野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2016年05月

以前、重信房子さんを支える会(関西)が発行していた「さわさわ」という冊子があった(写真)。この冊子に、重信さんが「はたちの時代」という文章を寄稿し、連載していた。「はたちの時代」は、重信さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章であるが、「さわさわ」の休刊にともない、連載も中断されていた。
この度、「さわさわ」に掲載された部分と、未発表の部分を含めて、「1960年代と私」というタイトルで私のブログで公開することになった。
目次を付けたが、文章量が多いので、第一部の各章ごとに公開していく予定である。
今回は、第一部第四章である。

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(「さわさわ」)

【1960年代と私*目次 重信房子】
第一部 はたちの時代
第1章 「はたちの時代」の前史として (2015.7.31掲載済)
1 私のうまれてきた時代
2 就職するということ 1964年 18歳
3 新入社員大学をめざす
第2章 1965年大学入学(19歳) (2015.10.23掲載済)
1 1965年という時代
2 大学入学
3 65年 御茶ノ水
第3章 大学時代─65年(19~20歳)(2016.1.22掲載済)
1 大学生活
2 雄弁部
3 婚約
4 デモ
5 はじめての学生大会
第4章 明大学費値上げ反対闘争(今回掲載)
1 当時の環境
2 66年 学費値上げの情報
3 66年「7・2協定」
4 学費値上げ反対闘争に向けた準備
第5章 値上げ反対!ストライキへ
1 スト権確立・バリケード──昼間部の闘い──
2 二部(夜間部)秋の闘いへ
3 学生大会に向けて対策準備
4 学費闘争方針をめぐる学生大会
5 日共執行部否決 対案採択
第6章 大学当局との対決へ
1 バリケードの中の闘い
2 大学当局との闘い
3 学費値上げ正式決定
4 裏工作
5 対立から妥協への模索
6 最後の交渉─機動隊導入
第7章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書 2・2協定
2 覚書をめぐる学生たちの動き

(以降、第2部、第3部執筆予定。)

【1960年代と私 第一部第四章】
四.明治大学学費値上げ反対闘争一一66年~67年-
1)当時の環境
1965年秋から66年秋へかけての私は、大学生活やその社会の内容をまだよく知らないままに「希望にみちた学生」として二十歳を謳歌していました。早大には友人がいたり、ネール記念杯の雄弁大会も早大の大隈講堂だったこともあり、早大に行くことが何度もありました。「早稲田大学は学ぶものすべてに門戸開放で、門がない大学なんだよ」と友人が案内してくれた校内をきょろきょろ見まわすと、明大の数倍の数の大きな立て看板があちこちにあります。アジテーションやデモありの、騒然とした大学だという印象を受けました。65年当時の早大は、学費値上げ反対闘争の真っ最中だったのです。「あれが大口議長だよ」と友人に言われてみると、体育会系のような若者が、ハンドマイクでアジっていました。まわりには立っている人も座って聞いている人も、そのまわりを横切る人もいて、バラバラでのびやかな雰囲気だったように記憶しています。でも、後で聞くと、早大は党派間のゲバルトが激しくて、のちに大口議長も暴力の犠牲者のー人となったようです。
学費値上げ反対闘争は、その前に慶応大学でも始まっていたようでしたが、私が知るのは早大闘争からです。学費値上げ反対闘争は、社会的・客観的なさまざまな要素をもって慶応・早稲田から全国へ広がっていきました。当時の経済成長路線は、アメリカ流の大量生産・大量消費へと向かう上昇過程にありました。生産手段の更新をもって本格的に産業構造の「革新」を始めていました。そして、それに見合った「期待される人間像」や産業にふさわしい教育再編・管理統制を求めた文部省の指示がありました。大学は、戦後の新しい教育を求めて出発しながら、私学は慢性的赤字だったようです。「社会的要請にみあった大学」という名目で国の助成金も、いわゆる「ひもつき」で大学の管理が強化され、「産学共同路線」に向かって進みました。「真理の探求」は二の次で、大量生産大学化と、学費値上げによって経営を立て直そうとする動きと重なります。
学生運動においては、60年安保闘争を闘ったブントは“四分五裂”し、「安保が潰れるか、ブントが潰れるか」といわれた停滞期を脱して、新しい流れが形成されていました。大管法やベトナム戦争に反対する国際的な動き、また日韓条約反対、アジア再侵略を懸念しての日本の戦争責任を問う動きなどです。
こうした新しい流れに乗って、これまで活動してきた反日共系の学生が、都学連からさらに全学連結成へと、学生運動を再統一していく動きの中に、明治の学費闘争がありました。全学連再建と、明治の学費闘争は不可分な関係にあったのだと、歴史的にとらえ返すことが出来ます。このとき再建された全学連を中心として、今後進むべき道を明大学費闘争の中で問われたといっても過言ではありません。「革命を目指す」党派と「自治を基盤とした学生運動」が相対的別個の運動方向を持ちうるか否かが、明大闘争の中で問われていたのです。言い換えれば、党派政治に学生運動が収斂されてしまうか否かの分かれ目に、明大学費闘争があったということもできるでしょう。
当時の明治大学は、一部(昼間部)2万5000人、二部(夜間部)1万人の計3万5000人の学生が学んでいました。神田駿河台、生田、和泉と三地域に校舎は離れていましたが、二部は神田駿河台にありました。私は1年生の秋か2年生のはじめ頃から、二部サークル連合の「研究部連合会」(略称研連)の執行部にいました。この研連に所属するサークルは、幾つあったか思い出せませんが、20ほどあったと思います。働きながら集い、研究したり趣味を深めたりする「研究部」(サークル)です。その連合体の執行部にいたのです。
この研連は各学部自治会同様の自治会の位置にあり、その上に全学自治会として、学苑会中央執行委員会がありました。学苑会は1年に1~2回、6月と11月ころ学生大会を開き、総括と今後の活動、予算、人事案を示し、その信任を問います。各学部と研連の大会はそれぞれが別個に開かれます。全学大会の代議員は各クラス代議員が一票の権利をもつように、サークルも一票の権利をもって参加します。
当時は、文学部と政経学部の自治会執行部が反日共系で、学苑会全体は日共系でした。そのため、全学生大会では、いつも日共系が勝利しています。そこで政経学部と文学部はボイコットしたりしていました。日共系はボイコットに対抗して「政経学部自治会民主化委員会」、「文学部自治会民主化委員会」をつくって、全学大会への参加を呼びかけます。文学部史学科の私のクラスでは、65年の学生大会では、クラス決議で大会にはオブザーバーとして参加し、様子をみると決めていました。ところが、クラスの民青のある人が勝手に代議員席に座っており、クラスのほとんどは日共系の「ずる」に怒りました。同時にこれまでも大会がズサンに運営されていたということが分ってきました。私は真面目に活動して学生を味方につけ多数派工作をすれば、日共に負けるはずはないと思ったものです。
研連も「日共系」と目されていました。 研連は日共系の学苑会中執を認め、党派的なことに興味もなく、そうした動きをしなかったからです。研連執行部は、各サークルの円滑な運営と助成金や学生会費の総額から、予算折衝を行なって、各サークルに配分すること、大学祭や各サークルの行事の支援などが主な活動です。もちろん二部の学生は、当時の政治情況から、みな政治意識はしっかり持っていても、党派的なセクト主義的動向には興味を示さないというところでした。
私は1年生の学生大会の経験から、3年くらいかけてきちんと真面目な自治会活動をすれば、学苑会執行部も反日共系が掌握することは可能だろうと思いました。ただ、政経や文学部自治会では、そういうことを現実計画として考えたり行動したりする学生がいず、自分たちの自治会を民主化しようと介入する日共との争いで精―杯でした。私は日共系のあきれた学生大会を現認して以降、研連から変革を求めれば、必ずどの学部にも声を届けることが出来るので、やってみようと思ったわけです。大学の雄弁会も一度やってわかったし、学生大会をひっくり返すことに熱中する正義も、やりがいあると思いました。クラスの友人に話すと「君、オールスター戦の野球やゲーム感覚みたいに言うねえ」と驚かれました。でも正義の実現の一つと真剣だったのです。そこで、自分の所属する文学研究部に、私を研連執行部に派遣するよう推薦してほしいと、言いました。確か、まだ1年生かこれから2年生になるところで、誰もやりたがらない研連の執行部をやるという奇特さは、数十人の部員から、不思議に見られたでしょう。ことに政治意識は十分にあっても文学的表現を模索するサークルだったので、幹事長(研究部の長を当時、幹事長と呼んでいた)はびっくりしていました。
数日後、幹事会の話し合いで、本人が主体的にやりたいなら、部として推薦しようということになったと、推薦を決めてくれました。そして、研連大会を経て、65年11月(か66年初め)くらいに、研連の執行部の副事務長に入ったわけです。その後事務長になりました。各サークルの 意見や希望、トラブルを集約し、対処する役割です。
研連は、党派的な自治会より健全で、活動の領域が広くありました。教育研は教師になりたい学生の研究機関のようだし、政治研は社会党系の学生の集まりともいえ、マックス・ウェーバー、ルソーから基礎的な学習会をやっていました。近代経済研はケインズ政策を研究していました。社会科学研には日共系のマルクス主義者が多くいました。他に空手部やジャズ、軽音楽、演劇部、文学研、雄弁部、地理研、歴史研、法学研など多岐にわたります。というようなわけで、各研究部には、やる気のある自主的な人びとが集まっています。
みな一様に授業と勤労の合間の貴重な時間を注いで真剣に活動し、各学部を越えてサークル活動に参加しています。それだけに、研連執行部の訴える企画や要請に、多くが参加します。日共学苑会執行部もとても友好的でした。
研連に入ってわかったのですが、反日共系から「日共の牙城」とか「民青のいいなりの研連」と聞いていたのですが、そんなこともありませんでした。研連執行部も、社会科学研究部と民主主義科学研究部など日共の牙城といわれるサークルから研連執行部に来ていた人は民青のしっかりした人でしたが、それ以外はそうではなかたのです。反日共系の人びとのやりかたの幼稚さで、結局「敵」としてしまっていただけでした。それに、研究部の中には、職場で社会党系や協会派系の組合運動をやっている人も多く、「日共系執行部」の学苑会には別段かかわらないという学生もいました。
掘り起こせば、いろんな人がいました。夜学研も夜間大学の向上を都レベル、全国レベルで、どう行なっていくかなど研究している、真面目な良識派の人びとが多くいました。執行部に加わった新米の私は、夜学研や政治研、雄弁会やジャズ、軽音楽研などの仲間と、夜間大学での研究活動の条件の拡充(予算・場の確保・昼間部との調整)などに楽しみながら、尽力しました。
66年には新築になった学生会館が開館しました。3階には学苑会(二部)、学生会(一部)、文化部連合会(文連一部)、研連の各執行部室が割り当てられました。日共系の学苑会、ブント系の学生会も文連も、3階に一緒です。研連は文連と連携しやすいこともあり、大学祭(駿台祭)の準備が盛大に行なわれました。この年はまた、大学が創立85周年(明治法律学校)の記念行事を大規模に企画していました。 一方で、学費値上げの話が出てきました。
65年から学生部長の任にあたられた宮崎繁樹先生の「雲乱れ飛ぶ」などを資料に参照にしながら、当時は知り得なかった事情なども含めて現在から捉え返してみたいと思います。この著作「雲乱れ飛ぶ」は2003年10月21日に発行されました。私家版限定200部です。余談ですが、この本に先立って明大の当時の学生自治会(一部)の米田隆介、大内義男、斎藤克彦氏らが明大学費闘争の記録を残そうと、宮崎先生を含めてその作業に入りました。2003年4月26日には、当時の明大記念館のあとに建てられたリバティータワーの演習室で、明大学費闘争のシンポジウムも開催されて、活発な討議が行なわれたそうです。しかし、執筆の過程で、斎藤克彦氏らと宮崎先生との見解が相入れず、また原稿が集まらず、本とはならなかったようです。そこで、宮崎先生は当時の学生部長としての立場から、「雲乱れ飛ぶ 明大学園紛争」を執筆、自家出版され、米田隆介さんが「明治大学費闘争資料集」としてまとめました。米田さんの労作には、学生側の生の資料と学費闘争に参加した人びとの経験談が載っています。私も獄中から参加して一文を寄せています。それらを参考にしながら当時を現時点で、俯瞰的にとらえながら明大学費闘争をふりかえってみます。

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(明大記念館:72年入学案内より)

2)66年 学費値上げの情報 
明大の理事会は、財政状況の悪化にもかかわらず、長年なんらの対策をたてずにきました。学費値上げも考えても実行せず、財政悪化は慢性化していたようです。理事長は第3代日本弁護士連合会会長、日本国際法律学連絡協会会長の弁護士・長野国助。総長は武田孟、学長は小出廉治で、比較的民主的な考えを持つ方でした。小出学長は、自ら60年安保当時、学生に国会へのデモを呼びかけて、大学をロックアウトし、紫紺の校旗を掲げたデモの先頭に立った人として知られていました。
宮崎先生の著書によると、65年の教職員の新年会で、武田総長は学費値上げを考慮せざるをえない時機にきていると言明されたそうです。「1965年の5月24日に昭和41年からの値上げ方針を理事会で決定したが、早大紛争におじけづいたのか、11月20日になって『値上げ断念』を表明したのだった。その為、昭和42年度は、どうしても、値上げせざるをえない状況に、大学側は追いつめられていたのであった」(『雲乱れ飛ぶ 明治大学園紛争』宮崎繁樹著)と記されています。 
65 年に学生部長に就任した宮崎先生は、小出学長に、「授業料値上げ問題について」という文章を提出したと記しています。その文章で、早大の反対闘争を教訓として、対処を諮る必要がある点を述べています。真の大学をめざすために、現状よい研究者の不足による学問の危機、負債にあえぐ財政の危機、政治的に中立たりえない大学の自治の危機、この3つの危機を解決するために一丸となるべきと宮崎新学生部長は訴えています。また、学費値上げのときを迎える学生部長として、66年には「護民官として」と立場を表明しています。「ローマにおいて政府から任命されつつも、民衆のために尽力した『護民宮』のように学生部長は職制上大学の機関ではあるが、学生を真に守る『護民宮』として行動しようと心に誓ったのだった」(同)と当時の心境をのべています。
学生の側は、66年の4月以降、新年度からの学費値上げが噂されており、一部学生会中執、二部学苑会中執とも、理事会に対して学費値上げをどう考えているのか、の打診を行なうようになりました。 「6月17日に学苑会(夜間部学生自治会)から、18日に学生会(昼間部学生自治会)から、それぞれ、学費値上げ経理内容公開を求め大学理事会に『団交』の申入れがあった。同月24日に、大学側と学生側との第1回話合いが持たれた。それはその10日ほど前、学外の『駿台荘』で理事会が開かれたらしいとの噂を学生側がキャッチしたからだった」(同)と、書かれています。
当時の和泉校舎の学生会のビラには、以下のようにかかれています。「学費値上げ決定か。六・二二大衆団交を勝ちとろう。 理事会は学生と話合いを! 全和泉の学友諸君!去る15日、理事会は一方的に学生の前に授業料値上げの決定を提出してきた。この授業料問題は、諸君が、充分承知のように、現在の日本の大学の最大の矛盾としてあり、その典型的なものとして、早大闘争があることは、理事会のみならず、学校関係者は、充分知っているはずである。そして、現在の明治大学においては、その矛盾を解決しようとする姿勢すら学校側には、見えず、ただ単に、他大学より遅れて値上げするのだから云々一一という形で、この授業料値上げの本質を隠蔽し、現在の段階においても、完全に学生を無視している。(中略)我々は授業料値上げには、絶対反対であり、反対しなければならない。なぜなら、この学費値上げが、大学のあらゆる矛盾の集中的な表現であり、具体的には、マスプロ教育の、あるいは、産学協同路線の方向の追及の発端であることは、明確であり、我々学生を商品として、単なる物として、機械的人間として、位置づけようとするものなのである。 学友諸君!真の大学とは何なのだろうか。それは、理事者達によって作られうるものであろうか。もはや、我々自身の手でしか大学の矛盾は解決できない時期にきているのだ!学生会中執、法、商、政経、経営、文、各学部、学生会」(「明治大学費闘争資料集」より) 
こうしたビラが、和泉校舎でも、神田駿河台校舎でも撒かれ始めました。 社会主義学生同盟明治大学支部が発行した『コミニズム』号外1966年6月23日号には「学費値上げは阻止せよ!阻止闘争の巨大な前進に向けて、歴史的な闘いの先頭に立とう!」と、訴えています。
その中で早大闘争の総括的視点として(I)早大闘争は、遂に大浜から、阿部に理事会指導部が交代したのを契機に終息過程に入り23日、全学授業再開によって、現象的には、事実上終わろうとしたと言える。(中略)闘争は、陣地織と街頭織との有機的結合も、決して民族主義的になしえないし、なしてはならない。個別資本(ないしは理事会)と、国家権力の一体化に対抗する我々の力量は、総学生の、それでなければならない。早大闘争の敗北的事態にいたった原因のーつは、全学共の民族主義的対応によるところが極めて大きい。もちろんこの場合、学生の意識及び、情勢の推移を考慮しない訳にはいかないが、問題は、いかに総学生の運動へと、意識的に指導するかであり、かかる指導の放棄に結果する敗北の原因こそ徹底的に暴露されなければならないのだ。(II)民青批判。早大闘争において「穏健派」と呼ばれブルジョアジーから事態収拾のもっとも頼りになる部隊として期待されたのが、民青である。かれらは個別資本(ないしは理事会)との闘いを回避し、反米・諸要求貫徹に闘争を解消し、党派的闘争に学内闘争を従属化し、埋没させ、闘いを意識的に分断した。また彼らは、戦術的方針として、圧倒的大衆から、支援されたストライキに対して、学内の秩序を破壊すると称して公然と反対し、利敵行為を行なったのである(中略)明大においても、早大民青の、あの犯罪的な役割を、明大民青は、再び演じようとしているのだ。彼らを闘いの戦列から追放せよ!」(同資料)と主張しました。 
この時代は、全共闘運動のような、少数派による占拠、自主管理、異議申し立ての時代ではありません。今から思うと、実に貴重なことなのですが、第一に「総学生」を対象として、徹底して民主主義のルールにのっとって学生自治会を運営していました。民主的な多数派工作がとても重要でした。抗議にも秩序がありました。第二に、早大闘争の敗北をまのあたりにした時代にあったことです。右翼による暴力、民青によるストライキの解除、国家警察権力の当局との一体となった自治への介入などなど、「次は明治だ!」と、ひしひしとした思いがありました。第三に日共民青との闘いです。当時の学生運動は、共産党の分裂(58年の共産主義者同盟の分裂のみならず国際派との分裂に続いて、中国派とも当時日共は党内闘争がはじまっていた)を反映していました。そのために、路線的にも日共系と反日共系では鋭く対立していました。日共の反米闘争に収斂していくあり方に対して、反日共は反独占の日本資本主義との闘争を中心にとらえるべきという考えに基づいて、日共の要求闘争(国庫補助や諸要求)を闘争の回避と批判しました。また国庫補助運動を教授会と共同して政府、文部省に行なうべき、という方針にも反対していました。もっと根本的な、日本資本主義の帝国主義的再編にともなう学校教育行政、そのものを問う中で、学費値上げ阻止闘争を位置づけて闘うべきだという違いがありました。
当時、一部は反日共系のブント・社学同が学生会中執を握っており、二部学苑会高橋中執は日共民青系が握っていました。そのため、両者の足並はそろっていませんでした。二部政経学部執行部はML派や中核派系やノンポリ、文学部はML派系とノンポリの反日共、研連執行部には日共系もノンポリなどもいました。 研連は法、商学部同様、日共系学苑会を正規の中執と、認めていたのです。

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(明大駿河台校舎9号館前中庭:72年入学案内より)

3)66年「7・2協定」
 学費闘争が具体的になりつつある6月ころから、徐々に上記のような一部と二部の執行部の路線の対立も顕著になっていきます。6月29日付の文学部学生委員総会の討論資料「レジュメ」には、次のように記されています。「学費値上げ何故反対するのか? 経営者の言う「私学の危機」とは何か?私学の会計は、御存知のように経常部と臨時部に分かれている。経常部(給料・研究費・図書費…等々)臨時部(建築費・借入金返済…等々)、いわば経常部は、我々学生・教職員に還元される部分であり、臨時部は、建築費など学園建設計画のための設備投資に使われる。現在「赤字」といわれるのは、この臨時部の予算であり、この設備投資は、我々学生・教授等、いや、大学教育を考慮に入れた計画ではなく、単に学生定員をふやす(もうける)ためであり、この設備投資で建てられた建物は、彼ら経営者の財産になるのだ。これで、生じた赤字を学生におおいかぶせるのが、理事会だ。・私学は、いかなる方向にあるのか。私たちが、この春以来闘った「大学設置基準」改悪、そして「教免法」改悪の闘いが、いかに学費値上げと関連しているのか。・現時点において何をなすべきか。この間は、私たちは、理事会に団交を申し込んできたが、理事会の、『決定していない段階において、学生と話し合いの必要を認めない』という不誠実な態度によって、団交は拒否されつづけている。私達は、このような理事会の態度を弾劾すべく、6月30日の、常勤理事会、7月4日のオール理事会で、学費値上げ決定阻止の闘いを組むことが、今、必要だと考える。一方、クラスにおいて、「学費値上」反対のクラス討論をより徹底させよう。」(同資料)
こうした流れの中で、学生と学長の間で、夏休み前に確約書が交わされました。これは「7.2協定」と呼ばれ、明大学費闘争の出発点となりました。「確約書 本年6月24日と、7月2日の2回にわたり大学当局と学生会は、昭和42年度の学費問題について話合ったが、本7月2日に至りこの問題について次の確約をみた。 確約一、昭和41年9月以降大学当局と、学生会の両者は、昭和42年度の学費問題について話合う。尚、この話合いの前提として、昭和42年度の学費値上げについては、値上げするという基本方針決定以前に話合い、事情によっては、昭和42年度の学費は、値上げされない場合もある。昭和41年7月2日(法人理事会を代表として明治大学学長小出康二、 明治大学学生会中央執行委員会 委員長中沢満正)」
ところが、7月7日付の明治大学新聞には、法人理事会は6月13日に駿台荘で、「かねて法人企画室でまとめていた資料をもとに学費改訂の具体的対策に着手。翌14日第一会議室で、教員出身常勤理事を中心に、学内、特に学生に大きな影響を持つ教員対策を協議、翌15日、学部長会議に全役員が出席して、学費改訂を伏線として、法人の経営・財政実情の資料を配布した」という記事が掲載されました。このことは、学生に対して確約した内容と違っており、大学当局が、二枚舌をつかっていることを暴露しました。
学生側は抗議し、不信をもちました。7月24日、理事会は教職員に「本学財政の現状について」という小冊子を配布したのだそうです。宮崎学生部長は当時を次のように述べています。「現在明治大学の経常部予算収支は、赤字である。昭和41年度授業料収入は約15億9200万円で、収入総額の62.4%をしめ、その他の入学金2億8500万円、試験料3億1800万円、その他の収入、1億7000万円を加えても23億6500万円にしかならず、25億5000万円にのぼる必要経費をまかなうことは出来ない。支出の76.4%は、人件費、19億6500万円、研究・教育経費は11.6%の2億9500万円、その他一般経費は、11.5%の2億9300万円というのであった。明言はしていないものの、常識的には、学費値上げが必要であることを窺わせた。建築等にかかわる臨時部予算においても、借入金が収入の40.6%にあたる4億2800万円、学費が19%の2億という危機的状況であった。学生が負担する授業料、入学金、施設費の総額を昭和41年度の他大学と比較してみると、文科系について、慶応義塾大学49万円、早稲田大学42万円、立教大学45万円、同志社大学39万円に対して、明治大学は27万円であった。理科系についても慶応義塾大学69万5千円、早稲田大学68万6千円から71万円、立教大学61万円から67万円、同志社大学55万円に対して明治大学は40万4千円から41万2千円であった。(「雲乱れ飛ぶ」より)

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(明大駿河台校舎空撮:72年入学案内より)

4) 学費値上げ反対闘争にむけた準備
 こうして、一部も、二部も、夏休み明けには、学費闘争を必然と考えた体制づくりに入りました。私たち研連は、8月、明治大学信濃寮での研連合宿を行ないました。その中で、学費値上げ問題を問う分科会を特別にもって、討論を行なうこととしました。日共系・反日共系の論争の場を提供しながら、次の闘いに向けた準備にかかりました。当時、政治研究部の顧問は田口富久治教授であったので、彼にも、合宿の参加をお願いしました。二部の学生たちが時間をとれる時期は限られており、合宿は貴重です。その中で、教育研を中心とした教育問題やベトナム反戦闘争、中国の評価、大学の自治などいろいろのシンポジウムを組みましたが、メインは学費闘争関連でした。 
この合宿での論戦をふまえて、研連としての学費闘争に対する方針を固めることになっていたので、私は政経学部や文学部の中核派の人やML派にも参加を求めました。日共系は社研を中心に準備して来ていました。彼らは、反米独立闘争に基づいて国会で、日共の多数派形成のための選挙支持を拡大する日共の当時の路線に沿って、国庫補助要求をすることを主張しました。そして、ストライキは全学投票にかけるべきだ、と主張していました。
反日共系の側は、日帝は既に復活しており、独占資本が自己の利益のために日米安保を求めて、海外進出を進めており、こうした帝国主義的再編の教育行政の中に値上げ問題があると主張していました。そして、総学生との連携第一で、昼間部とも共通した闘いを組むことを主張し論争になっていました。
両者が白熱してやりあっていたときに、田口教授が反日共系の学生に向って、「それじゃあ君らは、大学で革命をやろうといってるんだね?!ハッハッハ!」と、大笑いをしたので、みな一瞬沈黙しました。なぜなら、政研では、田口先生は日共の御用学者じゃないからと参加してもらったのに、この発言で社研の民青が勢いづいてしまったからです。今から考えると当然の、田口教授の指摘なのですが、反日共系の学生は「なんだ、田口は。日共と同じじやないか…」などと憤慨していました。 こんな討議を経て、夏休みを終えたのです。
研連執行部はこの合宿で、反日共系的な考え、ことに一部と二部のストライキ方針が連ったら、二部がストライキを排除するような方針を採るべきではないという考えを固めていきました。また全学投票は無責任であるから、これまで通りの学生大会による決定を求めることにしました。
 夏休みあけの9月から、全学、学費値上反対闘争の情宜活動を広げ、活発な討議が行なわれていました。 一方で、全学連再建準備結成大会が進みました。学生部長の宮崎教授の「雲乱れ飛ぶ」を参考にしながら、全学連再建準備大会の状況を要約すると、以下のようなものだったようです。
9月に入って学生会中執委員長から10月8日、9日の両日、神田記念館講堂において、全国自治会代表者会議(全学連再建準備会結成大会)を開催したいとの願い出をうけて、宮崎学生部長は、記念館の使用を許可しました。ところが、9月22日に清水谷公園においてベトナム反戦集会(全学連第一次全国統一行動)が開催された際に、全学連再建派とそれに反対する革マル派との間で大乱闘が起こり、多数の負傷者を出し、早大でも乱闘内ゲバが起こったので、当然、明大記念館での混乱も予想されました。そこで、学生部長は、学生側から混乱を起こさない旨の確約書をとり、学生部総動員で警戒にあたります。
第一日目は、午前6時から26大学、56自治(会)が、この大会に参加。正門付近に社学同系学生、2号館前に社青同系学生、通用門付近に中核派学生300人くらいが座り込み、棍棒を旗に包んで数個所におき、ヘルメット着用もみられたとのこと。7時半ごろに早稲田大学から革マル派学生150人ほどが出発したとの情報が入ると、棍棒を持ち出し、小石や瓦を集めて闘う体制に。
学生部長としては8時半に授業が始まるので、正門を開くことを通告。その間にも早大、中大から革マルの動きが伝えられる。15時に学校側の警備の間をぬって、革マル派学生200人が構内に入りこんで、全学連再建大会中の記念館前で、ジグザグデモを行なった。学校側は、記念館内の学生に手を出さぬよう呼びかけ、革マル派学生には構内から退去を求めて、学生部長以下身体を張って、機動隊は大学に入れないよう監視していたようです。
革マル派系学生は、 40分ほどのデモンストレーションをして、機動隊に囲まれながら早稲田に戻ったとのこと。2日目の10月9日も午前5時半から、主催者側の全学連再建派の学生が何百人も集まり、各々ジグザグデモを行なって、気勢をあげながたが、2日目は襲撃もなかったらしい。
私は明治の学生とともに、この光景を見学していました。(もしかして、以下の私の記憶は、一日だけあったやはり明大記念館の12月18日の、全学連再建大会本大会の記憶とごちゃごちゃになって混同しているかもしれません。12月再建本大会は、記録では、35大学・178自治会参加です。)壇上には事前の党派間の話合いで決まった議長団がおり、自派の演説がはじまると、ワっと、拍手して「異議なし!」と騒ぎ、他党派の演説を野次ったりしていました。自治会単位の全学連再建大会のはずが、党派集会の競合そのものでした。乱闘になると後方に陣取ったML派の畠山さんが群を抜いたすばやさで、群がる人の肩などを踏み越えて、小競り合いを制していました。
記念館には1000人弱が集まっていました。自治会数はブント系が一番多かったのですが、動員数では中核派が最大勢力でした。こうして、自治会数を多く押さえて、全学連再建の主導権を握ったブントと、革マル派との党派闘争から全学連再建に積極的に役割を果たした中核派を中心に、競合した関係のまま全学連の再建が方針化されました。解放派をふくめて三派全学連と呼ばれますが、ML派、第四インター、青年インターなど自治会を掌握していない党派も加わっていました。
前年の日韓闘争国会デモでもリーダーシップを発揮していた斎藤さんは、都学連の委員長として、後にこの全学連の委員長として活躍しています。彼と明大社学同は、全国に範を示すような闘争として、明大学費値上反対闘争に立ち向かおうとしていたと思います。明大のためのみならず明大学費闘争は全学連を社会的に認知させるため、ひいてはブントのための闘いでもあったでしょう。9月に共産同統一委員会とマル戦派が合同して、第二次ブントを結成して初めての大きな活動が、この全学連再建準備会結成大会でした。こうした背景を背負って明大学費闘争が始まります。

(つづく)

【お知らせ 1
来週のブログとホームページの更新は、10・8山崎博昭プロジェクト6月イベント準備作業のためお休みします。次回は6月10日(金)です。

【お知らせ 2】
10・8山崎博昭プロジェクトでは、6月に以下の講演会を開催します。多くの方の参加をお待ちしています。是非、お申込みください。
◎10・8山﨑博昭プロジェクト第4回東京講演会◎
戦争に反対する講演と音楽の夕べ
日時:2016年6月11日(土)  18:30開場、19:00開演
会場:文京区不忍通りふれあい館(東京都文京区根津2-20-7 電話03-3822-0040)
第1部/講演:「市民が戦争と闘った時代」
講師:和田春樹(元大泉市民の集い代表。歴史家。東京大学名誉教授)
第2部/音楽ライブ「明日」
出演:詩と音楽のコラボレーション集団VOICE SPACE
   小林沙羅(ソプラノ)、小田朋美(ピアノ・ボーカル)、豊田耕三(アイリッシュ・フルート)、関口将史(チェロ) http://voicespace.wix.com/voicespace
(注:東京芸術大学音楽学部の学生、院生、卒業生を中心とした現代詩を研究する音楽グループ。2004年に発足。)
参加費:¥1000 
主催:10・8山﨑博昭プロジェクト
お問い合わせ・予約:E-mail: monument108@gmail.com

◎山本義隆監修「ベトナム反戦闘争とその時代─10・8山﨑博昭追悼」展◎
期日:2016年6月7日(火)~12日(日) 11:00~19:00(土日は18:00まで)
会場:ギャラリーTEN (東京都台東区谷中2-4-2  電話03- 3821-1490)
1960年代から70年代の日本のベトナム反戦闘争を記録写真と資料でふりかえる展覧会を開催します。写真家の北井一夫さんの協力を得て、10・8第一次羽田闘争の弁天橋の連続記録写真を初公開します。

主催:10・8山﨑博昭プロジェクト/協力:60年代研究会(代表・山本義隆)
入場無料

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昨年5月28日、「ベ平連」の元事務局長、吉川勇一氏が逝去された。No390で吉川氏を追悼して、「週刊アンポ」第1号に掲載された「市民運動入門」という吉川氏の記事を掲載したが、この記事は連載記事なので、吉川氏の追悼特集シリーズとして、定期的に掲載することにした。
今回は「週刊アンポ」第7号に掲載された「市民運動入門」第7回を掲載する。

この「週刊アンポ」は、「ベ平連」の小田実氏が編集人となって、1969年11月に発行された。1969年11月17日に第1号発行(1969年6月15日発行の0号というのがあった)。以降、1970年6月上旬の第15号まで発行されている。


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【市民運動入門第7回 6・15方式と小西裁判 吉川勇一 「週刊アンポ」1970.2.9】
<新潟行動委員会の場合>
小西誠元航空自衛隊三曹のとった行動と「アンチ安保」の訴えは、今全国に大きな波紋をおとしている。地元の新潟をはじめ各地には「第二・第三の小西を!行動委員会」が生まれ、多様な行動を展開している。
 とくに新潟行動委員会の活動は活発で、1月11日には、佐渡、高田、新発田と県内すべての自衛隊基地周辺に出かけて隊員に「アンチ安保」をはじめ、行動委のビラ手渡したし、18日には、新発田の自衛隊の記念日に公開体育祭の会場の中で唐手模範試合見学中の満員の隊員にビラを配り、二階から突き落とされ雪の中に投げ飛ばされるなどの暴行を加えられながらも隊員に反戦を訴えつづけた。ガリ版刷りながら、隊員に訴えるポスターが二種類、新潟行動委のニュース「叛軍」第三号までが発行されてもいる。四十代の電気工事請負業の人、三十代の大学講師、二十代の県庁職員、それに多くの大学生、さらには高校生、中学生までがこの行動委に加わって活動している。小西氏の行動に衝撃を受け、それぞれの立場から叛軍の活動を進めようという人びとである。
 当然ながらそれらの人びとの思想的立場は多様である。ノンセクトの人が圧倒的だが、異なるセクトに属している人もいる。そこでは、小西氏のよびかけを支持し、自衛隊の中に反戦・反軍の行動を拡げようという行動を共同でおこす中で生まれてきた人間的信頼感と連帯感が、そのさまざまな立場の人びとを結びつけている。意見の違いや評価の違いはいくらもありながら、共通の行動がつくり出す濃い紐帯がそこには感じられる。
 実際、どこのベ平連グループでも、反戦市民運動のグループでも、同じようなことだろう。思想・信条の違いは違いとし、ある時はそれについて徹底的に論じあい、批判しながらも、その中から新しい連帯、連合の思想がつくりだされていきつつあるのだ。

<6・15方式>
 異なる勢力が共同してある行動を行おうという場合、そこにはある種の共通の諒解事項というか、約束事がいる。過去5年間のベトナム反戦市民運動がその行動の中からつくり出してきたものに6・15方式とよばれる考え方がある。一昨年初頭のエンタープライズ入港反対の行動の中できっかけがつくられ、その年の6月15日の大デモで市民・文化団体の共通の確認事項となり、さらに昨年の6・15でさまざまの政治団体や全共闘、反戦青年委員会などもそれを諒承して共同の大デモを成功させたやり方である。
 簡単にいえば、まず共通の目標がある。思想・信条の差にかかわりなく、その目標に賛成する団体、個人に広く参加がよびかけられる。意見の違いは尊重される。相互の批判は自由である。しかし誹謗や中傷はお互いにつつしむ。だから、スローガンや行動の名称は最低限必要な一致をみるものにとどめ、それ以外にどのような主張を各自が自己のスローガンとして付加することもまったく自由となる。見解が異なれば、当然、その立場から選択される行動の形態は多様になる。行動形態を一つにしぼって制限したり、禁止したりしない。自己の団体、個人の責任において、形態は自由に選ばれてよい。ただし、それはまったく勝手というのではない。自分たちと違う思想をもち、違う行動形態を選ぶ人びとや団体がいることを認めるのだから、そうしたグループを含む全体との関連で自分の行動は選ばれなければならない。自分の行動が他のグループの行動を妨害したり、あるいは不本意にまきこんだりすることを避ける必要がある。
 たとえばデモ。ゆっくり歩くグループがある。ジグザグをするグループがある。座り込むグループもあるだろう。その際、座り込んだグループがあとから進んでくるデモを通せんぼし、脇を通りぬけて進もうとする人たちに「逃げるのか!日和見!」などいわない。また通りぬける方も座り込みグループに対して「はね上がりの挑発主義者!」などといわない。選んだ形態はちがっても、その時の共通の目標に向かってたたかう同じ仲間だと考える。筋だけいえばそんなことになる。
 しかし実際には、ともに共通の目標のために努力している仲間なのだという連帯感があれば、そんな非難の言葉が出ないどころか、座り込み行動をとらないグループも、それを囲み、それへの弾圧を警戒してともにたたかうことになるし、弾圧の危険を極力避けねばならぬ。たとえば子供連れのグループは、みんなで安全に守ろうとする努力がなされる。一昨年の6・15ではまさにそうだった。

<小西氏弁護団の場合>
 いつの場合のどんな行動でもこの6・15方式が有効だというわけではないかもしれない。しかし、その考え方の根本にあるものは、小さな一つの市民運動グループの中でつくられつつある新しい人間関係と共通していると思う。
 小西氏を支持し、三月から予定される裁判に勝利し、また自衛隊を解体させるための行動をおこそうという人びとの間には、もちろんさまざまな立場があるのであって、憲法を擁護し、自衛隊法は違憲だからという立場の人、人民の武装の権利は基本的人権であり、基本的人権を支える基礎なのだと理解する人、絶対非暴力主義の立場から軍隊の存在を否認する人、武装した国家権力に対抗し、社会変革を遂行する上で軍隊解体と人民総武装が必要だという立場をとる人など、かなり異なった考え方があるはずである。
 そうした時、ある一つの立場を全体に強要したり、ある一つの立場を排除したりすることを主張するのは誤りだろう。
 1月25日、新潟で開かれた小西氏の弁護団会議の際、一部の弁護士とグループから、新潟行動委員会のような団体が支援グループに加わることは、広範な国民の支持を失わせるから、支持グループから排除せよという主張がなされ、そうでないかぎり弁護は引き受けられないから手を引くとのべ、結局それまでの弁護団は一時解消することになってしまったという。非常に遺憾なことだと思う。
 公判で勝利するには当然法廷技術上の検討と打ち合わせ、一致も必要だろう。しかし、被告の行動を制限したり、支援グループのあれこれの排除を要求したり、そうしないかぎり弁護しないなどと圧力をかけるなどということは間違っている。
 弁護団の中にも当然さまざまな見解があり、それぞれの立場からの弁論が展開されるべきではあるが、被告には被告の、また支援行動グループにはそれなりの独自の立場と主張、行動があるのであって、それが相互に尊重されないかぎり、小西氏の行動がよびおこしたこの大闘争を信頼感を基礎にした広範な人びとによって勝利することは不可能になるだろう。
 新潟行動委員会のやっていることが、運動を狭めるという非難は、私はまったく当たっていないと思う。このグループこそ、まず行動をもって小西氏のアピールに応えているのだ。それはともかく、6・15方式の適用は、このような場合、共同の場をつくるのに有効であるはずなのだ。

(終)

【お知らせ】
10・8山崎博昭プロジェクトでは、6月に以下の講演会を開催します。多くの方の参加をお待ちしています。是非、お申込みください。

◎10・8山﨑博昭プロジェクト第4回東京講演会◎
戦争に反対する講演と音楽の夕べ
日時:2016年6月11日(土)  18:30開場、19:00開演
会場:文京区不忍通りふれあい館(東京都文京区根津2-20-7 電話03-3822-0040)
第1部/講演:「市民が戦争と闘った時代」
講師:和田春樹(元大泉市民の集い代表。歴史家。東京大学名誉教授)
第2部/音楽ライブ「明日」
出演:詩と音楽のコラボレーション集団VOICE SPACE
   小林沙羅(ソプラノ)、小田朋美(ピアノ・ボーカル)、豊田耕三(アイリッシュ・フルート)、関口将史(チェロ) http://voicespace.wix.com/voicespace
(注:東京芸術大学音楽学部の学生、院生、卒業生を中心とした現代詩を研究する音楽グループ。2004年に発足。)
参加費:¥1000 
主催:10・8山﨑博昭プロジェクト
お問い合わせ・予約:E-mail: monument108@gmail.com

◎山本義隆監修「ベトナム反戦闘争とその時代─10・8山﨑博昭追悼」展◎
期日:2016年6月7日(火)~12日(日) 11:00~19:00(土日は18:00まで)
会場:ギャラリーTEN (東京都台東区谷中2-4-2  電話03- 3821-1490)
1960年代から70年代の日本のベトナム反戦闘争を記録写真と資料でふりかえる展覧会を開催します。写真家の北井一夫さんの協力を得て、10・8第一次羽田闘争の弁天橋の連続記録写真を初公開します。

主催:10・8山﨑博昭プロジェクト/協力:60年代研究会(代表・山本義隆)
入場無料

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私も関わっている「10・8山﨑博昭プロジェクト」では、6月に「ベトナム反戦闘争とその時代―10・8山﨑博昭追悼」展を開催する。併せて講演会も開催する。

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(チラシ写真)

以下、「10・8山﨑博昭プロジェクト・ニュースNo2」のお知らせから転載する。

◎展覧会と講演会のお知らせ◎
 6月7日(火)~12日(日)まで、東京・根津の「ギャラリーTEN」で、「ベトナム反戦闘争とその時代─10・8山﨑博昭追悼」展と題して、1960年代から70年代の日本のベトナム反戦闘争を記録写真と資料でふりかえる展覧会を開催します。写真家の北井一夫さんの協力を得て、10・8第一次羽田闘争の弁天橋の連続記録写真を初公開します。
 また、会期中の6月11日(土)、「第4回10・8山﨑博昭プロジェクト東京講演会」を、ギャラリー近くの「文京区不忍通り ふれあい館」で開催します。

 本展覧会は今秋(時期未定)、京都精華大学との共催で、同大学ギャラリースペースでも開催します。会期中に、同大学初代学長を記念した「岡本清一記念講座」で、山本義隆講演会があります(詳細は後日発表)。

***************【ご挨拶】*******************

 6月は国会南通用門で22歳の樺美智子さんが亡くなられた月、10月は18歳の弟が羽田で亡くなった月。
 私達はこの二つの月に反戦の集いを持ちつつ、来年の「10・8」50周年を迎えようとしています。
  「侵略戦争の銃は持たない。反戦の闘いには命をかける」。交わした数少ない弟の言葉の一つです。
 戦争できる国へ大きく舵を切った日本で、そうはさせない運動を大きく展開する時に、60~70年代の反戦運動を直視し、新たな糧とすることは大いに意義のあることだと思います。
 展示をご覧下さい。講演会にご参加下さい。
                 山﨑建夫(10・8山﨑博昭プロジェクト代表)
***************************************

◎山本義隆監修「ベトナム反戦闘争とその時代─10・8山﨑博昭追悼」展◎

期日:2016年6月7日(火)~12日(日) 11:00~19:00(土日は18:00まで)
会場:ギャラリーTEN (東京都台東区谷中2-4-2  電話03- 3821-1490)
主催:10・8山﨑博昭プロジェクト/協力:60年代研究会(代表・山本義隆)
入場無料

【企画趣旨】
 ベトナム戦争は戦争布告がないまま始まり、1975年に終結しました。この戦争をめぐって世界各国で反戦運動が拡がりました。本展は、当時の日本でのベトナム反戦闘争の軌跡を写真と資料で紹介し、現在から未来へつなげようとする試みです。
 1965年、米軍による北ベトナムへの空爆開始と南ベトナムへの上陸とともに、ベトナム戦争は本格化しました。ほぼ同時に日本では、ベ平連、三派全学連、反戦青年委員会、高校生運動が誕生し、反戦闘争が活発化しました。翌1966年には、立川基地拡張に反対して、砂川町の農民と全学連・反戦青年委員会の共闘が形成され、農民と学生と労働者との共闘体制は、その後の三里塚闘争にも引き継がれていきます。
 ベトナムでの米軍の軍事行動のエスカレーションに応じて、米軍の後方基地としての日本の役割は飛躍的に増大。それに並行して、反戦闘争は日本の戦争加担という事実と向きあっていくことになります。とりわけ、ベトナム戦争への加害者であることの自覚を日本人にうながしたのが、1967年10月8日の佐藤栄作首相の南ベトナムへの訪問強行でした。サイゴンの米国傀儡政権への政治的な梃子入れを目的としたこの訪問を阻止するために、学生・労働者は羽田で闘い、この闘いへの凶暴な弾圧のなかで、京大生・山﨑博昭君(18歳)が死亡しました。
 以後、日本の反戦闘争は激しさを増し、なかでもジャテックの活動は、米軍基地からの反戦米兵の脱走支援、さらには基地内での叛乱をうながす運動へ発展していきます。その後、日本国内のほぼすべての米軍主要基地において、反戦地下新聞が発行されるようになり、無許可離隊や命令拒否が続発するという事態が生まれます。それが世界最強を誇る合衆国の軍隊を内部から弱体化させ、1975年のサイゴン陥落、ベトナム戦争の終結に向かう遠因となったのでした。
 この1960年代半ばから10年近くの日本のベトナム反戦闘争は、学生・労働者・農民、そしてサラリーマンから主婦にいたるまで、広範な人々により、重層的な構造と広域的な拡がりをもって闘われました。また自衛隊内部からも反戦の声があげられました。
 本展「ベトナム反戦闘争とその時代」は、山﨑博昭君追悼とともに、かつての時代の一端を残存資料によって再現しようとするものですが、それはたんなる追憶にとどまらず、その時代の経験を後続の世代に継承させたいと願っての企画です。(展示監修・山本義隆)
*展示内容*
砂川基地拡張反対闘争の記録写真と資料/ベ平連とジャテックの活動記録/日本各地の米軍基地内での反戦地下新聞・機関誌/各地の市民運動の記録/第一次羽田闘争(1967年10月8日)の連続記録写真(撮影・北井一夫)/王子野戦病院反対闘争・佐世保闘争・三里塚闘争の記録写真/ポスター(粟津潔、他)、関連書籍、雑誌、新聞、写真集etc.

*会場では、会期中、毎夕(土日を除く)18:00から、1960年代から70年代の反戦闘争の記録映画の上映会を開催します。談論風発、討論歓迎。こぞってご参加ください。

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(ギャラリー写真)

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 (展示イメージ)

◎10・8山﨑博昭プロジェクト第4回東京講演会◎
戦争に反対する講演と音楽の夕べ
日時:2016年6月11日(土)  18:30開場、19:00開演
会場:文京区不忍通りふれあい館(東京都文京区根津2-20-7 電話03-3822-0040)
第1部/講演:「市民が戦争と闘った時代」
講師:和田春樹(元大泉市民の集い代表。歴史家。東京大学名誉教授)
第2部/音楽ライブ「明日」
出演:詩と音楽のコラボレーション集団VOICE SPACE
   小林沙羅(ソプラノ)、小田朋美(ピアノ・ボーカル)、豊田耕三(アイリッシュ・フルート)、関口将史(チェロ) http://voicespace.wix.com/voicespace
参加費:¥1000 
主催:10・8山﨑博昭プロジェクト
お問い合わせ・予約:E-mail: monument108@gmail.com

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(ふれあい館写真)
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◎ベトナム・ホーチミン市「戦争証跡博物館」での特別企画展について◎

 「ニュース№1」の続報です。ベトナム・ホーチミン市の「戦争証跡博物館」での「日本のベトナム反戦闘争の記録」展の開催については、現在、交渉を継続しています。賛同人の鳥口静雄さんの助力を得ました。詳細が決まり次第、今後のニュースでお知らせします。本年度の東京・京都での「ベトナム反戦闘争とその時代─10・8山﨑博昭追悼」展は、「戦争証跡博物館」での特別企画展の日本版として開催します。

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(戦争証跡博物館チラシ)

(ニュースNo1での報告)
【2015年8月18日/ベトナム・ホーチミン市「戦争証跡博物館」を訪問。1960年代から70年代の日本の反戦運動の歴史を記録する展示企画が決定!】

 戦争に反対するために立ち上がった「10・8山﨑博昭プロジェクト」の活動は、山﨑博昭の没後50周年となる2017年に、
(1)羽田・弁天橋の近くに、山﨑博昭を追悼するためのモニュメントの建立
(2)山﨑博昭の死因を究明し、この50年をふり返る記念誌の刊行
のふたつを目的として出発しました。その他に、当初から進行していた企画があります。1967年10月8日の第一次羽田闘争は、ベトナム戦争に反対する学生と青年労働者による闘いでした。その闘いについてベトナムの国民に歴史的な情報を伝え、未来につながる国際的な反戦運動の礎にしたい、という願いがありました。つまり、
(3)ベトナム・ホーチミン市(旧サイゴン市)の「戦争証跡博物館」に、山﨑博昭の遺影とともに第一次羽田闘争の記録を展示する、というのが、3つ目の目的でした。
 このため、在日ベトナム大使館の協力を得て、本年8月18日、発起人の辻恵、佐々木幹郎の二人が「戦争証跡博物館」を訪問。HUYNH HGOC NAN館長と面談し、わたしたちの希望を伝えました。館長は女性です。彼女は、自分を含めてベトナム国民は第一次羽田闘争の激しい闘いを誰も知らなかった。闘争の50年後にこのようなプロジェクトが山﨑博昭の友人たちを中心に進んでいることに感動する。ぜひ、ベトナムの若者たちにこのことを伝えたい、と言われました。その上で、わたしたちの提案を上回る、以下に示すような好意的な逆提案をいただきました。

*2017年1月~3月、「戦争証跡博物館」特別企画室で10・8第一次羽田闘争を中心に、日本の1960年代~70年代の反戦闘争の歴史を総括し、資料や写真などの記録を展示*

HUYNH HGOC NAN館長の提案の要旨は以下の通りです。
(1)地球の平和のために身を犠牲にして戦った山﨑博昭という日本の若者の存在について、ベトナムはもちろん、当博物館を訪れる外国人を含めた今の若者にぜひ理解してほしいので、特別企画展を開催したい。
(2)米軍に基地を提供していた日本で、日本全国にわたって反戦闘争が展開された事実を知らなかったし、日本国民の多くがベトナム戦争に反対した姿を資料として展示することは、ベトナムと日本の両国民の友好関係を築くために意義が大きい。
(3)1967年10月8日の第一次羽田闘争を中心として、1960年代から70年代にかけての日本のすべての反戦運動の歴史を具体的な資料によって紹介する展示会にしたい。
(4)当博物館の来場者は年間70万人。そのうちの70%は外国人。ベトナムで最大の入館者数を誇っている。
(5)博物館1階にある特別企画室では、毎年1月9日(1950年に抗仏戦争で虐殺された女子学生TRAN VAN ONの記念日)から、3月26日(ベトナム青年団設立日)までの期間、ベトナムの若者に向けた特別企画展を開催している。各大学・高校の学生たちに参加を呼び掛け、ピーク時には一日3000人が参加することもある。2013年の企画展では「戦火をくぐり抜けたアオザイ展」を開催した。
(6)当博物館での特別企画展が終了した後、ベトナム全国の大学を巡回する移動展示会を開催したい。そのとき日本のベトナム反戦闘争に参加した人たちと、ベトナムの若者との間でのトーク・セッションも企画したい。移動展示会では、年間20~30万人の観客数を見込むことが出来る。
(7)当博物館での3カ月の特別企画展と全国を巡回する移動展示会を終えた後、ベトナム国民の反応を確かめて、当博物館で永久展示する資料を選びたい。
(8)当博物館での特別企画展の期日として、2017年1月~3月を希望する。移動展示会を4月から始めれば、日本で開催される2017年10月の「10・8山﨑博昭プロジェクト」の50周年記念イベントにつなげることができるだろう。

 以上の提案を受け、今度はわたしたちが感動しました。ホーチミン市「戦争証跡博物館」館長からの提案によって、「10・8山﨑博昭プロジェクト」の目的と使命が鮮明になったと言えます。わたしたちはこの提案に全力で応えることにしました。

***************************************

今回の「ベトナム反戦闘争とその時代―10・8山﨑博昭追悼」展の目玉は、次の二つである。
一つは、写真家北井一夫氏の未公開写真の展示である。北井氏は、1967年10月8日の第一次羽田闘争の写真を撮っている。今回、第一次羽田闘争の記録写真のフィルム50数本の内、約半数のネガフィルムをベタ焼にしてギャラリーに展示する。40数年の時を経て、初めて公開される写真である。
二つは、ベ平連関係で、米軍基地内の反戦地下新聞の原本展示である。今まで殆ど知られていなかった、米軍内の反戦活動の貴重な記録である。
もちろんこれ以外にも、当時のベトナム反戦闘争に関わる多くの資料が展示される。ギャラリ-の展示スペースに限りがあるため、蒐集した資料を全部展示できないが、エッセンスの部分は展示できると思う。
また、展示期間中(土日を除く)、ギャラリー内で反戦米兵の映像上映などを予定している。
ギャラリーの初日には、17時からオープニング・パーティーを開催する。発起人も何人か参加するので、発起人と話をしてみたいという方は是非参加していただきたい。
展示期間中でも、何人かの発起人はギャラリーに来ているので、そこで話をすることもできる。
ギャラリ-内にテーブルとイスを用意しているので、いろいろな思いを語り合うこともできる。
なお、ギャラリーは参加無料であるが、お気持ちのある方はカンパをお願いしたいと思う。

6月11日(土)には、ギャラリ-の近くの「文京区不忍通りふれあい館」での講演もある。ギャラリー展示と連動した企画である。

この展示は「ベトナム反戦闘争の時代」を展示で振り返るものではあるが、決して思い出に浸るようなものではない。
過去の「戦争と闘った時代」の資料展示を通じて、「あの時代」の思いを現在、未来に生かしていくための展示である。
多くの方の参加を期待している。

(終)

昨年9月のブログ(No400 呪殺祈祷僧団再結成!呪殺祈祷会「死者が裁く」2016.9.11)で、昨年8月27日(木)に経産省前テント広場で行われた「呪殺祈祷僧団再結成祈祷会」の様子を紹介した。
この祈祷会は定期的に開催されているが、先日、知人からメールがあり、4月18日(月)に第3回目の祈祷会が開催され、足立正生氏(映画監督)がカメラを回して、渚ようこさんが歌を唄うということなので行ってきた。

この呪殺祈祷僧団とは・・・。

(祈祷会チラシより)
呪殺祈祷僧団四十七士〈J KS47〉とは
【再結成】
1970年、日本列島を公害列島と化し、多くの人々に障害と死をもたらした水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市大気汚染等々の重大な公害問題に立ち向かった仏教者を中心とする「公害企業主呪殺祈祷僧団」という集団があった。このすでに伝説化した「公害企業主呪殺祈祷僧団」をこのたび再結成する運びとなった。再結成にあたって「公害企業主呪殺祈祷僧団」を「呪殺祈祷僧団(JUSATU KITOU SOUDAN)」と改め、僧団員の数を忠臣蔵にちなみ四十七人とした。したがって、正式名称を「呪殺祈祷僧団四十七士」、略称を「JKS47」とする。
【理念】
「呪殺」とは、神仏のはからい、霊験によるものである。
「呪殺祈祷僧団四十七士〈JKS47〉」は、神仏による音霊・言霊に感応し、伝達することを使命とし、死者との「共存・共生・共闘」を理念とする。それは、神殺し、仏殺しであった神仏分離・廃仏毀釈にはじまる日本の近代の始めから現在に至るまでの夥しい負の遺産を継承し、敗者の視点に立ち、ひたすら死者の裁きを懇請し祈念することである。
「死者が裁く」とは、近代化の悪潮流としての生者エゴイズムを糾弾し、死者との共存・共生・共闘を唱えた上原専禄の『死者・生者』にある言葉である。
【活動】
戦争法案廃案!安倍政権退陣!原発再稼働阻止!悪しき者らに死者の裁きを!
これが当面の緊急課題だが、安保関連法案の根本に存在する安保条約、日米地位協定を見直し廃棄することが最大の眼目である。』
とのことである。

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経産省前テント広場には、数十人の人たちが集まっていた。足立正生氏や渚ようこさんもいる。
足立さんは撮影のためのカメラを何台か回すらしい。スタッフらしい人が何人もいる。前回来ていた末井昭さん(元「写真時代」編集者)もいる。呪殺祈祷僧団のタスキをかけて祈祷会が始まるのを待っていると、近くにいた若い女性がテントを見て、「すご~い。(撮影のために)小屋を建てちゃったの。」と言っている。
「ちがう!ちがう!」と言おうとしたら、末井さんが「このテントは・・・」と説明していた。

時折、パラパラと小雨が降る中、呪殺祈祷教団の祈祷会が始まった。

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時間になりましたので始めさせていただきます。JKS47テント前広場の月例祈祷会をこれより勤修させていただきます。
今回の祈祷会は、現在、九州熊本大地震で進行中の犠牲者の皆様方を追悼するとともに、3・11東日本大震災の無念の死者の皆様方、無念の死を迎えた方々に追悼するとともに、速やかな九州大地震の収束並びに川内原発の速やかなる停止、脱原発の実現を祈念いたしまして勤修いたします。
法要に先立ちまして、鎮魂歌を渚ようこさんに唄っていただきます。この鎮魂歌は作詞足立正生さん、作曲秋山道男さんの「海つばめ」でございます。この歌唱に先立ちまして、九州大地震の方々のご冥福をお祈りして、1分間の黙祷を勤修いたします。
黙祷。

【序 黙祷】(3・11ならびに熊本地震の犠牲者をはじめ、無念の死者への追悼)
4月15日に起きた九州熊本地震で亡くなられた方へ、全員で1分間の黙祷を行った。

【歌唱】(渚ようこ「海つばめ」)
次に、鎮魂歌「海つばめ」(作詞:足立正生、作曲:秋山道男)が唄われた。

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(歌詞)
夜明け海つばめ飛び鳴く 陽の輝きが とても悲しく 
かたくなな心に 風の音さえ突き刺さる
火照った頬にはもってこいの 凍てついたアスファルトのベットがある
破れた旗を繕う銀の針はいらない
俺は暗闇で爪を研ぐのさ
ここは俺たちの戦場 ここは静かな最前線

夜明け海つばめ飛び鳴く 朝焼けの街角に 木の葉風に舞う
真珠色した 血反吐の荒野に 俺は小さな炎を放つ
燃やせよ 夜明けを 燃やせよ 街の夜明けを
炎よここは 炎よここは 俺たちの戦場
炎よここは 炎よここは 静かな最前線

この「海つばめ」は、若松孝二監督の映画「天使の恍惚」(1972年若松プロダクション+日本アート・シアター・ギルド共同制作)の中で唄われた歌である。映画の冒頭、ナイトクラブで横山リエが唄っていた。

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「東京総攻撃を計画する革命軍・四季協会の十月組は、武器奪取のために米軍基地を襲撃するが、作戦に失敗し組織の再編を迫られる。裏切られ孤立した十月のメンバーは、協会に背を向け、爆弾を手にそれぞれが個的な闘いを個的に展開していく。カンヌ映画祭の帰途で撮られたパレスチナ革命のためのニュースフィルム『赤軍―PFLP・世界戦争宣言』(71)のラディカリズムをATG映画に持ち込み、日本における革命運動の総括を試みた。一方で実際に交番爆破が相次ぎ、連合赤軍による浅間山荘事件なども起きて行くなかで、『無差別テロ』を助長する映画だとして、上映反対キャンペーンが巻き起こり、日本映画史上に残る最も過激な問題作となった。」
この映画の音楽は山下洋輔トリオ、スチールは中平卓馬、出演者には日本赤軍の和光晴生、日大全共闘芸闘委行動隊長の岩淵進もいる。

【勧請(かんじょう)】(大導師独唱)
本日、この経済産業省前テント広場を道場と定め、熊本県及び大分県に発生した大地震による犠牲者を悼み、ここに鎮魂の祈祷会を勤修し奉る。
(中略)
南無妙法蓮華経・・・・

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【読経 「妙法蓮華教 如来寿量品 第十六」】
(中略)

【表白文】(表白導師独唱) 福島泰樹氏
(聞き取れない部分は略)
(前略)そもそも我ら呪殺祈祷僧団とは、1970年9月7日、丸山照雄、梅原正紀、松下隆洪ら僧俗8人によって結成されし公害企業主呪殺祈祷集団の命題を引き継ぐものなり。呪殺とは国家企業によって殺されし死者の裁きを代行し、死者の声を祈祷により代弁するものなり。
1969年4月末、妻を失った歴史学者上原専禄は、妻への回向を通し、妻の常在を実感するに至った。死者との共闘の端緒である。そして、死者とともに生きるという実感は、日本の社会生活の実際の酷薄な現実を引き出し、さらに死者を拒絶する生者だけの世界を否定し、妻の死以前は観念的問題でしかなかったはずの虐殺の犠牲者たちが生き生きと立ち現われてくるに至るのである。
アウシュビッツで、アルジェリアで、ソンミで虐殺された人たち。その前に日本人が東京で虐殺した朝鮮人、南京で虐殺した中国人。また、アメリカ人が東京大空襲で、広島長崎の原爆で虐殺した日本人。それらはことごとく審判者の席についているのではないか。そのような死者たちとの、幾層にも入り組んだ構造における共闘なしには、執拗で頑強なこの世の政治悪、社会悪の超克はたぶん不可能であるだろう。
この一文「死者が裁く」が朝日新聞に書かれたのは、告別式を終了してから11ケ月後の1970年3月になってからであった。そして、こう宣揚し死者に対する真実の回向を説く。それは生者である私たちが死者のメディアになって、この世界で審判の術を上げて行くことにしかない。
老歴史学者の夫人への切々たる回向行はアウシュビッツ、アルジェリア、ソンミ村、関東大震災、南京事件、東京大空襲、広島・長崎における虐殺者を被告人席に立たせ、虐殺された数百万の審判者、死者たちと共闘によって、頑強な政治社会悪と対峙してゆく姿勢を明確にしていくのである。
かくして、愛する者の不慮の死から発した死者との共闘は世界史的規模を持って死者を内包しつつ、過去、現在、未来の存在の時空を駆け巡るのである。
1906(明治39年)9月、能登高浜の貧しい漁村に生まれ苦学、関東大震災、治安維持法の時代を生き、生涯を闘い抜いた歌人坪野哲久はこう言った。
残忍で強欲で流血を好むこと猟獣よりも甚だしい。我々の世界はこのような人間どもの集団であり、社会であり、歴史でもあるのだ。さらに支配する者と支配される者、強大国と弱小国、人間による人間の搾取と収奪と大量殺りく、そしてぬけぬけと猛々しく政治とか平和とかの美名を掲げている。
そしてぬけぬけと猛々しく政治とか平和とかの美名を掲げている。
老パルチザン坪野哲久は1988年11月、昭和尽、自らの死を前にこう歌った。

民衆を苦しめる奴とめどなく 極悪ならば眉間を撃つぞ

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1960年6月15日、国会構内で虐殺された東大生樺美智子の声が聞こえる。
でも私はいつまでも笑わないだろう。いつまでも笑えないだろう。それでいいのだ。ただ許されるものなら、最後に人知れず微笑みたいものだ。
言葉は生きている。言葉には魂が宿っている。22歳の樺美智子は死んではいない。新生日本を見つめ、この悪しき地上にあって、闘うことを今も止めない。我々呪殺祈祷僧団に集う僧俗は高らかに死者と連帯し死者と共闘する。

我々呪殺祈祷僧団に集う者は、高らかに死者と連帯し、死者と共闘する。

昨2015年9月、憤死するまでを闘い続けた老写真家の必死の声に耳を傾けよう。
この国はすでに三権分立さえも危うくなったように思う。戦後50年間、自民党政権は改正手続きも民意もとらないまま憲法を拡大解釈し、自衛隊を保有し、自衛隊の海外派兵までも合憲とさせた。侵略戦争の果てに国際連盟と闘い、320万の国民が殺され、全国の都市がほとんど焦土となり、100万人の子どもが親と家を失って戦争孤児となり、全ての国民が飢餓に晒された悲惨な戦争を性懲りもなく繰り返すつもりか。
写真家福島菊次郎、1921(大正10年)3月山口に生まれ、国家が見捨てた戦災孤児や被爆者の悲しみを撮り続け、上京後は三里塚闘争、ベトナム反戦、全共闘、自衛隊と兵器産業、公害、福祉、環境問題を、執拗に歴史と国家の悪を撮り続けた。
太平洋戦争における非戦闘員の死者は約120万人で、消失家屋は228万戸と言われるが、そのほとんどは敗戦の昭和20年にサイパンを発進した焼夷弾攻撃によるもので、1000万人近くが住居を奪われ、戦後の荒廃の中に投げこまれた。あろうことか、日本国は東京大空襲、全国都市への空襲、広島・長崎への原爆投下の大量虐殺を命令実行したカーチス米空軍大将に、勲一等旭日大綬章を授与した。東京オリンピックが開催された1964年、受賞を決定したのは、時の内閣総理大臣佐藤栄作。A級戦犯で60年安保を強行採決した岸信介首相の弟である。その岸信介は安倍首相の祖父であり、佐藤栄作は安倍晋三の大叔父にあたる。93歳を迎えて写真家福島菊次郎は言った。
人の生命には限界がありますが、悪しき権力者は孫の代に続いて、悪しき権力者は孫の代に続いて更に次の代まで続こうとしています。けだし至言である。悪しき権力者の子々孫々への悪しき野望を今すぐに打ち砕かなければならない。

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戦後70年にあたる、昨2015年8月、福島の原発事故は顧みられることなく、日本で最も危険な原発、川内原発は稼働を開始し、更には沖縄県民の総意は無視され、辺野古への米軍基地移設工事の魔手は着工に及ぼうとし、なかんずく戦争法案は平和安全法案という名に偽装され、昨年9月成立に及び、本年3月29日、ついに施行されるに至ってしまった。
結果、駆けつけ警固を含む集団的自衛権の行使のみならず、自衛隊による他国軍の後方支援も可能となったのである。
憲法を踏みにじってはいけない!
再び戦争を起こしてはならない!
若き自衛隊を大義なき戦場に赴かせ、戦死させてはならない!
若き自衛隊員に人を殺させてはならない!
億万の死者たちは、日本人を戦争に巻き込み、国土を死の灰で汚染する者たちを許しはしないであろう。
億万の死者たちは、日本人を戦争に巻き込み、国土を死の灰で汚染する者たちを許しはしないであろう!
政財界の悪しき野望を死者とともに正してゆかなければならない。

わたなかを漂流しゆくたましいの悲しみふかく哭きわたるべし

呪殺とは呪い殺すの意ではない。呪殺とは呪い殺すの意ではない。虐殺された死者が発する切羽詰った叫び声であり、怨嗟を込めた最後の言葉に他ならない。
彼らの痛苦を代弁することは、それば呪殺である。彼らの痛苦を代弁する言葉、それが呪殺である。
呪殺祈祷僧団に結集した我ら僧俗は、本日ただいま、原発反対、憲法順守を願う人びとが集うここ経産省前テント広場において、死者の願い、死者の痛苦を代弁し、此処に鎮魂、死者が裁くの法会を法修する。
(中略)

【祈祷】(祈祷導師)

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【唱題】(南無妙法蓮華経の御題目を一心に唱え奉る正行)
それでは経産省に向けて南無妙法蓮華経と御題目をお唱えし、太鼓を打って参ります。太鼓に参加の方は前の方にお出になられて、ご一緒に経産省に向けて太鼓を力一杯打っていただきたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。
(南無妙法蓮華経の御題目を唱え太鼓を打つ)

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【祈願回向】(大導師独唱)
謹み敬ってここに、平成28年4月14日に発生し、その後も熊本県及び大分県の各地において激震止むことのない大地震の犠牲者を悼み、避難生活を余儀なくされた被災者の方々に、一刻も早く平穏にして安楽なる日々が訪れんことを祈念し、一会の大師とともに異口同音に一心に南無妙法蓮華経と唱え奉り、ここに回向し奉る。
願わくは震災犠牲者の諸精霊仏果増進追善菩提 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
日蓮大聖人が法華経と並び深い影響を受けられた涅槃経には、次のように説かれています。
(中略)衆生は様々な苦しみを受けるものではあるが、そうした衆生の苦しみを、仏が衆生に代わって仏の苦しみとして受け止めてゆこうという、これは仏の慈悲を示された経文である。
(中略)日蓮大聖人滅後の我ら一同もまた、一切衆生が受けている同一の苦しみを、共に受け止めてゆかんとここに念願するものである。

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今回、予期せぬ大地震に見舞われた熊本県は、奇しくも本年水俣病事件と呼ばれる不知火海沿岸の水俣及び近隣地域に現れた水俣病が公式に発見されたとされる昭和31年5月1日より数えて、平成28年5月1日でちょうど60年目にあたる。水俣病公式確認60年の年を迎えるのである。創業者の野口遵が、水力発電の余剰電力をもって明治41年に窒素肥料を作る日本窒素肥料株式会社を創立し、同社は昭和25年に新日本窒素肥料株式会社と、また昭和40年にチッソと社名を変更した。昭和8年、同社による水銀汚染が始まり、やがて魚が浮き、猫が狂い死にし、カラスや水鳥の落下が目撃され、昭和28年末、劇症奇病患者が続発し、昭和31年5月1日、水俣病が公式に確認されたのは周知のことであるだろう。以後、水俣病という名称の是非についても様々な意見が展開されているが、いわゆる公式確認より60有余年を経てしまった水俣病事件は、今日、多くの識者が語るように、東京及び日本全国各地への無差別爆撃、広島・長崎の原爆、ビキニ海域の水爆実験、東京電力福島第一原子力発電所事故と同様に、現在も止むことなく続いている国家による終わりなき棄民政策を検証するための極めて重要な負の遺産である。すでに故人となられた医師の細川一氏、原田正純氏、科学者の宇井純氏、被害運動に大きな足跡を残された川本輝夫氏をはじめとする被害者の方々、また、今も活躍をなさっているフォトジャーナリストの桑原史成氏、衆を頼まず己一任の闘いを継続されている漁師の緒方正人氏、そして作家の石牟礼道子氏等、こうした先達が残して下さった膨大な資料や活動記録から、今こそ我々は改めて真摯に学ばなければならないのである。今、ここに石牟礼道子氏の『苦海浄土』第一部第一章より一節を引いておこう。(中略)この激烈な石牟礼氏の言霊の響きは、紛れもなく石牟礼道子氏の闘争宣言に他ならないのである。我ら一同もまた石牟礼道子氏に倣い、我が国の近代の始まりより現在に至るまでの夥しい負の遺産を継承し、常に敗者の視点に立ち、ひたすら死者の裁きを神仏に懇請し祈念する近代への呪術師とならねばならぬだろう。
仰ぎ願わくば南無天下諫暁立正安国の大導師日蓮大聖人に回向し奉る。
(中略)

【四弘誓願】
(中略)

【呪殺祈祷僧団代表挨拶】

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それでは一言御礼のご挨拶を申し上げます。本日はテント広場日誌にも月例の祈祷会であるということを謳っていただきましたが、この場所をお借りいたしまして、このような祈祷会を催すことが出来ましたのは、本日で3回目でございます。来月は5月12日、日蓮大聖人の伊東法難会の聖日にここをお借りして、またお勤めをいたしたいと思います。
本日はテント広場の皆様方を始めといたしまして、特別に渚ようこさんに「海つばめ」という歌を熱唱していただきました。大変ありがとうございます。この歌は、冒頭司会の方からも申し上げましたが、本日こちらにお出でいただいております、またカメラを本日は盛大に回していただいております、足立正生監督の作詞でございまして、こちらにいらっしゃる秋山道男さんの作曲ということで、かつて「天使の恍惚」という映画の中で横山リエさんが唄ったということでございます。渚さんはいつもステージでこの歌を唄われていらっしゃいます。渚さんを始め、足立正生さん、それから前回に引き続きまして「ロフト+1」の方々には多大なご協力を賜りまして大変ありがとうございました。
私は実は、今日が5月1日が水俣病60年の公式確認の日だということで、5月1日の前に4月にこの回向文でこんなことを申し上げようと思っていましたところに、奇しくも熊本大分の地震が起きてしまいました。大変私も驚きまして、どうしようかと考えましたが、やはりこの60年という長い闘いの、ある意味記念すべき日が本年の5月1日であるということを、この場所で申し上げたいということで、あのような回向文となりました。
5月1日にはこのような状況で、水俣では果たして何らかの式典が催されるのか、私はそうした情報を持ち合わせておりませんので分かりませんが、どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、どうぞ教えてていただきたいと思います。
また、もう一つ、こちらに「鎮魂―死者が裁くー」ということで旗を掲げておりますが、実は水俣病のことにつきまして、種々付け焼刃でございますが、本を読んでおるうちに、水俣東京展の折に石牟礼道子さんは「鎮魂の儀ではなく、魂鎮めではなく魂起こしだ、出魂の儀である。」
と、要するに亡くなった方々に安らかにお休みくださいというのではなく、眠りについている死者の魂を呼び起こすようにして、全ての人々の再生と共生を求める闘いへネットワークングしていかなければならないということを、石牟礼さんはお書きになっておられるということを私は知りまして、やはり鎮魂という言葉を、つい私ども僧侶は軽々に使いかねないので、十分注意をいたしまして、本当の意味での鎮魂、それから魂起こしということを、これからも心掛けて参りたいと存じます。
本日は沢山の方にご一緒にお太鼓を打っていただき、経産省に向かって南無妙法蓮華経とお唱えいただきまして大変有難うございました。

それではテント広場代表の正清太一さんにご挨拶を頂戴したと思います。

【経産省前テントひろば代表挨拶】

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本日は有難うございました。皆さんのお力添えで必ず原発を止めることになるということを私は確信しております。あと10年以内に必ず止まるということを確信しております。皆さんと一緒に頑張っていきたいと思っております。このテントは、ご承知のとおり、日本中というよりも世界中の方々の期待を背負っているということを確認をしてご挨拶にしたいと思います。
どうも有難うございました。

本日はご参集誠に有難うございました。これを持ちましてJKS47テント広場前の月例祈祷会は終了させていただきます。
本日は本当に有難うございました。

(終)

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