2017年7月15日(土)、東京・渋谷の「渋谷ロフト9」で、「連合赤軍の全体像を残す会」主催により、浅間山荘から45年「連合赤軍とは何だったのか」をテーマにシンポジウムが開かれた。
以下、その呼びかけ文である。

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【呼びかけ文】
 連合赤軍事件から45年の月日がたちました。
 余りにも早く若い生涯を終えねばならなかった仲間たちと、私たちが冥界で会いまみえる日もそう遠くないように思われてきた今日、連合赤軍とはなんであったのかについて、議論したいと思います。
 連合赤軍事件に対する世の中の関心は続いています。
 BS朝日により2時間枠の番組が制作され、好評を得て再放送もされました。
 桐野夏生さんの『夜の谷を行く』は、「山で子を産んで育てる」という革命左派の夢想的な思想をテーマとして書かれ、好評です。
 事件の異常さ、悲惨さをセンセーショナルに語るのではなく、その背景と思想を深く掘り下げようとする姿勢が見て取れます。
 5年前のシンポジウムでは、「当事者が語る」会として、さまざまな人たちの質問に答え、これまで考えていたことを語りました。
 今回は、より深く事件そのものの本質に迫りたいと思います。
 背景となった戦後の政治史のなかでの位置を振り返り、さらに、映画としてこの事件を表現した人々の思いを聞き、また、漫画や小説の形式でこの事件の本質を追求した作家たちの話に耳を傾けたいと思います。
  この事件のことを深く考え、教訓を後世に残さねばならないと考えている方々の参加を広く呼びかけます。
 2017年6月
               連合赤軍事件の全体像を残す会
開場:12:30 開会:13:00
________________________________________

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●構成
第1部 戦後史の中の連合赤軍
 白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)
 鈴木邦男(一水会名誉顧問)
 青木理(ジャーナリスト)
第2部 映画がとらえた連合赤軍
 足立正生(「実録連合赤軍の最初のシナリオ執筆」)
 掛川正幸(「実録連合赤軍」決定稿シナリオ」)
 青島 武(シナリオライター。連合赤軍を描いた「光の雨」等多数)
 原渕勝仁(フリーTV番組制作者)
第3部 作家が描いた連合赤軍
 桐野夏生(作家。最新作は連合赤軍の女性を描いた『夜の谷を行く』)
 山本直樹(エロ漫画家。連合赤軍を詳細に追った『レッド』を連載中)
 金井広秋(慶応大学の紀要に「死者の軍隊」を連載。彩流社刊)

・司会 金 廣志、椎野礼仁
・当事者
 岩田平治(革命左派)、植垣康博(赤軍派)、前澤虎義(革命左派)、雪野建作(革命左派)、 青砥幹夫(赤軍派)

会場は渋谷駅から歩いて10分ほどのところ、東急百貨店の近くの円山町にある。前日にネットで予約したのだが、予約番号が112番。100名以上は参加するということだ。開場の少し前に「渋谷ロフト9」に到着したが、会場の間には、すでに数十人の人たちが集まっていた。

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会場に入るのは予約番号順なので、しばらく待ってから入場すると、会場内はほぼ満席。何とか席を確保したが、事前予約をしていない人たちもいて、その人たちは立ち見である。定員が130名くらいだから、160名くらいの参加があったのではないだろうか。
当時の世代(高齢者)が多いかと思ったら、以外にも若い人も多く参加している。私の両隣に座ったのも、若い女性と外国人男性だった。
定刻になりシンポジウムが始まった。

【第一部 戦後史の中の連合赤軍】(概要)
司会:椎野礼仁(編集者・元共産主義者同盟戦旗派)

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「お暑い中、立錐の余地もないような状況で、定員がほぼ予約で埋まったらしい。有難うございました。今日はタイムキーパをやります。」

総合司会;金 廣志(塾講師・元共産主義者同盟赤軍派)

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「本日はシンポジウム『浅間山荘から45年 連合赤軍とは何だったのか』にお集まりいただき有難うございます。本年2017年は浅間山荘銃撃戦及び連合赤軍総括リンチ事件から45年という節目の年にあたります。5年前に40年の会をやって、その次は50年という話をしましたが、あと5年たったら誰が生きているか分からない、みんな死んでいるんじゃないかと言う話も出て、45年という機会にこういうイベントをやらさせていただこうということになりました。
こういうところで当事者が集まって、きちんといろいろな意見を表明してもらうべきだと思って45年を行うことにしました。
先ほどもお話ししましたけれど、この一連の事件は、併せて連合赤軍事件と呼ばれていますが、元々、連合赤軍というのは連合というのが付くとおり、単一の組織ではなかった。共産主義者同盟赤軍派と日本共産党革命左派、実際には共産党とは本当は関係のない組織ですが、そういう別々の組織が1971年9月に連合して、12月に群馬県の山岳ベースに、延べ29名のメンバー、男性19名、女性10名が結集して新党を結成した、そういうことで一つの組織になったのが連合赤軍と呼ばれているものです。
その過程で、共産主義化と称する同志に対する総括、リンチ事件が起こったわけです。1971年12月から翌年2月にかけてのわずか2ケ月の間に、12名の同志を殺害するという凄惨な事件を起こしたわけです。実際にその時に当事者であった者が、ここに4名おります。また、警察に追い詰められた5人のメンバーが、軽井沢にある浅間山荘に立て籠りまして、1972年2月19日から2月28日の10日間にわたって銃で抵抗して、2名の警察官と1名の民間人が射殺されました。その当時、テレビはNHKも民放も全てこの浅間山荘の実況中継でした。視聴率が最高で90%を記録するという空前の事件として、当時の人たちに記憶されています。ここにいる本人たちは、その時点で逮捕されていますから事件をテレビでは見ていません。私は外にいましたので。その10日間を本当に緊張感を持ってテレビの前にいたことを覚えています。
本日はこれらの事件の内実について、当事者及びゲストを交えて45年前を振り返りながら進行させていただきたいと思います。
最初に連合赤軍のメンバーであった当事者の紹介をさせていただきます。

(メンバー紹介)

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それでは第一部のパネリストを紹介させていただきます。

(パネリスト紹介)

まず、本日のパネリストで最も若い白井聡さんにお伺いしたいと思います。
今年は連合赤軍45年でもありますが、1917年のロシア革命から100年という節目の年でもあります。ロシア革命の指導者レーニンは『全ての権力をソヴィエトへ』というスローガンを掲げました。それは労働者や農民たちの評議会に革命の未来が委ねられると主張していた。それは直接民主制に最も近い社会主義体制を創り上げると主張していたが、ソ連は結果としてロシア共産党が全てを支配する官僚専制の国家になってしまった。そして、スターリンによる数百万人と言われる大粛清があって、1991年にソ連は崩壊しました。それについて白井さんにお伺いしたいと思います。
我々は人類の未来に対する理想として社会主義、共産主義というものを実現していこうと思い、新左翼運動に結集しました。そして、私たちの運動も、スターリンの大粛清と同じような連合赤軍事件という大きな衝撃とともに終焉を迎えたと言っていいと思います。
白井さんはレーニンの研究者でもあります。テーマは大きいですけれども、社会主義は単なる理想でしかなかったのか、また、スターリンによる粛清と連合赤軍による総括・リンチというのは同種の思想によるものなのか、また、真の社会主義というものはあるのか、
お伺いしたと思います。」

白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)

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「今のご質問の答えとしては、全て分からないとしか言いようがない。しかし、呼んでいただいて分かりませんではまずいので、少々、自分の考えるところをお話ししたいと思います。
ご承知おきのとおり、レーニンがやった革命はスターリンに受け継がれていって、それはひどいテロ体制で、政治的なライバルを追い落とす。追い落とすと言っても単に失脚させるという甘いものではなくて、反革命というレッテルを押す。反革命ということになると、単に悪い人とかダメな人ではなくて犯罪者ということになりますから、自己批判をさせられる。しかもすごいのは、自己批判しても許してくれるわけではなくて、良くてシベリア送り20年、悪くすると死刑。例えばブハーリンという人がいましたけれど、レーニンの死後、後継者候補の一人になって、一時、スターリンにくっついてトロツキーを追い落とすということをやって、しかし最後にはスターリンによって落とされていく。その最後たるや悲惨なものです。逮捕されて反革命だろうと尋問されて、事実無根ですがスパイ容疑もかけられる。単にスパイだからけしからんというのではなくて、唱えているところの理論が反革命的なものであると規定されてしまう。ブハーリンはどうしたか?結局、最後は命乞いをするわけです。獄中でスターリンを賛美するような論文を書き、そして自分の理論がいかに間違っていたのか、悪気はなかったけれど結果として反革命的な誤った理論を述べてしまった、反省して心を入れ替えてソ連の社会主義建設のために尽くしたいというようなことを書く。痛々しいとしか言いようがない。学問的には学識豊かな人で理論家として優れた人だったが、そういう形で命乞いをする。スターリンは猫がネズミをいたぶるように扱うわけです。殺すということは揺るがないけれど、わざわざそういう弁明をさせて殺される。これがコミュニズムにおける政治闘争の最も陰湿なヴァージョンであります。
これが連赤事件と果たして関係があるのかどうか。私はあると言えばあるのかなという印象を持っています。
私は日本の社会主義運動や社会主義思想、革命運動について勉強していますが、私の見るところでは、大きな断絶が戦前に起きています。マルクス主義の導入、ことに福本イズム。福本和夫という人がドイツに行って、ロシアマルクス主義の文献も読みますし、ドイツにおけるマルクス主義哲学を勉強して帰って来て、当時、日本にはマルクス主義思想・学説は紹介されていて、アナーキズムなどの社会主義思想も輸入されていろいろな実践がされていた。そこに福本和夫がやってきた、何を言ったか。それまで日本でやられてきたマルクス解釈や社会主義運動は全部エセだ、まがい物だ、ダメだと言う。本当の社会主義思想というのはこれしかない、この解釈しかないんだという形でやる。これが一瞬だけではあるけれども、ものすごい求心力を持ってしまう。当時の日本共産党の非合法化の背骨となる理論となる。私は、この時が一つの転機だったと思う。転機というのはどういう意味かというと、ある種、変革を目指す運動をする人たちの気風が変わってしまったということです。つまり、福本以前の社会主義者、無政府主義者は、良くも悪くもとてもいい加減だった。喧嘩をしてもいつの間にか仲直り、理論的には喧嘩をしていても、私生活では人間関係を保っていたり、という雰囲気があったと私は思う。どうも福本イズム以降、変わったのではないか。つまり、お前間違っているとなった時に、それは理論だけだはなく実践的にも人格的にも他者を否定する雰囲気が出来てしまう。福本イズムはソ連から革命的でないと否定されてしまうという過程を経て、福本和夫自身が失墜してしまう。ある意味、福本イズム的なものが、悪い意味で日本の運動の中に残存し続けた。
僕は、浅間山荘に至る連合赤軍事件は、それの一番極限的な形態だったのではなかい、と思っています。」

総合司会:金 廣志
「次に鈴木邦男さんから発言していただきますが、鈴木さんは早稲田大学在学中は全国学生自治体連絡協議会という民族派右翼の組織の初代委員長として、新左翼に対抗してきました。1970年の三島事件を経て一水会を結成しました。鈴木さんの側からご覧になった1960年代あるいは70年代の新左翼運動に対するご感想、連合赤軍に対するお考えなどをお聞かせいただけないかと思います。」

鈴木邦男(一水会名誉顧問)

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「鈴木邦男です。見ましたところ左翼、極左過激派、犯罪者ですね。(笑)青木さんは違うか。僕はずっと右翼運動をやっていまして、右翼の中でも内ゲバ的な要素はあったんです。特に1970年というのは、マスコミも政府も公安も、全て70年安保、70年危機と言って、70年には革命が起きるんだと言って、70年に左翼の連中が革命を起こす、日本で暴力革命をやるんだから、それに対して俺たちは闘わなければいけないと思っていました。ところが全然なかったですね。左翼を全力で潰したからでしょうね。ですから、70年を前にして左翼がほとんどいなくなっちゃった。左翼に対抗していた我々も手ごたえを失ってしまって、そうすると民族派学生の中で内ゲバが始まる。敵がいないのだから我々が学生運動のトップになるはずなのに、そうならないのはこいつらがいるから、あいつらがいるからだと。僕は生長の家の生学連(生長の家学生会全国総連合)という運動をやっていましたが、日本学生同盟という大きな団体があって、そこと内ゲバをやっていまして、しょっちゅう殴り合いをしていました。東京都学協というのを作ろうととした時に、我々が集会をしていたら日学同の連中が騒いで、それを廊下に引きずり出して僕らが殴りつけていたら、丁度、講師だった三島由紀夫が出て来て、「なんだこれは」と言った。もう、こいつらダメだと思ったんでしょうね。そういう風に右の中でもいろいろ紛争があったし、僕自身も全国学協の委員長を追い出されたりして、内ゲバの時代でした。でも、1970年に三島事件があって、こんなことやっていられないと思って、それがあったので、たぶん連合赤軍にはならなかった。我々だって、ああいう離れたところで皆で論争していたら、たぶん殺す気にもなっただろうし、これは他人ごとではないと思いました。ただ、そういう風にはならなかったのは三島事件があったからだと思います。
植垣さんと前に話した時に、連合赤軍事件で左翼は終わったと言われた。その時に、もし三島由紀夫や高橋和己が生きていたら、ああはならなかったと思った。それを阻止できたというのではなくて、評価が違っただろうと思う。みんな、ほら見ろ、左翼はあんな人殺しをするんだ、ということで終わってしまった。ところが、それを反省して更にこういう道もあったんじゃないかとか、いろんな事を言えたのは高橋和己や三島由紀夫だったんじゃないか。でも、三島由紀夫は1970年に亡くなったし、71年には高橋和己も亡くなった。この2人が亡くなったのが非常に大きかった。我々はざまあ見ろとか一般の人の言う気持ちは全くなかった。これは我々だって起こったかもしれない事件だと思いました。三島事件があったから救われた、僕はその時、産経新聞に勤めていたが、2年後に『一水会』を作りました。『一水会』のスタートと連合赤軍は重なっているが、非常に対照的だったのではないかと思う。」

総合司会:金 廣志
「それでは青木さんにお伺いしたいと思います。青木さんはBS朝日の『あさま山荘事件 立てこもり犯の告白』でインタビュアーを務めておられました。ここに座っている連合赤軍のメンバーの何人かにもインタビューされています。連合赤軍メンバーに対する印象について、率直なご感想をお聞かせいただきたいと思います。もう一つ、連合赤軍を扱うドキュメンタリーはたくさんありますが、当事者にいろいろ話しを聞いて、番組の中でいつも、どうだこの極悪犯めみたいなことで引っくり返している。青木さんは非常に誠実に、一緒に考えるというインタビューをされていたと思います。それは振りだけだったのか、心の中では全く違うことを考えていたのか、率直なご感想をお聞かせ下さい。」

青木理(ジャーナリスト)

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「こんにちは、青木です、あの番組は僕がやりたいと言ったというより、むしろスタッフがやろうということで、ある種、今のメディアというのは、みなさんご存じのとおり非常に不自由で、連合赤軍あるは浅間山荘事件のことを取り上げるのだったら、一番お手軽に作るのは、連合赤軍のメンバーに話を聞く一方、警察側の証言も紹介する。両方並べて警察は正義でこんな犯罪者たちと描くのが一番安全なんですけれども、スタッフはそれはやりたくない、むしろ連合赤軍事件とは一体何だったのかというのをきちんとやろうじゃないか、当局に聞く必要はないということで現場を歩き、連合赤軍のメンバーの方々にお話しを聞いた。
僕は単なるジャーナリストで極めてノンポリで、特に政治思想もなければ政治運動に加わったこともない、特定の政治団体、政治党派の支持もないですけれど、実は連合赤軍に関してはけっこう長く、外部からウオッチしてきました。僕は元々通信社の記者をしていまして、しかも警視庁記者クラブにいて、警視庁公安部の担当記者を1995年、96年ころからしていた。公安が監視対象としている人たちをウオッチするというが仕事で、その縁で鈴木さんとも知り合って、連合赤軍の皆さんには取材はしていなかったですが、そういう意味では公安警察の担当記者としてずっと見ていた。シンパシーは持っていた。
ドキュメンタリーを作る時に難しかったのは、僕も元々活字の人間なので、インタビュアーは初めての体験だったんですけれども、前提として、特に今の若い世代の人たちが観るということになると、あんたたちがやったことは悪いことだったよね、という前提を踏まえないと、たぶん観てもらえない、理解してもらえないとスタッフの皆さんは言う。僕もそう思いました。だから何度も何度も同じ質問をして、あなたたちどうしてこんなことをしたのか、あなたたちがやったことを今、どう思っているのか、正しかったのか正しくないのか、もちろん間違っていたでしょ、という前提で話を聞かないと成り立たないというあたりが、ひよっとしたら限界だったのかという気はします。
今日、皆さんと議論したいと思っていいるのは、日本のいわゆるリベラリズムみたいなものを、ある種、連合赤軍事件とその後の東アジア反日武装戦線狼とか爆弾事件が大きく変質させてしまった契機であったのは間違いないだろう。僕らの世代は無色透明、政治運動というものに学生たち若者たちが関わらなくなった、一つの大きな転機になったのが連合赤軍事件、浅間山荘事件。その前は、普通の人たちは、大学生のやっていることは過激だけど、言っていることは分からなくはない、というような感じがあったのではないか、と僕は勝手に思っている。僕は左翼ではないので、右翼の取材もしている。ちょっと前に『日本会議の正体』という本を書いた。その時に、鈴木さんがいた生長の家の学生運動が、今の日本会議の母体になっているんですけれども、そのメンバー何人かにインタビューした。彼らは『俺たちのことを何で今さら取材するんだ。俺たちは60年代後半からずっと同じ事をやっているだけなんだ。気が付いたら左翼がいなくなっただけで、何で俺たちのことを取材するんだ』という訳です。そのとおりだと思いました。連合赤軍事件は何だったのか、45年目ですけれども、捉え返す。たまたま僕がドキュメンタリーをやった時にスタッフからアイディアが出たんですけれども、シールズという学生諸君の安保関連法反対運動が起きて、あの運動をどう評価するのか、いろいろなご意見があると思いますが、たまたま起きていた。45年目にきちんと連合赤軍事件を総括しないと、日本の左翼運動というかリベラル運動というか、あるいは学生が政治に関わる、学生が政治意志を表明することがなかなかしにくい状況が続くのかな、と思っています。その辺を実は聞きたいと思って来ているところもあります。」

司会:椎野礼仁
「補足しますと、ドキュメンタリーというのは、BS朝日が毎週木曜日にやっているザ・ドキュメンタリーという2時間枠の番組で連合赤軍をやって、放送したら普段より視聴率が良くて、2ケ月くらい後に再放送になったという、その番組の話です。」

総合司会:金 廣志
「今、3人の方からもお話しがありましたが、私たちが1960年代の後半に活動している時に、正直な話、社会的には圧倒的なシンパシーを得ていたんですね。今は、左翼あるいは新左翼運動イコール悪、あの連合赤軍めが、あの人殺しめが、という通り一遍の言葉が連ねられているよううな気がするんですけれども、1960年代後半から70年にかけてというのは、社会的には新左翼に対するシンパシーが強かったと思います。ですから、三島さんも非常に危機感を感じていたんだろうなと思います。
これからフリーな感じでお話をしていただきたいと思いますが、一番極悪人だと思われている植垣さんから。」

植垣康博(当事者・赤軍派。討論スナックバロン経営)

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「極悪人の植垣です。白井さんの話の中で福本イズムの話が出ましたが、僕はもっと率直に言って、日本共産党がロシア革命の後のコミンテルンの日本支部として日本共産党が作られたことが、革命運動、左翼運動の上にものすごく大きな影響を与えたと思います。特に日本支部として作られた日本共産党の作風とか記述は、ほとんどソ連共産党の作風、記述が持ち込まれる展開になったのではないか。それがその後の日本の左翼運動を規定してしまったのではないかと思う。特にソ連共産党の組織構造は、政治局があって、中央委員会があって、地方委員会があって、というもの。日本の左翼諸党派はどれもこれも同じ組織構造です。その組織構造の基だと、どうしても一党独裁的な傾向が前面に出てくる。要するに他党派の存在を許さない。その中でスターリン時代の粛清も日本に持ち込まれてきたことが、日本の左翼の根底に巣食っていて、これが連合赤軍という形でボーンと表に出てきた。ただ、連合赤軍より前にあった宮本顕治たちがやった小畑達夫スパイ査問事件とか、正に連赤と同じでした。自分たちの追求で小畑が死んだことに対して、追及に耐え切れなくなったことによるショック死だ、という言い方をして彼らはそれを正当化した。それと全く同じ論理で、僕らは総括要求で仲間の死を正当化した。
そう考えると、福本イズムの問題もあると思うが、ソ連共産党の流れで日本共産党が作られて存続していったことが大きいと思うが、どうでしょう?」

総合司会:金 廣志
「明日の『赤旗』には、『未だ極悪人の植垣反省せず、責任を日本共産党に転嫁』そんな風に出ているかもしれません。(笑)」

白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)
「ちょっと今の話には違和感があります。確かに戦前、共産党でそういう作風が始まったのは事実だとは思いますけれども、新左翼は日本共産党に対する反撥から分裂・分岐したはずなのに、いつの間にかそれと似てしまった、ということでしょうか。」

植垣康博(赤軍派)
「組織となるとどうしても似てしまうところがある。その辺は高橋和己が『わが解体』で日本共産党のリンチ問題など取り上げている。本を読んで、日本共産党の方が先にこういうことをやっていたんだということに初めて気が付いた。連合赤軍の場合、武装闘争という世界に入ったことによって、武装するということは権力を持つということなんです。権力を持つことによって、自分たちの左翼の政治というものが具体的に実行したら、ああいう展開になってしまったという思いをしています。」

白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)
「そこで、先ほど青木さんが仰ったことと繋がってくると思いますが今、連赤について実りある形で振り返るような企画をマスメディアを通じてやろうとすると、とりあえず悪だと規定しないと話が通じない、それが問題だという話がありましたけれど、私が思うには、微妙な言い方になりますが、こういうのはよくあることなんですね。僕が一番印象を受けたのは、チェ・ゲバラの日記です。立派は人だったということになっていますが、最後、ボリビアの山中で殺される直前の記述を見ていると、山岳ベースにいた時の連合赤軍の人たちの精神状態に近い状態にあったということがよく分かります。本当に追い詰められて、飯もろくに食えない状況になってくるし、そういう条件の中で同志たちとの人間関係がものすごくギスギスしてきて、些細なことで心がささくれだって、ある種、殺意の気持ちまで覚えてしまった、ということを書いています。
つまり、こういうことは、何か一つ間違えれば十分に有り得ることなんだと。今、とにかく悪だよね、という前提でしか議論が始められない状況というのは何がまずいかというと、こういうことはよくあるんだ、本気で物事をやろうとすると、有りがちな危険性なんだということ、当たり前の事実だと思いますが、このことが隠蔽されてしまうことだと思う。作風の問題もそうだと思う。」

総合司会:金 廣志
「岩田さん、その辺どうですか?」

岩田平治(当事者・革命左派。会社員)

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「私は歴史的な流れの中で作風の問題だとか、共産主義のいろいろな流れの中から連合赤軍が出てきて、武装闘争という方針が出てきたのはそのとおりだと思いますが、私にとって一番の問題だったのは、何故私はそういうことを支持して、参加して、ある時はそれを信じて同志を殴ったのか、ということです。裁判の過程では、武装闘争を目指していた2組織が。金は奪ったけれど警察署を襲えない、銃は奪ったけれど警察署は襲えない、そういうことの中で2つの組織が、路線は違うというのはあったにしても、武装闘争を標ぼうしている以上は、お互いに闘おうとして闘えなかったという中で2つが一緒になって、闘えない原因は何かと求めた時に、条件が揃っているのに闘えないのは構成員の問題だということで、構成員の方に目が行って、構成員を点検する中でああいうことが起こったというのは、裁判の時の一兵士の立場の弁明だった。
それはそれとして、何で私はあの時に加藤さんを殴ったのだろうか、訳も分からずに反対も出来ずにああいう中に参加していったのだろうかと考えた時に、私が思っていた『共同幻想』、つまり革命とかそういうものの中で『対幻想』、恋人に対する愛情とか、そういうものが否定されていったのが、あの過程ではなかったのか。鈴木(邦男)さんが、以前、一番危険なのは愛と正義だと言っていましたが、愛というのは男女間の愛ではなくて、国家に対する愛とか何かに対する愛と正義という、そういう『共同幻想』が、個々の人間をああいう極限状況の中で突き詰めていった時に、殺していった。それが『幻想域』だけだったなら良かったけれど、そうではなくて、ああいう極限の突き詰められた中で実際にそういう形になった時には、まともに残った男女関係は何もない。私が出た後、森も自分の奥さんがいたにもかかわらず永田と結婚しなければならなかった。森さんも、自分を殺して闘いとして永田と一緒にならなければいけなかったのではないか。
私の中では、いろんな契機の中で私がそういうことを選んでいって、最終的にそういうものに参加して、ある時は納得しながらそういうことをやっていた、ということに対する向き合い方というのを一番考えなければいけないと思う。」

鈴木邦男(一水会名誉顧問)
「作風とかいろいろ言われましたけれど、それ以前に何か僕は、成功した革命と失敗した革命、それに尽きるのではないかという気がする。ロシア革命、キューバ革命、中国革命、または明治維新とか、成功した革命は、連合赤軍と同じような、あるいはそれ以上の内ゲバとか陰惨な事件があったけれど、ああいう輝かしい革命があったけれど、そういう中にこういう犠牲もあった、と温かくみんな迎え入れてくれる。ところが失敗する革命だと、ほら見ろ、こんな連中がこんなことやっていると言われてしまう。獄中から出て来ても、もう一回再審請求をして死刑にしろと言う人もいるくらいですから、そういうもので決められてしまうのではないか。
明治維新の時だって、水戸なんかではずいぶんひどいことをやっていましたよね。」

植垣康博(赤軍派)
「新選組は敵を殺した数より仲間を殺した数の方がはるかに多い。」

鈴木邦男(一水会名誉顧問)
「連合赤軍は新選組だ、と書いている人がいましたね。(笑)仲間うちに対する敵意と憎悪の方が、どんどん膨らみやすい。トランプを殺したいと思わなくても、裏切った仲間は殺したいいと思うでしょ。本当は愛だとか正義だとか、そういうものから出発したはずなのに、そういうもので人間を引っ張って行こうとしてもなかなか付いてこない。殺意だとか憎悪の方が人間を引っ張っていくには都合がいい訳です。今の自民党だってそうです。俺たちが頑張ってきたのに駄目だったのは憲法があったせいだ。ダメだったのは中国とか韓国がイチャモンを付けているからだ、と憎悪を燃やして他に敵を作っている。
今、『日本の暗黒事件』という本を読んでいたら、『永田は総括のターゲットとして美人の女性メンバーを選んだとも伝えられている』と書いてある。よくこんなことを言うね。それで連合赤軍で、徹底的な悪はこいつらだと言われて、どうなったかと言うと『本来あるべき市民運動や労働組合争議までも下火になり、代わって狂信的な宗教集団や差別を助長する極端なナショナリズムが出現する』。確かにそうなったよね。全部、連合赤軍のせいだ、と思いました。」

司会:椎野礼仁
「青砥さんから発言をお願いします。」

青砥幹夫(当事者・赤軍派。会社員)

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「山の中での一番重要な発言は、亡くなった山田さんが中央委員会の中で『死を突きつけても総括要求にはならない。何故なら死は一般的なものだから』というお話をなさたということを、僕は聞いています。このことは、山田さんの本意ではないと思いますが、どうして重要かと言うと、我々は総括要求の中で死を突き付けているという明確な意識があったということです。組織の中で、どうしてそういったことが可能なのか、そこが一番問題だとずっと考えてきました。
先ほど、ブントが日本共産党を批判する形で出てきた。それはアンチテーゼとして出てきたわけであって、批判する観点はたくさん持っていたけれども、それを克服するような組織形態をついに獲得できずにあのようになってしまった。至る所で革命が全て潰えていく、それは何に原因があるのか。共産党の組織構造に問題があるのか、あるいは人間の集団の中での構造に問題があるのか、あるいはそれを乗り越えられない人間の倫理観に問題があるのか、とか様々な問題があると思います。私はどうしてもゲバラが最後に残した言葉にこだわざるを得ない。
一つの小さなイデオロギーと称するものを突き付けて、お前、これに命を懸けろ。これに命を懸けられないのだったらお前を殺すぞ、という組織がいたるところにあると思う。我々もそうだったと思う。そういものがどこから生まれてくるかということが、一番大事な話だと思います。まだ結論が出ません。」

司会:椎野礼仁
「植垣さんと青砥さんは、現場に最後までいた。前澤さんと岩田さんは途中で山を脱走した。その辺の違いがあると思いますが、前澤さん、どうですか。」

前澤虎義(当事者・革命左派。建設会社現場チーフ)

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「最後に残った2人と僕の違いは、森の出した総括の目的・方向というものが、初めから俺は信じられなくて付いていけなかった。総括について最初から付いていけなかった。そこが違いじゃないかと思う。」

司会:椎野礼仁
「岩田さんは。」

岩田平治(革命左派)
「私は、森の言動というが理解できたというか、こういう風にやっていかなければけないと思っていたんですけれども、結局、最終的に私が離脱する前に、名古屋に出された時に、私の当時の彼女と、山の中で知り合った小島さんの高校生の妹の2人を山に連れて行く、そういうことだったんです。ただ、歴戦の人たちが革命戦士になれなくて死んでいる。私たちが殺した。にもかかわらず、私の彼女は革命をやろうと思っていたわけで何でもないし、高校生の小島さんの妹は山には来ていたんですけれども、まだ16歳です。そういう人たちを連れてくるということの意義ですよね。そういうことを考えた時に、もしかして私たちの目指していた革命は正しいかもしれないけれども、もう、これには付いていけない、自分の嫌だという気持ちを前面に出さなければいけないということで、山に帰っていった時に離脱を決意して逃げた。その後、更に引き続き6人も7人も仲間を殺害するとは思っていませんでした。もう私が(山から)下りた時点で終わりだと思っていた。ですから、私が逃げた後、指導部はどう考えていたのか。『岩田の野郎、公安に捕まる前に俺たちが捕まえなければいけない。そのためには何が何でも岩田を捕まえなければいけない。』ということで動くと思っていたんです。妹や家族を人質に取って、『お前出てこい』、と言われると思った。」

総合司会:金 廣志
「それはある意味で死を受容していたということですよね。」

岩田平治(革命左派)
「そうです。自分は参加した時点で、仲間を殺すということは別として、組織にいた以上は、自分自身は警察官と渡り合って死ななければいけない、と覚悟していました。」

植垣康博(赤軍派)
「岩田さんが逃げたという報告があって、逆に、山﨑順君が追及されるはめになった。逆の展開になった。岩田さんのことは、その後、話題にもならなかった。それよりも、もし捕まったら喋るだろうから、ベースの移動を早めるとか、むしろ岩田さんの問題よりも、岩田さんが逃げたことによる反作用があった。」

総合司会:金 廣志
「岩田さんは、森恒夫さんに最も高く評価されていた。最も信頼されていた岩田さんが離脱した。そして、植垣さんの話ですと、岩田さんが離脱した後に、そのことを話題にもしたくなかったということなんでしょうね。森さんに対する評価というのはどうなんでしょう。」

司会:椎野礼仁
「少し前提を説明します。総括が何故起こったかというと、森恒夫という当時のリーダーが、自己の共産主義化を極めろ、という前提があって、自己の共産主義化を総括できない人から総括しにいくという状況があって、その森恒夫というのは赤軍派、つまり、植垣さんと青砥さんの派の人で、森は後から連合赤軍になってリーダーになった人という前提があります。」

岩田平治(革命左派)

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「私が森さんに初めて会ったのは、新倉で銃の訓練があった時で、その前の過程の中で、革命左派の指導者、坂口さんや永田さんに飽き飽きしていた。非常に場当たり的な方針しか出さない。なおかつ私が集会の時に派遣されていったにもかかわらず、その集会を壊すようなアッピールを持て来るようなことがあって、意見書を書いたりしていた。革命左派の指導部に飽き飽きしていた中で、森さんの説明とか論理付けは素直に私の中に入ってきたということです。そういう意味で評価した。それと、過去に逃げたということは知らなかったし、堂々とした指導者に見えたし、植垣さんとか坂東さんとか山田さんというしっかりしたスタッフを抱えて、指導者としての素質も力量もあった人だと思っている。やったことが良かったか悪かったかといえば当然悪かったと思うし、その責任は非常にあると思いますが、そういう意味での指導的な力量というか論理的な意味づけをしっかりできた人だったと思います。」

総合司会:金 廣志
「反対の評価になると思いますが、前澤さんどうでしょうか。」

前澤虎義(革命左派)
「森さんの評価は、あまり知らなかったのでよく分からない。僕の場合は学生運動を全くやっていなくて、高校を卒業して労働者になって、そこで活動を始めたので、いわゆる新左翼の論理の立て方はなかなか分からなくて、運動に共感は持っても参加できなかった。何言ってるのだか分からない。どちらの方向に行くのか分からない。ただ、街頭デモとか、権力に対して闘っているという点では共感を持っていて、組織に参加しないで野次馬でデモに行ったりとか、しばらくやっていた。そういう意味で、僕から見ると森さんも学生運動なんだよね。革左の部分は学生運動っぽくなかった。その辺から入っているから、森さんの評価は、一緒にいた時間がすごく短いので、評価が定まらなかったという感じです。」

司会:椎野礼仁
「ゲストの方から聞いてみたい、確認したいということはありますか。」

鈴木邦男(一水会名誉顧問)
「山から逃げた人は、今から考えると正しい。でも、逃げたということに対する贖罪感はあったのか?」

岩田平治(革命左派)
「当時は贖罪感というのはあったけれど、今はそういうことがあるわけではない。紙一重の選択の差で十何年と五年の懲役の差になった、逃げたことの贖罪感が、残っている人に対してあるかというと、今はそれはない。」

鈴木邦男(一水会名誉顧問)
「植垣さんは、逃げている人を見て逃がしたということを言っていましたね。その時は追いかけて捕まえようと思わなかったんですか。」

植垣康博(赤軍派)
「思わなかった。逃げたい人はどんどん逃げた方がいいのではないか。僕にしても青砥さんにしても、始めから森さんの総括要求に全面的に同意していた訳ではない。常に懐疑的な思いを持ちながら総括要求に参加していた。早く終わって欲しい、それまで耐え忍ぶしかないというところですね。」

鈴木邦男(一水会名誉顧問)
「二つの組織が合体して、その対立みたいなもので総括や殺人が起きたような気がしますが、だったら、最初から赤軍だけでやっていればよかったのではないですか。」

植垣康博(赤軍派)
「たぶんね。ただ、それをきっかけにして、ああいう展開になったことによって、日本の左翼運動の抱えている問題、そこから更にロシア革命以来の共産主義運動の革命の歴史が同時に虐殺の歴史である、そういう問題に僕ら自身、自らの行動でもってそれにぶつかったのではないのか、と思っている。あの事件はない方がいい、絶対によくない。でも、あったことによって初めてぶつかった問題でもあった。」

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白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)
「偽らざる当時の心境としては、早く終わってくれないかなということだったと思うんですけれども、訳が分からないんです。訳が分からないというのは、森恒夫氏の言ったところの共産主義的人間にならなければいけない、というのもよく分からないし、一体、どういう人間なんだということだし、それから、武装闘争をやるということで訓練をしている段階にすぎなくて、これから本当の戦争をやるんだという段階のはずなのに、当事者としては早く終わってくれないか、と心の中で思っている。
正直なところ、客観的に本当に革命とかやっているように見えない。だから、浅間山荘の時でも、警察が持ち出してきた論理は『何を言っているんですか。目を覚ましなさい。』ということになってしまった。この訳の分からなさは何だったんでしょうね、ということです。そこが未だに解けない謎です。」

植垣康博(赤軍派)
「総括要求があって、最後は機動隊と衝突するわけですが、遭遇した時の解放感といったらなかったですね。これでやっと闘えると。」

白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)
「僕は若松監督の映画を観ていて、山から下りて軽井沢に出て来た時の解放感といったらなかったですね。やっと出て来てくれたという感じがあった。」

植垣康博(赤軍派)
「若松監督の映画ではうなだれて歩いている。ところが僕らは全然うなだれていない。やったるで、という気持ちでやっていたから。」

青木理(ジャーナリスト)
「連合赤軍の人たちにインタビューして、文献もほとんど読んで、僕なりに思っているのは、一つは政治運動というのは過激だったり先鋭的だったりする方が、ある種注目される、かっこいい、評価されるというのが一つ。それから、正義というもの、自分は間違っていない、正義なんだと思った時に暴走しやすい、ということが一つ。それから、連合赤軍に関して言うと、赤軍派にしても革命左派にしても、ある種、弱者連合なんです。警察に追われて、山の中で武装闘争の訓練をすると言えば聞こえはいいけれど、ある種、山に逃げ込んだという側面があって、追い詰められている、あるいは追われている者の焦燥感というのものが、おそらくすごく影響したんだろう、と思った。それと、外の情報が入ってこない閉鎖空間であることが一つ。それと、組織とか集団の論理に抗わない、埋もれる、評価は違うかもしれないがリーダーが未熟であったということです。
こうやって考えると、連合赤軍に限らずどこでも起きうるだろう。そういった状況に陥った時に、果たして僕は逃げ出せただろうか、ということを考える。それは全員が考えなくてはいけないと思います。今あげた要素というのは、最近の日本はそういう状況になっているのではないかという気がします。」

(一部終了)

※ ブログ掲載記事は発言の概要です。聞き取れない部分などは省略しています。また、話し言葉なので、分かりやすくするために書き言葉に書き直している部分もあります。正確な内容は、「連動赤軍の全体像を残す会」が発行予定の「証言」12号をご覧ください。次回は第二部の発言概要を掲載予定です。

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