野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2017年06月

2009年5月に連載を始めた明大全共闘クロニクル(年代記)も、8年間連載を続けてきたが、今回が最終章である。
1970年6月14日と15日が過ぎ、70年安保闘争の最終日、6月23日を控えて、大学当局は突如として6月18日から23日までの全学ロックアウトを行った。
全学ロックアウトとなったため、私は6月20日から22日まで法政大学にいた。高校時代の友人が法政大学にいたため、高校時代の仲間のグループとともに、そこで23日に向けた準備など行っていた。
明大新聞に全学ロックアウトになった6月18日の記事が掲載されているので見てみよう。この日は、私は新聞の告知でロックアウトを知ったが、大学へは行っていない。

【抜き打ちロック・アウト 内ゲバ理由に18日から6日間 明治大学新聞 1970.6.18】
『18日、大学当局は「6月18日(木)より23日(火)まで全学休校とし、各校舎出入口は閉鎖します。詳細はテレホンサービスで承知願います」の新聞広告と掲示によってまったく突然にロック・アウトを行った。
それと知らず登校した学生はその告示板と「最近、学内外で他大学生を含む一部分の学生の暴力行為、業務妨害等が頻発している状況にかんがみ・・・」という告示によって、締め出された。
こうした大学当局のロック・アウトに対し、本校、和泉、生田各地区においてつめかけた学生の抗議集会が開かれた。和泉地区では1,000人近くの学生が集まり、ベ平連、反帝学評、MLなどを中心として弾劾集会を開き、11時30分頃正門の鉄扉を実力で解除した。しかし、かけつけた機動隊に排除され、5名が公務執行妨害で逮捕、1名が救急車で運ばれた。

イメージ 1

一方、生田校舎では、正門はロックアウトしたものの、生田寮側から学生が続々と登校し、9時頃約200人の学生が、高木工学部長を囲み追求集会を行い、12時頃集会を終えた。
 また本校では5時頃から抗議集会やデモ行進が行われた。

イメージ 2

(解説)
このような事態について大学当局はロックアウトの理由を「学生諸君へ」の文章で「最近『安保』の自動延長をめぐり、学内において一部学生の過激な行動と、学生各セクト間の主導権争いによる暴力行為が頻発」ということをあげている。しかしながら、それが決して「『安保』の自動延長をめぐった」問題ではなかったことは明らかといえる。その点において18日から23日までのロックアウトはいかに考えようとも不可解という声が強い。また、15日の生田における「寮闘委」の学生による生田学生課長などに対する「団交」要求を迫ったこともあげているが、これにしても、これは寮闘争の一環であり、そうしたところからは、そのような期間は出てこない。さらには18日における「寮闘委」の学部長会議への抗議行動にしてみても、それはすでに学部長会議で決定ずみであったといううわさもあり、またそれが事実でないにしろロックアウトの理由として掲げられることは基本的におかしいとみられる。
 このようにみてくると、大学当局の「ロックアウト」それも18日から23日までという期間はなんら納得のいかぬものであるばかりか、明らかに「6月安保」を機に盛りあがる「反安保」運動への弾圧であり、圧殺であるといわれてもしかたがない。大学当局が常にいう「力の論理」を認めぬという態度が、はしなくも今度の「ロックアウト」措置によって、自ら「力の論理」をもってしか臨んでいないことを露呈したとみるむきが多い。そして学生間に強い不信感を残したことは事実である。』

【薄れた大学側の警察アレルギー  6・17和泉の混乱から  明治大学新聞 1970.6.25】
<“オレ達の大学だ” 排除される学生に当局不信>
〇本学連合教授会は大学の自治と教育・研究の自由を守る観点から、新次官通達に対してつぎのような疑念と憤満とを表明するものである・・・(略)・・しかるに、当局の単なる治安対策的な大学紛争処理の在り方は、真の解決にすこしも役立たないばかりか、大学問題の自主的解決を阻害するものである。大学に対する教育上の配慮と判断とを無視した警察当局の、一方的な判断を優先させることによって学内に警察権のほしいままな行使を許すような事態になれば、もはや大学はその本来の機能を主体的に果たしえなくなる・・・(略)・・(昭和43年4月25日「連合教授会声明」)
〇われわれは今日の大学問題が単なる治安面の学生対策によって解決されとは考えない。治安当局の大学介入はかえって学内をいっそう混乱におとし入れ、激動する大学内の秩序をさらに収拾できないものにすることを強く憂うものである・・・。(同日「学長声明」)
 『約1年前、大学側は別掲のような見解を表明、警察権力の大学介入に反対の意向を強調してきた。ところが、昨秋の機動隊導入、ロックアウト以来、うって変わってコトあるごとに機動隊要請が行われ、今では警察と大学との癒着を疑われるほど、憂慮すべき事態であることは否定できない。学内秩序の維持を理由にした予備検査的な警察権力の要請・介入は、一面で学生自治への挑戦と化している・・。
 6月18日の全学ロックアウト突入の際の和泉での混乱を見るなかから、学生の間につのってきた大学当局への不信感をさぐってみよう。
 
 6月23日の安保条約の固定期限切れの迫った18日、本学は突如、6日間に及ぶ全学ロックアウトという事態に突入した。これは警察側から、都内の主な大学に対して発した、ロックアウト要請があったことからして、あらかじめ予想されていたとはいえ、6月安保決戦の第一のヤマ場であった14日、15日を大学当局は看過してきただけに、余りにも突然で不意を突かれたとの声が強かった。当日は、本校、生田が比較的平穏だったものの、和泉地区はロックアウト糾弾の声でうずまった。
 この日は早朝から、ロック・アウトの新聞広告を知ってか知らずか登校した学生が京王線・明大前駅周辺や固く閉ざされた和泉校舎の正門前に集まった。その数、数百名。
 「最近、学内外で他大学を含む一部学生の暴力行為・業務妨害が頻発している状況にかんがみ」
 -と叫ぶスピーカーからの声。これをロック・アウトの理由だとすると当局側には、説得力は感じられなかった。というより論理以前の問題として、あまりにもその言葉は冷たく聞こえた。「声の姿は見えず、機械的に同じことを繰り返すその言葉に、当局と学生との間の目に見えない断層があった」とある学生が言った。
 また、そのロック・アウトの論理にしても、本校地区で12日に起きた学生解放戦線のノンセクト学生を含めた反帝学評系学生に対する襲撃事件にからんだ予防措置としているが、これにも批判が多い。田代新寮闘争委員長は「生田の場合、その事件とは関係ない」としており、和泉においても「本校で内ゲバなり、寮生が押しかけたからといって、それを理由に和泉もロック・アウトにするのはおかしい」という声が強かった。
 また、安保固定期限切れの23日に向けて法学部2年14組が11日からスト入りしたのをはじめ、相次いでクラス単位の運動が盛り上がりを見せ、本校でも二政経1年8組、二政経3年7組など個別的にクラス・ストを行ってきたところが多かった。学生会中執の力量不足など全学的なマトメ役に欠けていただけに、その価値は大きいものがあった。「われわれのクラス運動の圧殺でしかな」(法2年)とブチまけていたのが印象的であった。
 11時半。正門をこじあけたとたん、ドッとあたりにいた学生が校舎内に乱入した。ヘルメットの学生はそれほど多くはなかった。“喜び”と唐突さのために、興奮気味でデモ行進する学生。いわゆる“一般学生”といわれる部分もかなりを占めている。それをただ冷たく見守る教職員。そこには対話はなかった。

イメージ 3

 ただちに機動隊が要請された。正門横に座り込んだ学生数十名と、それを取り巻く学生。いかめしい乱闘服にジュラルミンの楯で警告もそこそこに排除に乗りだした。座り込みの指導者は、間髪をいれず逮捕され、無抵抗の学生は楯で押しやられた。正門から10メートルくらいのところまで有無を言わさず学生を蹴散らした機動隊。このところ頻繁になった機動隊要請だが、この日の排除は強硬で、一般学生を遠く押しやることでヘルメット学生と分断し、機動隊はヘルメット学生を取り囲み楯で押しまくった。「ここは俺達の大学だ」と誰かが叫んだ。

イメージ 4

 -「学生のゲバルトを政治ゲバルトで押さえようとする大学弾圧立法が成立した」(本紙44年8月14日付号・木下理事の話)
 -「機動隊など外部の力の導入などに関しては、今のところ白紙である。そういうことをできるだけしたくはないしまた避けたい。警官隊を入れてまで抗議をしたいとは思わない。それは真の解決にはならないからだ。それは学生と大学とのミゾをますます深めるもとであり、一番好ましくない姿である。「(本紙44年10月11日付号・中川学長の話)
 -かたくなに警察権力の介入に批判的だった大学当局。各大学に機動隊導入の相次ぐなか、徐々に警察アレルギーは薄れていった。
 完全に機動隊に制圧された和泉校舎一帯。正門前には、機動隊放水車がドッカと腰をすえ、その周りで隊員が冷厳に蹴散らされた学生と対峙していた。
 高姿勢な機動隊の警備に、一人の学生が声を震わせながら叫んだ。
 「皆んな見たか。これが大学の姿なんだー」
 学生の排除されるのを目のあたりに見ながら、校舎内にいた教職員が、ただ正門の黒いトビラをしめるだけだった。』
6月23日、70年安保闘争最終日、この日のデモは日比谷公園まで3時間以上かかった。途中の衝突の影響で催涙ガスがデモコースの各所に充満し、眼が痛かった。
6月23日の記事が明大新聞に掲載されてるので見てみよう。

【6月反安保闘争の終焉6・23  明治大学新聞 1970.6.25】
『―全国全共闘のセクト野合を越え 全共闘運動の原点へ たとえ権力の壁は厚くともー
<闘いはやまず>
 23日、その前日「日米安全保障条約」はその固定期限が切れた。そしてこの日から<国民>の意志さえまったく無視した形で、302議席という数にのみ依拠した佐藤内閣によって自動延長された。
 この日、全国全共闘、全国反戦共催による「6・23労学市民大統一集会」が明治公園で開かれた。3時頃からつめかけた学生、旗の波は次第に広がり、反戦労働者がつめかける頃、公園の中は身動きできないほど埋めつくされた。その中で、権力との直接対峙をよそに、戦旗対叛旗、ML対フロントなどの内ゲバがありながらも、7時頃、約5万人の参加者を結集し、統一集会は成田空港三里塚反対同盟青行隊長の「反安保体制、階級闘争」へむけたアピールから開始された。

イメージ 5

 68.69年にわたって全国的に展開された学園闘争は、70年に至って強権的な大学当局によってあらゆる闘争は締め出され、大学当局のいう<一般学生>さえもが行き場を失った。この日も多くのノンヘル、ノンセクトの学生もつめかけたのだが、全国全共闘のアピールはこれまでの各大学代表のアピールという慣例を破って各セクトのアピールに終わった。これは全国全共闘がセクトの野合でしかなかったことを、計らずも露呈してしまった。このことは大きく問題にされねばならない。
 今野反戦青年委員会世話人の決意表明採択を最後に集会を終えたデモ隊は、街頭へ繰り出した。先の14日、鉄パイプで武装登場したMLはこの日、鉄パイプにかわって竹竿の武装で参加していたのだが、青山絵画館前付近で機動隊と対峙する頃には、片手に鉄パイプ、もう一方の手には火炎ビンで武装されていた。その数200人ほどだろうか。阻止戦を張る機動隊に一斉に火炎ビン攻勢。退却する機動隊、退却から攻撃。鉄パイプで応戦するデモ隊。攻撃から退却。水平撃ちのガス銃が連続火花のように火を吹き、鈍い音が続く。
 まもなく、わずかに衝突の跡をとどめるだけの場所を何事もなかったように後から後から機動隊を睨みつけるようにデモ隊がジグザグデモを繰りかえしていった。いつもは五列の隊列を余儀なくされるデモ隊は機動隊の壁を押し押し隊列の幅を広げる。デモコースはいつになく長かった。どこまでいっても裏通り、裏通りを抜けて待ち構えるのは機動隊、あらゆるところで小ぜりあいが続き、そして衝突の跡は生々しく残されていった。その中でけがをした学生の手当をする、白ダスキに黒く「6・23救援会」と染め抜いた30,40才くらいの“オバサン達”の姿が脳裏にやきついた。
 デモ隊が国会の南通用門をさしかかる頃、装甲車は幾重にも並べられ、ビデオ車から伸びたカメラがその中から顔をのぞかせ、サーチライトがまぶしくデモ隊の姿を浮かびあがらせる。遠くに国会議事堂が無表情に見えるだけ。「安保粉砕・闘争勝利」のシュプレヒコールが一層高く、デモ隊の装甲車を蹴る鈍い音だけが響きわたった。

イメージ 6

<唯一の安保スト>
 その頃、1日以来「連日デモ」を敢行してきたベ平連は、この日も清水谷公園に結集した。その数1万5千人(主催者発表)にのぼり、デモが出発した後、さらに1万人の追加発表がなされるという、まさに前代未聞の“異常”事態となった。
 一方、6月安保ゼネストを掲げた総評は2月頃に至り、当初のゼネストを放棄し、5月1日のメーデ-にいたっては、同盟の右翼的分裂策動におびえ「統一集会」というなんら内実なきものを守るため「反安保」のスローガンさえ下した。そうした既成労組を乗り越えて、この日の早朝、動力車労組の労働者によって“安保スト”が革マル派の学生の支援による「労学共闘」によって勝取られていた。
 だがそうしたことをよそに、代々木公園では社共の「1日共闘」などというまことに形ばかり「中央大集会」が22万人(主催者発表)を集めて、アコーディオンの調べにのって行われたのである。

イメージ 7

<衝突・討論>
 全国全共闘と全国反戦のデモの解散地点日比谷公園の入口では、デモが到着するごとにデモ隊と機動隊の激しい衝突が繰り返されていた。入口付近は催涙ガスが充満し、一見モヤでもかかっているかのよう。しばらくはデモ隊と機動隊の一進一退が続く。だが機動隊が攻撃に出る度に次第に公園の中へと入り込んでくる。デモ隊は退却する機動隊員1人を捕まえた。「ヤレ、ヤレ」と叫ぶ者。「ヤメロ。ヤメロ」と叫ぶ者。いつも抑圧され、弾圧され屈辱を強いられているのだが・・・。「ヤメロ」と言った学生なのだろうか、気を失った機動隊を大楯に乗せて機動隊の待機することろまで運んで行った。それから間もなく、機動隊は公園内までガス銃を撃ち、乱入してきた。公園内までもが機動隊の解放区と化してしまった。
 催涙ガスの炸裂する中で、近くにガス銃の連続音と機動隊のウナリ声を聞きながら、まだ集会を続行する黒ヘルの部隊があった。まわりには散り散りになった仲間を探す姿がチラホホラ見えるだけ。「自由連合」と書かれた黒旗を囲む黒ヘルの部隊は終電近くまで、一人、一人の発言を求めながら総括集会を続けていた。
 日比谷公園にデモ隊の姿がなくなった頃、べ平連のデモ隊は、全国全共闘、全国反戦デモ隊と交差して分断されたため、最後尾はまだデモを続けていたのであった。そのデモが終着点に着く頃には、すでに終電車はなくなり、はからずも徹夜デモンストレーションとなった。
 6・23だろうと、「安保」だろうと、変わることなく輝き続ける銀座のネオン街に、異変が生じたのであった。“金と権威”の銀座は、金もなく名もない若者の夜の街となったのであった。
<70年代闘争へ>
 こうして6月23日は終わった。そして70年の6月は終わろうとしている。この日を最後に6月には大きな街頭闘争はもうないだろう。だが、まだベ平連の「連日デモ」は続く。いつまで続くのか。ベ平連の運動自体にはそれなりの問題点なり、限界性はあるのだが、しかし、ユニークな運動は否定しがたく、とどまるところを知らない。
 70年6月が終わっても「安保体制」は依然として変わりなく存在し、ますます重くのしかかってくるであろう。街頭へ、街頭へと出てきた学生も、労働者も、学園へ、職場へ戻っていく。学園ではこれまで学園闘争で提起された問題はなんら解決されることなく存在し、それ以上に、ロックアウト体制なるものをもって、闘争を圧殺せんとしている。職場においても合理化攻勢はとどまることはないであろう。権力の壁は厚くあまりにも強大ではあるが、それだからこそ一層、今、それぞれの学園で、職場で、地域で根底的な闘いを、個人の“主体性”と“自発性”の中から創出していかねばならない。
 全国全共闘がセクトの野合でしかなかったことを露呈してしまった現在、日大、東大闘争によって創出された「全共闘運動」そのものを再度見つめ直す中でしか、70年6月を70年代闘争の出発点とすることはできないのではないか。
 この日はこれまで叫ばれてきた「労学共闘」が実質的に動力車労組において実現された。こうした「労学共闘」、そして三里塚における「労濃学共闘」もすでに実現されている。こうした闘いの環をさらに推し進めることによって、70年代闘争の展望は開けてくるのではないか。』

70年安保闘争は終わった。
この6月23日以降、明大和泉校舎は旗もなく笛の音も聞こえない状況がしばらく続いた。学内デモをしても2桁は集まらず、旗もちとデモ指揮を除くと、隊列が2名で3列という時もあった。このような停滞した局面は、70年12月まで続いた。
全共闘に結集した学生は、最盛期には2,000名(中心的な学生は約500名)もいたが、70年安保闘争の終焉の機に活動から遠ざかって行った学生も多く、活動を続ける学生は減った。だが、数は減っても、生協の総代選挙、自治会の選挙、学生大会と合法的な機関を再び学生の手に握る活動が開始された。
また、学生会館は自主管理で開いてはいたが、ロックアウト体制ということで、館内に電気やスチーム暖房が入っておらず。冬が近づくにつれてサークルの学生たちの不満が募っていった。
そこで学生会館運営委員会では「学館に電気を入れろ!」という集会とデモをやったところ、100名近くのサークル員が集まった。それに驚いたのか、学校当局はすぐに電気を入れた。
そんなことを繰り返しながら、徐々に学内での体制を立て直して行っていった。
明大全共闘は消滅したが、全共闘運動の遺産を引き継いで、新たな闘いは続いていく。
「明大全共闘クロニクル」は今回で終了となるが、今後、ポスト全共闘の時代、1971年から72年までの駿河台地区での学内ロックアウト体制粉砕の闘いや、MUP(マップ)共闘を中心とした闘いなどを「黒ヘル風雲録」(仮題)という形で掲載できればと考えている。
(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は7月7日(金)に更新予定です。

明大全共闘クロニクル(年代記)1970年6月の続きである。今回は70年安保闘争の月、1970年6月14日、15日である。
1969年6月の明大全共闘結成当初は代表者会議などが開催され、それなりに「全学共闘会議」という形をとっていたが、同年7月のブント内の内ゲバ(関東派と赤軍派)以降、明大全共闘の主流派であったブント内部の分裂、70年安保闘争をめぐるML派、反帝学生評議会など党派間の対立、内ゲバなどがあり、1970年に入る頃には、明大全共闘は事実上崩壊していた。党派主導の全共闘の宿命である。
そのような状況もあり、私は、69年後半から学外のデモや集会には、高校の仲間を中心としたグループで参加するようになった。6月のデモもそのグループでの参加だった。
6月14日のデモは途中から雨が降り出しズブ濡れになった記憶がある。

1970年6月14日と15日の記事が明治大学新聞に載っているので見てみよう。
【70年代闘争の第一歩踏み出す “新左翼”最大の動員 雨にぬれ、壮大なデモを展開  明治大学新聞 1970.6.18】
『6月安保闘争の前半のヤマ場、6・14、15は雨に濡れた。代々木公園は14日、新左翼の労働者、学生、市民が大結集し、これまでの最高の動員を記録した。見渡す限りのヘルメット、人の波。各セクトの旗。さまざまな市民団体のプラカードが公園を埋め尽くした。NON-「壮大なNON!」の雄たけびが日比谷公園まで雨を衝いて、響き渡った。
 翌日の15日には、3ケ所で樺美智子さんの追悼集会が催された他、池袋で反帝学評、フロント系学生がゲリラ行動を起こした。群衆を巻き込んだ闘いは、渋谷ハチ公前のビル、商店街で夜遅くまで「安保粉砕・闘争勝利」のシュプレヒコールが絶えなかった。

イメージ 1


<6・14>
 全国全共闘、全国県反戦、六月行動委など新左翼陣は「インドシナ反戦、反安保・沖縄闘争のための6・14大共同行動」を渋谷・代々木公園で開いた。
 この集会に先がけ午後1時半ごろ、武闘を叫んでいたML派は新宿から国電原宿駅に向かい、火炎ビン、鉄パイプで武装、駅近くで機動隊と衝突した。火炎ビンと投石で対抗したが、100人以上が逮捕された。
 代々木公園では、昨年の6・15統一集会を上回る7万2千人、新左翼としては最大の動員をみせた。また、革マル派も参加した。「共同行動」としては、まとまりがなく、あちこちで内ゲバが発生したが、さまざまな市民団体、プラカードも目につき、6月闘争前半の壮大な広がりをつくりあげた。
 集会は午後3時前に開始され、6月行動委員会、全国全共闘、全国反戦が、実力闘争の展開と個別闘争の結合を強力におし進めようと訴え、決意表明を行った。さらに樺美智子さんの母、光子さん、小西元自衛隊員などが挨拶、最後に長崎県反戦の反戦宣言を拍手で採択、インターの大合唱で終了した。
 統一集会の後、午後4時前デモ行進に移り、青山通りー赤坂見附―霞が関―日比谷公園のコースを激しい雨に打たれ、ずぶぬれになりながら、ダイナミックなデモンストレーションを展開した。
 デモの途中でも、ML派は火炎ビン、鉄パイプで機動隊と対抗した。国会前の霞が関ランプでは、装甲車が議事堂への道をシャットアウト。この装甲車に反帝学評の学生が“挑戦”。車の屋根によじのぼったりタイヤの空気を抜いたりして気勢をあげた。
 また、社共系団体も全国で17ケ所、1万7百人が集会を開いた。

<6・15>
 60年安保闘争において、国会に突入した学生と機動隊が衝突した事件で、樺美智子さんが殺されてから10年目の命日にあたる15日、全国各地で追悼集会やデモが行われた。東京では6・15実行委が日比谷野音で「6・15樺美智子追悼労学市民統一集会」を開いたのをはじめ、反日共系各派、市民団体ら合わせて30近くの集会やデモが行われた。
 一方、一部のセクトが、渋谷駅周辺で街頭武装闘争を展開したため、同駅周辺は夜半まで混乱が続き、200名以上が公務執行妨害などで逮捕された。
 日比谷野音の統一集会は、中核系学生、反戦青年委などを中心として午後7時から開かれ、樺さんに1分間の黙祷をささげた後、200名ほどが国会南通用門まで追悼献花デモを行った。
 また、この中核派のカンパニア闘争と対比をなして、反帝学評、フロントらのセクトは渋谷駅周辺でゲリラ的に道玄坂上交番を襲撃、火炎ビンや石を長手機動隊と衝突した。まもなく、渋谷・宮下公園で集会を開いていた全共闘系学生ら数百人がこの知らせを聞きつけてかけつけ、群衆と一緒になって、追いつ追われつの“ゲリラ闘争”を繰り返したため、降りしきる雨の中、夜遅くまで混乱が続き催涙ガス弾が発射された。
 また8時頃、渋谷区役所前、山手通り、東大教養部裏門前などのはバリケードが築かれたことから交通は一時ストップされ、機動隊との攻防戦が行われたが、まもなく排除された』。

イメージ 2


【渦巻く反安保の叫び  明治大学新聞 1970.6.18】
<全てが反安保に向け 6・14ルポ>
『70年6月、この間、反安保戦線は、分裂に分裂を重ねるとともに、「反安保」から「反体制」へと、その闘争の質を深化させてきた。しかし、一方において「安保」は昨秋の佐藤訪米の際の「日米共同声明」によって、改訂期の6月を待たずして、すでに、自動延長の道は敷かれていたのである。
 6月14日、そんな遺恨を一心に秘めた「6・14労学市民総決起集会」が、六月行動委員会、全国全共闘、全国県反戦を中心として挙行された。
 4時頃、大会を終えた各セクトは、思い思いに、公園内でデモ行進を繰り広げた。色とりどりの旗が林立し、白・赤・青・黒のヘルメットの隊列がところ狭しと行きかった。
 原宿駅で機動隊とすでに一戦をまじえたML派の200名ほどは手ぬぐいの覆面姿で、片手に1メートル余りの鉄パイプを持ち武装態勢。“ゲバ抜き”を確認したという集会とはウラハラにここには緊張感が漂う。
 突然、あたりを取りまく人並がくずれ、石が飛びかった。
 「内ゲバだ!」と誰かが叫んだ。唐突なだけに皆、無我夢中で逃げまどう。中核とプロ学同との衝突をはじめ、この日は、ブント内部の戦旗派と叛旗派が分派闘争をめぐり、つばぜりあいを行うなど、随所で内ゲバが絶えなかった。
 「やめろ!やめろ!」「ナンセンス」と周りからしきりにヤジが飛びかった。そして、上京組のノンセクトらしい一人がつぶやいた。「内ゲバかア、頭にくるなア」。権力に向けるはずの鉄ツイが“身内”を傷つけ、果ては自分をも傷つけるー内ゲバ。無情なことがあってよいものか。
こうしている間にも、代々木公園を出発したデモ隊は、原宿駅前を通って青山通りに向かった。小降りだった雨もしだいと強まり雨雲が低くたれさがった。道路いっぱいに色あざやかなほど旗とヘルメットが目を打った。

イメージ 3

途中、原宿二丁目付近で、ML派学生100名ほどが突如、隊列を離れ、狭い路地に向かった。10数メートル入りくんだことろで、あらかじめ用意していたと思われる駐車中の車の中から鉄パイプとダンボール箱に入った火炎ビンを持ち出した。付近にいた学生と労働者の中から「ヨシ、ガンバレ!」と気合がかかり、拍手が鳴った。青山通りに抜ける交差点にさしかかろうとしていた矢先、あらかじめ待機していた機動隊が、黒山のように一斉に規制にのり出した。
近くの路地を逃げまどう学生、交差点からわずかのところにある善光寺の境内では、ML派のものと思われる鉄パイプ20本余りが私服と機動隊に発見された。

イメージ 6


6時頃、デモ隊の中の反帝学評の学生が赤坂見附にさしかかった際、赤坂東急ホテル前の外堀通りで機動隊のスキを突いて、隊列の向きを変え旗ザオをかざし戦闘態勢に入った。判帝学評とMLの一部が向きを変え終わるやいななや竹竿と盾がはげしくわたり合った。片側車線に車がジュズつなぎに立ち往生したため、制圧に手間取り、一時的な解放状態になった、石が飛んだ。必死になって竹竿を機動隊に向かって投げるが力及ばずしてとどかない。またそれを拾って投げる学生。何度か衝突したがいずれも歯がたたなかった。私服に追われて逃げる学生に、歩道の群衆の中に交じっていた私服数人がその学生に飛びかかった。まわりの群衆がそれを取り囲み、非難の声を浴びせた。「ヤメロ!なんで逮捕するんだ」「そうだ。ヤメロ」-風向きが悪いとみた私服は逮捕を断念。その学生を強く蹴り上げて退散した。
この後デモ隊は、高速環状線の下を通って国会方面に向かった。
この辺りから警備は輪をかけて厳重さを増した。デモコースから首相官邸になどにつながる道路には、かまぼこ型の機動隊装甲車が、寸分の隙間もなく並べられ厚いバリケードが築かれていた。小高い所から機動隊がデモ隊を見下ろしている。周辺は全面的に交通が遮断され、見守る群衆も数少なく、ただ閑散たる中を「安保フンサイ」「決戦ショウリ」のシュプレヒコールだけが無残にそれこそ無残に鳴り響いた。
国会議事堂がうす暗くなった闇の彼方から冷たいその姿を現した。一向に降り止まない雨をついて、たんたんとデモの波は動いた。今からちょうど10年前、この辺りは「安保反対」をさけぶ何万という学生・労働者でうめつくされた。
そして今、当時と同じような非情な雨が冷たく身をたたいた。物いわぬ国会南通用門には、やはり数台の機動隊装甲車、放水車が立ち並び、アリのはい入るスキもないほどに強固に固められていた。
デモ隊が通ってゆく。そのたびに「ドンドン」と鈍い音が聞こえた。
怨念。学生が装甲車をたたく音だ。反帝学評の一団がうず巻きデモを繰り広げた。一人の学生が旗竿を放水車の放水搭から顔を出している、機動隊をめがけて投げつけた。装備は頑丈でビクともしない。何度も繰り返す。そのうち、肩車によって一人の学生が放水ホースにしがみつこうとした。が、たちまちにして振り切られてしまう。執拗に何度も繰り返す学生。また、一人の学生がホースをつかんだ。必死に登ろうとするが出来ない。そのホースから放水が始まった。白い水が吹き出す。全身水を浴びながらももつかんだホースを離そうとはしない。「ガンバレ!」とまわりから声がかかった。車の下からも放水が始まった。なおも向かっていく学生。装甲車に何度も体当たりする学生。ステッカーをはる学生。と、突然、国家権力の象徴、国会議事堂から「・・公務執行妨害になり・・」と聞こえたと思うや「ダーン」「ダーン」と催涙ガス弾が不気味にサク裂した。デモ隊と見守る群衆へめがけて飛んだ。逃げる人、人。なおもサク裂するガス弾。この時、議事堂は叫んだのだった。
国家権力の厚いカベの前、たとえ装甲車によじ登ることが、体当たりすることが無意味であろうとも、必死になって何度もよじ登ろうとする学生の姿は、そんなことすら感じさせない何かがあった。
デモ隊は、代々木公園→青山通り→赤坂見附→外堀通り→国会南通用門を経て降りしきる雨の中に続々とデモコースの終着点、日比谷公園に到着していった。
6月14日、この日、内ゲバがあった。路線転換もあった。機動隊との衝突もあった。しかし、その全ての日が“反安保体制“に向けて交錯したものだったが、分裂低迷、そして飛躍。反安保戦線の足並みは決して一致していない。おそらく自動延長される「日米安保条約」は今後、両国一方の破棄通告で1年後、消えるものとなるし、”安保の行方“と”反安保勢力の行方“は今後いかに展開されなければならないか。
午後から降り始めた雨は、夜になっても降り続いた。日比谷公園で手短に総括集会を終え帰路につく学生、労働者。彼らにとって、いや日本人全体にとって、今日の日はいかに映ったのだろうか。
公園の草木が6月の雨にしっとりと洗い流されていた。』

<湧き上がる“情念”6・15ルポ>
 『60年6月15日、十数万のデモ隊が「安保反対・国会解散・民主主義擁護」の旗印を掲げ国会を取り巻き、突入した。右翼と官憲の襲撃と弾圧の中、そしてその時、樺美智子さんが権力の手によって虐殺された。
 十年後のこの日、十年前と同じく朝から雨が降りしきり、東京都内では樺美智子さんをしのぶ追悼集会が3ケ所で行われた。家族、友人などの「美智子さんをしのぶ6月の会」。全国全共闘、全国反戦、6月救援員会などで行われた「墓前祭」。日比谷野外音楽堂で開かれた「6・15樺美智子追悼労、学、市民統一集会」。権力に抗議したがために、人間一個の生命が権力の手によって、一匹の蚊をひねりつぶす程にも、なんの悼みもなく虐殺された“生きるために闘った生命”は十年を経た今日、その権力と闘う者にとって、60年安保を知らずとも、その悼み、いや、怨念はつきず、重い。安保体制がのしかかってくると同様に。
 この日もまた、東京は厳戒態勢の中、そして渋谷もまたその例にもれなかった。渋谷はこの日フロントが4時渋谷結集をうちだしていたのである。駅校内は私服の群れと、機動隊によって城塞のようにかためられていた。勤め帰りの多くのサラリーマン、OLはその異様な雰囲気に、わずかに自らの日常性に「安保」を感じたかのように、足早に「マイホーム」への帰途についていた。茶の間では「安保」が数分電波に乗って顔を出すだけだろう。彼らにも同様にのしかかっている「安保体制」を意識するのは、映像の裏にかくされたものを知るのはいつのことだろうか。
 6時頃、ゆったりとしていた機動隊の隊列が急にあわただしくなった。目黒方面からの山手線から緑ヘル(フロント)の50人ぐらいの一団が降りた途端、機動隊にビッシリと囲まれてそのヘルメットの姿は見えない。壁に押しつけられ、かぶっていたヘルメットが飛ぶ、前から、後ろから、横から、構内からでた頃には、服は破れ、体は傷つき、それでも隊列を崩さず進むデモ隊はなんら武装していなかった。フロント、反帝学評が集会を開いていた宮下公園にやっとの思いでたどりついた。

イメージ 4

 それと時を同じくして、東大駒場で「労学総決起集会」を終えたフロントの部隊が、井の頭線の神泉駅から、道玄坂交番にナダレこみ、鉄パイプ、角材、火炎ビンで襲撃していた。
同時に、渋谷を埋めていた市民、労働者、学生が湧きあがるように、「安保粉砕・闘争勝利」の叫び声をあげた。ほとんどそれは一斉だった。そしてそれはまったく自然だった。歩道の人びとは車道にあふれ、<期せずして>渋谷は“反安保”の渦巻きにおおわれた。
 機動隊が規制に出ると素早く歩道にあがり通行人と化す。横断歩道を渡りながらも「安保粉砕・闘争勝利」を叫ぶ。機動隊が引くとまた車道に人並があふれる。私服の向けるカメラを傘でさえぎり、突進してくる機動隊をその傘で突く。傘は彼らにとって最大のタテとなり、武器となった。
 機動隊の規制は歩道を通る人間も無差別的に攻撃しはじめた。逃げまどう学生、女性、アベックさえも容赦なく大楯で押し、足に打ちおろし、水平に構えた楯を所選ばず打ちつける。念りに満ちた顔、恐怖にひきつった顔、もはや、機動隊の暴走をトドめるモノはいない。権力の姿をまざまざと見せつけられる思いがする。
 渋谷駅構内につくられた機動隊“解放区”は徐々、徐々に広げられていった。自らの身を挺する闘いは悲愴でさえある。しかしそれにしても彼らの顔の何と明るいことか。この日の、この闘いは、11月のあの闘いの再現であり、縮小でしかなかった。だが、だが解放された街のなんと生き生きしたことか。狭い道を肩をふれあってしか歩めない道路は解放され、いまや凶器であるばかりか、鉛さえもまき散らし、人間をジワジワとムシバみだしている車は締め出された。彼らの明るさはその喜びなのだろうか。いつか彼らの世界が来ることを信じてだろうか。

イメージ 5


 かけまわる機動隊。歩道の側までかけてきた機動隊員がものの見事に転んだ。その瞬間、2メートルと離れていない所から転んだ位置で、人であふれた歩道に水平うち。幸いにケガ人はなかったようだ。ケガ人がなかったのが不思議なくらい。
 9時頃になると、渋谷の街は完全に機動隊に規制されてしまった。雨に濡れ、ドロだらけになった学生、労働者が闘い疲れたようにアチラ、コチラ。解放された街は数時間にして消えた。渋谷は、新宿、蒲田のように自警団こそ出現しなかったが、木刀を持った愛国党が4.5人出現した。その他も××協力会の腕章をつけたヤクザ風の若い男が数人、街角に立っていた。右翼に対する警察の寛大なさは国士館の学生などが公然と朝鮮高校生を襲い、警察はそれを警戒するどころか、逆に「朝鮮人高校生が襲撃する」という宣伝をすることによって最近とみにあからさまにしてきている。またどこかの「商店主」なのだろうか、ネクタイをしめた<紳士>が「コイツダ」と進言することによってなんの証拠もなしに逮捕し、「あのアベックが怪しいですよ」という一言でもって飛びかかる。カバンを開けさせ、身体検査をし、なにもないとわかっても、突き飛ばすありさま。権力に味方する者のみが唯一正しき世界。
 だが、こうしたことをよそに、催涙ガスにむせぶ学生にレモンを与える一人のオジサンがいた。いつも住民に敵対される学生にとって、それは思いがけないことであった。彼らはとまどっていた。そのオジサンは1台の車が壊されているのを、デモ隊がやったと思い写真を撮りまくる記者に、その車は事故でそうなったと抗議していた。抗議された記者はきまり悪そうにメモ帳を取りだし訂正していた。
 報道陣はこの日、デモ隊から徹底した反感を受けていた。いまやマスコミによる映像は警察によって利用され、自らが機動隊に暴行されることによってエゴイスティックにしか抗議しない報道、私服と一緒になってカメラを向ける報道。まさにマスコミに対するデモ隊の鋭い告発があった。権力によって守られる黄色い統一腕章。それは明らかに彼らのいう「報道の自由」とは、権力によって認められる「報道の自由」でしかないことを自ら認めたのであったから・・。
 街にただよう催涙ガスも、折れた傘も、ポツネンと転がっている靴も、あのサラリーマン、OLが翌朝通るころには片付けられ、雨が流してくれるだろう。しかし、人間の情念、怨念まで流し去ることはできない。
(八重樫記者)』
6月14日と15日が終わり、70年安保闘争も最終日、6月23日を迎える。
(次回に続く)

【お知らせ その1】
10・8山﨑博昭プロジェクト
ベトナムツアー参加者募集中!!
10・8山﨑博昭プロジェクトでは、8月20日から2ケ月間、ベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館で「ベトナム反戦闘争とその時代」展を開催します。
これは、当プロジェクトと戦争証跡博物館の共催です。
当プロジェクトでは、展示会のオープニングセレモニーに合わせてベトナムツアーを企画しました。
ツアーには、当プロジェクトの発起人である山本義隆氏なども参加します。
発起人とゆっくりと話ができる機会でもありますので、この機会にツアーに参加してみませんか?
参加希望の方は以下のアドレスを参照の上、お申込み下さい。

「ベトナム・ホーチミン市戦争証跡博物館」展示会ツアーのご案内
http://yamazakiproject.com/from_secretariat/2017/06/02/3484
「ベトナム展示会ツアー」の申し込み方
http://yamazakiproject.com/from_secretariat/2017/06/02/3482

よろしくお願いします。

【お知らせ その2】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は6月23日(金)に更新予定です。

↑このページのトップヘ