野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2016年04月

今年の3月に「反安保法制・反原発運動で出現 シニア左翼とは何か」(朝日新書)というタイトルの本が出版された。著者は小林哲夫氏。以前『高校紛争1969-1970「闘争」の歴史と証言』(中公新書)という本を出版された方である。
この本の出版にあたって、小林氏は明大土曜会にも取材に来られた。その関係で、4月の明大土曜会に小林氏をお招きして、本を出版しようと思ったきっかけ、取材の中で感じたことなどお話をしていただいた。
今回は、そのお話と、その後の参加者の質疑の一部を掲載する。

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「小林と申します。みなさんより10歳から15歳くらい下の世代です。3月に『シニア左翼とは何か』という本を出しました。
本を出した一番大きな理由というのは、2011年の原発事故以降、それから去年の安保法制でいろんな層の方々が反対集会に参加されているんですけれども、僕はメディアの一員として、特にテレビとか新聞とかのメディアですと、どうしてもシールズとかそういうところにフォーカス(焦点)が当たってしまいますが、実際行ってみるとそうじゃないんじゃないかと思いました。もっと年輩の方がたくさんいらっしゃっている。その方々にフォーカスを当てて、あえて『シニア左翼』、俺は左翼じゃないぞと言われる方も含めて、そういう本をまとめました。
僕が個人的に一番関心があったのは、新左翼の党派というのが、今、どうなっているのかということです。メディアでこの問題に関わり合おうとか、関心を持とうとかそういう人はほとんどいません。皆無です。年代的にもたぶん知らないと思います。デスク、編集長クラスも50代です。僕の年代でも中核派なり赤軍派ってなあに?という状況です。ただ(新左翼党派が)実際に現存している。その(新左翼党派の)彼らが、今、どういう構成で何を考え、どうしているのかをとにかく知りたかったというのが大きな理由としてあります、
一応機関誌を出して、それからネットで公開して、動員しているそれぞれ新左翼党派に全部あたりました。それぞれの代表者に会いましたけれども、断られたのは解放派の3つある内の現代社と革マル派です。2つの団体とも議論した中でお断りします、趣旨に合わないということでした。あと(の新左翼党派)は全部出てくれました。それで、それなりの言い分なりを聞きました。『へーっ』と思ったのが、党派によっても見方が違ったのが、シールズに対する見方です。例えば中核派の東京の人たちは『とんでもないやつらだ。』と。一方、関西派は『彼らのような動員力はできない。見習うべきことが多い。』ということで、無条件に近いくらい評価している。シールズの運動論を巡って党派間で意外に評価している党派がいくつかあったというのが僕なりの発見ではありました。
彼らとの話では、三里塚ではヘルメットを被るけれでも、国会前では絶対被らない、というような話であったり、少なくとそこまでハッキリとは言っていないんですけれども、国会前で水を差すようなことはしない。つまり、自分たちが嫌われるようなことはしない。ただ、自分たちなりのことはやる、ということで、存在感を何とか示そうとしていました。それからシールズに集まる学生を何とか獲得したいということもありました。
(党派の)世代交代というのがあるのかどうかということについて、今の(党派の)幹部というのが、大体60、70代です。例えば新しい世代、40代で書記長にとか、ないことはないんですけれども、1962~3年にブントから革共同が分裂して、1962~4年に今の新左翼党派の基が出来た時の中心メンバーであった20代後半から30代前半の方が、全くそのままの状態で50年近く経って、70代になっても幹部ということで、世代交代していない。別の見方をすると、40年も革命党派をやっていて、40年も革命を目指しているのに革命を成就しなかったのは、それは革命党派ではない。自分たち一代で革命をしなければ意味がない。だから世代交代は意味がないというような理屈もありました。60代.70代の方々なのでいろいろな思いが伝わってきました。
前回、土屋源太郎さんがいらした時に、その話をして、『実は革共同の藤原慶久さん、まだ元気でこの前会ったんですよ』と言ったら『まだいるの?』という話をされていました。藤原さんは1950年代の人で、76,7歳くらいですが、3、4年前に東京高裁前で捕まっているんです。会うと非常に穏やかな方ですけれど、その方を含めて、この本の中で新左翼について僕は特に価値判断を示さなかったんですけれども、これからどうなっていくのかなと思いました。
警察の公安の見方からすると、20年くらい前からあと10年、20年経てば党派は潰れるだろうと言われながらずっと存続しているので、たぶん10年経ってもまだ残っているんじゃやないかと思います。
新左翼党派の資金というか運営なんですけれども、圧倒的にカンパが多い中で、カンパをしてきた層がリタイア(退職)している。かっての活動家が60代70代になって貯えも無くなてきたので、大口カンパというものが10年後あまり期待できなくなるというのが、党派の存続を考える時には一番大きいんじゃないかとも思います。何かで潰されるというよりも、大口カンパの資金源が世代が上に行って無くなってしまうので断たれるというのが、一番大きい要因じゃないかなと思いました。

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この本の中で宮崎学さんという、いろんなことを言われている方に、昨年会った時に『シールズに対してどうですか?』と聞いたら『全面的に認める』と言っていました。印象的だったのは、『僕は共産党だったけれども、結構新左翼っぽいこともやっていたし、ゲバルトを肯定したし、民青でゲバをやっていた。でも、結局は勝てなかった。もうこのまま勝てないで死んじゃうのかなと思った時に、シールズが出てきて希望を見た。60年70年世代が学生運動を断念した中で、もう日本では学生運動はダメなんだろうなといった時にシールズが出てきて、僕は非常に感動した。僕ら全共闘と言われている世代は、あるいは学生運動をやっていた世代は反省して見習うべきだ。』と話をしていて、そういう思いがあるんだというのが僕も発見だった。
僕が思っていたのは、今のシールズの運動に対して、生ぬるいんじゃないかと思うかつての活動家の方が多いかなと思っていたんですけれども、割とそうではなくて、今の時代に合った運動のあり方ってどうなんだろうという、彼らなりの理解を示すというか、時代に合わせたものはどうなんだろうなと思っている。そこもさすがに新左翼の党派も少しは分かっていて、彼らと反対運動をやっている中での敵対というものを最低限作らないようにするためにはどうしたらいいかというのは、考えていらっしゃる。考えるとなると自分たちは独自の行動をしなければならない。例えば国会の裏側に行っちゃうとか。
60代70代の方、かつての活動家の方からすると、去年の6月から9月の状況に対して、いろいろ自分たちの考え方生き方を考えさせられたという話をまとめましたので、関心があったら読んで下さい。」

(その後の質疑の様子)
参加者A「シールズは僕は否定的だったので、シールズについて結構ページを割いていましたよね。あとは知っている人も何人か出て来たし、この後どうするんだというのはなかなか難しいですよね。」

参加者B「(新左翼党派は)もう組織はあることによって害だよね、間違いなく。いろんな経験は残してもいいけれど、そのまま組織を残しちゃったから、もうどうにもならないと思う。そういった財政問題で潰れるなと私も思っています。カンパはもう年金から集めるしかない。」

参加者C「僕らは次世代論というものを持っていなかった。それが決定的だった。自分たちのことで手一杯だったということじゃないかなと思います。」

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(2015.8.30国会前)
小林「僕が一番疑問だったのは、シールズのコールの中での民主主義、戦後民主主義という言葉に対するとらえ方です。60代70代の方々が民主主義を守れと、民主主義ということに対して、民主主義はギマンだと言っていた60年代の活動家が2015年になって、シールズの民主主義ということに対して割と迎合的だったということについて、結局僕はその疑問が解けなかったんです。じゃあ民主主義という言葉に対する、皆さんを含めての世代が、どういう風なことを思っていらっしゃるのかというのが問題提起としてあった。
もう一つ、ベ平連とシールズの明らかな相違性と類似性について、全く違うんですけれども、武藤一羊さんに『べ平連は民主主義という言葉を使いましたか?憲法9条という言葉を使いましたか?』と聞いたら『ほとんど使っていない。』と言っていました、『そもそも、沖縄問題にしても、9条を守れとか民主主義とかはあまりにもギマンだ。ベトナム反戦運動というのは、日本がアメリカのベトナム侵略に加担していることに対する運動で、それが何が9条だ民主主義だ、おかしいじゃないか、というところから出発しているので、少なくともベ平連のアジテーションにはそういうのは一切なかった。ただ、運動の進め方、組織の進め方、つまり個別の発想とかいうことについては、若干シールズと通じている部分がある。自由な発想ができる組織論運動論としては、自分が責任を持ってやったことはいい。ある程度何を言ってもいいだろう。ただ、根源のところには、ベ平連の活動家というのは全共闘との連帯性が非常に強いので、そういう権力に対する迎合的なところが一切ない。』ということです。武藤さん自身が『かっての小田さんや吉川さんが見ていたら、シールズとどういう風に一緒にやれただろうか、どうだったろうか。やれる部分とやれない部分、ただ年寄りの立場として見守るのか、一緒に何か共にできることをやれるものなのか。』ということろで、ベ平連系の人は非常に歓迎はしつつも、とまどい、特に戦後民主主義に対する、今の学生が民主主義という言葉を自分たちとは全く違うことで使っていることに対する疑問というか、それが払しょくされていないということがありました。」

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(2015.8.30国会前)

参加者D「僕なんか、シールズの皆さんが非常に保守的というか、精神構造としては一番象徴的だったのは、国会前で、私は家へ帰って暖かいご飯を作ってくれる家庭、お母さんがいて、それに幸せを感じるみたいなことを言ったら、いっぱい文句が出た。確かに僕なんか非常に違和感を持ちます。持つんだけれども、今の社会において何らかの問題意識を持ってということについては大切にしていかないといけないと思うし、そのことの延長、やっていく中で変わっていくんじゃないかという幻想というか、それを持っている。彼らは確かにあれだけ動員力のある運動を作っていったことについて言うと、評価しないといけない。それを利用しようとした中核派とかは、行って宣伝戦しかしない訳ですよ。やるんだったら自分で突入でも何でもやって、大衆運動を作ればいいじゃないか。それが出来なくて、あそこに行ってビラまきをやって宣伝活動しかやらないから、彼らが頭に来るのは当たり前なんだよ。昔の代々木と一緒なんだよ。
昔の全共闘運動をちゃんとやった人たちは迎合している気は全くないと思う。なくて、その上でこれをどういう風な形で支えながらちゃんとした方向に持て行くのかについての問題意識は持っているような気がする。迎合という事に関しては僕は非常に抵抗を感じる。」

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(2015.8.30国会前)
参加者E「私なんかちょっと思うに、一つには、定年退職して、それからいろんな活動を始めた人がたくさんいるんですね。原発反対運動やったりとか、そういうのが本当のシニア左翼じゃないかと思う。
さっきのシールズじゃないですけれども、彼らも基本的にいい悪いは別として、組織論がない運動論がない。我々が見てシールズがいいというのは、一つには自然発生的であったこと、一番評価しているのは、安保法制が通った後も運動を続けるという、その辺は我々にとってすごく新鮮なんですよ。
我々の時の運動は組織論があって運動論があって、要するの党派に収斂される。だけど、その党派も、基本的に一つの既成事実が出来てしまうと、60年安保もそうだし、我々の時の70年安保もそうなんだけれど、その後がなくなってしまう。それに対して、これからだという、そういう声が出たのは彼らが初めてだと思う。それは非常に新しいことだと思う。確かにこのまま行ってどうなるか分からないし、この前ちょっと新聞で見た時に、学生が学生をリサーチして、彼らも自衛隊の活動について全面的に反対ではない。一部の部分について、邦人警固とかそういうところについては賛成だという部分もあるから、理論的にはいろんなものを包括していると思う。
私が考えるのは、定年退職をしたシニアの運動は今はバラバラ。明大土曜会だってみんなバラバラにやっている。なおかつ、みんなやっているのは昔の党派の理論じゃないんだよね。党派の理論で運動している人はほとんどいないでしょ。
例えば原発反対デモでをやる時には、明大全共闘とか日大全共闘とかそんな名前で行くけど、それはほとんど規制がない。我々明治の連中はほとんどブントなんだけれど、ブントでさえもない。組織論とは全然関係ない、それが新しいシニアの左翼じゃないかなという気がしないでもない。だから、本のタイトルを聞いた時にそうなのかなと思った。読ませていただく。」

【本の紹介】
「反安保法制・反原発運動で出現  シニア左翼とは何か」
著者:小林哲夫 (教育ジャーナリスト・フリー編集者。著書に『高校紛争1969-1970「闘争」の歴史と証言』(中公新書)など多数)
定価:780円+税
発行:朝日新聞出版
『反安保法制、反原発……。国会前のデモなどで、若者以上に目立っているのが60、70代のシニア世代だ。若い頃、世の中に反旗を翻したものの、その後は体制に順応したはずの彼らは、なぜ再び闘っているのか。同窓会? 再びの世直し? 新集団をめぐる「人間ドラマ」を追った。』

【お知らせ】
来週はGWのためお休みです。
次回のブログとホームページの更新は5月6日(金)です。

昨年2月の明大土曜会で、福島第一原発で働いている作業員の方から原発内での作業の実態などお話を伺った。その内容は、「No 385  原発問題肉薄ツアーの現状と福島第一原発労働者からの報告」(2015.3.24)としてブログにアップした。

作業員の方は当時、原発で働いていたため、匿名で写真も出さない、本人が特定されるような書き方はしないという条件でブログに記事を掲載したが、この方が原発での仕事を辞め、今年の2月に「福島原発作業員の記」というタイトルの本を出したということで、1年ぶりに明大土曜会に来ていただき、本を出版するに至った経緯などお聞きしたので、その内容を掲載する。

今回は実名OKということで、お名前も写真も掲載させていただいた。

 
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(本の写真)

 

「池田実です。これは2月22日に出しました『福島原発作業員の記』という本です。恐らく現場の作業員がこういう形でルポを出したのは初めてじゃないかと言われているんですけれども、これを何で書いたのかということは、最初から書く気で(原発に)入った訳ではないんですね。とにかく東京に居て、福島でああいうことになっちゃって、何かしなくちゃいけないということを感じて、やっぱり福島に行って仕事して自分の目で見て何かしなくちゃという気持ちで一人で入りました。

1年3ケ月、除染と第一原発構内の仕事をして、去年の4月いっぱいで引き揚げてこっちに戻ってきたました。当り前なんですけれども、やっぱり全然違う世界です。先ほど民主主義と言われましたけれども、そんなものもないし、労働法もまったくない。いわゆる治外法権といいますか、賃金もバラバラだし社会保険もないし、年休なんてないし、そういう中で、今も毎日7千人が働いています。これからも廃炉まで最低50年、100年とも言われていますけれども、作業員がどんどん投入されて、既に5万人が入っていると言われています。そういう劣悪な労働条件、福利厚生にしても、タコ部屋とまでは言えないかも知れませんけれども、私も7人一つの屋根の下に共同生活して、仕事が終わって帰ってきても非常に神経をすり減らすような、そのような状況があったりして、こういう世界を基に、今、廃炉作業が進められている。こういうことを何とかしなくちゃいけないと誰も言えない状況、別にかん口令が敷かれている訳ではないですけれども、多くの人はここしかないみたいな感じで、結構リストラされて来ている人もいるし、福島原発が最後の職場だということを言っている人もいますし、黙々と、当然不満はあるんですけれども、我慢しながら働かざるを得ないような状況、こういう状況がずっと続くのはおかしい。そもそも多重下請というか、東電のもとで一次、二次、三次、私は三次でしたけれども、そういう構造がそもそもおかしい。そういう体制を国が東電まかせとか下請けまかせではなくて、やらなくちゃいけないということの発信として今回本にして出した訳です。


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今月から被曝線量、緊急作業時の被曝限度が250ミリシーベルト、今までは100ミリだったんですが、原子力規制委員会が去年法律改正を提起して4月から250に上げられたんです。それは何故かというと、過酷事故、福島みたいな、福島だけじゃなくてこれから川内とか伊方とか再稼働してああいう事故になったら、今までの100ミリ限度じゃ納まらないということで250ということで、それを担保するという形で法律を変えたんです。原子力規制委員会の審議を聞いてみると、委員が『250を超えたら撤収するんですか』と聞くと『それはない』。要するにとことん働かせる、決死隊みたいな形でやるということに作業員はならされちゃう。そういうようなことで、本当に私たちは使い捨てということを感じました。

これからどんどん被爆者が増える、私も実は1年3ケ月で積算で7.25ミリシーベルト被ばくしているんですけれど、それは一般には低いと言われるんですけれども、そうは言っても厚生労働省が決めている白血病の年5ミリという限度は超えている訳で、私だっていつそういう病気になるかも知れない。労災認定が出るかというのは狭き門で、やっと去年10月に初めて白血病で福島原発の人が1人認定されましたけれども、それまではガンだとかほとんど却下されて、彼を入れて14人しか労災認定されていないという状況です。今回の認定にしても因果関係がハッキリあると厚労省は言わない訳ですから、そのような中で、これから何十万人も作業員が投入されて命を削っていくというそういう原発の罪というか、それは何とかしなくちゃというのが私が(本を)書いた理由です。

本を出してからいろいろ反響もあって、この前の3・26(原発のない未来へ!全国大集会)でも発言させていただきましたし、その後、国際シンポジウム、被曝労働シンポジウムというのがあって、ウクライナから元作業員2人と韓国の原発の下請け組合員、あとフランスの下請けの人、何故か私が日本代表じゃないですけど出されて、4ケ国で発言をしました。何か日本が針のむしろにいるみたいで、フランスでは労災のことでいくつも裁判を起こしてほとんど勝っているという話だったり、韓国は下請け労働者の8割を組合に組織化して交渉しているとか、ウクライナでは事故から5年目にいわゆるチェルノブイリ法というのが制定されて、チェルノブイリに入った原発処理作業員、リクビダートルと言うんですが、そういう人と避難者・帰還者を、すべて国が被曝量から健康管理とか保養とかいろんなことを保障する法律を5年目にして制定した。それは自然に出来た訳じゃなくて、国に働きかけたり住民の人と横で連携を取って、5年目にして国に法律を作らせ、それを、今、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアが同じような法律で運用してる。実態はウクライナにしても財政の状況でかなり削られて、法律はあるけど法律は守られていないということが言われていましたけれど、それなりに各国はやっているのに主催者の日本はどうかというと、何も出来ていないと言うか、現場のことすら知られていない。会場の日本人参加者から『原発はどうなっているんだ』という質問が来たくらいで、何が起きているか全く知られていないというのが今の日本の現状です。5年目にして日本は復興だ復興だと言われていますけれども、その裏では住民が半強制的に帰還しろということで、低くはない線量のもとで、住民がどんどん帰還させられている。私たちも被曝させられていく。だからチェルノブイリの人の話を聞いて、私は考えたんだけれども、あそこは石棺にして50年、何年かは決まっていないけれども、時間が経てば線量は下がる。だからそれまでほっておく。もちろん最低限のことはしますけれども、日本の場合はとにかく戻れ戻れで、そのために私も除染をやりました。除染をして戻っても、やはり住民の人は低線量被曝をする。私たちも戻すための除染とか、廃炉作業もそうですけれども、実際、僕も構内のゴミ収集をやっていましたけれど、緊急性を要しない仕事ばっかりなんです。今考えてみれば、そんなもの50年経って線量が低くなってからやってもいいんじゃないかと思うんですけれども、とにかく日本は復興という名のもとで被曝者を増やしていくという、チェルノブイリと全く違う方向で、今さら言ってもということはあるんですけれども、根本的に違うなと思います。あと組織的にも国が前面に出ない。国はあくまで支援機構で、金を出すみたいな、私たちの雇用にしても、労働、福利厚生にしても、結局、東電下請け任せで、そういう組織体制も含めて、5年目ということで、これを何とかしなくちゃということで、私はこれから健康である限り、こういうことを訴えて行きたいと思います。

私は学生運動には行きたくないということで、労働運動、郵便屋になってクビになって、また戻って、定年退職ということで、労働運動はもういいという感じでどんどんステージを変えて行った。今、自分としては個人的にはもう原発が最終ステージということで、今後、この原発のことをライフワークとして訴えて行きたいと思っています。」

 
【本の紹介】

「福島原発作業員員の記」

池田 実 著

定価 1,500円+

八月書館発行

「廃炉まで40年とされる福島原発そばの浪江町の除染作業を皮切りに、原発の建屋に入って実際に事故の収拾作業に従事、そこで今も続く『終わりのない収束」』に直面した著者。消耗な人海戦術、飛散する放射能、苛酷な労働条件、仲間の事故死……。試行錯誤する指示、朝令暮改が続く中での、被ばくしながらの除去作業、廃棄作業のありのままを書き留めた渾身のルポ。」

 

(終)

私も関わっている「10・8山﨑博昭プロジェクト」の発起人の一人に歌人の福島泰樹氏がいる。
3月20日(日)の朝日新聞の書評コーナーに福島泰樹氏の新刊「追憶の風景」に関する記事が掲載されていた。

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記事の中で福島氏は「死者の記憶を大事にしないことは、歴史を否定することにほかなりません」と語っている。私も同感である。
福島泰樹氏のことは以前から知っていた。吉祥寺の「曼荼羅」という店で短歌絶叫コンサートをやっていること。でも、実際にコンサートを聴きに行くことはなかった。

昨年の8月、経産省前テント広場で行われた「呪殺祈祷僧団再結成祈祷会」に行った時、僧団のメンバーでもある福島泰樹氏の「表白導師独唱」を聴いた。
「独唱」の中には死者の記憶を大事にするという次のような言葉も出てきた。

『1960年6月15日、国会構内で虐殺された東大生樺美智子の声が聞こえる。
でも私はいつまでも笑わないだろう。いつまでも笑えないだろう。それでいいのだ。ただ許されるものなら、最後に人知れず微笑みたいものだ。
言葉には魂が宿っている。22歳の樺美智子は死んではいない。新生日本を見つめ、この悪しき地上に拠って闘うことを今も止めない。我々呪殺祈祷僧団に集う僧俗は高らかに死者と連帯し死者と共闘する。』

福島泰樹氏の肉声を聴いたのは、この時が初めてであったが強烈な印象であった。読経と法具の音をバックに「表白導師独唱」が詠まれる。短歌も読まれる。詩とか短歌は本で読むものではなく、音楽のように聴くものだと思わさられた。

今年の2月、福島泰樹氏は、早大学費学館闘争50周年を記念してコンサート「バリケード・1966年2月」を吉祥寺の「曼荼羅」で開いた。

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福島氏からコンサートのチラシを頂いたが、コンサートには行けず残念と思っていたところ、「10・8山﨑博昭プロジュクト」発起人会議で、思いがけず福島氏から「早大闘争50周年記念 短歌絶叫 遥かなる朋へ」のCDを頂いた。早速CDを聴いてみると、改めて「短歌は聴くもの」という思いにさせられる。CDのジャッケットにも書かれていたが「歌謡の復権・肉声の回復」である。

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(CD写真)

さて、このところ、大掃除で出てきた新聞の記事を掲載しているが、1973年2月の「週刊読書人」に、この福島泰樹氏の「バリケード・196年2月」に関する短い記事があったので、今回はその記事を掲載する。

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【人物点と線 標的としての現代歌人 福島泰樹
反骨に伴う気品 くやしみ深き荒寺の酒徒 週刊読書人1973.2.12】
“男歌”の第二弾、というより73年の手ごたえ確かな標的は福島泰樹である。沼津柳沢の荒寺に身をひそめる住職をなりわいとし、酒はあびるほどという豪気さに加えて、三枝昂之らと同人誌『反措定』を刊行し、第一歌集『バリケード・1966年2月』で全身これ反骨というしたたかな気概をみせた。

一隊をみおろす 夜の構内に 3000の髪戦(そよ)ぎてやまぬ
機動隊去りたるのちになお握るこの石凍し路面をたたく
潮騒と分ち難しもわがこころ いざオキシフル泡立つ海へ

見られるように岡井隆・塚本邦雄の双方を踏まえ、なお確かな骨格を示すこの歌集は69年に刊行され、たちまち歌壇ではない青年層に激しい拍手で迎えられた。佐佐木幸綱にくらべてなお一層“男歌”の要素が濃いのは、いずれ劣らぬ逞しい体躯と、荒くれというにふさわしい坊主頭のせいばかりではない。その歌に以外なほどの清潔さと気品までが具わっているせいであろう。

機動隊も眠れり夜の装甲車 すべての紺を憎むにあらず

現実のバリケードは破壊されたが、彼の胸奥にあるそれはいよいよ堅い。72年10月に刊行された『エチカ・1969年以降は』その証だが、1ページ1首というぜいたくさながら、ここにはなぜか秀歌が乏しい。くやしみと確信とが交互に語られているものの、それは凛とした一行の詩にまで高められず、生煮えの言葉が眼立ちすぎる。後記にある「1971年、わが乏しき二十八歳の盛夏、浄らかな水を汲み、レンズの球ならぬ珈琲の豆を挽きつつひとり宴す。おのが歌、おのがエチカを建てることの難艱なることを痛感する」という数行のすがしさに比してこれはさびしすぎる結晶体だ。

生きざまが作品より先行する、あるいははるかに魅力をもつことこそ彼の願いだろうが地上の懶惰を鞭打ち起たしめるものは言葉、詩語を措いてない。豪放とか磊落とかの男らしさは、古き日本では必ず臭味を伴わずにいなかったが、“男歌”の男らしさもまたその危険を孕んでいる。「72年大寒のわがさ庭は、梅は咲き、椿は落つる。小授鶏はこうるさく、私は黙す。油揚げは買った。椎茸は水に漬けてある。今夜は椎茸ご飯に葱ぬた、お吸い物にはまた芹をいれることとしよう。せめていま、自己のあられもない情念のありようを歌にするのみである」というとき、そこに添えられるべき香り高き一盞の酒は

酒飲んで涙を流す愚かさを断って剣菱 白鷹翔ける

ごとき粗雑なものであってはなるまい。何よりも喪ってならぬものは男心のすがすがしい香気であろう。

(ふくしま・やすき氏は早大西洋哲学科卒。歌集に「バリケード1966年2月」「エチカ1969年以降」昭和18年生)


【福島泰樹氏の新刊紹介】


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「追憶の風景」
生と死が激しく交錯した時代
108人への哀悼歌で刻む、若き昭和の姿
歌人の福島泰樹が、108名の心に深く残る友とその時代を歌とともに綴る。生と死が激しく交錯した幼年期、血を流して戦った青春の60~70年代。圧倒的なリアリティが交錯する昭和という時代を、さざなみのように呼び寄せる亡き人々の残像……。死者への追憶が、時代の記憶を烈しく炙り出し、現在の生を鋭くさせる。歳月の荒野に点々と灯る、108の挽歌とエッセイ。
【本書に登場する人々】
立松和平 岸上大作 中井英夫 武田泰淳
辺見じゅん 吉本隆明 横山やすし 高橋和巳
清水昶 勝新太郎 塚本邦雄 たこ八郎
中上健次 加藤郁乎 郡司信夫 干刈あがた
大岡昇平 野間宏 片岡千恵蔵 吉原幸子
磯田光一 松田修 宗左近 西村寿行
日野啓三 山下敬二郎 寺山修司 白井義男
関光徳 大島渚 美空ひばり 吉村昭
赤塚不二夫 小沢昭一 秋山駿 埴谷雄高
石原吉郎 木下順二 ……ほか計108人(登場順)
◇福島泰樹(ふくしま・やすき)
1943年東京下谷に生まれる。早稲田大学文学部卒。69年、歌集『バリケード・一九六六年二月』でデビュー。肉声の回復を求めて「短歌絶叫コンサート」を創出、1500ステージをこなす。『福島泰樹全歌集』(河出書房新社)、『弔い―死に臨むこころ』(ちくま新書)、『中原中也 帝都慕情』(NHK出版)、『寺山修司 死と生の履歴書』(彩流社)等著作多数。毎月10日、東京吉祥寺「曼荼羅」での月例絶叫コンサートも31年目を迎えた。

福島泰樹 著 佐中由紀枝 挿画
四六判変型・上製 344頁
定価:本体2000円+税
晶文社発行

(終)

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