケ月半くらいかかったかな、最終的に4月18日に静岡で「総がかり」が今までにない3千人規模でできた。今までは200から300。そういうこと一つやるのにも非常に問題がある。

というのは、総評から連合になる経過の中で、お互いにものすごい確執がある。こんな馬鹿な事を言っていてどうするんだと言っているんだけれども、だから選挙協力もなかなか問題がある。だけど、これも国民の声だから、我々がどうやってそれを起こしていくか、それが大事だと思っているし、あきらめない。辛抱強く小さいグループでもいいけれど積み上げて行く。そういうことをするしかないと思っています。』
OB会の途中、明大の校歌を斉唱。
「お~明治♪・・・・・」の歌が会場に流れる。

女性
『みなさん覚えてらっしゃるかどうか分かりませんけれども、第1回砂川闘争の時、みなさんインターとかいろいろ歌っていらしたけれど、明治は校歌を歌いましょうということで、テントで校歌を歌ったんです。』

土屋
『砂川闘争の時は歌は、小降りの中をスクラム組んで座り込んでやった訳でしょ。それで歌は最初は国際学連の歌だとか労働歌だとかインターナショナルだとか歌っていたが、だんだん歌が無くなってくるんだよ。次はいろんな校歌だった。明治が一番最初。最後に夕方になって何となく寂しくなってきて、その時に「赤トンボ」と「カラスの子」を女子学生が歌って、それがパーッと広がって行った。それが新聞に載ったりして、「赤トンボ」はそういういわれだった。

その時に経営学部のTが捕まった。それで三鷹警察に抗議行動にいって、釈放になった。あの時はいい闘いだったね。腹に週刊誌を巻いて、突っつかれても週刊誌が効いた。その代わり、頭からくるのには参ったな。それから軍靴みたので蹴っ飛ばすのでスネが大変。

57年の闘争では最初から中に入る計画だった。それで工作隊を作った。当時、肥溜めにウンコがいっぱいあったので、麦わらをきざんで、そこにウンコを入れて「ウンコ爆弾」を作った。ただし、これはあんまり効果がなかった。何故なら、機動隊まで距離があるから。下手するとこちらに側に落ちる。それから夜明けのまだ薄暗いうちに、境界線の下を全部掘っておいた。実はちょっと行けば倒れるようにしておいた。考えてみると、我々は学生だったから、そういう意味では生活のことを考えていない。俺たちが入ってしまえば労働組合も一緒に入ってしまう。大勢入ってしまえば、簡単に捕まりっこないということもあったから。ところが後で考えてみれば7人起訴されて、そのうちの3人が学生、4人が労働者。労働者はみんな首を切られた。復職闘争も5~6年かけてやって、最終的に勝ったんだけれど、そういう思いを彼らはした。俺らはそこまで考えていないから。後で「おいおい源さん、おかしいんだよな。俺らが行ったらあの柵が簡単に倒れたんだよ。」と言われた。「実は白状しちゃうけど、これこれこういうことですぐ倒れるようにしておいたんだよ。」と言ったら「やっぱりなあ。悪ガキはやることが違うよな。」と言われたが、本当に彼らはそういう苦労をした。僕らはそこまで考えなかった。
結果的には捕まって、伊達判決という判決が出た。こんなに素晴らしいことはない。これは私の一生の宝物ですね。』
明大活動家OB会での土屋源太郎さんの発言を紹介したが、最後に、今年の砂川闘争の集会に参加したH氏からの発言を掲載する。

H氏
『9月8日の砂川の集会にアメリカのレイクランド大学の教授4~5人と若い学生が来ていた。砂川までアメリカから来たのかと思ったんですが、このレイクランド大学は新宿に学校があるんですね。そこの教授と学生12~3名が来ていたんですが、教授が立川に住んでいて、砂川闘争に興味を持った一つの理由は、砂川闘争のミヤオカさんの砂川闘争の記録が翻訳されているそうです。それを読んで、自分はニューヨーク郊外の農家の息子で アメリカが空港を作るので用地を買収した時に、自分の土地を含めて、みんながすぐに買収に応じた。砂川のような地域住民の農地を守るという団結のコミニュティがなかったと言っておりました。
二つ目は、支援した学生や労働組合がいっぱいいますが、そこでの非暴力、流血と言われていますが、非暴力で流血してしまったが、その精神がすばらしい。それは今日の国会デモに受け継がれている。
三つ目は、国有地を自分たちの手で子どもたちのために平和利用して行こうという、そういうコミニュティが出来ている、そこに感銘したと言っていました。
結論的には、教授は、伊達判決、砂川闘争は今日も続いている。これは、沖縄とか、アメリカに非常にインスピレーションを与えていくだろううと言っていました。』
<10月11日「砂川の大地から、届け平和の声~砂川闘争60周年現地集会」参加報告。H氏>(写真は砂川闘争60周年現地集会実行員会主催FBより転載)。
『地域や世代や国籍を超える手づくり感ネットワーク満載の現地集会(約150人だったろうか)でした。
(1955~1957)当時、砂川の農家が支援学生にふるまったというみそ味の「砂川鍋」も食べて来ました。

集会は4時ごろ終わり、立川駅前でSさん・Kさん・Yさんさんと生ビール、集会やデモの後では生ビールが旨いのですが、異口同音に「今日来て良かったネ」。
「60年安保前の砂川闘争の意味内容の継承と草の根を越えているけど平和主義の土台は草の根主義」なる、一文を思いましたが私の能力を超えるものがあります。私の隣に座ったおばーちゃんは砂川三番とのこと。お父さんが砂川米軍基地の軍人の車ではねられ、青梅街道の川に落ちて大けがをしたが、その軍人は7日後に米国に帰ってしまい、結局は後遺症が残るだけの泣き寝入り、と話していました。
横田基地の騒音訴訟の人来ていました。オスプレイは開発から約百人が死んでいる、あのイスラエルも配備は拒否したが、横田基地には17機のうち10機配備は決定した。
といっていました。』
明大活動家OB会に明大土曜会として参加したのは初めてである。OB会では明大土曜会の宣伝も行い、更なる交流を呼びかけた。
(終)