2009年5月に連載を始めた明大全共闘クロニクル(年代記)も、いよいよ終わりに近づいてきた(No327の続きです)。前回の掲載からしばらく時間が空いたが、今回は1970年6月、70年安保闘争の月である。
明治大学新聞に70年6月15日に向けた各党派の方針が載っているので見てみよう。
【「安保の6月」スタート 方針まちまちの学生戦線 明治大学新聞1970.6.4】
『1970年の6月がスタートした。60年から、めぐりめぐって10年。「日韓」があった。そして67年第一次羽田闘争があった。佐世保、三里塚、王子、10・21新宿―諸々の闘い。東大闘争、日大闘争、大学立法粉砕に決起した全国学園闘争。だが、その後、相次ぐ機動隊導入、ロック・アウト。拠点を奪われた中での“11月決戦”。打撃。“勝利”と“敗北”の総括。そのいずれをも“冬”がおおった。立ち直りのきざしをみせた4・28ではあったが・・・。そして今、6月を十たび迎えた。
<武闘かカンパニアか>
実質的な“安保決戦”といわれた昨年の11月「佐藤訪米阻止闘争」。その打撃からまだ完全な立ち上がりをみせない反日共系各派は、足並みが揃っていない。
昨年の「6・15統一集会」は六者共闘(革共同・共産同・社労党・第四インター・ML・解放)が実現。ゲバ抜き大衆闘争を展開し、三万人以上の大結集をみたが、今年の6月は“武闘組”と“カンパニア組”真っ二つに割れている。それぞれ両者の極を行くML派と中核派の中傷合戦が展開されている。5月中に行われた集会でも、たびたび内ゲバを演じてみせてきたのもこのゆえんによる。6月14日代々木公園での「労学市民大集会」が今年の唯一の統一集会である。中核派はこの集会を「社共を上回る多数派に転化する場」として設定。“ハネ上がり”は弾圧する方針だ。これに対しMLは「カンパニアの中核は十年前のブント以下だ」として真っ向から衝突する。その上、MLはこの日、政府中枢に向けて“出撃”を決めているため、内ゲバの懸念は拭い切れない。
この14日の直前に各セクトはそれぞれ政治集会を開催し、意志一致を図る。そして、一つのヤマ場15日の行動は各派まちまち。中核が日比谷公園で「6・15記念集会」。ブントが「反帝戦線大集会」。反帝学評がこの日国会・首相官邸に向かう。
もう一つの頂点は、自然承認日の23日午前零時。各派は政治ストを予定しているだけ。頂点というよりも、70年6月安保闘争の最終日という感が強い。
各派の行動をその機関誌でみてみると、これまで街頭ゲバルト闘争の先頭に立ってきた中核派は“穏健な”見出しで「6月安保決戦の爆発的高揚を」(「前進」6月1日付)と掲げてある。それ以上に「6・12革共同大集会」が目立つ。その理由は「(6月安保決戦の)勝敗のカギは、6・12革共同大集会の圧倒的成功のいかんにかっている」からである。「6・15十周年記念」には日比谷野外音楽堂で大集会を持つが、呼びかけ文句は「音楽堂をうめ尽くせ」のみである。過激な行動を戒めて6月はカンパニア闘争で迎える方針である。6・15のほか行動スケジュールは、6・11に「二週間のゼネストに突入」する。14日には全国反戦、全国全共闘主催の「労学市民総決起集会」が代々木公園で開かれる予定。そして当日から23日まで、波状闘争を組む中で、21日から3日間、安保粉砕総力戦を展開する。
「6月決戦へ人民の総武装を」(「赤光」6月2日付)、「機動隊殲滅―首都制圧」(同6月6日付)など、激しい口調はML派。6月決戦における最過激行動を起こすと思われるのは同派であり、「6・14から10日間の死闘」と命名している。14日には代々木公園で大集会を持つが、この集会を「武装出撃拠点に」として位置づけ、大きなスペースをさいて代々木公園周辺の地図まで掲載している。その決意を「14日をカンパニアで流すことは、6月決戦を敗北に導くことにつながる」としており、昨年の11月決戦時と同じく「機動隊殲滅」を「具体的な任務」だと叫んでいる。この「機動隊殲滅」の字句が見られるのは、ML派だけであり、機動隊との衝突がかなりの規模で起こることは間違いないだろう。
(後略)』
実質的な“安保決戦”といわれた昨年の11月「佐藤訪米阻止闘争」。その打撃からまだ完全な立ち上がりをみせない反日共系各派は、足並みが揃っていない。
昨年の「6・15統一集会」は六者共闘(革共同・共産同・社労党・第四インター・ML・解放)が実現。ゲバ抜き大衆闘争を展開し、三万人以上の大結集をみたが、今年の6月は“武闘組”と“カンパニア組”真っ二つに割れている。それぞれ両者の極を行くML派と中核派の中傷合戦が展開されている。5月中に行われた集会でも、たびたび内ゲバを演じてみせてきたのもこのゆえんによる。6月14日代々木公園での「労学市民大集会」が今年の唯一の統一集会である。中核派はこの集会を「社共を上回る多数派に転化する場」として設定。“ハネ上がり”は弾圧する方針だ。これに対しMLは「カンパニアの中核は十年前のブント以下だ」として真っ向から衝突する。その上、MLはこの日、政府中枢に向けて“出撃”を決めているため、内ゲバの懸念は拭い切れない。
この14日の直前に各セクトはそれぞれ政治集会を開催し、意志一致を図る。そして、一つのヤマ場15日の行動は各派まちまち。中核が日比谷公園で「6・15記念集会」。ブントが「反帝戦線大集会」。反帝学評がこの日国会・首相官邸に向かう。
もう一つの頂点は、自然承認日の23日午前零時。各派は政治ストを予定しているだけ。頂点というよりも、70年6月安保闘争の最終日という感が強い。
各派の行動をその機関誌でみてみると、これまで街頭ゲバルト闘争の先頭に立ってきた中核派は“穏健な”見出しで「6月安保決戦の爆発的高揚を」(「前進」6月1日付)と掲げてある。それ以上に「6・12革共同大集会」が目立つ。その理由は「(6月安保決戦の)勝敗のカギは、6・12革共同大集会の圧倒的成功のいかんにかっている」からである。「6・15十周年記念」には日比谷野外音楽堂で大集会を持つが、呼びかけ文句は「音楽堂をうめ尽くせ」のみである。過激な行動を戒めて6月はカンパニア闘争で迎える方針である。6・15のほか行動スケジュールは、6・11に「二週間のゼネストに突入」する。14日には全国反戦、全国全共闘主催の「労学市民総決起集会」が代々木公園で開かれる予定。そして当日から23日まで、波状闘争を組む中で、21日から3日間、安保粉砕総力戦を展開する。
「6月決戦へ人民の総武装を」(「赤光」6月2日付)、「機動隊殲滅―首都制圧」(同6月6日付)など、激しい口調はML派。6月決戦における最過激行動を起こすと思われるのは同派であり、「6・14から10日間の死闘」と命名している。14日には代々木公園で大集会を持つが、この集会を「武装出撃拠点に」として位置づけ、大きなスペースをさいて代々木公園周辺の地図まで掲載している。その決意を「14日をカンパニアで流すことは、6月決戦を敗北に導くことにつながる」としており、昨年の11月決戦時と同じく「機動隊殲滅」を「具体的な任務」だと叫んでいる。この「機動隊殲滅」の字句が見られるのは、ML派だけであり、機動隊との衝突がかなりの規模で起こることは間違いないだろう。
(後略)』
当時の各党派機関誌があるので、いくつか写真を掲載する。

(赤光)

(前進)

(先駆)

(解放)

(戦旗)
70年4月以降、明大全共闘は、全共闘の主導権をめぐるML派とブント、反帝学評との争いにより、実質的に解体状態であった。
そのような状況の中、6月12日の夜に14日の大統一行動を控え、ML派が反帝学評にゲバルトをかけ、10数名の重軽傷者を出した。13日の和泉校舎では反帝学評とブントがピケを張りML派を阻止した。正門前には機動隊が配置され、12時からついにロックアウトになった。
この12日夜のML派による襲撃事件の詳細が明治大学新聞に掲載されている。
そのような状況の中、6月12日の夜に14日の大統一行動を控え、ML派が反帝学評にゲバルトをかけ、10数名の重軽傷者を出した。13日の和泉校舎では反帝学評とブントがピケを張りML派を阻止した。正門前には機動隊が配置され、12時からついにロックアウトになった。
この12日夜のML派による襲撃事件の詳細が明治大学新聞に掲載されている。
【真の学苑会とは ML・反帝学評襲撃 セクト発想を排し大衆的に 明治大学新聞1970.7.2】
『事件の経過を追ってみると、学苑会学生大会の前日の10日、ML派執行部は、①今年度の予算は二部文自治会、および二部政経自治会へは分配しない(約70万円の借金のためという理由)②反帝学評系を中執委員に加えない、旨を二部文学部自治会へ申し渡した。これがその発端である、
これに対し、反帝学評系は学苑会大会当日の午後5時半、問題の「対案議案書」を中執に提出した。大会が始まる直前の午後6時54分、ML派は「人事案」がもられていない旨を発したが、その場で両派折衝した結果、大会途中に提出してよい事を確認した。
大会が開始され、議事に入ろうとした時、議長の桜田健君(Ⅱ文四年)が「大会開始前に“対案議案書”が提出されているはずであるから、まずその事案を報告してもらいたい」旨を発言した。その後は次のとおりである。
『事件の経過を追ってみると、学苑会学生大会の前日の10日、ML派執行部は、①今年度の予算は二部文自治会、および二部政経自治会へは分配しない(約70万円の借金のためという理由)②反帝学評系を中執委員に加えない、旨を二部文学部自治会へ申し渡した。これがその発端である、
これに対し、反帝学評系は学苑会大会当日の午後5時半、問題の「対案議案書」を中執に提出した。大会が始まる直前の午後6時54分、ML派は「人事案」がもられていない旨を発したが、その場で両派折衝した結果、大会途中に提出してよい事を確認した。
大会が開始され、議事に入ろうとした時、議長の桜田健君(Ⅱ文四年)が「大会開始前に“対案議案書”が提出されているはずであるから、まずその事案を報告してもらいたい」旨を発言した。その後は次のとおりである。
資格審査委員長が対案に関する経過報告、および「人事案が出されていないので受理しない」と発言。
会場から「人事案については大会途中に提出してよいと言ったではないか」の声。
15分休憩。
桜田議長降壇。
本間中執副委員長「人事案が欠けているので、対案として認められない」ことを表明。
議事進行。経過報告。総括。
一代議員が対案書に対するその後の取り扱いについて質問。
中島資格審査委員長が答弁。
「審査委員6名中、受理3名、受理しない3名のため、委員会で断は下せない」
9時半、二度目の休憩。
再開、9時50分。採決に決まり、議場を閉場。
採決の結果は受理64名、受理しない14名で、対案書を取り上げることに決定。
会場から「人事案については大会途中に提出してよいと言ったではないか」の声。
15分休憩。
桜田議長降壇。
本間中執副委員長「人事案が欠けているので、対案として認められない」ことを表明。
議事進行。経過報告。総括。
一代議員が対案書に対するその後の取り扱いについて質問。
中島資格審査委員長が答弁。
「審査委員6名中、受理3名、受理しない3名のため、委員会で断は下せない」
9時半、二度目の休憩。
再開、9時50分。採決に決まり、議場を閉場。
採決の結果は受理64名、受理しない14名で、対案書を取り上げることに決定。
以上が大会のあらましの経緯である。
そして翌12日、ML派の襲撃模様は次の通り。
そして翌12日、ML派の襲撃模様は次の通り。
午後6時ごろ、Ⅱ文自、Ⅱ文闘、Ⅱ部文芸1年、Ⅱ部仏文1年およびⅡ法闘の約20人の学生が、五号館地下二階の学生控室で、当日の継続大会に向け参加態度を協議していた。そこへ、ヘルメット、竹ザオ、角材、チェーン、コーラビンで武装した他大学生を含む約30人のML派学生がなぐり込んだ。その場に居合わせた学生の話によると、Ⅱ文自治会執行部、対案書を提出した者は、特にネラわれたふしがあるという。その結果、内臓破裂のおそれがある者を含む重軽傷者十数人を出し救急車で近くの病院に運び込まれた。

6月12日の反帝学評に対する「ML派襲撃事件」はショッキングだった。最近、本学で発生した内ゲバの中でも特筆すべきものである。学費闘争時の昭和41年12月、ML派は民青系から学苑会中執をとって代わった。以来、反日共系と民青系との攻防はいくたびかくり返されてきたが、この事件は、はじめて学苑会中執をめぐる反日共系同士の抗争である。
ML派が握る学苑会といっても、実はML派が学苑会中執の委員をすべて独占している訳ではない。「反民青」で一致しているML派、反帝学評(Ⅱ文自)、反帝戦線(Ⅱ政経自)が統一し、それぞれポストを分け合ってきた“仲間”である。ただ、中執委員長はその中でも“力”のあるML派から輩出してきた。
今回の事態は、反帝学評が提出した“対案書”の問題がML派にとって不利な展望をみせたからであると、一般的には推測されている。反帝学評がなぜ、対案書を提出したのか。それは別述の通り、予算配分問題と中執人事が原因であろう。しかし、なぜ、ML派が突然中執委員を独占しようとしたのか。その真意は定かではない。中執委員独占とはもちろん学苑会完全支配を意味する。
襲撃事件の余波は、今のところML派にとって、“悪しき状況”が続いている。五号館で暴行を受けた中にはノンセクトの学生もいたことから、反帝学評を中心に「反ML」で固まっている。
ML派が襲撃事件に関する見解を出しているので、みてみよう。
「ML派に対する疑問に答える」-学生大会流会の原因と批判的克服のためにーというビラである。
まず最初に「大会開催不能に至らしめたことを素直におわびします」と謝罪している。「対案書」については次のようにいっている。「“対案”なるものは執行部の提起してきた運動を全面的に否定したときに初めて出されるものである。だから彼ら(反帝学評)が対案書を提出したことは、彼ら自身も参加している中執、自らも展開してきた運動をも否定している。また、全二部共闘に対する全面的敵対行為として、このこと(対案書提出)をとらえたが故に、翌12日われわれのゲバルト行使があったのである。」と、対案書提出敵対論をとっている。また、対案書の内容についても「たとえるならば民青の運動の現実的展開が全面的反革命として登場した時、討論以前に暴力的敵対が不可避とされたように、学苑会中執および二部共闘の一切の運動に対する全面対決としてあった」としている。
対案書が本来執行部に対する全面的敵対行為としてあるものであるというが、例えばML派の出してきた予算、中執の独占問題は、反帝学評にしてみれば、同じように全面的敵対行為としてうつったことだろう。対案書はすべて敵対行為であると判断し、切り捨てようとする行為は、二部全学生を代表しその運動を領導すべき学苑会執行としては早計すぎた感がある。
ML派が中執人事をうむをいわせず独占しようとしたこと、その故の全面敵対と全面敵対―おそろしくセクト主義的発想であるとみられても仕方がない。そしてつまるところ止揚していくための党派闘争ではなく、主導権を握るための派閥抗争である。しかし、そこには学生大衆の黙殺がある。学苑会とは学生を土台にしてはじめて成立つものであって、決してセクトの主導権争いの場ではないはずである。
一方、反帝学評は翌12日、ただちに全学連(石橋興一委員長)の「緊急声明」「大衆運動の敵対者MLを放逐せよ!」を発した。
「ML派に対し、階級闘争の道義性に基づいて自己批判を要求する。応じない場合は断固たる措置をとると同時に、全国全共闘からそして階級闘争の全戦線から放逐するであろう」と激しく自己批判を迫り、さらに「党派としての明確な自己批判と治療費その他全額支払いがなされない限り、共闘することはありえない」とし、「ML同盟と学生解放戦線に対しての自己批判要求を緊急に声明しその活動を開始する」と結んでいる。
このことは今度の襲撃事件が明大学苑会内部だけに留まらず、全国的な反帝学評対MLの抗争に発展していく可能性を秘めている。
これらの問題は、表面的には当然学苑会の主導権をめぐる争い、現在の状況を踏まえればつまり反帝学評が学苑会をトレるか、トレないかに絞られてくると思うが、それに向けて、再びゲバルト行使の危険もある。問題はそれだけに終始してよい性質の問題ではないのではないか。いかにして、それを運動発展のバネにするのか。昨年6月、バリストに突入してから、本学の本質的な問題は果たして好転したか?否である。学苑会とは全学生を領導するものである。故に、本学の問題と取り組み、個別学園闘争を徹底的に闘う中から運動を創り上げるものが真の学苑会というものであろう。』
ML派が握る学苑会といっても、実はML派が学苑会中執の委員をすべて独占している訳ではない。「反民青」で一致しているML派、反帝学評(Ⅱ文自)、反帝戦線(Ⅱ政経自)が統一し、それぞれポストを分け合ってきた“仲間”である。ただ、中執委員長はその中でも“力”のあるML派から輩出してきた。
今回の事態は、反帝学評が提出した“対案書”の問題がML派にとって不利な展望をみせたからであると、一般的には推測されている。反帝学評がなぜ、対案書を提出したのか。それは別述の通り、予算配分問題と中執人事が原因であろう。しかし、なぜ、ML派が突然中執委員を独占しようとしたのか。その真意は定かではない。中執委員独占とはもちろん学苑会完全支配を意味する。
襲撃事件の余波は、今のところML派にとって、“悪しき状況”が続いている。五号館で暴行を受けた中にはノンセクトの学生もいたことから、反帝学評を中心に「反ML」で固まっている。
ML派が襲撃事件に関する見解を出しているので、みてみよう。
「ML派に対する疑問に答える」-学生大会流会の原因と批判的克服のためにーというビラである。
まず最初に「大会開催不能に至らしめたことを素直におわびします」と謝罪している。「対案書」については次のようにいっている。「“対案”なるものは執行部の提起してきた運動を全面的に否定したときに初めて出されるものである。だから彼ら(反帝学評)が対案書を提出したことは、彼ら自身も参加している中執、自らも展開してきた運動をも否定している。また、全二部共闘に対する全面的敵対行為として、このこと(対案書提出)をとらえたが故に、翌12日われわれのゲバルト行使があったのである。」と、対案書提出敵対論をとっている。また、対案書の内容についても「たとえるならば民青の運動の現実的展開が全面的反革命として登場した時、討論以前に暴力的敵対が不可避とされたように、学苑会中執および二部共闘の一切の運動に対する全面対決としてあった」としている。
対案書が本来執行部に対する全面的敵対行為としてあるものであるというが、例えばML派の出してきた予算、中執の独占問題は、反帝学評にしてみれば、同じように全面的敵対行為としてうつったことだろう。対案書はすべて敵対行為であると判断し、切り捨てようとする行為は、二部全学生を代表しその運動を領導すべき学苑会執行としては早計すぎた感がある。
ML派が中執人事をうむをいわせず独占しようとしたこと、その故の全面敵対と全面敵対―おそろしくセクト主義的発想であるとみられても仕方がない。そしてつまるところ止揚していくための党派闘争ではなく、主導権を握るための派閥抗争である。しかし、そこには学生大衆の黙殺がある。学苑会とは学生を土台にしてはじめて成立つものであって、決してセクトの主導権争いの場ではないはずである。
一方、反帝学評は翌12日、ただちに全学連(石橋興一委員長)の「緊急声明」「大衆運動の敵対者MLを放逐せよ!」を発した。
「ML派に対し、階級闘争の道義性に基づいて自己批判を要求する。応じない場合は断固たる措置をとると同時に、全国全共闘からそして階級闘争の全戦線から放逐するであろう」と激しく自己批判を迫り、さらに「党派としての明確な自己批判と治療費その他全額支払いがなされない限り、共闘することはありえない」とし、「ML同盟と学生解放戦線に対しての自己批判要求を緊急に声明しその活動を開始する」と結んでいる。
このことは今度の襲撃事件が明大学苑会内部だけに留まらず、全国的な反帝学評対MLの抗争に発展していく可能性を秘めている。
これらの問題は、表面的には当然学苑会の主導権をめぐる争い、現在の状況を踏まえればつまり反帝学評が学苑会をトレるか、トレないかに絞られてくると思うが、それに向けて、再びゲバルト行使の危険もある。問題はそれだけに終始してよい性質の問題ではないのではないか。いかにして、それを運動発展のバネにするのか。昨年6月、バリストに突入してから、本学の本質的な問題は果たして好転したか?否である。学苑会とは全学生を領導するものである。故に、本学の問題と取り組み、個別学園闘争を徹底的に闘う中から運動を創り上げるものが真の学苑会というものであろう。』
この内ゲバの翌日、13日には日大全共闘を中心とした集会が開かれた。この集会の記事が朝日新聞に掲載されている。
【日大集会に千五百人 朝日新聞 1970.6.14】
『日大全共闘などノンセクトの学生を中心とした「安保フンサイ、アウシュビッツ解体連帯集会」が13日午後、東京・文京区後楽園の礫川公園で開かれた。同大はじめ法大、東大、明大などの学生約千五百人(警視庁調べ)が参加。はじめに大学ごとに集会を開き、日大の集会では秋田明大日大全共闘議長が「日大における古田体制による弾圧のようなアウシュビッツ化は全国の学園でも見られる。一人一人が自立した闘いを展開しよう」と呼びかけた。その後、全体集会が開かれ、各大学の代表があいさつした。
午後6時半からデモにうつり、淡路公園まで約2キロを行進した。途中、デモ隊から噴霧式殺虫剤のカンが10個近く投げられたが、大きな混乱はなく、同8時すぎに解散した。この間、機動隊との小ぜり合いで3人が公務執行妨害現行犯で逮捕された。』
この集会には私は参加していないが、明大新聞のY記者が参加し、記事を書いている。参加者の視点からの記事である。

【ノンセクト独自に集会 日大全共闘ら二千人 明治大学新聞1970.6.18】
『「反安保6・14新左翼共同行動」を前にした13日、「日大アウシュビッツ体制粉砕・反安保」集会が礫川公園で4時頃から行われた。この日の集会は日大全共闘を始めとする、ノンセクト独自の集会としてもたれた。若干のセクトのヘルは見えながらも、完全なノンセクトのみの集会であり、こうしたノンセクト独自の集会ははじめてであった。
各大学代表のアジテーションは「これまでのセクトの囲い込みによる全共闘運動、そして個別闘争をおろそかにし、政治闘争至上主義的に闘いを進めるセクトの闘争」を批判し、「ノンセクトによる、独自の自立した運動を、個別闘争を徹底的に闘う中から、「安保体制」権力総体に向けた闘争を展開しよう」という発言に貫かれていた。結集した約三千人の学生は。いつものようなヤジもなく聞きいっていた。
集会を終えたデモ隊は、道路いっぱいにジグザグデモを繰り返し、後楽園を過ぎる頃、先頭を行く日大全共闘は大隊列を組み、一歩一歩大地を踏みつけるように進んだ。めずらしくも機動隊の規制もなく進んだデモ隊に、中央線水道橋駅の架橋を抜ける頃、機動隊がおどりかかり、隊列を縮めようとする。しかしガッチリと組まれた隊列は容易に崩れない。それでも日大経済学部校舎前を通る頃、機動隊の必死の攻撃に隊列は崩された。押し付ける機動隊、ガードレールから転がり出るデモ隊、それでも隊列を組み直し、最先頭が機動隊の大楯にヘルメットをつけると、歩道を埋めた学生がいっきに歩道から飛び出し、デモの隊列を横から押す。今までに見られなかった、歩道の援護部隊とデモ隊の一体となった戦闘的なデモが展開された。また途中、どこから投げつけたのだろうか、バクチクの音とともに煙がたち、バルサンの臭いが漂い、解散地点の淡路公園まで数発が機動隊に投げこまれた。
最近の集会にみられるノンセクトの“量”の拡大には目をみはるものがある。しかし、現在的にはまだ多くが単なるノンセクトの位置にしかとどまりえず、独自に、主体的に運動を展開することは少なかった。そうした時、はじめてノンセクト独自の集会をもったことは、ノンセクト運動として主体的な自立した運動を展開していくであろうことを予感させた。』
6月も前半が終り、いよいよ後半6月14日、15日へと突入していく。
(次回へ続く)
【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は6月9日(金)に更新予定です。