以前、重信房子さんを支える会(関西)が発行していた「さわさわ」という冊子があった。この冊子に、重信さんが「はたちの時代」という文章を寄稿し、連載していた。「はたちの時代」は、重信さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章であるが、「さわさわ」の休刊にともない、連載も中断されていた。
この度、「さわさわ」に掲載された部分と、未発表の部分を含めて、「1960年代と私」というタイトルで私のブログで公開することになった。
目次を付けたが、文章量が多いので、第一部の各章ごとに公開していく予定である。
今回は、第一部第六章である。
なお、今回掲載の第六章は未発表のものである。

【1960年代と私*目次 重信房子】
第一部 はたちの時代
第1章 「はたちの時代」の前史として (2015.7.31掲載済)
1 私のうまれてきた時代
2 就職するということ 1964年 18歳
3 新入社員大学をめざす
第2章 1965年大学入学(19歳) (2015.10.23掲載済)
1 1965年という時代
2 大学入学
3 65年 御茶ノ水
第3章 大学時代─65年(19~20歳)(2016.1.22掲載済)
1 大学生活
2 雄弁部
3 婚約
4 デモ
5 はじめての学生大会
第4章 明大学費値上げ反対闘争(2016.5.27掲載済)
1 当時の環境
2 66年 学費値上げの情報
3 66年「7・2協定」
4 学費値上げ反対闘争に向けた準備
第5章 値上げ反対!ストライキへ(2016.9.23掲載済)
1 スト権確立・バリケード──昼間部の闘い──
2 二部(夜間部)秋の闘いへ
3 学生大会に向けて対策準備
4 学費闘争方針をめぐる学生大会
5 日共執行部否決 対案採択
第6章 大学当局との対決へ(今回掲載)
1 バリケードの中の闘い
2 大学当局との闘い
3 学費値上げ正式決定
4 裏工作
5 対立から妥協への模索
6 最後の交渉─機動隊導入
第7章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書 2・2協定
2 覚書をめぐる学生たちの動き
(以降、第2部、第3部執筆予定。)

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(写真 本校記念館前バリケード)

【1960年代と私 第一部第六章】
六 大学当局との対決へ 66年~67年
1) バリケードの中の闘い
 大学当局は私たちがスト権を確立し、バリケードを築いた頃、どんな動きをしていたのか、宮崎学生部長の本から、追ってみました。11月26目には生田校舎でも又、神田の大学院でも大学評議会の開催が学生側に阻止されて流会となっていました。30日の団交を控えていた頃です。
 先述したように、66年10月から11月の学生側の要求に対して、進歩派と言われた小出学長は学費値上げを再考していました。「どうだろうねえ、こういう状況になっては、学費値上げは、もう取りやめようじやないか」と、宮崎学生部長に切り出したのです。それに対して、宮崎先生は即座に、反対をとなえて、その考えを封殺してしまいました。
 そして、ストライキになって評議会開催が出来ないままの事態に対して、大学側は、「臨時連絡協議会」を設置したそうです。(構成は、常勤理事、一・二部教務部長と学生部長で、「その性格は、法人と大学(教学)の間の連絡・調整機関とされ、学長が中心となって運営し、学長に事故があるときは、教務担当理事が代わることとされた。」)そして、学生の昼間部夜間部のスト権確立とバリケード封鎖に対して、12月1日付で、休講を告示しました。「11月30日、記念館において、理事会と学生会の間で行われ教職員も参加した『学費問題全般』に関する話し合いは、午後9時15分ごろ学生側から、話し合いが打ちきられ引き続き一部学生は、大学を占拠する実力行使を行うに到った。午後、10時25分、学生側は、大学院、小川町校舎を除き、一号館二号館、四号館五号館七号館九号館十号館十一号館および図書館を障害物でもって封鎖して、教職員の出入りを拒否する状態に立ち到った。12月1日、学長は告示を発し大学の正規の授業を力によって妨害しないよう要望したが、学生側がこれを聞き入れないので、やむなく休講の措置をとった。昭和41年12月1日 明治大学」と告示されました。又、バリケードによって、大学構内に入れない分「昇龍館」という神田の大学近くの旅館を学生部臨時本務所兼宿舎としていたようです。ここで、学生側の昼間部全学闘争委員会の大内義男(工学部)副委員長福島英昭(経営学部)小森紀男(政経学部)書記長は菅谷俊彦、夜間部全二部共闘会議議長は酒田征夫(政経)岡田征昭書記長(研連委員長 文学部)と、コンタクトをとっていたとのことです。そして、昼間部が主導権を握っていると思われたと、宮崎先生は記しています。当初は、昼も夜も基本的に共通した学費値上げ白紙撤回を求めていたので、恒常的連絡は昼間部がとっていたのでしょう。
 私たち二部の新しい学苑会執行部は、まず民有の高橋中執との引き継ぎを求めました。当時は新執行部を認めずに、印鑑や会計なども引き継ぎを拒み妨害活動に出てくることも、私たちは想定しましたが、整然と多数決で学生大会が行われたのは衆知の事実だったので、潔く、日共側も引き継ぎに応じることになりました。
 66年に学生が管理運営権を持っていた学生会館には、これまで三階に私たち研連執行部と高橋学苑会が隣り合わせにいました。その新しい学苑会室から、日共民青系の人びとに替わって、私たちが執行する役割につきました。私たちは、民有執行部と誠実に引き継ぎを行いました。歴史的な各議案や決議、備品に学苑会の財産日録、それに会計。私は民青の財政部長から、学苑会の残高確認の上、帳簿も引き継ぎました。彼らは、バリケード封鎖に対して「学苑会民主化委員会」をつくりましたが、後に党内の中国派内部抗争で、力を失っていきました。私の知る限り民青の中心をなしていた社研は、中国との友好を訴える人びとが多かったのです。彼らは、後に活動から身を引いたのか、大学でも見かけなくなりました。
 二部の私たちの砦は、バリケード封鎖した大学の学生会館に隣接した11号館が中心でした。学生会館全体を学生が掌握していたし、その三階に神田地区の昼・夜間の執行部がいました。この執行部と別個に、学費闘争の機関をつくっていました。二部は、学苑会の他に、「全二部共闘会議」として、学費闘争を闘うことにしていました。
 当時、学校当局・学生部や学生課とはパイプもあり、私は、財政として学生課の担当と予算決議にそった預かり金(入学時、学費納入時、大学側が徴収している学生自治会費や助成金)の、受け取りなどで、頻繁にやりとりをしていました。又、大学当局の備品の使用持ち出しや教授の研究室への立ち入りは禁止し、執行部が安全管理するという方式で、昼間部がその責任を負っていました。私は二部共闘会議執行部に加わらず、学苑会の仕事に集中していたので、学館に居ることが多かったのですが、学館前の広場に面した商学部などを中心にして多くの学生が、バリケードの中に泊まり込み態勢をとっていました、夜間学生は、そこから会社に出動する人も多くいました。当時の学生やバリケードの様子を考えると、69年以降、東大闘争を経たやり方とは違っています。66年の私たちは、学生大会の決定に自らを制約されることを大切にしていました。反対派と同じ学内や学生大会で、論争しながら妥協点を見つけていくような闘い方です。学生大会などの決議機関を無視して、力の論理で占拠し闘おうとする党派的な活動体制は、全共闘運動の流れに乗って東大闘争への党派的支援の方式の中から、68年秋以降強化されたと思います。
 明大の66年の私たちのバリケードストライキ闘争は、自らがバリケードの中で、秩序を自主管理としてつくり出さなければならないという考え方に立っていました。当時の明大の政治的環境は、第一に出来たばかりの学館の管理、第二に60年代から日共系職員と党派闘争を繰り返しながらブント系が維持していた生協活動もあります。第三に再建大会途上の全学連の主力をなす明大社学問の役割。そうした社会的条件に規定されていました。
 バリケードの中の日常活動は、自主管理カリキュラムに基づいて講演会や学習会、討論会、又、サークルの発表会などが盛んに行われていました。初仕事は直ぐ貸し布団屋から、確か200程の布団を借りたのを憶えています。これらは、自治会費で支払うのですが、バリケードの中に布団をトラックで運び込んで宿泊に使うためです。その後も私の財政部長時代(66年~67年)必要に応じて、よく貸りていました。もう、値段もすっかり忘れてしまいましたが、神田にあった貸し布団屋とは、私が一番なじみだったでしょう。学館前の11号館に200の布団を運び込んでも、足りなかったと思います。
 夜間部は、夜、バリケードの入口にドラム缶で焚き火をしながら、監視門衛のローテーションを組んでいました。見回り組、他は学館前広場で大きな立て看を、いつも誰かが書いていました。又、当時は鉄筆とガリ版でビラを作り、それを一枚一枚謄写版で刷り上げる作業も、あちこちで行われていました。大学は休講でもサークル活動やその為の活動の場は、狭い部室のみならず、バリケード中の広い教室の空間で、軽音楽やジャズ研や空手まで、広々と練習出来たし、各研究部の発表会も自主講座に組み込みました。明大二部の演劇部は、GちゃんH君と、ヒッピーの始まりをつくったと称する人びとがいて、彼らも自主管理に参加し、不思議なパフオーマンスをやったり新宿西口や風月堂へと、ヒッピーを広げていくころです。唐十郎とか寺山修司が語られ、キューバのゲバラとカストロのどちらが革命的なのかを論争し、朝鮮文化研究の展示会や、ごった煮のよさがありました。民青も反対しつつ、共同しています。学館二階には、「談話室」と呼ばれるロビーのような空間があり、自動販売機も置かれてコーラとフアンタを売っていました、又、生協の食堂も学生の要求で開いていました。冬の寒い中、ジグザグデモを一日2~3回はやって、気勢をあげ、お茶の水駅で市民や店主への呼びかけやビラを撒いたりしていました。
 バリケードの中には、いろいろな人が来ていました。講演に呼ばれてその後、気に入ったと、左翼評論家で泊まり込みに加わる人もいました。近所の文化学院の学生や高校生も、バリケードの中で、人生相談に来て、居心地がよいのでずっと加わっていました。サイケ(サイケドリックから採った)と呼ばれた家出してきた高校生の少女は、バリケードの中で、抽象圓を描いては、学生たちの演説アジテーションや討論をじっと間いていました。みんな、お互いに興味を持ち、悩みを聞き合い、又、次々と当局との闘争方針を打ち立てては、交渉し又、闘争し会議する、という日々を12月から年末年始1月中ずっと続いていました。
 寒い冬、学館のプラタナスの木の下には、いつも屋台が留まっていてお金のある人はラーメンを食べることが出来ました。又、直ぐそばにスナックも、ストライキの後に開店していて、3時過ぎまでやっていました。これらは公安当局に関わりのある者たちだという噂でした。当人の一人が「公安に頼まれて情報収集している」と打ち明けたとのことです。それ以来、そうした店は、行かないようにしていました。又、お茶の水の学生会館の側の店に学生たちの主張を伝え、協力をお願いします、と訴えかけていました。おかげで、後にも、学館にガザ入れがある時には荷物を預かってくれる店もありました。
私の生活は、当時アルバイトで、2万円くらいだったのだろうと思います。当時は時代としてまだ、ズボンを履く習慣がなく、学校に泊まるようになって、スラックスを履くことがありましたが、通常はスカートでした。もちろん、ヘルメットも被りません。そんな時代です。、
当時の私は、研連の岡崎さんに替わってMLの酒田さんを推して学苑会中執の委員長に人事案をつくったように、ML派とは親しくやっていました。ところが、当時、バリケード闘争が始まると横浜国立大闘争のMさんが頻繁に明大に訪れて指図をするようになつてきました。私はこのMさんの押し付けがましさに我慢ならず、反論すると「君の意見は社学同の意見だ」と批判されたりしました。はて、社学同?そうか、私の意見って、そうなのか?レッテルを貼られて、社学同の教育政策を読みましたが、どこが同じか分かりませんでした。でも、尊大なこのMさんが嫌いで、ML派と距離を置くようになりました。

2)大学当局との闘い
こうしたバリケードの様子は、常に当局との激しいやりとりと対峙のなかにありました。
12月2日には、宮崎学生部長を先頭に、神田駿河台正門の前で、バリケードを撤去せよと、呼びかけていましたが、その時には直ぐ正門の91番教室では、「学費値上げ阻止総決起集会」が聞かれていて、二部の学苑会もバリケード闘争に入ったことで連帯の挨拶を共同して行なっていました。宮崎学生部長によると、12月2日には、臨時連絡協議会を開いたのですが、小出学長が「このような緊迫した情勢になりましたが、多数の方から意見を出して頂き、皆で円満に会議を進めていって下さい。」と挨拶されたのだそうです。それに対して、宮崎先生は「円満とか言っている湯合ではありません、まさに異常事態なのです、このような場合意見が衝突して当然です。大勢を集めればいいということではありません。秘密にわたることもあり人数をもっとしぼるべきです」と、突き上げたようです。会場はシーンとしたと、宮崎先生の話。ここでは、学費改訂を理事会は早くしたいというのに対して、学生部長は、決定は出来るだけ遅くすべしという意見であったということです。
12月3日には、全学闘争委員会の大内委員長、菅谷書記長と学生部長は大学院の木村研究室で会い、学生に必要な教務事務が行なえるように職員を立ち入らせることを確認し、立て看板を道にはみ出さないとか、机を燃やしたりしないなどを確認しています。もちろん学生自治会側は研究室を占拠したりしない点は、自主管理として徹底していました。一方、12月5日には、「学生との話し合いについて、a理事会は、当面学費改訂案発表まで学生との話し合いを続けていくが、これまでのような形式では、会わない。b理事会の意志を伝える場を持つために、学生部を通じて、理事会の希望条件を付して話し合いの申し入れを行う。その期日は、12月8日とする。 c話し合いの場については、第一案は学外の適当な場所、第二案は記念館講堂とする。d全専任教員を招集するよう措置する。一般学生への通知方法は、掲示およびビラを用いる。」などを秘密厳守で確認したとのことです。もちろん、私たち学生は、そうした動きは知りませんでした。
この12月5日には、中大でも学生大会でスト権が確立されました。私たちは、すぐ側の中大にみんなで見に行ってお互い喜びあったものでした。中大に駆けつけると、偶然中学時代のクラスメートの女性に遇いました。でも、喜んで抱き合ったのもつかの間、「あなた!味岡自治会の方ね!」と睨みつけて行ってしまいましだ。 「味岡自治会って何だろう?」その時には、わかりませんでしたが、反日共系のことを、なじっているのはわかりました。彼女は民青になっていたのでした。
12月6日には、5時から評議会が開かれる予定と聞いて学生200人が大手町の会場を占拠して、流会させました。この8日に、学生と理事会で記念会館で話会うことを決めました。ところがその後、理事会が話し合いの条件としてバリケードを正面は撤去せよ、というのを出してきたため、学生側 は、それは出来ないとこたえました。そのため、当局は朝日や読売新聞に8日話し合い中止の広告を出しました。学生側は、理事会のー方的なやり方に抗議して又、10日に記念会館団交を申し入れました。理事会と学生側は、こうして交渉や応酬を繰り返し、13日、又、大手町の会場で開かれる評議会で学費値上げ決定が緊急動機される恐れありと、再び200名が会場になだれこんで、三たび評議会を流会させました。
12月15日付の明治大学新聞は次のように書いています。
「11月24日から相次いだ和泉・生田・神田の三地区施設(大学院・小川町校舎・和泉教職員研修館を除く)の学園封鎖にともなう学生の自主管理は、その後、平穏に続き、バリケード内では、クラス、ゼミナール、サークルなどの単位による討論会。講演会(講師として福田善之(劇作家)丸山邦男(評論家)石堂淑郎(シナリオライター)津田道夫(政治学者)氏らがよばれた。)が自主的に行なわれている。また、全学闘争委員会(委員長大内義男 工3)や文連・研連なども連日集会やデモを行なっており、また執行部の交代でやや立ち遅れていた二部学生自治機構学苑会(委員長酒田征夫 政4)も、ようやく活発な動きをみせ始めた。今までのところ、学園封鎖をめぐるトラブルはみられない(中略)この間、教職員側も各教授会をもつなど事態収拾に取り組み、二、三の学部では、声明文を発表するなど、問題解決への積極的姿勢をみせている。5日には午前11時から本郷の神田中央ビルで、武田孟総長、小出学長による各紙記者会見が行われ、(1)学費値上げの基本方針は変わりない。白紙撤回は考えていない。(2)学生と主体性もって話し合ってもよい、(3)専任教員の増員と質の向上、奨学制度の拡充、課外活動の助成増加など、学生への還元を考えていると語った。一方学生側も同日5時から、駿河台学生会館の四階和室で、斎藤克彦反日共系全学連再建委員長(商4)などが出席して、各社記者と会見し重ねて、現計画の白紙撤回を要求した。席上、学生側は、記者側の質問に答えて『現在は、各大学など外部からの支援は、すべて断り明大の学生だけで闘っている。しかし、法人側が官憲を含めて、学外協力を介入させたら、われわれも外部からの支援申し入れを断らないだろう』という注目すべき発言があった」と記事で述べています。 。
 この頃、各教授会から、学園封鎖解除と理事会との話し合いを求める声明が続きます。「昭和42年度の、学費改訂は、理事会と学生会との間でとりかわされた7月2日の確約書」を尊重して、値上げ決定以前に学生と十分に話し合うこと」を、各教授会は求めていました。そして、外部介入(警察導入)を行わないように訴えています。又、田口富久治・木下信男・永田正ら進歩的な教授は、私学危機は抜本的な再検討を行うこと、又、一大学内においては解決しえないので、国庫助成運動を行うようにと、呼びかけていました。それに対して、学生側は反対し、日共系学生サークル、学部自治会のみ賛成しています。

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(写真 和泉校舎正門バリケード)

3) 学費値上げ正式決定
そして、理事会は学生側の話し合いに応じないまま、12月15日、束京プリンスホテルで、理事会を行って学費改訂を決定しました。そして夜、記者会見でそれを発表。宮崎学生部長にも、そのことは事前に伝えず、決定後、「昭和42年度以降の入学生に学費等の決定について」という文書を学生側に渡すようにと、昇龍館旅館に届けてきただけだったのです。理事会は、誠意がなく唯、学生を恐れていました。
結局、宮崎学生部長が学生会館に出向いてその決定書を、昼聞部と夜間部の大内、酒田両委員長に、学館前の路傍で渡し、値上げ決定通知を行いました。二人は、その楊でその文書に目を通した後、受領を拒否して、直ぐ文書を返却したと、宮崎学生部長は記しています。その長野国助理事長名の12月15日付の理事会の文書は、「昭和42年度以降の入学生に対する学費等の決定について」という文書です。それは、これまでの経過を自己弁護的に述べて、「やむを得ざる事情を諒らんとされんことを望んでやみません。」として別紙に、学費改訂額表を添付しています。主旨は、入学金授業料の改訂で、二部の学費は改訂しないとしています。入学金3万円を4万円に、授業料は文科系5万円を8万円に、工学部を7万円を11万5000円とするなどが記されています。このように、12月15日、理事会側は、正式に値上げを通告しました。
一方で、12月18日、記念会館で、「全日本学生自治会総連合会再建大会」行われています。「全日本学生自治会総連合会再建大会」明治大学新聞(12月29日付)では、「三派系・全学連が誕生」という書き出しで、当時の再建大会の様子が書かれています。
「今回の全日本学生自治会総連合会再建大会は、東大、早大、中大、同志社、三重大、和歌山大、広島大など35大学、171自治会が参加、『支配体制への攻撃』をテーマに徹底的な討論が展開された」としています、第1日日は17日正午から大田区区民会館、1500名。18日、2日日はバリケードの中の明大記念館。19日、最終日は再び大田区区民会館で、賛成178、反対なし、保留2(代議員182名)で可決しました。そして、21人の中執委員と、その互選によって明大からは斎藤克彦委員長と中沢満正組織部長が選出されています。こうした、全学連再建は、全国の模範として、明大学費闘争の勝利がかかっていました。冬休みを迎えつつ、バリケードは死守され、ローテーションを組んで神田地区だけで数百人の学生が泊まり込んでいました。こうして、66年は越冬闘争として、闘われて、新年を迎えます。

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(写真 生田校舎バリケード)

4)裏工作
明大学費闘争は、12月からストライキ自主管理闘争に入ったことで、丁度、再建された全学連党派の思惑も作用して、個別の大学の闘争の実情はどうあれ、非妥協性へ非妥協性へと運動が流されていく傾向にありました。
後に知ることですが、ブントは党派的利害からも、徹底抗戦で持久的に闘うことを主張し、中核派は一切の妥協を排した闘いを主張してブントの方針を批判していました。又、ML派は横国大のMら外人部隊が、明治の二部のML派を拠点として、党派的活動をしはじめました。バリケードの中の67年正月、私が財政部長をしている学苑会中執の隣の会議室を開けた時のことです。横国大のML派のMら外人部隊が中心となって赤い毛沢束語録をそれぞれが持ってお経のように唱和しているのに遭遇し、仰天してしまいました。ちょうど日本共産党は日共内の中国派との対立から、中国人留学生などの住む「善隣会館」の管理運営を巡って、暴力的対立となっていました。ML派はその「善隣会館」闘争支援から毛沢束思想に染まっていったようでした。以来、私はML派、ことにMを毛嫌いするようになりました。その分、文連や昼聞部学生会の社学同の人々とは、近しくなっていったと思います。
バリケードの自主菅垣の一方で、理事会は学生との話し合いは正門のバリケード撤去がなければ応じないとしつつ、12月15日、一方的に値上げを正式に表明しました。そして、それ以降、呼応して体育会の「学園正常化運動」も、日共民青系の「学園民主化」も、教授会の「理事会当局と学生双方の話し合い封鎖解除」も、激しくなり煮詰まっていました。
こうした中で、革命を求めて徹底的に抗戦せよというような乱暴で無責任な論理を押し付けられるように聞こえて、非党派の私達は悩みました。ノンセクトラジカルや研連、文連など昼間部執行部で話し合いました。全学生への責任を負う立場から言えば卒業したり学生たちの単位はどうするのか。白紙撤回以外の収拾はないのか?よその大学の党派介入は、当局の体育会のみならず、警察の介入をまねくのではないか?と、研連、文連など、いわば「良識派」の人々は危惧する意見提起をしていました。今からとらえると、情勢は民主的に学生大会で、収拾を諮る時が来ているのに、逆に、全学連再建大会を経て、断固非妥協に闘うという党派の競合と介入が、闘争方針をつくっていきました。このまま行けば自治も失う、というわたしたちのそんな考えは党派の者たちからみると、「学園主義」です。こうした妥協主義は日帝の帝国主義的再編に組み込まれるものだと批判されます。しかし、党派の要求通りにすすめば、権力の介入の力で学費値上げと入試は強行されてしまいます。逮捕者・退学者などを大量に出し、自治は奪われてしまうでしょう。
これまで、当局と対峙し、責任を負ってきた明大学生会中執は活路を求めていました。学生たちに責任を負わなければならない。又、一方、明大社学同のトップのものたちは、再建全学連委員長として全国的な闘いの先頭に立ちつつあり、明大の面子ある闘いの砦として、ブントの拠点として維持したかったでしょう。ブント以外の党派のものたちML派や徹底抗戦の中核派は断固主義でバリケード死守、入試粉砕まで闘うことを主張しています。今になって、当時の学生部長の考えや、資料から分かるのですが学園闘争を収拾したい、党派や外部の介入で右派や警察権力に粉砕される前に自治の場を取り戻し、妥協すべき点をみつけるべきだという勢力が、こうした12月の局面で動き出していたのでした。
私も全学意志をもって徹底抗戦することが可能なのか、悩みつついた頃です。「断固闘う」方向を問い「民主的に」学生を動員するために臨時学生大会でもやるべきか…、と考えていましたが、それ以上深い方向も考えていませんでした。私は引き維いだばかりの学苑会中執として体制を整える役割や研連のひきつぎも負っていました。
学費闘争の組織体「全二部共闘会議」には、中執の主要メンバーが中心になって構成し、私は、それに加わらずに学苑会固めの役割分担していたためでもあります。二部共闘会議議長はMLの酒田さん、副議長は研連の岡田さんもいましたが、政経学部の中核派の花田さんは、徹底抗戦派です 。全学連大会後は外部のML、中核派も来て徹底抗戦の主張が強くなっていました。
こうした時期、「裏工作」が始まったのを、2000年以降、逮捕後に当時の宮崎学生部長との話や本で知りました。右翼体育会や学生の正常化圧力の中で当時、他の党派の介入に対して自分たちブ ントの党派利害からか、又は純粋に責任感のためか個別明大の自治を守ろうとする人びとの動きです。
宮崎先生の本から「裏面工作」。が、浮かびあがってきます。宮崎学生部長によると、どのように紛争を解決していくのか先がみえなかったので、従来の学生部長経験者の先生方を昇龍館に招いて、お知恵拝借を、願ったそうです。新羅一郎、永田正、和田英雄先生らです。その中で、名案は見つからなかったのですが、新羅教授の言葉が後の宮崎先生を動かすことになったようです。「『宮崎君。戦争でもそうだけれどね。正面から向き合って対抗していたって埓はあかないんですよ。紛争のときには常に正面作戦と一緒に裏面工作を進めなくちや駄目なんだ。裏面工作やっているの』と、言うのだった。『裏面工作』?どうやって進めたらいいのだろうか?」と考えたそうです。直情径行の宮崎先生の頭にはなかった方針でしょう。その後、新羅先生が道筋をつけてくれたようで、新聞部OBのKから「先生、全学閥の大内君と会う気持ちがおありでしたら手配しますが」と、連絡があり、お茶の水駅から本郷三丁目の方の喫茶店で、始めて大内委員長と会ったとのことです。「二回めからは、千鳥ケ淵のフェアモントホテルの喫茶店。最初は情報交換で、双方ともその主張は公式見解に近いものだった。(中略)しかし、何回も話しているうちに、次第にお互いの苦労や気持ちもわかってきて、何とか打開の途はないものかと思った時、立ちはだかっている固い岩の中にわずかだが解決への可能性の細い割れ目の薄日のようなものが見えてきた。『大学をよくするために学費値上げが必要なのだよ』と言ったのに対し、大内君は『学費を上げても、大学の体質は変わらず大学は良くなりませんよ』とこたえたのだ。(中略)『それでは、学費を上げなければ大学は本当に良くなるのかね』『学費を大学の体質を変え、大学
を良くするために使用することを理事会側に確約させ、それを学生側もできるシステムにすることはできないか』」こんな風に話し合っていたようです。大学も又、迫ってくる卒業で、学校教育法による四年生の必要授業時間不足など、現実的問題が問われていました。バリケード封鎖のために卒業できない一般の学生たちに責任を持てない自治会でよいのか、大内さんも悩んでいたのでしょう。
こうして、双方の話し合いを重ねた上で「神田小川町校合の学生相談室で、予備折衝を行った。全学闘争委員会側からは大内君をはじめ、何人かの代表、学生部からも宮崎学生部長の他、副学生部長が話し合った。白紙撤回に学生は固執しつつ、妥結の方向に向かっていった。話し合いを公式の場に乗せるために1月20日に理事会と学生側が話し合うことになった。」(「雲乱れ飛ぶ」より)と書いています。

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(写真 アジビラ)

5)対立から妥結への模索
学生が学費値上げ白紙撤回を主張し入学試験阻止闘争を検討しているとして、1月に入ると、体育会の「学園封鎖抗議集会」が91番教室で開かれました。以来、理事会の動きと連動するように、学生自治会側に対抗して体育会の暴力リンチが始まりました体育会は1月14日「学園封鎖抗議集会」で宜言文を採択しました。一触即発の緊張が続いていました。理事会側が、値上げを公表してから、黒龍会の幹部と噂される右翼やくざの島岡野球部監督が動き出しました。体育会を動員して、団交でも前方座席を体育会に暴力的に振り分けるなど采配をふるい始めたのです。12月から1月にかけて、この動きが激しくなります。
1月18日に、全学闘争委員会と、学生部長による覚書きがかわされて、1月20日に記念館で、話し合いをもつことが決定されました。学生は教授たちに共闘を呼びかけました。「私たちは、教授会内の学費値上げに反対する良心的先進的教授諸氏に訴えます。腐敗・堕落した教授諸氏を弾劾し、私たちの共通の目的である『白紙撤回』獲得の為に、私だちとの固い連帯のスクラムの中で、最後まで闘って行こうではありませんか。」と。67年3月5日「朝日ジャーナル」によると、「定刻の3時間前に、記念館講堂は満員、まわり500入から1000人入れる4つの教室にはスピーカーで流したが、そこも一杯。お茶の水駅から長蛇の列、消防庁から抗議まできた。団交では、学生が教育のビジョンを要求すれば、理事会は経営の困難さを訴え議論は、かみあわない。この日もむなしく空転」と、記事になっていました。
この日は、恐怖の団交だったのです。島岡監督の指令を受けた体育会、柔遊郭や相撲部や野球部、レスリング部などが、前方座席に座る学生を暴力的に追放して、数百人分の席を占拠しました。そして、壇上で、学生側の発言が始まると「ウルセー・バカヤロー」「だまれ」などと妨害します。敗けずに学生の多数は、拍手して、壇上のみならず座席もゲバルト合戦となっています。そして、学生側も棒で徒党を組んで対抗措置をとりました。
その後、体育会側は、大学に要請文をつきつけ、「20日の記念館での混乱でおわかりになったように我々は、会場警備にあたっておりましたが学生一般及び体育会員の異常な熱気は、現状については、もはや体育会本部にしては制しきれない様になりました。この事に関し、大学側の今後とられるであろう処置についてどうお考えか、明らかにするよう要請します。1月24日 体育会本部」と、暗に警察の介入を求めています。
25日再び団交が行われましたが、600人収容の91番教室には、体育会ゲバルト部隊が集まりました。学生服の腕を白い紐で縛ってこれからのゲバルトに際して仲間同士の印をつけています。樫棒が運び込まれ、島岡監督が激を飛ばして一触即発の対峙状態でした。この時は学生会の全学闘争委員会も学苑会の全二部共闘会議も流血を避けて挑発に乗りませんでした。
再び、1月21日、26日、大内秀員長と学生部長は話し合いを持ち、打開を求めて、学生部長が個人的に「案」を提起して大内委員長も個人として、この筋でまとめていこう、と話し合ったようです。
この「案」をもとに話し合おうとしたことが、後の「2・2協定」妥結につながるものになるわけです。
その内容は、異常事態を解決するために双方努力すること。理事会は、学生の要求と話し合って、学内改善方針を67年3月までに決定すること。学費値上げ分は、別途保管して、3月方針の決定を持ってから予算計上する。それが同意されれば、1月30日から、授業再開が可能となるようにする、という内容です。
そして、「1月30日に学園が正常になった際は、報道機関を通して、大学と学生会との連名でもって、本学の新しい出発を声明するものとする」と、原案は述べています。この妥結実を、宮崎先生は「理事会側も学生側も、大筋において異論が無いようだった。ようやく、妥結への灯がほのかに見えてきたように思われた。しかし、この妥結案の内容を公開の場で確認する必要があった。学生側は、1月28日に和泉校舎で理事会側と学生側との公開の話し合いを行い、その場でこの妥結案を公表して妥結の方向にもっていきたいという意向だった。話し合いを行うことには、理事会側も同意した。朝日ジャーナル記事の中に『このころ、すでに斎藤克彦三派系全学連委員長と武田総長との間に裏交渉が進んでいた』(67年3月5日号)とある。学生部長・大内委員長の線とは、別に武田総長・斎藤委員長にも交渉があったようである。しかし、全学闘争委員会の委員長は、大内義男君であり、学生部長と大内委員長の話し合いが非公式交渉の主流であったと言ってよいだろう」と宮崎先生は書いています。
斎藤全学連にばかり目を奪われていましたが、大内さんは、学園正常化に集中していて、斉藤さんに同調していたというよりもむしろ、反発すら持っていたようです。歴史的にみると、こうして、妥結案をめぐって話し合いが行われました。大内さんの出身、工学部生田校合では、妥結を受け入れました。しかし28日和泉校舎では妥結反対の大衆団交と化していき決着が着きませんでした。決着は再び、29日、神田校舎に持ち越されました。
この宮崎・大内作成の妥結集は、各党派、ブントを含めて明大社学同批判が席捲していきました。値上げを前提としているからです。そうした中で、1月29日生田校舎ではバリケードは撤去されて、和泉では、妥結反対、神田の29日の団交は流会となりました。「学生部報・号外(1月31日付)」では、「1月29日午後4時記念館講堂で行われる予定であった学費値上げ問題についての会合(全闘委側回答をめぐる)が開かれる前に全闘委の学生たちと、体育会を中心とする学生たちとの間に乱闘が生じ、後者に13名の重傷者を含む負傷者46名を出す異常状態が現出されたので、記念館での会合は中止となった。」と述べています。二部共闘会議の学生たちが、二百数十人、棍棒ヘルメットで武装して、乱闘が行われたと、外人部隊を中心とするそれら勢力が、体育会を中心とした団交の前列に占める学生らを襲撃したと、号外は述べています。この号外では、その前段で、体育会が暴力で、座席占拠して、団交から、学生会支持の学生たちを追放した結果起こったことでしたが、それらは触れられていませんでした。
こうした、暴力流血に対し、打開にむけて理事会と学生側で湯所を移して話し合うことを学生部長の仲介で合意しました。そして、午後になって、大学院第一会議室で話し合いが持たれました これから、機動隊導入「2・2協定」に一気にすすんでしまう流れに突き進んでいきました。

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(写真 アジビラ)

6)最後の交渉一機動隊導入
流血の後、29日緊急に場を大学院に移した話し合いは、司会に宮崎学生部長と学生側長尾健。理事側:長野理事長、武田総長、小出学長他7名、全学闘争委員会:大内義男委員長、菅谷書記長他8名、全二部共闘会議:酒田征夫議長、花部利勝副議長他7名の参加です。
ここで、28日理事会提案に対して、全学生側の回答を得る場として当局は設定しました。しかし、学生側は白紙撤回を求めて 座り込み部隊300余名が、会議終結を許しません。十数時間後の30日朝、学校当局側(学部長会議)は、警察の出動を要請して、理事たちを「救出」しました。その直前までは、全学闘としても学園の正常化をしたい。次のことが認められれば、理事会提案を受け入れ授業再開のため、即時バリケードを解くというところまで合意が進みました。(1)理事会が教育・研究財政問題を根本的に解決する姿勢で努力すること、(2)値上げに関しては、実質的に白紙の状態に付しておく様希望する、というところで妥結に近づいていました。結局、「白紙撤回」という字句を認められないとするやりとりや、学生部長からの妥協案などのやりとりが続いていました。95番教室1000入、150番800入、140番1000入、各教室にはこのように、体育会を含む数千人の学生が膨れ上がって、成り行きをスビーカーで報じられつつ待っていました。1月29日夜10時前、妥結点と未解決点を確認して、会議を終えて、140番教室で学生・理事会双方が説明会を行なうことになりました。宮崎教授によると、二部の全学共闘会議と他校外人部隊が移動を阻止して缶詰状態になってしまいました。そして、「大衆団交をひらけ」「理事会は学費値上げを白紙撤回せよ」と、出室を拒否して、バリケードを築き、「つるしあげ」が延々と続きました。「機動隊がきた!」のデマで、浮き足立ったり混乱が深まって、夜が明けました。この頃学部長会議が、警察隊に30日朝7時、理事救出の要請を行なったのです。このことが会議場にも通告されました。昼間部の菅谷書記長は「退場してバリケードを再構築しよう」と、呼びかけました。それに対して二部の側が、継続を要求して対立し、昼間部は会議室から退場しました。しかし、機動隊が来ることがわかると昼間部の大内・菅谷全学闘執行部も会場に戻って、二部の学生だちとスクラムを組んで、インターナショナルを歌いながら機動隊をむかえました。大学当局は、理事救出の要請のみだったので、7時15~20分、警察機動隊は窓を破って理事を救出し、撤収しました。こうして、結局、警察の介入に結果したわけです。30日、その日すぐ透かさず、理事会の意を受け島岡監督らが中心となって体育会を動員し、バリケード撤去に動きました。そして、その日のうちに神田校舎のバリケードはすべて解除されてしまいました。その上で、『学園は理性の場であり、大学内に棍棒などの凶器を持ち込むことは、大学に対する重大な侵害行為である。ただちにこれらのものを、大学外に持ち出し、所持者および明治大学教職員学生以外の者は、ただちに学外に退去するよう命令する。1月30日 明治大学学長』『本日、明治大学のストは、学生の手によって解除されました 1月30日 明治大学長』『全学闘争委員会、全二部共闘会議の解散を命じる 明治大学長』正門に通告告知がなされました。
 こうして、学生大会によって、決定された学生の闘争機関の解散を当局が命令するという異常事態に至りました。大学当局の暴挙にはげしく対立したのは、和泉と二部の学生指導部とブンドを含む党派の外部勢力でもありました。私のようなレベルの人々も、この機動隊で、逆に闘争の継続を強く主張するようになりました。
(つづく)

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