野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2016年09月

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)を紹介しているが、この日誌の中では、差し入れされた本への感想(書評)も「読んだ本」というコーナーに掲載されている。
今回は「オリーブの樹」135号に掲載された本の感想(書評)を紹介する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「日本はなぜ、『戦争ができる国』になったのか」(矢部宏冶著・集英社インターナショナル刊)】
「日本はなぜ、『戦争ができる国』になったのか」(矢部宏冶著・集英社インターナショナル刊)を読みました。日本は何故米国の言いなりになるのか? 米占領下の1945年から52年、さらには52年の安保条約から60年改訂安保条約に、必ず密約があったこと。それらが米側の公文書の機密解除によって見えるようになった中で、その歴史と構造を解明していくのがこの本です。
序章から、日本の表玄関である首都圏の上空が、今もほとんど米軍管理下にあり、都心の六本木に米軍基地(ヘリポートや施設)があって、米軍関係者はパスポートなしに米軍基地から日本中を移動する特権を持っていること。こうした治外法権は今も数々の問題、特に沖縄問題の原因となっていることは知られているところです。こうした構造は、占領期からサンフランシスコ講和条約と同時に締結された安保条約と行政協定(のちの地位協定)時代から継続しており、その実態は「日米合同委員会」に顕著であることを示しています。
この「日米合同委員会」の姿こそ日本の権力の実態です。この委員会の日本側は、外務省北米局長を代表に、法務省大臣官房長を代表代理とし、農水・防衛・財務・総務省などの局長クラスの超エリート官僚が参加し、米側は、在日米軍副司令官を代表に、在日大使館公使・在日司令部部長・陸軍司令部参謀長・空軍司令部副司令官・海軍司令部参謀長・在日米海兵隊基地司令部参謀長が参加するものです。「どんな国にもない極めて異常なメカニズム」と、駐日アメリカ公使すら証言しています。米国務省が普通、カウンターパートナーとなるべきところ、駐留米軍が日米合同委を仕切っているのです。つまり、60年以上続く「米軍と日本の官僚共同体」が日本の法的権力構造のトップに君臨したままだということです。この「日米合同委員会」が検事総長まで出すというシステムまで出来上がっていることを明らかにしています。
次の章では、二つの密約「基地密約」と「指揮密約」が存在していたこと、今もそのくびきのもとにあることを、著者は追跡していきます。米軍が日本の基地を自由に使うこと、米軍が日本の軍隊を自由に指揮できる密約があったのです。米国は占領下の米軍の特権を、いかに損なわずに保持するかに腐心します。特に冷戦から朝鮮戦争勃発の時です。GHQ  米政府は再軍備要求もしてきます。マッカーサーは失脚していくのですが、この激動の中で講和条約と同時に結ぶ52年安保条約によって、米占領時代と同じ特権を得ようとします。
力関係の弱さもありますが、米要求を認めつつ日本側は、条約や協定によって国民に批判されそうな文言を書かないことばかりに注力して文章をまとめていきます。吉田首相らは「再軍備計画や緊急事態また戦争への対応について、徹底的に研究し計画を立てさせると共に、駐留軍の基地経費や法的地位について日米合同委員会で研究させ扱うこと」にしていくのです。そうして文言にあった米軍の戦略統一指揮権記述などを削除していくことになり、そのままに実際の話は国民には見えにくい「日米合同委員会」で決められる構造になっていったのが始まりだったようです。
52年の講和と共に締結した52年安保条約時に、朝鮮戦争時期の米軍指揮権を認めたまま、それは引き続いて60年安保改定でも同じように継承していきます。「裏でどんな密約を交わしてもよい。表の見せかけが改善されていればよし」とする岸首相と藤山外相の行政協定改定についての立場は、当時のマッカーサー駐日大使の極秘電報の開示で、今では明らかにされているとのことです。いわく「彼ら(岸・藤山)は、かなり多くの改定を考えていますが、その多くは形だけのもの、すなわち国会に提出された時に、行政協定のみせかけを改定するだけのものです」とワシントンに伝えています。
一事が万事、占領下の力関係の中では、「頑張った」ように見えたかもしれないが、国民の目に触れないように基地の自由も指揮権も売り渡してきたのです。特に岸になると、その「うま味」を自覚していくのです。つまり、これまでのままの方が日本独占資本にとっても政権維持にも利があるとみたのでしょう。私が見るところ「米軍の押し付け」というよりも「恭順」戦略ともいえるやり方です。
マッカーサーが天皇を利用してポツダム勅令を憲法制定まで使ったように、米国を利用し彼らの軍事権力を維持したい思惑を受容し、国民を治めるやり方に「うま味」を見出したのです。米国と運命共同体のように、たいがいのことはハイハイと受ける自民党の戦略と言えます。安倍政権の戦争法もこの中に位置しています。かって憲法を盾に専守防衛論に利を見出した自民党は、その制約を自ら取っ払い、米戦略のグローバル化に国民を動員しようとしています。
この本は、米軍が日本の軍隊を昔から(まだ警察予備隊をつくり出す前の時代から)米軍指揮権の下で生まれ育ってきたこと、条約などの作成当事者のダレスらが使った手口を、公文書を引用しつつ明らかにしています。この本の「最後の秘密・日本はなぜ戦争をとめられないのか」の中で、米軍指揮権を認めさせるために、「国連軍の米軍」と「駐在米軍」という米軍の概念を二つに分けて、論理操作した法的手口が解明されて、まさにミステリーのサスペンスのように日本史を遡って知ることができます。なかでも砂川裁判で「伊達判決」を否定するために最高裁判決で行ったことは、日本の主権放棄ともいえます。この日米支配者の思惑を明らかにしているのは全く同感です。「統治行為論」です。私もこれが憲法を骨抜きにしたと前にも書いてきました。この「統治行為論」の唐突な判決の中の文は、「二度と基地権や米軍の指揮権に口出しを許さない」宣言のごとくであり、この「統治行為論」こそ憲法違反です。
最後に著者は、憲法改正によって米軍を撤退させたフィリピンや東西統一とEUの拡大によって主権回復したドイツなどを挙げながら、日本について「自分たちは政治について自己決定権がある。だから諦める必要はない」と主張しています。勿論です。米国に依存することで利を求め、「見映え」だけを重視して米軍の要求のままにしている自民党戦略を自覚し、新しい政権を樹立していくことこそ、日本の主権回復を実現する道です。
この本は、日本の歴史を知るために、中学・高校の社会科教科書にふさわしい、わかりやすい記述です。日本の戦後歴史がわかり、目を開かされ、何をすべきかを教えてくれる本、若い人に読んでほしいです。             

【「日本はなぜ、『戦争ができる国』になったのか」】
集英社インターナショナル刊   1,200円+税
<出版社コメント>
ベストセラーになった前作、『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を、はるかに上まわる衝撃の事実!
日本の戦後史に、これ以上の謎も闇も、もう存在しない。

目次
序章 六本木ヘリポートから闇の世界へ
PART 1 ふたつの密約──「基地」の密約と「指揮」の密約
PART 2 ふたつの戦後世界──ダレスvs.マッカーサー
PART 3 最後の秘密・日本はなぜ、戦争を止められないのか
     ──継続した「占領下の戦時体制」
あとがき 独立のモデル──私たちは、なにを選択すべきなのか

<著者略歴>
矢部宏治(やべ・こうじ)
1960年、兵庫県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、(株)博報堂マーケティング部を経て、1987年より書籍情報社代表。著書に『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること―沖縄・米軍基地観光ガイド』(書籍情報社)『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』(写真・須田慎太郎 小学館)ほか多数。共著書に『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社)。前著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(弊社刊)は、10万部を越えるベストセラーに。

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【お知らせ】
10・8山﨑博昭プロジェクトでは、10月8日(土)に第5回東京講演会を開催します。
和田春樹さんの講演の中にも出てきた「ジャテック」の活動を担われた高橋武智さんと、作家の中山千夏さんの講演会です。
多くの方の参加をお待ちしています。
●日 時  10月8日(土) 18:00開場 18:30開演
●会 場  主婦会館プラザエフ 9階「スズラン」 (JR四谷駅徒歩1分)
●参加費  1,000円
お問い合わせ・予約:E-mail: monument108@gmail.com

【お知らせ その2】
来週のブログとホームページの更新は、10月8日の10・8プロジェクトのイベント準備のためお休みします。次回は10月14日の予定です。

以前、重信房子さんを支える会(関西)が発行していた「さわさわ」という冊子があった(写真)。この冊子に、重信さんが「はたちの時代」という文章を寄稿し、連載していた。「はたちの時代」は、重信さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章であるが、「さわさわ」の休刊にともない、連載も中断されていた。
この度、「さわさわ」に掲載された部分と、未発表の部分を含めて、「1960年代と私」というタイトルで私のブログで公開することになった。
目次を付けたが、文章量が多いので、第一部の各章ごとに公開していく予定である。
今回は、第一部第五章である。
なお、今回掲載の第五章の(2)以降は未発表のものである。

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(「さわさわ」)

【1960年代と私*目次 重信房子】
第一部 はたちの時代
第1章 「はたちの時代」の前史として (2015.7.31掲載済)
1 私のうまれてきた時代
2 就職するということ 1964年 18歳
3 新入社員大学をめざす
第2章 1965年大学入学(19歳) (2015.10.23掲載済)
1 1965年という時代
2 大学入学
3 65年 御茶ノ水
第3章 大学時代─65年(19~20歳)(2016.1.22掲載済)
1 大学生活
2 雄弁部
3 婚約
4 デモ
5 はじめての学生大会
第4章 明大学費値上げ反対闘争(2016.5.27掲載済)
1 当時の環境
2 66年 学費値上げの情報
3 66年「7・2協定」
4 学費値上げ反対闘争に向けた準備
第5章 値上げ反対!ストライキへ(今回掲載)
1 スト権確立・バリケード──昼間部の闘い──
2 二部(夜間部)秋の闘いへ
3 学生大会に向けて対策準備
4 学費闘争方針をめぐる学生大会
5 日共執行部否決 対案採択
第6章 大学当局との対決へ
1 バリケードの中の闘い
2 大学当局との闘い
3 学費値上げ正式決定
4 裏工作
5 対立から妥協への模索
6 最後の交渉─機動隊導入
第7章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書 2・2協定
2 覚書をめぐる学生たちの動き

(以降、第2部、第3部執筆予定。)

【1960年代と私 第一部第五章】
五. 明治大学学費値上げ反対闘争一一66年~67年
1)スト権確立 バリケード一Ⅰ部(昼間部)の闘い――
夏休みが明けて態勢を立て直した学生側からの9月27日団交申し入れを大学の理事会は拒否しました。理事会側は教授会や職員組合と学費問題についての懇談を始めながら、学生側を無視したのです。学生側の繰り返しの抗議要請、公開質問状への回答などを経て、ようやく9月30日に理事会、教職員、学生の三者による話合いを、10月12日に行なうと約束。そしてやっと10月25日になって初めての団交が実現しました。学生側は、この団交で値上げをするか否かの回答を求めましたが、理事会側は、緊急理事会を開いて結論を出すとして、結論を先送りしました。
そして、理事会側は学生大会前に回答するという一方で、全学生に「学生諸君ヘ―本学財政の現状について」という冊子を郵送し値上げの必要性を訴えました。「28日には、学生会、学苑会に『本学財政(経常部)検討案』を交付した。同日、連合教授会が開かれ、理事の入場を断って学費問題を討議した。25日の話合いのあと、学生会は理事会に対して、次の『闘争宣言』を出した」(『雲乱れ飛ぶ』より)。「我々は決して混乱を好まない。その過程で発生する混乱の原因は、すべて理事会にあることを宣言する。なお理事会が責任ある回答を用意できるのであれば、近日中に開かれるであろう学生大会の以前に、学生会中央執行委員会に表明すべきである。これが我々の理事会に対して、最終的に示しうる寛容と忍耐の態度である」と同日付で締めくくっています。闘争宣言は、学生会中執委員長大内義男名で、教育者としての資質を欠いた理事会の対応に抗議する内容でした。 
学生大会をひかえて、学生会は、11月に入って、17日までに学費値上げをするか否か、回答するようにと理事会側に申し入、17日には、19日に大衆団交を行なうよう求めました。学生大会が差し迫っていたためです。 17日、理事会側は「学費改訂問題については、教職員、学生の意見を聞き検討した上で決定したいと考え、引き続き検討中なので、19日までには決定できない。大衆団交でなく、学生側中執と24日に、Ⅱ部学苑会とは21日に話合いたい」と伝えたようです。11月18日に、学生会は全明治臨時学生大会を開催し、賛成271、反対138、保留36、棄権10で「スト権」を確立。そして、19日の大衆団交を求めます。 
こうして、11月22日和泉校舎では、バリケードを築いて学生側が占拠する事態となりました。大学側は24日、和泉校舎における授業休講の措置をとりました。 バリケードストライキは、和泉から神田や生田校舎へと拡がる勢いです。学生会は、クラス討議を経て学生の最高意志決定機関である学生大会でスト権を確立。この民主的な学生大会決議の力をバックに、「理事会側の学費値上げをするのか否か。するなら白紙撤回を」と訴えました。理事会は26日になって11月30日に神田の記念館で大衆団交を行なう旨を、ようやく回答しています。
宮崎学生部長は次のように記しています。「この頃のことだと思われる。(注:11月のスト権確立後)学生部長室で執務していたところに『学長がお呼びです』と連絡があった。何だろうと、階段を上がって、学長室に行ってみると、すでに松尾・高岡両教務部長も来て学長と話しておられた。座ると、学長が『どうだろうねえ、こういう状況になっては、学費値上げは、もう、取りやめるよりしようがないんじやないだろうか』と話始められた。後で思うと、両教務部長も同意見だったのだろう。しかし彼(宮崎先生自身のこと。この本では、自分を「彼」と表記)は、即時に答えた。『とんでもありません。学費は当然、どうしても改定すべきです。それが学生のためなのですから。学長は明治大学の現状を、これでいいとお考えですか。大学を良くするためには、是非、資金が必要なのです。本番はこれからです。いまからそんな腰砕けでは困ります』と。学長は困ったような顔をされたが、二の句が継げられず黙られた。両教務部長も、彼の剣幕に辟易されたのか、その会は打ち切りになった。もしその時、彼が同意していたら、間違いなく、昭和42年度の学費値上げは、不発に終わっていたことだろう。」
宮崎学生部長は、終戦時19歳の近衛兵小隊長の陸軍少尉であった経歴を持つ、正義と使命の信念の人。思い込んだら命がけのタイプで、教職員・学生からは、一旦引き受けたら、どんなに泥をかぶってもやってくれる頼りになる学生部長といわれ、「チビッコギャング」というニックネームで呼ばれていました。当時は当局の盾のように私たちに対峙してがんばっていました。弁護士でもあり、のちに明大総長を歴任し、正義の感をもって私の公判や陳述書も支持してくださっていました。(追記:宮崎繁樹先生は、2016年4月12日、90歳で癌のため逝去されました。その間、獄中にある私に文通で励まして下さいました。去年のお便りに、こんなエピソードがありました。学費闘争時、明大中執委員長だった大内義男さんが、1967年「2・2協定」以来、突然電話で連絡して来たとのことです。大内さんは癌の末期の病状にあり、「2・2協定」にむけて話合った宮崎先生と当時のことを話したかったようでした。電話で「あれで良かったと思います。それを確かめておきたい」と語られたそうです。あの当時の学費闘争は何人もの人に人生の大きな節目となっていたのを実感します。私も又、その1人です。宮崎先生のこれまでの温かい支援に感謝し、哀悼を捧げます。)
なるほど……当時、宮崎先生が理事会や学長よりも腹をくくって、学費値上げを断固やるぞ!と、考えていたのか……と、『雲乱れ飛ぶ』で知ったわけです。もっと、徹底的に話合うべきでした。でも、きっと激しく対立したでしょうけれど。
 11月30日、神田の記念館で午後4時から大衆団交が行なわれました。これはⅠ部学生会の要求で実現したものです。司会は、宮崎学生部長と学生1人の2名。「明治大学を早稲田、慶応に比肩しさらにより優れた大学らしい大学にしていくために是非この学費改訂が必要であり、そのように大学をよりよくすることこそ現在および将来の明治大学生のためになるのだということを理解してもらう好機として活用しようという熱意にも覇気にも欠いていた…。理事たちは高齢の為か(後にマイクの関係で学生たちの発言がよく聞きとれなかったとの話だったが)学生たちの質問にトンチンカンの答えを連発し、弁解的な答弁が多く、いかにも理事たちが後めたい行動をしているような印象を聴衆に抱かせるような雰囲気だった」と学生部長が述べているように、悪い理事たちと正義の学生の印象は、週刊誌でも揶揄されるほどでした。
何も答えない理事会に、団交を終えると数千の学生たちは、ストライキ決行を宣言し、夜の正門を手始めに机、イスを積み上げてバリケードを組みはじめました。立て看に黒々と「ストライキ突入」と書きました。この時の宮崎学生部長の早業は伝説的に伝えられましたが、ちょうど私も、正門のところに居合わせました。 学生部長は突然、バリケードによじのぼると、詩吟朗々の「春望の詩」と「国破れて山河あり~」と始めたではありませんか。バリケードを積み上げ中、立て看作成中の何百という学生がびっくりして、宮崎学生部長を見つめました。吟じ終えると「学生諸君、風邪をひかないように」と声をかけて、バリケードを飛びおりました。拍手と「ナンセーンス」の声が、あちこちから上がり、深夜の正門を沸かせました。私たちも、やるなあ~と見上げていました。
この時の心境を宮崎先生は、「校舎の見回りを終え、引きあげようと正門の内側までくると、学生たちが黙々と机や椅子を積み上げてバリケードを作っていた。平素、最近の学生たちは元気が無いと思っていたのに、他人から命令を受けたのでもなく、一文の個人的利益にもならないのに、黙々と働いている学生が頼もしく思われた」。そこで、誰に聞かせるものでもなく、突然バリケードに駆けあがって詩を吟じたということでした。まことに宮崎先生らしい姿です。何カ月か前の全寮連大会で、民青が、反日共系を非難して、激しく衝突しそうになった時にも、すっ飛んで来て、「民主主義を守れ!乱闘はいかん。諸君、棒はやめなさい、素手でやりなさい!」とハンドマイクで、身を挺して介入していたのを思い出します。 この日、11月30日のスト・バリケード封鎖はまた、記念館からすぐ近<の91番教室で、学生大会を開いていた私たちⅡ部学生にも、弾みをつけました。

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2) Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ
Ⅱ部の学生大会は昼間部も注目していました。
Ⅰ部には都学連委員長であり、再建全学連委員長となる斎藤克彦さんがいます。斎藤克彦さんは社学同で、すでに全都・全国レベルの活動をしていました。彼と、彼より人望のある中沢さんの指導下の社学同の拠点である明大Ⅰ部は当時の学生運動の注目の的でした。早大に続いて闘いが始まる! 早大闘争は、三派全学連の社青同解放派の大口昭彦議長のもとにありました。再建された第二次ブントとしては、全学連の最大自治会数を数え、全国の範となるような闘いを明大闘争に期待していました。早大闘争の教訓をもって闘う!そんな雰囲気でした。明大バリケード封鎖は、スト権確立の上で敢行された全学自治会の意志のシンボルとしてありました。
この時期の学生大会は、民主主義と、その手続きによることは学生運動のルールでした。やがて、一学園レベルを超えた連携の中で闘うようになってくると、「ポツダム自治会」などと批判が起こり、そのルールを否定し、直接民主主義、少数派による正規の手続きなしの占拠闘争が全共闘運動の波に乗って全国化していきます。その象徴が東大闘争であったと思います。それより前に始まった当時の明治の学園闘争は、日共、体育会系も一緒に全学意思を問い合い、共同の場で討議し、よりぎりぎりのところで妥結しながら自治会を運営していました。
学苑会高橋中執は、日本共産党に沿った、全国的な学費闘争方針を打ち出していました。日本の文部行政の行き詰まりを、国民に転化しているという日本政府の教育政策批判、そして、学費闘争の解決を、国庫補助の増額によって国が解決すべきと訴え、そのためには、学生・教授会大学当局と一体になって自民党政府と闘うこと、国会内の進歩勢力を拡大し、民主的に政権交代を求めるというものです。したがって、バリケード封鎖には反対です。共に闘うべき教授や当局教職員を敵にまわし問題の解決を遅らせるだけと訴えていました。ストを行うかどうかは、全学投票によって、全学生の意思を確認すべきだ、という主張です。夏の合宿を経て日共系の学苑会高橋中執は、ビラ撒き、教室入り、連日のオルグ活動を始めました、今から思うと、日本共産党は社会ルールに則った民主主義路線を提起しています。もし、日共が学生を敵視したトロツキスト批判やソ連派を除名非難(65年日韓闘争の集会場の日比谷公園で志賀、神山ら非難ばかりしていた)や、66年に始まった中国派批判の「自分たちが正しい」とばかり言いつのらなかったら、もっと学生たちも、日共に共感をもったかも知れません。ところが、日共の方針を批判すると、「トロツキスト!」として、画一的な批判を返すので、私たちは反発していました。「トロツキストって何? トロツキーを読んだことあるのか!」と、よく小競り合いを繰り返していました。 日共に寛容さがあったら、もっと違った展開となったでしょう。
私たち研連も、夏休み合宿を経て、これまで日共の方針の枠内で研連活動を行っていたものを、転換せざるをえないと考えるようになりました。研連執行部は、全学的な学費闘争に備えようと、合宿には学苑会執行部の日共系も、また、反日共系の文学部と政経学部の執行部も招待して、学費闘争分科会で徹底討議をしていました。その結果、研連の執行部の中に変化が起こりつつありました。それまで「暴力破壊集団でありトロツキス卜」としか見ていなかった反日共系の学生と会議でまともに話し合ったからです。これまでは、そう思われて当然でした。反日共系の少数派は学苑会の全学大会をボイコットし、大会が始まると十数人が徒党を組んで押しかけてきます。そして壇上の執行部を殴って、一発食らわせたうえで、「ああインターナショナル~」とスクラムを組んで歌い上げ、再びデモを組んで退場していくのを見てきたからです。そんな「破壊主義者」が実は党派的対立の結果でもあると、研連の人々もわかってきました。
明大信濃寮の合宿で草原を走ったり、一緒にワラビを摘んだり、夜遅くまで歌ったり、お互いに触れあったのはよかったのです。同時に、「あいつら民青だ」と、話し合おうともしなかった文学部や政経学部の執行部の連中も、みんな日共ではないのか……と、対立-辺倒のやり方を変えはじめていました。その意味で研連の学費闘争を問う合宿は「秋の決戦」に向けた交流と新しい変化をもたらしたことになります。

3) 学生大会にむけて対案準備
研連執行部としては、大学当局のあり方は国庫補助で解決できるものではないこと、財政の公開、学費値上げの根拠もはっきり示されておらず、当局に徹底して問う必要があると考えました。それに、日本の教育行政の変革には、日共への1票の投票に解消する党派利己主義にも反対です。また、当局との闘いを回避しての闘いはありえず、学費値上げ反対を実現するためには、ス卜権を確立し大学当局と徹底して闘わざるをえないと考えました。Ⅰ部には全学連の執行部の命運もかかっており、バリケードストライキに突入するだろう、そんな時にわれわれⅡ部が、「全学投票を!」などと言っている場合ではない、全学投票は物理的にも時間的にもできない。その全学投票の結果が出るまでⅡ部が授業を続ければⅠ部のバリケードを私たちが解除する役割を負うことになるのではないか、日共の反米日本独立の民主主義革命路線も気に入らない、などと話し合い、対案を出そう、出さざるをえないと話し合いました。
 もし、研連が対案を出せばひっくり返るでしょう。なぜなら傘下のサークルには、どの学部の人もいるので、研連から直接、各サークルの知人友人たちに「自分のクラスの代議員になって、研連の出す対案を支持してくれ」と訴えたら、相当の数の代議員支持が可能になるからです。また、いつもボイコット戦術に明け暮れているML系の文学部自治会と中核派の何人かがいる政経学部自治会執行部にも伝えて、「今回は、研連が対案を出すので、ボイコットせずに反日共系でまとまって、スト権確立のための統一行動を起こそう」と話をまとめました。同時に、Ⅰ部の学生会中執と、研連のカウンターパートナーの文連執行部とも話し合いをしながら、研連執行部が中心になって対案準備をしていきました。
 65年にはまだなかった学生会館が、この時には開館しており、三階には学生会中執と学苑会中執、文連、研連中執の部屋、および会議室がありました。つまり社学同と民青の拠点が正面に向き合い、その横に文連と研連の執行部室があるので、いきおい研連と文連や学生会との交流や活動がひんぱんになり、討論も活発になっていました。
11月には研連大会を開いて、対案を出す運びになりました。研連事務長としての私はそうした集約を行っていました。でも、オルグや政局に頭を使うレベルで、理論的なことは私は苦手です。政治研究部の岡崎さん、黒田さんや夜学研の伊藤さん、経済研の田口さんらに、世界情勢や教育行政についての議案作成に協力してもらいながら、対案を作っていました。学生会執行部もⅡ部研連が対案を出すらしいというので、「がんばれよ!」とアドバイスをしてくれます。私たちも学生会のメンバーに、学生大会の仕組みやポイントを聞きました。そこでわかったのは、「スト権確立」の方針が通っても、人事案まで提出しなければ旧日共執行部がどうにでも変更できること、財源を確保すべきこと、それに学生大会での勝利を確実にするための事前のオルグが欠かせないなどということです。
 そこで役割分担をして、文章を書くのは各研究部の理論家にまかせて、私たち執行部は代議員オルグに集中することにしました。票読みをすると五分五分です。私は雄弁会の縁から、各地の選挙の応援などに行っていたので、票面みの重要性や有権者のオルグも見てきました。研連から、予算やイベントでの便宜をはかってもらいたい各研究会も、対案には賛成して、協力を約束してくれました。
また、半信半疑の反日共系の文学部と政経自治会もボイコット戦術はやめて、大会に参加すると決めました。この二つの学部の代議員は反日共系がてこ入れして、多数が 研連の対案に賛成するはずです。法学部と商学部が民青の牙城ですが、研連のサークル仲間たちが、クラス代議員選挙で立候補していた日共と競合してくれています。ことに商学部から何人も「代議員になったぞ!」という報告が入りました。法学部は少しですが、やはり代議員になることができました。
 人事案は私がまとめることになりました。誰も執行部入りは辞退します。「いやー、それは会社があって難しい」と、Ⅱ部の学生なので、なかなかやれる人がいません。最も頼りにしていた政治研の岡崎さんに学苑会中執委員長をお願いしたのですが、固辞され、大会の議長なら引き受けるということにしてもらいました。この人は田口富久治教授の、Ⅱ部での一番弟子で、頭もきれ政治力もあったためです。次には政経学部のML派の酒田征夫さんに頼みました。彼は夕張炭坑の出身で、演説は上手いし、セクト的ではない人です。涙ながらに熱烈に語るのはこの人しかいない、と次善の人選でした。交渉に行ったところ、「やってもいいけど、実は学費が払えなくてもう除籍になったか、なるところなんだ」と言うのです。これには困りました。私は、勤めていた会社をたまたまやめて、それまでの貯金で凌いでいたのですが、こちらも余裕があった訳ではないのですが、3万円だったか貯金が残っていました。それを貸すから、「まず学費を払いなさい」と渡しました。当然のことながら学生でないと委員長にはなれないからです。「1年以内に返す」と言いつつ、結局、返せずにのちに夕張の石炭で作った置き物を「すまない」と、ひとつくれました。
 本当は新しい学苑会人事には党派的な人は除きたかったのですが、人事案が埋まらないので窮余の策でもあったのです。同時に、対案を出す研連からも、中執に入らないのはまずいということになりました。そこで、研連委員長でノンポリ、責任感の強い岡田さんが中執副委員長に、研連雄弁会の反日共系で、溶接工の仕事をやめたばかりの水島さんを学苑会事務長に、私が財政部長を引き受けることにし、法学部で軽音楽研に所属する人にも入ってもらいました。それ以外は、文学部と政経の人々から党派的な人々も含めて寄せ集めながら、やっと人事案を対案にくっつけて、研連執行部案を作りあげました。
 学生大会の勝敗は、選挙と同じで当日よりも前日までの活動で決します。学生大会前は、民青側も必死でした。研連執行部が反日共系になってしまったのが失敗だったと、「トロツキスト重信のニコポン外交にだまされるな」など大書の非難をしていました。

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(明大記念館)

4) 学費闘争方針をめぐる学生大会
Ⅱ部の学生大会はⅠ部の団交の日、11月30日に始まりました。当日には1票か2票差で、私たちが日共系の執行部を不信任、対案が通るという見通しが立ちました。Ⅰ部はすでに、記念館で団交を行っている最中です。この団交が決裂すれば、既に確立しているスト権を行使して、駿河台校舎正門にバリケードを積み上げることになっていました。学生会中執と連絡をとりあうと、記念館は満員の学生、教職員を含めた4千人以上が団交中です。そんな中、私たち学苑会の大会は、午後7時からすぐ近くの91番教室(600人収容)で始まりました。
まず、高橋委員長以下、日共系の執行部が壇上から学生大会開催宣言を行いました。彼ら現執行部は全員、壇上に座っています。大会前に、学苑会中執宛に研究部連合会執行部による対案の方針案を提出したので、高橋委員長らも緊張しています。これまで、反日共系は殴ってインターナショナルを歌って、デモの隊列を組んで出て行く、というのがお決まりの流れでしたから、少々の暴力に耐えればすむことで、気にもならなかったのです。でも、今回は手続きを踏んで大会に参加しています。91番教室には入りきれないほどの学生が集まっています。通路まで入れると1000人近くはいます。前方に代議員、通路を挾んだ後方にオブザーバーでぎっしり。民青の動員も多いのです。大会開催宣言の後すぐに、大会が正式に成立しているかどうかを、代議員を点検するための資格審査委員と議事運営委員の選出から始まりました。これまでは、あらかじめ学苑会中執側の決めた学生が立候補し、シャンシャンと決まります。でも、今回は違います。これが一番大きな勝負ともいえます。私をはじめ打ち合わせていたメンバーが勢いよく手を挙げました。ここで採決によって一人ずつ議事運営委員を選び、議事運営委員会を構成することになります。
まず議事運営と資格審査の二つの委員を選びます。議事運営委員が資格審査委員を兼任してもいいのですが、この議事運営をどちらの主導権で行うのかが、大きな分かれ目で、同時に票読みの色分けが初めにはっきりします。このときは 一括でなく、一人一人選んでいって、各5人ずつ選出したように記憶します。私の票が多数だったのは、私が文学部の反日共系の研連やノンポリの他の学部でも顔を知られていたためです。
その結果、私が議事運営委員長と資格審査委員長になりました。当時、私は2年生。21歳の誕生日を迎えた直後の秋のことです。
この学生大会のすぐそばでは、バリケードを決するⅠ部学生4千人をこえる団交中です。そして、こちらは日共に対案を突きつける 、明大の歴史的な大会として、私たち研連の主導のもとで始まりました。 議事運営委の中からまず議長団を選出しました。これは打ち合わせどおり、政治研究部の岡崎さんが議長になりました。彼は「策士」で、こういう時にはうってつけの人物でした。そして、他にも副議長、書記を確認。順序はもう覚えていませんが、議長団を選出した後、代議員の資格審査が行われました。日共系の高橋学苑会委員長らは、もともと反日共系の文学部自治会(駿台文学会)と、政経学部自治会(政経学会)は、認めていません。まずその参加をめぐって激しいやりとりがありました。これは採決を行って、反日共系執行部を認めることを採決しました。このように、反日共系に少しずつ有利に議事が始まりました。しかし議事はたびたび中断されました。学苑会中執の主張を反日共系がはげしく批判し、又、研連対案に対する日共側の批判に研連の政治研究部中心に反論をくりかえします。学苑会高橋中執の日共系議案と、研連対案の基本的な対立軸は、教育政策・国庫補助をめぐる論争とスト権をめぐるものです。高橋委員長は「この大会で、スト権を確立し、一週間以内に全学支持投票を行う」と提案しています。研連案は「スト権をこの最高決議機関である学生大会で確立して後、すぐにストを決行すべきだ」というものです。論争がくり返されましたが決着がつきません。
会議の途中、団交決裂を告げるⅠ部の学生たちがなだれ込んできて、600人収容の91番教室は1000人以上の学生であふれました。これなら本当に学園が変わるかもしれない、大変なことになるという雰囲気になりました。(資料によると団交の席上、午後9時15分、値上げ問題を白紙撤回するための緊急理事会開催を求めた学生側の要求に対して、長野理事長がはっきりと拒否した。そのため学生会は、これ以上話合っても誠実な答えは得られないとして団交を中止した。直ちに抗議集会にうつった。このため、全学闘争委員会は、駿河台本校でも1日から突入することを決議した。)
対案委員長候補の政経学部の酒田さんは、切々とした演説をしてくれました。「学友諸君、正義の闘いは今、ストライキとして始まろうとしている。昼聞部の築くバリケードを、私たちの手で、解体するのか。否否否! われわれは、学生として、彼らと共に学費値上げ反対を訴えるべきだ!」。日共も負けてはいません。大論争が続きます。
 手順としては、まず高橋中執の、議案を採決して否決して、そのあと研連対案を採決するのです。私たちは当初から、論争になれば強行採決はやめようと、議長の岡崎さんと話し合ってきました。なぜなら、混乱に乗じて民青が、旧執行部の正当性を主張し、二つの学苑会になるような、民青の戦術にハマらないようにすることです。そのためには、夜間に学ぶⅡ部学生にとっては苦しいけれども、二日間の大会になってもやむを得ない、と予測していました。しかし出来るなら今日夜中かかるとしても決着をつけたい。なぜならもうすぐ零時には、昼間部のバリケードが築かれるからです。また、討議は打ち切りたくありません。そして、絶対に暴カ的に対処させないこと。それを反日共系がおろかに暴力を振るえば、劣勢の民青は待ってましたとばかり神田地区民青を動員し、学生大会を潰しにかかるからです。そこで、ブント系の学生会にも、Ⅱ部の反日共系にも、絶対に暴力は振るわないこと。それを守ってほしいと約束していました。
両者の演説が続き、各代議員の質問が続き、長引いてしまい、結局、午前3時30分すぎ、明け方に審議を打ち切りました。予定の審議を1日目に終えないと、明日、又、さらに継続審議になる不安があったため、明け方まで討議しました。代議員たちが積極的な時間延長を望んでいたので、審議が続いたのです。4時近くになって私は動議を出して明日の継続審議を求めました。そして、12月1日に再び、91番教室で決定戦を迎えることにしました。外ではⅠ部の団交が決裂してデモ、抗議集会、バリケード作りが行われています。明治大学新聞は、この日のことを、次のように記事にしています。「4000人を集めた30日の大衆団交が決裂し、怒れる若者たちはスクラムを組み、記念館講堂から抗議デモに移った。このダイナミックな怒声と足音はさしもの本館をゆるがし、緊迫感を盛りあげた」。こうして午前0時近くから、バリケードが築きあげられるようになりました。
学生大会を継続審議とした私たちが会場を出てると、先にもふれたように宮崎先生がバリケードに駆け登って、「国破て山河あり」と始めたのでした。うずまく学生の波の中で、私たちは、「勝つぞ! 明日は勝とう!」と代議員たちと握手しました。
 私は議事運営委員長として岡崎さんと明日の手順と人事案をもう一度確認し、明日は勝てると確信していました。私は、責任感と情熱で胸が満たされるのを感じていました。

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(バリケード中の明大記念館)

5) 日共執行部案否決 対案採択
大会2日目は、民青の側が妨害行動に出てきました。私の議事運営が不当であると不信任動議をつきつけました。民青の代議員がトイレに行ったときを狙って、議場封鎖宣言をして、1票も2票も締め出して採決し、無効にしたなどと、騒ぎ立てていました。そして、動議を繰り返して、議長団不信任とか、議事運営委員長不信任案を提出しました。一方、研連からも、文学部自治会、政経学部自治会側からも発言を求め、日共高橋中執批判、議案批判を繰り返しました。どちらにも流れる浮動票が十数票あります。
 こうして、2日目の遅く午後11時近くになって、学苑会中執案に対する採決を行うと宣言して、私が議場封鎖を指示しました。丁度、民青の人が議場の外に出ていたのに議場封鎖をしたと、社研代表が私の不信任動議を提出しました。岡崎議長団は却下して、採決に入りました。「学苑会中執の総括運動方針案ならびに人事案に賛成の人は代議員票を挙げてください」と、岡崎議長が求めました。挙手している数を数えたものを、私が集計し、議長団に提出する役割です。オブザーバー席から、カウントのミスがないか、民青も反日共系も、同様に数えています。もう忘れてしまったのですが、日共系執行部案は賛成より反対が5票程度上回りました。
ワーッと大歓声です。まず、日共系の議案を否決しました。でも、研連議案に対しても、棄権票が出れば同数くらいになることも考えられます。続いて研連執行部によるスト権確立を含む運動方針案の採決が行われました。やはり議長に促されて、挙手を求めました。先の挙手で色分けがついていました。棄権した人が手を挙げるがどうか。まず、賛成の代議員の挙手を求め、私たちがカウントしました。68票です。次に反対の代議員の挙手を求めました。すでに、賛成をカウントした段階で、1票差で勝ちそうだとわかりました。壇上の議長団に反対票67と記して渡しました。岡崎議長が「賛成68票、反対67票です。研連から提出された対案が可決されました。」と宣言すると、満員の会場は大騒ぎです。昼間部の人もたくさんオブザーバー席でみています。すかさず研連の対案の人事案で委員長になる酒田さんが「現学苑会中執は否決され、研連の対案が承認された。高橋学苑会中執に対する否決は、不信任であり、即、現執行部は辞職すべきだ。」と動議を提起しました。それをうけて議長が動議の採決に入り、賛成71票、反対64票で不信任案を可決しました。続いて研連対案の人事案が採採択に付されて、72票対44票で採択されました。
「この結果、研連執行部案が人事案ともどもⅡ部の次期方針として承認・採決されました」と、岡崎議長が言い終わらないうちから、ドドッと反日共系は拍手歓声とともにオブザーバー席から壇上へと、何十人も駆けあがってきました。感動して泣いているサークルの仲間もいます。岡崎さんが、「静粛に願います。私たちは、全学生の公正な意志よって、最後まで学生大会を成功させる義務があります。無法は許しません!」と叫びました。こういう時は岡崎さんは役者なのです。民青の高橋委員長が議長に演説させろと要求しました。岡崎議長は許可しました。 
「学友諸君、今大会は不当だ。われわれは、リコールまたは学苑会民主化委員会を組織するだろう」と宣言して壇上を降りました。他の執行部も続きました。議長団に促されて、対案側の人事の新執行部が読み上げられ壇上に次々と上がりました。酒田委員長がスト権確立の勝利宣言と、今日の今から全Ⅱ部学生の意志としてⅠ部学生会とともに、バリケードを砦として、学費値上げの白紙撤回を求めて闘うと演説しました。
 ああよかった、と私もほっとしました。次々と壇上に学生が駆け上がって『国際学連の歌』を歌い、残った代議員やオブザーバー一体となって『インターナショナル』を歌いあげ、拍手で大会を閉めました。もうすでに12月2日の午前1時になっていました。
 あの時の興奮は、大変なものでした。1000人近い学生が、昨日、バリケードを築いてそこに残ったⅠ部学生とともに、夜の正門から駿河台下、お茶の水へとジグザグデモで闘いの勝利を祝いました。12月1日をすぎた2日の、寒い夜気の中、みな熱狂的にこの日を祝い、闘いへと一歩進みました。私たちは次のプラン、引き続き破れた日共系高橋執行部がどう出るか、大学学生課がこの大会をきちんと認めて、こちらに予算を回すか、これからの実務的なことの多くをどう実現するかで、頭がいっぱいでした。日共系は翌日に正当性を認めて、会計事務などを引き継ぐことに同意。「学苑会民主化委員会」で、対抗する方針を採ったようです。その結果、大学当局もすんなりと私たちを認めて、当局が学費と一緒に会費徴収している自治会費を、新執行部に支払う手続きも順調に進みました。私は財政部長を引き受けました。

(つづく)

【お知らせ】
10・8山﨑博昭プロジェクトでは、10月8日(土)に第5回東京講演会を開催します。
和田春樹さんの講演の中にも出てきた「ジャテック」の活動を担われた高橋武智さんと、作家の中山千夏さんの講演会です。
多くの方の参加をお待ちしています。
●日 時  10月8日(土) 18:00開場 18:30開演
●会 場  主婦会館プラザエフ 9階「スズラン」 (JR四谷駅徒歩1分)
●参加費  1,000円
お問い合わせ・予約:E-mail: monument108@gmail.com

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2017年夏にベトナム・ホーチミン市のベトナム戦争証跡博物館で開催する「日本のベトナム反戦闘争の記録」展のためのクラウドファンディングへの協力もお願いします。

【クラウドファンディングのページへGO!!】

10・8山﨑博昭プロジェクトでは、6月11日(土)に文京区不忍通りふれあい館で第4回東京講演会を行った。
講師は和田春樹氏。東京大学名誉教授であるが、元大泉市民の集いの代表である。この「大泉市民の集い」の活動については、No420で「週刊アンポNo12」(1970.4.20)に掲載された記事を紹介している。
「大泉市民の集い」は、埼玉県・朝霞の米軍基地「キャンプ・ドレイク」で、基地の金網越しに携帯マイクで英語で呼びかける大泉反戦放送局の活動など、当時、あまり知られていなかった、ベ平連による反基地・米軍解体活動を行っていた。

講演会の事前参加申込者が、当日まで30名ほどしかいなかったため、参加者が集まるか危惧したが、講演会の会場が満席となる140名の参加があった。
講演会では、マイクの関係で話が聞き取りづらい部分もあったが、以下、講演の内容である。(この記事は、10・8山﨑博昭プロジェクトのサイトから転載した。写真はブログ管理者が掲載)

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【市民が戦争と闘った時代  和田春樹(元大泉市民の集い代表)】2016.6.11 文京区不忍通りふれあい館 地下1階ホール

●ベトナム戦争は不正義の侵略戦争
 ご紹介頂いた和田春樹です。私の話のタイトルは「市民が戦争と闘った時代」と付けさせていただきましたが、この場合「市民」というのは、人間が自分の主体的な意思にもとづいて、自分の判断にもとづいて戦争と闘った、そういう時代をつくった「市民」という意味です。この「市民」の中には、当然ながら羽田で闘った山﨑博昭さんのことも入っております。私も当然入っている。そういう気持ちでお話させていただきます。
 あの1960年代から70年代の時代を振り返って考えますと、いちばん大きい問題は何といっても、ベトナム戦争というものが実に明々白々な不正義のアメリカの侵略戦争であったということです。
 第二次大戦中に日本がインドシナ半島に攻め込み、フランスが逃げ出しました。その日本が降伏した段階で、ホーチミンのベトミン(ベトナム独立同盟)がベトナム民主共和国の独立を宣言したのが1945年の9月2日です。そうすると、フランスが戻ってきて、ついに1949年7月バオ・ダイを首班とするベトナム国を擁立し、再び形を変えた植民地支配をはじめたのです。ベトミンはこれに全面的な抗戦の闘いを宣言して、解放戦争に入るということになりました。
 長い厳しい戦いでしたが、1954年3月、ベトナムの人々はディエン・ビエン・フーの戦いでフランスを打ち負かしました。フランスはふたたび逃げ出すことになります。こういう状況で休戦協定であるジュネーブ協定が結ばれ、17度線の北と南に暫定的に地域を分けて、そして2年後に統一のための総選挙を行うとなった。総選挙を行えばホーチミンが当選してベトナムは統一されると考えられたところ、アメリカが共産主義者の勝利は絶対に許さないということで介入して、ゴ・ディン・ディエム政権を擁立するという形で、本格的な侵略を開始するということになりました。
 ベトナム民主共和国のほうでは、60年12月、南ベトナム解放民族戦線をつくり、闘争を開始しました。63年になると、仏教徒とディエム政権との対立がはげしくなり、僧ティック・クアン・ドック師が焼身自殺をしました。それからずっと焼身自殺が続けて行われて、ゴ・ディン・ディエム独裁を批判するということになりました。
 アメリカはゴ・ディン・ディエムが悪いと思ったら、すぐクーデターをやって政権を取り替えるということになりました。以後、クーデターがくり返されます。
 そして64年8月、アメリカはトンキン湾事件――その当時はわかりませんでしたが、今ではでっち上げ事件だということが判明しております――、北ベトナム軍がアメリカ海軍の駆逐艦を魚雷攻撃したという事件を口実に、「報復」の名による北爆を開始し、65年2月からそれを本格化させ、3月には南部のダナンに海兵隊を上陸させました。こうしてベトナム戦争が始まったのです。
 最初の推移からしても、私たちとしてはこの戦争をアメリカによる侵略と見ましたが、始まっていくにつれてアメリカによる戦争はますます残酷の度を加えていきました。
アメリカでは65年の3月にはすでにアリス・ハーズさん(82歳。ドイツ生まれのユダヤ人、ナチス台頭で亡命)が焼身自殺を遂げて抗議をするという事態が起こっていました。運動側にあっても、死が現実になる、こういう戦争がベトナム戦争でした。
 このような戦争ですから、みながこれに反対するのは当然だと思われますが、さにあらずでして、多くの人はこの戦争に対して行動しようとしませんでした。

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●ベ平連は日米市民の連帯をめざした
 その中でアメリカのベトナム戦争に直ちに抗議の行動をとった人がいました。それが、日本ではベ平連の人々でした。ベ平連の最初のデモは1965年1月17日に清水谷公園で行われました。哲学者の鶴見俊輔さん、作家の小田実さんらが中心となった人物ですが、彼らはそれまで政治運動にはまったく関係しておりません。鶴見さんは安保闘争の時に強行採決に抗議して、東工大を辞職し、「声なき声の会」に加わっておりました。小田実さんは「何でもみてやろう」で世界を回っていた人でして、政治運動は関係しておりませんでした。そういう人が「これは許すことができない戦争である」ということで直ちに行動を起こすということになりました。「ベトナムに平和を!」そして「殺すな!」という声をあげるということになりました。
 そしてその場合、いかなる組織にも寄りかかることがなく個人の主体性において行動していくということになりました。既成の決まりや思想や、既成のスタイルから自由になって、新しい運動、新しい組織を創りだして、この戦争と闘っていこう、というのがこのような人々の考え方でした。
 しかし、最初からはっきり決まっていたというか、決めていたのは、日米市民の連帯を追求することです。戦争をしているアメリカのなかに戦争に反対する市民がいる。その市民と連帯して戦争に反対していこうという考え方でしたが、このような日米市民の連帯というものは、それまで存在しなかったことです。
 それまでの平和運動というのは、日本共産党、日本社会党、総評など政党の活動家、労働組合員を中心とする運動でした。決まりやしきたり、思想に、ある意味で縛られた運動を展開していたとも言えます。もちろん、身近な生活にかかわるテーマを追求する運動もあったのですが。ただ、その運動からは日米市民の連帯という考え方は出てきませんでした。
 ベ平連は、行動することを考え、最初に打ち出したのが定例デモというものでした。ひと月にいっぺんずつデモをする。戦争が終わるまで、毎月毎月デモをし続ける。そういう運動の形を通じて、市民の戦争反対の意志を表そうとしたのです。
 そして同じ考えの人々がみな各地で同じような定例デモを組織するようになりました。名前は名乗るなら名乗ってもいいし、別の名前でも構わない、地域のだれだれがやっているとして連絡してほしい、できることをなんでもやっていこう、というものでした。
 日米市民連帯のためにまず、ニューヨーク・タイムズに意見広告を出すということが企画され、広く賛同を呼びかける行動をやりました。それから、いわゆる講演会とはちがって、参加者が自由に意見を出し、議論するティーチ・インというのをやりました。さらにアメリカから歌手のジョーン・バエズを招き、ベトナム戦争反対の意志を歌に託して広げるという形で、反戦フォークソングをみんなに広めました。
 そういうふうにしてベ平連は、それまでにない個性的な運動として日本社会に一躍登場したというわけです。
 この運動は出発してから一年半後の1966年12月10日、アメリカ兵に向けてビラを作成し配るという行動に出ました。これは画期的な行動でした。Message from japan to American soldiers というビラです。今日展示会でご覧になったかも知れません。最初のビラは、何をしろ、というビラではありませんでした。よく戦争のことを考えて、何らかの行動を起こしてほしい、ということでした。そういうビラをベ平連がアメリカ兵に配ったことは非常に大きい意味のあることでした。

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(ビラ写真)

●人々に強い印象を与えた山﨑博昭さんの死
 明けて1967年は、大変なことになりました。アメリカも大変だったし、日本も大変なことになったわけです。ベ平連はこの年、韓国軍を脱走し、平和憲法下の日本への亡命を求めて密航してきて、逮捕され大村収容所に入れられていた金東希(キム・ドンヒ)という青年の救援活動に入りました。
 韓国軍はアメリカに求められて、ベトナム戦争に参戦しました。朝鮮民族としては、ここで汚辱の歴史を刻んでしまったわけです。しかし、ベトナムの戦場へ行けということに対して嫌だと言って脱走して日本に来た韓国人兵士もいたのです。ベ平連は彼を援助することになりました。日本政府が亡命受け入れを拒否したため、韓国へ強制送還される危険があり、金東希は自分は北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国に行きたいと言いました。ベ平連はいろいろ働きかけをして、韓国への強制送還だけはさせませんでした。日本政府はついに金東希を北朝鮮に送りました(68年1月)。彼が望んだ亡命先の北朝鮮に行けば、それでいいことになるだろうと、ベ平連としては期待しました。しかし、実際はどうだったかわかりません。後に、小田さんが北朝鮮に行ったとき、金東希に会おうとしましたが、その人の存在はわからないということでした。金東希は北朝鮮のなかで消えてしまっていました。

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(ワシントンポスト)

 ベ平連は67年4月3日にワシントン・ポスト紙に意見広告を出します。「殺すな」という大きな字が入ったものです。その字は岡本太郎が書きました。そして「殺すな」の字をとって、反戦バッチ、「殺すなバッチ」というのを作って、みんながつけることが運動になったわけです。そういう新しい運動を創意工夫でつくり出し、運動を続けていました。
 その中で、67年の秋になって起こったのが、佐藤首相の南ベトナム訪問に反対する羽田での学生たちの闘争でした。そこで京大生の山﨑博昭君が亡くなるということが起こりました。ラディカルな学生の運動がベトナム反戦運動に取り組んできたこと、その中で一人の学生が命を落としたことが大きな衝撃を与え、人々に強い印象を与えた、こういうふうに思います。

●イントレピッド号の脱走米兵を支援
 アメリカではどうかというと、10月21日はワシントンD.C.で10万人の反戦デモが起きます。日本とは桁が違います。
 そして10月26日にアメリカの空母「イントレピッド号」の水兵4人が脱走して、ベ平連に援助を求めるということになります。ベ平連は非常に驚いたと思います。震えながら大変なことだと受け止めたのでしょうね、きっと。そしてこの人たちを日本から外へ出すということで、ソ連大使館に連絡しまして、ソ連船に乗せて横浜から日本の外へ送り出すということをしました。11月13日彼ら4人がナホトカ号に乗って出港したところで、記者会見をしました。ベ平連自身が犯人隠匿とか密出国幇助とかどういう罪に問われるかわからない、というほど緊迫していました。だからせめて東大教授を記者会見に出席させようと考えたと言われております(笑)。日高六郎先生がその場に同席したのでした。
 ベ平連の人たちは、これによって自分たちが何か違法行為の罪に問われるのではないかと考えていたのですが、実はそうならなかったんです。しかし、この行為は決定的な、大変なことでした。アメリカ兵が脱走し、その脱走したアメリカ兵を日本の市民が日本の国外に送り出すという行動をとった。これは国家秩序に対する大変な挑戦ですよ。
 一方、記者会見の2日前、11月11日に、エスペランティストの由比忠之進さん(73歳)が佐藤首相の訪米に反対して首相官邸前でガソリンをかぶって焼身自殺をするということが起こりました。由比さんは翌日亡くなられました。この死も多くの人々に強い印象を与えたわけであります。
 このベ平連の行動、「イントレピッド号」の4人の水兵脱走問題は国際的にも非常に大きな事件でした。アメリカでは11月19日にニューヨーク・タイムズ紙に「戦争に反対するベトナム帰還兵の会」が、意見広告を載せるということになりました。大きな反響を呼び起こしたのであります。
 市民が戦争は許さない、ということで、自分のやれることをやっていく、そしてこの戦争を批判していく――こういう決意で始まった市民の運動が、現実に戦争しているアメリカ軍に直接的に打撃を与えたのです。そういう行動に踏み出すことになったという意味で、イントレピッド号脱走米兵事件は決定的な転換点でした。

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●エンプラ佐世保寄港阻止に始まった1968年
 68年になりますと、一層世の中の動きが激しくなりまして、状況全体が激しく、暴力的にもなりました。1月19日には、アメリカの空母エンタープライズが佐世保に入港しまして、反戦青年委員会や全学連はここにこぞって結集しました。ある意味でいうとアメリカの空母に反対する人々のあらゆる抵抗が佐世保という舞台を通じて全国に非常に大きな印象を与えることになりました。
 その2日後、北朝鮮の特殊部隊がソウルの大統領官邸の裏庭にまで進出し、大統領官邸に突入しようとしました。そしてほとんど全員が全滅することになりました。さらにその2日後には、北朝鮮の海軍がアメリカのプエブロ号を元山沖で拿捕することになりました。なぜ北朝鮮がそのように対応したかというと、韓国軍がベトナムで戦争している、それに対して自分たちはベトナム人民を助けるために韓国に攻め込んで朝鮮半島に第二戦線を開くんだという考え方です。
 その一週間後に南ベトナム民族解放戦線がテト攻勢をやりまして、最後にサイゴンのアメリカ大使館に突入するという情勢になりました。一時期は大使館の建物を占領して戦い、結果、全員が射殺されてしまいます。
 日本の国内ではどうかというと、ベトナム戦争とは直接関係がないわけですが、静岡県清水市のキャバレーで在日朝鮮人の金嬉老(キム・ヒロ)が日本のヤクザ2人をライフルで撃ち殺し、そして寸又峡の旅館に立てこもって清水市警察署長に対して謝罪を要求するという挙に出ました。とても大きな事件でした。清水市出身の私にとっても大きな衝撃を与えるものでした。
 さらに2月26日には三里塚空港建設反対の農民、学生たちの闘争がありました。
 要するに、アメリカのベトナム戦争は恐るべき暴力をもってベトナムの人々を殺していく、悲惨な、とり返しのつかない戦禍が拡大する、それに対して抵抗する人々による今や暴力的な抵抗というものが起こらざるをえないという状況になっていた。そういう時に、4月5日、アメリカでマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されました。
 こういうベトナム戦争をめぐる状況が、ベ平連の運動に参加している、あるいはその周りにいる市民たちに、何をすべきかを問うてきたのでした。

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●キング牧師暗殺を契機に大泉市民の集いを立ち上げた
 ぼんやりと生きていた私にとっては、マーティン・ルーサー・キングの暗殺が引き金になりました。遅すぎたわけですけれども、一人の市民として反応するきっかけになったわけであります。つまり、ベ平連の運動は地方、地域に拡大していく中に、私もいたのです。
 私が住んでいた地域は、朝霞基地のある練馬区の大泉学園町です。大泉学園町と埼玉県の朝霞市と和光市は、戦前には地域の北側に陸軍士官学校があり、被服廠があり、そして陸軍病院があるという、戦争を支えてきた地域と言えるところです。大泉学園と埼玉県朝霞市、和光市、新座市にまたがった広大な基地が朝霞基地です。第二次大戦で日本が敗北した後、そこをアメリカ軍が接収しまして、主力部隊である第1騎兵師団とその司令部が置かれました。50年にはじまる朝鮮戦争の時は、在日米軍の本拠地になっていました。首都を守るアメリカ軍の基地です。これがすぐ朝鮮戦争に出撃していきましたから、大泉学園町と朝霞市は朝鮮戦争に直結する町になりました。
 その後、そうした色が少し消えていたころ、1965年の暮れに基地の北に米軍病院が作られました。アメリカはベトナム戦争を始めると同時に3箇所くらい病院をつくりました。その一つです。
 初めは何ともなかったわけですが、次第にヘリコプターが飛ぶようになりました。ベトナムの戦場から横田基地に傷病兵を降ろすと、そこからヘリコプターで運んでくる。ヘリコプターが私たちの町の上を飛んでいく、朝霞基地の病院に運ばれていく、そういう情景です。
 私はそのヘリコプターの音を一年も聞いていました。何もせずにです。
 人間というものは、臆病なものでもあるし、いろんなものに縛られているから、「反対だ」と思っても、その声を表して行動するということは、大変なことですね。私は朝霞に米軍病院ができたことも、『サンデー毎日』に記事が出ましたから知っていました。実際に見にもいって写真を撮っていました。でも、何もしませんでした。
 しかし、とうとうキング牧師が死んだ時、1968年4月7日、私は一人で朝霞の病院の前に行って、カレンダーの裏側にスローガンを書いたものをアメリカの黒人兵に見せました。
「黒人兵よ、若いアフリカ系アメリカ人よ。あなたの戦場はここではない、国へ帰って戦ってくれ」というようなことを書きました。
 人にそんなことを言うということは、大変なことですが、私は訴えずにはおれなかったのです。その時に基地はマルティン・ルーサー・キングを悼んで弔旗、半旗を掲げていました。そういう状況です。顔を合わせて黒人兵は何がしか反応を示したように私は思いました。それで私は行動するようになりました。
 5月6日になって、大泉学園駅前でベトナム戦争、米軍病院に抗議するビラを配りました。そのビラは私と妻の二人の名前で出したもので、最後に私の住所と電話番号も書きました。気持ちのある人は連絡してくれ、という意味です。ビラを配っている私について、何も隠すことはないという気持ちでやりました。それが市民の運動だと思ったし、おそらくベ平連の精神はそのようなものだろうと、私は思っていました。
 そうこうして電話をくれた人とか声をかけてくれた人が集まって7月7日には「大泉市民の集い」ができました。いちばん最初に反応してきたのは共産党の人でした。共産党の区会議員と赤旗の記者がやってきました。私の行動がたちまち赤旗に報道されることになったわけです(笑)。ありがたいような、ちょっと困ったような感じです。援助はありがたいが、共産党の支えでやったんでは市民運動にならないと思いました。やはり牧師が必要だと考えました。私の住んでいる大泉の教会の牧師はベトナムに医薬品を送る運動をしている人でした。それがわかって、その牧師に会いに行って一緒にやりたいと言ったら、よろこんで一緒にやろうということになって、市民運動の条件ができました。
 しかし、もちろん共産党の人たちは、基地問題をいちばんよく研究していました。朝霞に行って、社会党の市会議員の人に話しを聞きましたら、基地に詳しい中学校の先生がいるから話を聞いたらどうかと、言われました。それで、会いに行ったら、その人は中核派の人でした(笑)。その中核派の先生が私に「いちばん詳しいのは平和委員会の共産党の木透さんだ。その人に会ってみろ」と言うんです(笑)。党派というのは関係ありませんね。この問題をやろうと決めれば、助けあってやっていくという精神が完全にありましたね。それで朝霞基地について長いこと調べた共産党の労働者の木透さんに発会式で講演してもらいました。こんな風でして、最初は実質的には共産党を頼るばかりでした。
 そのうちに私たちの研究所の同僚の夫人、石田玲子さんが、ベ平連の米兵向けのビラをくれました。私たちは、はやくも8月31日には、アメリカ兵にビラを配ることをもうはじめていました。米軍病院にいるのは傷病兵ですから、彼らに反戦を訴えるということは当然のことで、すぐに取り組みました。じつは、日本女子大のアメリカ史専門の歴史家・清水知久さんを口説いて、運動に加わってもらってましたので、清水さんが英文のビラをすぐ書いてくれました。
 私たちは10月には最初の定例デモをはじめました。
 この運動は大泉ベ平連と言ってもよかったのですが、大泉市民の集いと名乗りました。その名前にこだわりがありました。もうすでにベ平連もひとつの流れ、一個の既成の運動となっていましたから、やる時は最初から自由にやりたいという思いがありました。

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●朝霞反戦放送を始めた
 ベ平連の脱走兵援助のジャテック(JATEC[反戦脱走米兵援助日本技術委員会])は、68年の11月には大変な時を迎えていました。
 北海道の弟子屈(てしかが)でアメリカの情報機関員であるラッシュ・ジョンソンというスパイが脱走兵を装って、運動に入り込んできて事件が起こりました。ジョンソンは、戦争を忌避して脱走した兵士だと考え、ソ連に逃がそうということで連れいったとのですが、一緒にいた脱走兵は日本の警察に逮捕され、ジョンソンは姿を消してしまった。これでソ連を経由して逃がすというルートが頓挫するということになりました。
 ベ平連、ジャテックは、大変な打撃を受けました。
 私たちは定例デモを続けていました。しかし、その時はそんなにのんきでもなかったのです。全国の大学が大変なことになっていたからです。68年の秋は学園闘争が盛り上がり、私も東京大学で教員の有志の行動にも参加することになりました。そしてとうとう1969年の1月には、全共闘が立て籠もる東大安田講堂に対して機動隊が導入されて封鎖解除ということになりました。非常に辛い、悲しい局面に到達しました。
 しかし、その時の私の感じは、東大で学生たちがやっている行動も結局これも大きく考えればベトナム戦争に反対する反戦運動だというものでした。ベトナムへの暴力を許さないということが学生たちの行動の基礎にあるのではないかと、私は見ていました。だから私は学生の運動があるからといって、地元の運動を弱めたりするようなことは考えませんでした。
 69年の5月3日、私たちは王子・朝霞・立川・横田の基地を見るバス旅行を計画しました。基地を見るということは、ただ漫然と見ているのではない、基地を見ることがすでに基地に対する攻撃の開始だと考えて見ることを試みたのです。私たちの手段は大したものではないけれども、しかしこれらの基地を許さない、潰していくんだ、という気持ちをもって監視するんだ、というのがその時の考えです。
 その直後の6月から私たちが始めたのは、朝霞反戦放送というものでした。これがどういうところから発想されたのかはっきりしませんが、基地の金網の外に空き地がありましたので、その金網の外から基地内に向けて定期的に強力なスピーカーで訴えをしたのです。それを反戦放送と称したところがミソでした。
 6月1日から一週間続けて、午前中2時間ずつ反戦放送をやるという行動をしました。私も普通に勤めている人間ですから、そういうことをしていいのかどうか問題があったんですけども、もう構わない、ここで行動しようと考えました。
 反戦放送の内容は、世界や日本各地の反戦運動でこういうことがあったというニュースです。それから朗読ですね。朝日新聞に連載された本多勝一の「戦場の村」を英文に訳したパンフレットが出版されており、それを朗読しました。そのほか、ジョーン・バエズの歌とかいろんな歌を流したわけです。

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●攻撃的基地闘争と位置づけて運動を展開
 そういう行動が可能になった条件について、私が考えるところでは、こういうことです。通常、病院の脇で大きな容量のスピーカーで訴えかければ、これは大変です。病人にとって寝ていられない状態ですから(笑)。病院としては威力業務妨害です。ですから普通なら直ちに病院側から訴えが出て、“御用”になるのが当然です。しかし私たちが反戦放送を始めましてから、警察は一度も介入しませんでした。ただ、私たちが基地の金網に南ベトナム解放民族戦線の旗を結びつけたら、「金網はあなた方のものじゃないんだから、こういう旗を結びつけることはやめてくれ」という警告がありました。それだけで、警察は私たちに対して抑止するという考えは全然見せませんでした。
 私が思うに、威力業務妨害というのは刑法に規定されている罪ですね。地位協定によって、アメリカ軍の基地は、日本の国内法から完全に自由な存在なのです。したがって国内法の規制もうけないし、保護も受けない。だから威力業務妨害というのは米軍基地には適用されないということではないか。
 ジャテックは米軍の脱走兵を匿い、国外へ逃がした。違法行為になるのではないかというおそれがあったのですが、そうならないことが明らかになりました。なぜなら、日米地位協定によって、アメリカ軍兵士は日本への出入りが自由なんですよ。アメリカの兵隊が何千人何万人も来て、いちいち入管の手続きをとっていたら大変ですから、出入り自由になっている。であれば、アメリカの兵隊が脱走して、日本から出て行くのも自由である(笑)。したがってまた、それを助けてもまったく罪にはならない。日本人が国外に入管手続きなしに出て行くのを助けたら、これは入管法違反になります。
 そこで、私たちが考えたのは、これは要するに攻撃的な基地闘争の展開であるということでした。ベトナムで無差別の殺戮を行うアメリカの軍隊が出撃し、傷病兵が出る、その傷病兵を後方に送り、病院で戦争の機械の部品として修理して、また戦争に送りだす、そうした機能を果たしている米軍病院の機能を反戦放送で妨害すること、これはベトナム戦争の遂行に打撃を与える闘争です。他にも、山梨の北富士忍草母の会の農民が北富士演習場の着弾地に身を潜めて演習を妨害している。厚木基地では滑走路の延長線上に置いた古タイヤを燃やして米海軍機の離着陸を妨害している。朝霞野戦病院は傷ついた兵士を収容し、また戦場に戻すための装置であるとすれば、その兵士たちに反戦を訴えて、戦場に戻るなと訴えていくことは、病院の機能を麻痺させることになるんだという理解が生まれました。今や基地闘争は攻撃的基地闘争の段階に入った、われわれはその一端を担っているんだと考えたのです。
 反戦放送の内容は次第に充実していきました。その点では、アメリカ人活動家のヤン・イークスの登場が意味深い。ヤン・イークスは、徴兵を拒否して国外に逃れた活動家でした。この人はあらゆることを教えてくれました。アメリカ兵に人参を食わせるんだったら、縦に長く切るんだということから始まって、二本の指でつくるのがピースサインだ、これによって平和を望んでいるということを伝えられるんだ、握り拳を突き出せば黒人に対して連帯していることを示せるんだとか、です。最初は何もわからなかった私たちに全部、彼が教えてくれました。

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●「KILL FOR PEACE」
 反戦放送は6月に一週間やり、8月にも一週間やりました。10月も12日から19日まで一週間の予定ではじめました。そうしたら、直ちに成果が出ました。15日に朝霞基地で働く2人のアメリカ兵がわれわれに連絡してきました。援助してくれというのです。驚きでしたね。われわれがしていたのは、反戦放送のさいに英文のビラを配っていたし、ジャテックが出していた兵士向けの新聞も配っていました。これは基地の中に投げ込んで兵士に渡していたわけです。
 彼らがやってきて助けてくれというのは、自分たちでGI新聞、『Kill for Peace』を出したいというのです。「平和のために殺せ」というのがアメリカ軍のモットーである、平和のために殺さなきゃならんというのは、まったくおかしい。それを皮肉るために、あえて『Kill for Peace 』というタイトルで新聞を発行したいんだというのです。

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 一人は、ほとんど教育を受けていない、本国では警察の助手をしていた若い男性で、もう一人はベトナムで闘った黒人兵でした。白人と黒人の兵隊が2人で一緒に来ました。黒人兵は自分のペンネームはチェだと言いました。最初は、何のことかわかりませんでしたが、チェ・ゲバラのチェでした。基地の中の図書館にチェ・ゲバラのゲリラ戦の本があって、それを読んで勉強した、チェ・ゲバラを尊敬していると言うのです。非常に意識の高い人でした。
 彼らが書いた新聞は、紹介する余裕がありませんが、非常にソフィスティケートされた内容でした。政治的には高度なものじゃありません。素朴な感情を表現した、とてもいい新聞でしたね。それを私たちは、印刷して、基地の中に投げこむということになりました。
 一人は、2号が出たところで、密告されて、除隊となり、帰国しました。けれども、黒人兵はのこり、こんどは黒人兵のための新聞”Right On”を出しました。
 3人目は、70年になって、ジョン・ウィリアムズという兵士が新聞“Freedom Rings”を出すことになります。彼は、もう隠れている必要はないと判断して、GI新聞の編集者として記者会見をしたい、準備してくれと言うので、記者会見をやりました。彼らはそこで本名を名乗っています。
 つまり、70年になるとそれだけ米軍は解体してきたということになるわけです。私たちの目の前で、私たちの呼びかけにこたえて、朝霞の兵士たち、傷病兵たちも基地の中で、一種自主的な非合法集会の状態をつくりだしました。私たちとアメリカの兵士たちによる米軍基地機能麻痺の運動がそこまで進んだのでした。

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(横浜・岸根陸軍野戦病院における反戦放送局活動写真)

●朝霞、岩国、沖縄へ米軍解体の運動となって発展
 米軍の解体的雰囲気は強まってきまして、どうなったかというと、朝霞基地は閉鎖になりました。もちろんニクソンがベトナム化政策――南ベトナムのサイゴン政権軍に戦争の主役を担わせて、米軍は撤退する政策――をとりましたから、その一環ではありましたが、米軍は敗戦の中で戦意を喪失し、兵士は犯罪的戦争の中で批判を強めていたのでした。70年12月に朝霞病院は閉鎖になってしまいます。
 これが私たちの運動です。大きく言えば、米軍解体の運動だということになります。
 米軍の解体が全面的に進んでいる局面で反戦放送をさらに拡大できるということで、1970年には、横浜の岸根でも行われ、岩国の海兵隊の基地でも行われるようなりました。結局、反戦米兵の決起、米軍解体の最大の運動は岩国基地で起こりました。岩国にはGI新聞が出る。それから反戦放送が始まる。そしてこの年7月4日、岩国基地の営倉内で反乱的な抵抗が起こりました。これは初めての画期的なことでした。
 この直前、70年6月、ジャテックは、脱走兵の援助から反戦米兵の援助に転換する、ということを決めました。そして全力をあげて岩国基地の米軍兵士たちを援助することに乗り出しました。そしてジャテックの古山洋三さんと私と清水は『米国軍隊は解体する――米国反戦・反軍運動の展開』(1970年6月刊)を三一書房から出しました。
 その後、運動はどうなるか。最大の問題は沖縄にありました。沖縄こそがベトナム戦争の最大の基地になっていたのです。B52が嘉手納基地から飛び立ってベトナムを爆撃している。その沖縄に、ヤン・イークスとアニーというカップルが行きまして、嘉手納基地のアメリカ兵を組織するということをやりました。それが70年の3月です。嘉手納基地の反戦GI新聞“Demand for Freedom”が発行されました。そうしているうちに70年12月コザ暴動がおこります。米軍の兵士が沖縄の市民を車ではねる事故を起こしたことをきっかけにして、コザ市(現在の沖縄市)民が激高して、多数の米軍の車両を焼き討ちする「暴動」になったのです。しかし、米兵を攻撃したわけではありません。事件で一人の死者も出ませんでした。その後、71年5月になって、反戦米兵48人と沖縄の反戦労働者によってコザにおいて反戦交流集会が開かれました。
 つまり、アメリカの基地の存在はもう耐えられないと思っている沖縄の人々と、基地の中でベトナム戦争に反対するアメリカ兵とが出会って、結合していく展望が現れてくる状況になっていたのです。この結合こそまさに実現されるべき大きな課題であったわけです。
 けれども、結局のところ、そうなりませんで、日米政府による沖縄返還協定が71年6月に調印され、72年5月15日に発効することとなりました。これが、基地の中側では反戦米兵の運動が継続し、外からは沖縄の人々に包囲され、基地が崩壊することを恐れたアメリカ政府の追い詰められた上での方策ではないかと私は思っております。

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●戦争に対する大きな抵抗運動の意味は不滅
 以上が、ベトナム戦争に反対した市民の手による反戦運動というものです。いろんなことをやってきましたが、結局、最後の局面に出てきたのが、1972年、在日アメリカ陸軍の相模原補給廠からの戦車を止める運動です。戦争の機械に打撃を与えるということで言うと、いちばん効果があるのがベトナムの戦場に送る兵器の流れを止めるということです。1972年8月から秋の時期に、相模原で兵器を止める運動が起こり、激しくなりました。それは印象的な闘いであったと申せます。
 だんだん市民運動は変っていきまして、私たちのところでは、ハイエナ企業といってベトナムに進出する日本企業を批判する運動もやりました。
 さて、1973年1月27日にパリでアメリカ政府と南ベトナム政権と北ベトナムのベトナム民主共和国と南ベトナム解放民族戦線の南ベトナム共和国臨時革命政府の4者によるベトナム和平協定が結ばれます。そしてベ平連は解散します。それでベトナム戦争の最後は1975年4月30日、サイゴンの解放によってもたらされました。

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 以上ですが、反戦市民運動は、達成したもの、達成できなかったもの、いろいろありますが、今から振り返れば、可能な限り、あらゆる手をつくして、戦争と闘った、という意味でいうと、あの戦争に対する大きな抵抗運動であったと言えるかも知れません。
 じつは、この言い方は、アメリカで出版された、ベトナム戦争時代の抵抗運動を書いた『世界はわれわれを見ている』という写真集の最後に、結論として述べられていることです。ベトナム反戦市民運動はジョンソンを止めて、そして最後はニクソンを止めた、アメリカの政権と軍を追い込んだという点で成果があったと言っています。
 これは正しいでしょう。しかし、本当のところ、われわれは何をかちとったのでしょうか。ベトナムの人々は確かに勝利した。アメリカをして敗北せしめました。
 しかし、われわれは、アメリカをして、誤った不正義の戦争をしたということに対してベトナムに謝罪させることができませんでした。それができなかったということは、やはりあのときの反戦運動に関わった者すべての責任だ思っております。もちろん、その時代にやった運動の事実、その意味は消えることはありません。それが今の新しい世代に、少しでも伝えられ、戦争反対の意志の力を与えることができれば幸いです。そういうことを望みます。
 しかしまた、結局、運動は結果です。結果を出さなければなりません。このことが僕の教訓だと思います。(拍手)

【お知らせ】
10・8山﨑博昭プロジェクトでは、10月8日(土)に第5回東京講演会を開催します。
和田春樹さんの講演の中にも出てきた「ジャテック」の活動を担われた高橋武智さんと、作家の中山千夏さんの講演会です。
多くの方の参加をお待ちしています。
●日 時  10月8日(土) 18:00開場 18:30開演
●会 場  主婦会館プラザエフ 9階「スズラン」 (JR四谷駅徒歩1分)
●参加費  1,000円
お問い合わせ・予約:E-mail: monument108@gmail.com

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(チラシ写真)

※2017年夏にベトナム・ホーチミン市のベトナム戦争証跡博物館で開催する「日本のベトナム反戦闘争の記録」展のためのクラウドファンディングへの協力もお願いします。

【クラウドファンディングのページへGO!!】


「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの5回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第6号に掲載された「高校生のひろば」の中から鳥取県立由良育英高校からの報告を掲載する。

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【由良育英高校における不当処分撤回闘争 週刊アンポNo6  1970.1.26発行】
 県立由良育英高校は、鳥取県の中部、大栄町にある普通高校です。この学校で11月の初め、文部省見解が出された直後に不当な処分が出されました。今もまだ、撤回闘争は続けられていますが、その中間報告をしたいと思います。
 10月28日、3人の生徒が学校をサボッて上京しました。3人はそれまでデモに出たなどの理由でしばしば学校側から注意を受けていました。家庭でも、そのことで口論が絶えず、とうとう、飛び出してしまったのです。
 11月7日、3人が帰郷し、父兄同伴で登校しました。3人は学校をサボッたことを反省していること、東京では政治活動をしなかったこと、などを言いました。学校側はそれに対して、その日の授業に出席しないように指示しました。しかし、3人は、出席できないという理由はないとして、出席しました。
 ちょうどその日、PTAの役員会が開かれました。その場で学校側は、「一部生徒の政治活動と学校側の指導要項」というパンフレットを配布しました。その中には、3人の上京を、はっきりと、政治活動のために上京した、として扱ってありました。このパンフレットは教頭が印刷したものでした。このデタラメなパンフレットのおかげで、PTAの役員たちは、「3人を退学させろ」と言ったようです。
 11月12日、3人に、無期停学の処分が出されました。驚いた3人の父兄は、直ちに校長に抗議しました。
 あくる日、30人の生徒が、校長に処分理由の説明を求めました。学校側はそれに対して、処分理由は、8日間の怠学行為だ、と言いました。また、PTAに配布したパンフレットはまちがいだったと認めました。しかし、教頭が「PTAの役員会では退学という声が多かったが、校長先生は人格のある方で、無期停学に決まった」と言ったため、生徒はカンカンになりました。PTAの役員会での声はデタラメな印刷物で作られたものだったからです。

<コロモの下から出たヨロイ>
 このあたりから、3人の処分は活動家に対する不当な政治的処分だということが、あらわれてきたのです。
 11月17日、日本海新聞社が、処分問題を取材に来ました。すると学校側は、あわてて職員会を開き、3人の処分を解除しました。この処分は、世間に知られると困るようなものだったのです。処分を解いた理由は、3人が十分に反省しているから、ということでした。しかし3人は学校の不当な処分に腹を立てて、反省文も書いていなかった。一人だけは書いていたが、その文には学校を批判する内容だけが書いてあった。停学中、一度も先生に会っていないものもいた。
 あくる日、日本海新聞にこの記事がのると、他の新聞社も取材に来ました。そのころ、あるPTA役員は、彼らと話し合って、処分が不当だということを理解してくれました。しかし、その後、PTA役員は、問題をうやむやにしたままでことを荒立てないように努めたのです。
 このころ、3人のうち1人、O君の家に、「おまえら家族が由良育英高校をこわしてしまう。脳天を割ってやる」という内容の、脅迫電話がかかってきた。かけた者は、少し酒に酔っているようでした。
 11月20日、代議員会で、この処分問題について臨時生徒総会を開くことを決定しました。大多数の生徒にも、これがただ単なるいましめのための処分でないことがわかってきたのです。
 11月22日、学校側は職員会で、生徒総会を開かせないことを決定しました。学校は、問題をもみ消そうとしたのです。
 11月24日、一部の学生の手によって、学校の決定に対する抗議集会が計画されました。しかし、急なことでもあり、わずか4、5クラスの生徒にしか、それを知らせることができず、場所もあいまいでした。それにもかかわらず、約50名の参加者があり、処分の実態を知らせることができました。同時に、代議員会で、生徒総会を開くことが再確認されました。しかし、その後も、学校は生徒総会の開催を許しませんでした。
 11月29日、島根県内の高校生の組織である、「島根県高校生共闘会議」としては、由良の問題は高校生全体の問題であるとして、大栄町由良で集会を開き由良育英高校までデモをしました。この集会に対しても、学校側は、裏工作をして集会場を借りられないようにしたのです。僕たちは、やっと借りることのできた農家の倉庫の2階で集会をひらき、約40名でデモ行進をしました。これに対して、由良の教師は、学校の入り口にピケを張ることしかできませんでした。(写真)

<生徒総会で処分の白紙撤回を求める決議をする>
 12月15日、無為無策の生徒会執行部に業をにやした7人の生徒が、ハンストに突入しました。あわてた学校側は、生徒総会を開かせることを約束しました。7人はその日の夕方には、要求を勝ち取って、ハンストを解除しました。
 12月19日、待望の生徒総会が開かれ、不当処分の実態を全校生徒に知らせることができました。その結果、処分を不当として白紙撤回を求める決議がなされました。
 その後、学校の態度は、まだ決まっていません。しかし、本当の闘争は、今始まったところだと思います。今回の処分は、東大闘争の発端となった不当処分のミニュチュア版といえるでしょう。
 今や、生徒管理に失敗した哀れな校長は、ご飯がのどを通らず、ビスケットばかり食べているそうです。もう、生徒を押さえつけることはできません。今後のなりゆきを見守ってください。
(鳥取県中部高共闘 T)


以上、「週刊アンポNo6」に掲載された記事である。
ブログ記事に関連して、ホームページに高校闘争のアジビラ2枚を掲載した。
福島県立磐城高校と福島県立磐城女子高校である。

明大全共闘・学館闘争・文連

このアジビラ見ただけでは、どういう闘争だったのかわからないので、2012年に発行された「高校紛争1969-70 闘争の歴史と証言」(中央新書:小林哲夫著)から引用する。

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『磐城高校
三里塚闘争とは、千葉県三里塚・芝山地区に建設を予定された成田空港に対する、地元農民の反対運動をいう。1966年に着工してまもなく、新左翼党派が地元農民を支援するようになった。71年9月16日には反対派による火炎ビン、投石、鉄パイプなどの襲撃で機動隊3人が死亡している。その地名から、東峰十字路事件と呼ばれる。
 71年12月4日。福島県立磐城高校では、教員60人が校内に張られたテントを次々と引き倒していく。テントにしがみつく生徒をかかえこみ、校門まで運び出した。校庭に怒号、悲鳴が響いた。
 きっかけは、9月16日の三里塚闘争に生徒5人が参加したことである。学校はこの5人に1週間から10日間の停学処分を科した。しかし、処分を受けた生徒のうち数人は登校し、処分撤回を求める集会。デモを行った。
 学校側はリーダー格の生徒(以下、リーダー)に無期停学を言い渡す。この間、全学闘争委員会(全学闘)が結成された。11月、全学闘の生徒は校内にテントを張ってハンストを行う。12月4日には校長室に乱入して大衆団交を求めた。しかし、学校はハンストを続ける生徒を退去させた。全学闘のビラは12月4日の様子をこう伝える。テントに「しがみつく生徒を蹴り上げ大勢でテントもろとも引き上げ校門までかかえこんで投げ落とすという暴挙を、信じられない程やってのけた」。
 12月6日、学校はリーダーを「正当な理由のない無断欠勤」で退学処分にした。
 リーダーはすぐに、「無断欠勤」は事実誤認、政治的思想弾圧、教員の職権乱用であるとして、福島地方裁判所に処分の撤回を求める訴訟を起こし、学校長を告訴した。72年5月、福島地裁は訴えを却下する。その理由の中には、「三里塚闘争に参加したことが欠席という所為の中に含まれているとしても、それをもって、欠席を正当化するものと認められない」(『判例時報』677)とのくだりがあった。三里塚闘争は学校が禁止している政治活動なので、正当な理由にならない、ということだ。79年に仙台高裁は福島地裁の一審判決を支持、最高裁は書類審査で却下した。
 なお、12月4日のできごとについて、福島地裁は判決理由で「学校側は実力でテントを撤去し、これにしがみつく原告らを校門外に排除した」と言及している。全学闘のビラに記された「暴挙」について、多くの生徒が目撃している。こうしたことが学校に対する不信に結びつき、これまで政治に関心がなかった生徒も運動に関わっていった。(中略)なお、退学になったリーダーは、現在いわき市議会議員を務めており、反原発運動に取り組んでいる。』

【お知らせ その1】
10・8山﨑博昭プロジェクトでは、2017年1月にベトナム・ホーチミン市のベトナム戦争証跡博物館で「日本のベトナム反戦闘争の記録」展を開催するため、クラウドファンディングを始めました。
今まで、プロジェクトの事業を進めるために、賛同人を募集し、賛同人の方からは賛同金をいただいていますが、この賛同金は、趣意書に書いてあるモニュメントの建立と記念誌発行のためのものであり、新たな企画であるベトナム戦争証跡博物館における展示の費用は含まれていません。
このベトナム戦争証跡博物館での展示にあたっては、資料の翻訳、資料のベトナムへの輸送、展示準備のためのプロジェクト代表者等のベトナムへの渡航費用など、かなりの費用が見込まれます。
そのため、今回、ベトナム戦争証跡博物館での展示のためのクラウドファンディングを始めたものです。
 クラウドファンディングの詳細は下記のアドレスからご覧いただくとともに、是非とも多くの方のご協力をお願いいたします。

【クラウドファンディングのページへGO!!】

ご協力をいただいた方には、お礼として、発起人である山本義隆氏の著書「私の1960年代」(要望に応じて自筆サイン入りも可)などを用意しています。

【お知らせ その2】
来週のブログとホームページの更新はお休みです。
次回は9月16日(金)の予定です。

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