昨年5月28日、「ベ平連」の元事務局長、吉川勇一氏が逝去された。No390で吉川氏を追悼して、「週刊アンポ」第1号に掲載された「市民運動入門」という吉川氏の記事を掲載したが、この記事は連載記事なので、吉川氏の追悼特集シリーズとして、定期的に掲載することにした。
今回は「週刊アンポ」第6号に掲載された「市民運動入門」第6回を掲載する。
この「週刊アンポ」は、「ベ平連」の小田実氏が編集人となって、1969年11月に発行された。1969年11月17日に第1号発行(1969年6月15日発行の0号というのがあった)。以降、1970年6月上旬の第15号まで発行されている。
【市民運動入門第6回 「ベ平連として」ということー開かれた行動の場をつくろうー 吉川勇一 「週刊アンポ」1970.1.26】
<「ベ平連」として」とは何か>
べ平連の事務局にはいろいろな電話がかかってくる。講演の依頼、スケジュールの問い合わせ、バッチの注文、さし入れのやり方の相談、午後になると二本の電話はひっきりなしに鳴り響く。そんなさまざまな電話の中で、いつも私がひっかかるのは「ベ平連としては」という言葉である。たとえば全国全共闘の結成大会が近づくと「ベ平連としては参加するんですか」という問い合わせがある。糟谷君の人民葬がある。そうすると「べ平連としては行くんですか」という電話が沢山の人からかかり、そのたびに私は考えこんでしまう。この「としては」というのはどういうことなんだろう。
同じようなことだが、挨拶の依頼も最近ずい分多い。○○○決起集会にベ平連として挨拶に来てほしい、とか、○○○ティーチ・インにベ平連として講師を一人出してほしい、というような電話。
どうやらベ平連を政党や労働組合のように考えているのではないかと思う。この欄の第1回目にも書いたが、ベ平連は団体ではないから、労組や政党のような機能がないし、「中央委員会として・・・を決定する」ようなことがない。小田実と吉川勇一とがいて、黄色のベ平連の旗が立っていれば、それでベ平連として参加したことになるのか。そんな馬鹿なことがあるはずはない。
ベ平連にかぎらず、反戦市民運動はイデオロギー的一致はない。実にさまざまな思想の持ち主がいる。市民運動、一般やベ平連への評価も当然それぞれの人によって違うのである。だからベ平連としての議論など出ようがない。小田実だの鶴見俊輔だの、いいだ・ももだの、小中陽太郎だの、沢山の人が講演をしているが、みんなそれぞれのベ平連運動にもとづいてやっているので、その内容も考え方もえらくくいちがっている。それでいいのである。だから「誰でもいい、ベ平連から一人来て話せ」などという注文が来ると、本当にこの人は誰の何の話を聞いたのか、と困ってしまう。とくに「有名な人なら誰でもいい」なんていわれると気持ちは判らないでもないがウンザリしてしまう。政党ならそういう注文に喜んで応ずるのだろうが、ベ平連はそうはいかない。結局、意地が悪いようだが、依頼者に希望の人の名前を挙げてもらい、こっちではその人の住所や電話を知らせるだけで、交渉はすべて直接やってもらうことにしている。つまり誰でもいいからベ平連として一人という依頼はお断りしているのである。
<開かれた行動の場>
ところで、最初の問題を考えてみる。「ベ平連としては参加するんですか」という問合わせ。その問はどんな答えを予想もしくは期待しているのだろうか。ベ平連として参加するなら、自分は行く。ベ平連がいかないなら自分も行かない。そうなるのだろうか。そんなことが、自発性を重んじ、個人原理にもとづく市民運動にあるはずがないではないか。誰からも命令されなくても自己の判断でやらなければならないことは一人での実行してゆく。また、どんな大宣伝が行われても自分の判断で間違いだと思うことは決してやらない、それがこの運動のあり方なのである。もちろん、私はこの姿勢をすべての運動に普遍化すべきだというのではない。集団行動の約束や団体の規約を自ら認めて加わった場合、それを尊重し、場合によっては多数意見に少数が従って行動することも当然ありうるだろう。ここでいいたいのは、その場合であっても、その規約や約束はあくまでも主体的に自分が承認したのであって、決して自分の判断を人に預けたのではないということである。
とすれば、電話の問合せを何と考えたらよいのか。集会やデモには、一人で行ったのではとての参加しにくいものがある。私自身も経験した。原子力潜水艦が横須賀に入港する。抗議集会が臨海公園であるという。沢山の人が集まっている。旗も多い。いよいよ出発。順列の指示がある。まず地元横須賀地区労、ついで官公労、民間労組、あるいは南部、中部・・・などという順序。最後に民主団体と学生団体という。一人で出かけていった者、誰でも入っていい隊列など最後まで案内されない。みんな最初からどこかの団体に属している人ばかりなのだろうか。ウロウロしてどこかの隊列の後に遠慮しながらくっつく。そんな時、「誰でも参加できるデモ、声なき声の会」などという旗を見た時の嬉しさ。ホッとしてそこへ飛び込む。
「ベ平連として今度のデモに参加するんですか」そういう電話は、そうした開かれた行動の場があるなら、ぜひそこへ加わりたい、と希望する積極的な行動への意欲の現れのはずなのだろう。
たしかに、ベ平連のデモはいつも開かれている。誰でも参加できる。ベ平連がデモをするときは、はじめて参加した人はここへ、個人で加わって来た人はそこへ、というふうに必ず案内する。
<プラカードをつくろう>
もう少し考えてみる。個人での自由に参加できる場を求める。そうなのだろう。その場合、もちろんデモの趣旨は賛成しての上であることははっきりしているが、それにしても、それぞれ参加する立場がいろいろあるはずだし、いいたいこと、表現したいことが一人ひとりにあるはずだ。多様な行動とはいっても、一人ひとりの思想の違いに厳密に応ずるだけのデモの形態の違い(たとえば静かに歩く、ジグザグをする、フランス・デモをするなど)の数はない。とすればぜひとも自分の意見を表現するプラカードが欲しいと思う。この欄の第二回でも書いたが、プラカードの数は最近目立って減っている。創意と個性にあふれたプラハードをつくろう。旗・差物のたぐいもいろいろ工夫できるはずだ。エンタープライズが入港するのに抗議するデモだったから、もう二年ほど前のことだが、葛飾ベ平連の阿部さんは、動くプラカードをつくった。とても評判がよかった。
<誰でも参加できる場所>
もうひとつ考える。多くのデモで個人が参加しにくいのなら、参加しようと思った個人が、そういう場を自分からつくろうではないか。昨年の10月10日の大デモの時は、そういうプラカードや旗がいっぱい登場した。曰く「個人グループ」曰く「体力には自信がないが反安保の決意は堅いグループ」、「あらゆる分類を拒否する人のグループ」などといういささか矛盾したような分類のグループの旗もあった。自分たちが主催するデモの時、そうした新しい参加者やまったくの個人で参加した人たちの加われる場を用意するのはもちろんのこと、他の団体が主催するデモに参加する時、同じような参加のしかたをする人びとのことを考えて、そんな旗やプラカードをつくって持ってゆこうではないか。
昨年の6月の新宿西口広場の集会でのことだった。その日は機動隊が出動し、西口地下広場や、付近一帯は騒然としていた。その時、武蔵野市から参加した一人の人が「武蔵野ベ平連」と書いた旗をもって歩いたという。実際はまだ武蔵野市にベ平連は出来ていなかったのだが・・・。
ひとわたりウロウロしたら、その旗のうしろに数十人のグループができていた。みんな武蔵野市付近の人で、知り合いはなく、個人で西口の集会に来ていた人ばかりだった。そして武蔵野ベ平連は実際にその人びとによって誕生した。
私にも似た経験がある。二年前の佐世保のことである。東京から小田実と私の二人だけが佐世保に行っていた。デモは沢山あったが、みんな総評や共産党、社会党主催のものばかりである。さっそく小田実が大きな看板をつくった。その日の午前中、小舟に乗ってエンタープラーズのまわりをまわった時、その小舟にのっけた英文入りの看板のウラを使って「どこへも入るところのない人、いっしょに歩きましょう。エンタープライズに抗議して」と大書した。二人でかついで集会の場所まで歩いた。やがて数百人の人が加わって隊列が出来た。その日の夜、これらの人びとの中から世話人が出て、佐世保ベ平連がそこに誕生した。
「ベ平連として参加するか」という問い合わせをすることを批判しているのでは決してない。しかし、自分がベ平連なのだから、そんな旗かプラカードをつくって、同じような人びとを誘うこともぜひやってみようではないか。
(つづく)