「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの4回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、前回に引き続き「週刊アンポ」第1号に掲載された「高校学園祭の本質をつく」(神奈川県立平塚江南高校、都立大付属高校、都立駒場高校)を掲載する。
【高校学園祭の本質をつく その主人公たちの主張と全国高校学園祭の実態アンケート 週刊アンポNo1 1969.1.17発行】
高校問題、いまや大学問題以上に大きな問題となりつつある。だがその報道はヘルメット、バリケード、封鎖、さらには火炎ビンと、現象面だけが追われ、その背後にある問題点や、高校生の考え方、主張はほとんど問題にされない。
「紛争」がおこるとマスコミにはのるが、その「紛争」がなぜおこったのか、高校生がなぜ激しい形の闘争に訴えざるをえなかったのか、その原因や経過は闇に葬られる。
たとえば文部省のモデル高校とされている神奈川県立平塚江南高校の場合を見てみよう。「紛争」は今年の三月、文化祭の内容をめぐっておこった。
<戦後の沖縄はご法度>
―各研究会は4月に入って、校長との対談(通告)を行い、その場で沖縄研究会は「戦前の沖縄は発表してよいが戦後の沖縄はいけない。B52の写真は貼ってはいけない。」という通告を受け、また安保研究会は「安保問題を研究することそれ自体いけない」という通告を受けた。学校側はその後各研究会の個人攻撃を始めた。
-攻撃は家庭への直接電話、名目を変えての父兄の呼び出しと多彩(?)をきわめ、研究会のメンバー(総員23名)は半数以上に減っていく。第2回目の校長対談(通告)がその後行われた際、「沖縄については観光と風土ならよい。安保研は認めない」といった発言が出るにいたって今回の問題は爆発し・・・(以上「ベ平連ニュース」9月号)
こうして江南高の闘争は始まってゆく。戦後の沖縄を観光と風土とだけで研究させようとする文部省モデル指定高。常識ある高校生がそれに反発するのはまったく当然であり、こうしたことが許されている高校のあり方自体に問題の焦点がさらに向けられてゆくのもまた当然といえよう。
いや、最近、新聞ダネとなっている「紛争高」とは、抑圧に対して抗議する余地が与えられているところだ、という見方もできよう。「紛争」のおこっていない高校のほとんどは、問題意識の萌芽も巧妙に摘みとられているともいえるのだ。
<闘争の契機としての学園祭>
今号では、こうした高校問題の激発の契機となる学園祭、文化祭に焦点を合わせた。さきの江南高校の例のように、学園祭における高校生の研究発表や主張に対する制限、圧迫さらには弾圧が、高校生たちの強い抵抗や反撃の契機をつくり出しているからであり、それを通じても今の高校がもっている問題点の一端を明らかにしうるだろうからである。
文部省のモデル高に対し、高校生はどんな文化祭、どんな学校を理想として追求しているのか、この秋、学園祭をもった高校の中から、その主人公である高校生自身にそれを語ってもらおう。また別掲のアンケートは、高校生がそれぞれの学園祭をどう見るかを明らかにしている。
(注:アンケートは省略)
【マヌーバーとしての自主管理 都立大附属高校闘争委員会】
われわれの高校の文化祭=記念祭は、今までもその運営方法、内容等で他校の文化祭とはかなり違ったものだった。というのは、各高の文化祭で去年あたりから問題になってきた文化祭の生徒による自主管理が、完全とはいえないまでもある程度行われてきたからだ。
(違った見方をすれば、学校当局がそういうことを保障してくれていたとも言える)例えば、展示、劇の題材、内容については全く自由であったし、教師は学校管理者立場からの干渉は行わなかった。また、予算、会計等の事務的な準備、仕事、全体の行事(歌声、ファイヤー等)は、生徒の選挙によって選ばれた記念祭執行委員長とその執行部、あるいは展示、劇等を行うクラス、サークル等の代表者によって構成される代表者会議に任されていた。代表者会議によって、記念祭3日間の生徒の下校時刻等が決定され、それらについて全生徒を代表した執行部が教師と折衝を行っていた。展示の内容としては、かなりの部分で安保、沖縄問題等、政治的社会的問題がとりあげられてきた。だからすべてが生徒の自主管理とは言えないにしても、われわれの記念祭は、昨年まではある程度の自主管理が保障されていたのだ。つまり進歩的な教師は生徒を信頼して記念祭の運営をまかせ、生徒の自主性を尊重していくこととされ、また、生徒にとっては自由と自治ということで、生徒=高校生のまさに人間的な権利という部分で評価し、かつ正当なこととし、政治的、社会的な部分の問題をも考え、行動していくということだった。
<「民主的」の意味するもの>
これは一見正しく、教師も生徒もこの学校自体も実に民主的、進歩的のように見られるのではあるが、そこからごく自然に発生してくること、それが問題なのであった。すなわち、ある程度の自主管理を保障するという、ぬるま湯的情況がそれなのである。
つまり、記念祭を行っていく過程の中で、自主管理がある程度できる、自由に題材を選んで研究できるということで安心し、満足してしまうのである。この危険性は、満足感の中で多くの一般生徒を無気力化し発展性をなくさせる。たとえば、文化祭闘争はもとより、政治的スローガンをかかげる闘争が一切黙殺されていくようになる恐れがあるのである。
学校当局がある程度の自主管理を認めるということは、実は汚いマヌーバーなのである。つまり、生徒に学校当局がある程度の自由を認めておけば、生徒の中にいくら有力な指導者があらわれて完全自主管理要求や、教師の管理者的立場を糾弾しようとやっきになっても、生徒はついてゆかないだろうという思惑があるのである。このやりかたは、記念祭の自主管理という問題だけではなく、われわれの高校においては多くの面にみられたのである。
しかし、今年は、記念祭直前にわれわれ附闘委で現体制内の学校存在そのものを問題にして“バリ封”を行ったことによって、学校存在そのものの中での行事として行われようとした記念祭の性格が鮮明に浮き彫りになったのであった。
<自主管理にさらに造反>
今年の記念祭においては、まず記念祭執行部は徹底した自由参加を提起した。つまり、多数決によって参加形態を決める“クラス参加”というものを一切排除し、学年、クラス、クラブを越えて、各個人が自発的な記念祭に対する参加形態を考えだし、一致したものどうし結合していく形にしたいと提起したのである。それによって執行部がトータルな管理をするというのではなく、そのサークル、グループが記念祭において、自分たちの研究行動等を管理するということが同時に提起されたのであった。つまり自主管理といいながら、執行部の管理のもと安心して記念祭を行ってきたサークル自身が実にその名通りの自主管理を提起したのであった。
これと並行し、附属高闘争委員会のメンバーは、現在の高校のあり方、教師の立場の持つ欺瞞性に大きな疑問を投げかけバリケードストライキに入った。そして、そいういった闘争を通じた記念祭の本質をも問われてきたのである。それで、記念祭実行委員長は「究極的にいって記念祭はやはり学校行事となっているのであり、そういった認識の下でこれまた定例行事である生徒大会で学校当局や自治会によって委員長に選ばれたこと自体が徹底的な自己批判にあたいする」とし、委員長を辞任したのである。それと同時に彼は新しく一人の人間として先進的に記念祭を創り上げていく試みを行おうとしたのだ。
しかし、記念祭は結果的に準備不足などが重なり、展示を中止したり、延期を要求するサークルが続出した。が、ともかく記念祭は挙行された。しかし、内容的に2、3年生の参加が少なくて1年生が圧倒的に多く、さらには内容も喫茶店とか金魚すくいなどが多く、3年生の一部には記念祭を秋祭りにせよとの声まで出る始末であった。実際に今年の記念祭はついに秋祭り化してしまった。
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【学園祭は誰のものか 都立駒場高校ベ平連】
ぼくらは高校にはいってから今年で学園祭を2回経験したわけである。この紙面をかりてその総括とこれからの展望を行い、学園祭の本質的な価値をぼくら自身で確認してみたい。まず、総括の上で明確に言えることは、「何の目的で学園祭を行うのか?」「学園祭とは何なのか?」「誰のための学園祭なのか?」という根本的な自分自身への問いかけが声を大にして行われずに、今考えればまったくナンセンスなことであるけれども、主体性のない学園祭を続けてきたことである。つまり、この十何年来学校の行事スケジュールのひとつとして存在し、やって楽しい、見て楽しい、学園祭が終われば空虚感だけしか残らず、他には何もないという単なるお祭りでしかあり得なかったことだ。そして、もっと集約的にいえば、それは学校生活の日常性の象徴としてしか現れてこなかったことだ。それゆえに「クラスの親睦」ということばなどでごまかしてしまう。なにも学園祭を「クラスの親睦」のための最頂点におくことはないし、そういった限られた位置におかせる現在の高校教育機構にも問題がある。事実、今年出されたわが校の学園祭の目的と呼べるものであった「クラスの親睦」も、前述した通りの確固たる目的ではなかったために、漠然とした義務感と、お祭りごとなら何でも結構という気持ちとでやっと活動を始め、小器用に形だけは整えたが、結局一部の人間の親睦になってしまったのである。
また、学園祭が日常性の象徴であることの大きな理由には、校内で行われる学園祭が自分の学校以外の社会とは何の関連もない、ということがある。青山高校のように自分の学校に問題が起こらない限りは、ベトナム戦争が起こっていても、自衛隊が治安訓練を行っていても、学園祭は行われるのである。はたしてこのように高校を社会から切り離し、一時の平和気分につかっているだけでいいのだろうか?大学の受験制度の中にあって、その気分転換のためのひとつの享楽でしかないものとして学園祭を形骸化してしまっていいはずは絶対にない。そこでぼくらは今年の9月21日の日曜日、「考える学園祭」として問題提起の形で“ベトナム反戦、沖縄闘争勝利、安保粉砕”を問題事項に取り上げ、外部からはフォークゲリラを招いて学園祭中の中庭において集会を持った。既成の学園祭に対する告発というだけでこの集会を持ったわけではないのだが、結果として決してこの集会は満足しえるものではなかった。政治的な目的も、同じ日に同じ場所で集会を開いていた全共闘準備委員会(その目的は青山高校連帯集会であった)と同様に充分に果たされたとは言えなかった。なぜならば、残念なことに一般生徒の意識の高揚がその段階まで達していなかったからである。
さて、最後には展望として、これからの学園祭というものを考えていかなければならない。今まであげてきた問題点を克服するものは究極的には各自の主体性である。大学はマンモス化されて個々の学生の立場が反映されないのに対し、高校こそはそれが十分発揮される場所であるいという事実があり、それにぼくら自身の自発性をプラスして、行動を起こしていかなければならない。
以上、「週刊アンポNo2」に掲載された記事である。
この3つの高校の闘争はその後どうなったのか?
2012年に発行された「高校紛争1969-70 闘争の歴史と証言」(中央新書:小林哲夫著)から引用する。
<神奈川県立平塚江南高校>
『1969年6月、神奈川県立平塚江南高校で2人の活動家が「江南反動体制についての、校長の全面自己批判要求」を求めてハンストなどを行った。彼らが沖縄問題を研究しようとした際、学校側から「戦前の沖縄は発表してもよいが、戦後の沖縄発表は許さない。B52の写真も発表してはならない」「安保問題を研究すること、そのもの自体、いけない」と言われたことへの抗議だった。ビラで校長を批判している。
「この時から学校側の個人攻撃が始まった。各研究会の個人に対し、校長から家庭への直接電話、名目を変えての父兄の呼び出し等々というやり方でそれは行われた」(「高校生は反逆する」三一書房、1969年)
11月13日、2人は用務員室に入り、宿直代行員を縛って監禁したあと、屋上に立てこもり校内民主化を訴えた。警察が待機していたが、学校側は2人を説得して屋上から連れ出した。その後、校庭で2人を交えて、生徒400人で集会を行っている。
2日後、学校はこの2人に退学処分を科した。封鎖を行った公立高校にあって、短い期間でこれほど厳しい処分を科したケースはめずらしい。「封鎖事件の経緯について」で校長はその理由をこう記している。
「職員会議の席上、職員の発言の中に『生徒はノイローゼになりつつある』との意見もあり、その時私は即座に意を決した。このような状態はまさに県下某高校におこったような不幸な事件―それは生徒の生命に関わる重大事態であるーをまきおこす雰囲気にはなはだ似通ってきていると判断した。私としてはこのような事態を放置しておくことはできない』(「神奈川県立平塚江南高等学校 創立50周年記念誌」1973年)』
<都立大附属高校>
『都立大附属高校は69年3月、9月、70年6月、10月の4回にわたる封鎖、72年の授業妨害など、紛争は長期化した。にもかかわらず、機動隊の導入は一度もない。封鎖に関連した厳しい処分もなかった。これは、教師のあいだで一致した考えがあったためだった。
69年9月、学校は生徒にこう話している
「機動隊を要請することはない。要請がなくとも機動隊が入る事態を何とかして防ぎたい」「処分権は教師のみにあるとする一方的な処分を自明のものとして認めることは教育上、多分に問題がある。」「青山高校の事態を見て、われわれ自身の問題として反省すべき多くの点があることを認める」
文部省の手引書、つまり高校生の政治活動禁止に対しても「何ら法的拘束力はない。これに拘束される意思はない」』
<都立駒場高校>
『1969年11月18~22日、東京都立駒場高校では全共闘準備委員会(全共闘(準))が「安保粉砕」「沖縄闘争勝利」「佐藤訪米実力阻止」などを訴えて、校舎を封鎖した。学校問題はなに一つ要求されなかった。政治闘争である。メンバーは約15人。全員が同高の生徒で、女子が2~3人含まれていた。
全共闘(準)は、前日に近くの大学に泊まって、午前4時に学校に向けて出発した。事前に
「レポ」と呼ばれる情報係が水泳部部室に泊まり込んで、教師の見回り、機動隊の同行を探ったところ、教師が泊まり込んでいるだけとわかり、この日の封鎖を決行する。
全共闘(準)はヘルメットをかぶり、手には角材を持って、学校正面の塀を一列に進んだ。1階生徒ホールに通じる1号館のドアのガラスを角材で割って、鍵を開けて入ると教師数人が出てきた。学校史で全共闘(準)が証言している。
「女子1人が教頭にはがいじめにされる。角材を振り上げて『離せ』と恫喝、女子をふりほどいてすぐに二階に上がり、二階に通じる全ての階段を、教室の机とイスを持ち出して、階下に投げて封鎖した。・・・夜、女子は山岳部の寝袋で寝た。男子は渡り廊下にあった社研の机の上で交代で寝る。食糧は渡り廊下から縄はしごをたらしてシンパにあげてもらう」(「慕いて集える 東京都立駒場高等学校百周年記念誌」2003年)
全共闘(準)は機動隊が入るという噂を聞き、理科室で火炎ビンを大量に作った。しかし22日、全共闘(準)は封鎖を解除する。勝ち負けをつけるならば、負けである。一高校が封鎖したところで政治が変わるわけじゃない。となれば、なぜ封鎖したか。
これは一部の党派や無党派活動家の考え方だが、封鎖はなにか要求を掲げて、それを勝ちとるために行われたとはかぎらない。封鎖そのものを成就させて、高校生が政治スローガンを訴え、学校に突入できたことに意味がある。つまり、封鎖失敗が「負け」であり、封鎖成功が「勝ち」である。』
※ 都立大附属高校闘争委員会の72年のビラをホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」で公開しています。
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