今回は、前回に引き続き、2017年7月15日(土)、東京・渋谷の「渋谷ロフト9」で開催された、浅間山荘から45年「連合赤軍とは何だったのか」をテーマにしたシンポジウムの発言概要を掲載する。
前回はシンポジウムの第一部を掲載したが、今回は第二部である。
以下、シンポジウムの呼びかけ文である。
前回はシンポジウムの第一部を掲載したが、今回は第二部である。
以下、シンポジウムの呼びかけ文である。

【呼びかけ文】
連合赤軍事件から45年の月日がたちました。
余りにも早く若い生涯を終えねばならなかった仲間たちと、私たちが冥界で会いまみえる日もそう遠くないように思われてきた今日、連合赤軍とはなんであったのかについて、議論したいと思います。
連合赤軍事件に対する世の中の関心は続いています。
BS朝日により2時間枠の番組が制作され、好評を得て再放送もされました。
桐野夏生さんの『夜の谷を行く』は、「山で子を産んで育てる」という革命左派の夢想的な思想をテーマとして書かれ、好評です。
事件の異常さ、悲惨さをセンセーショナルに語るのではなく、その背景と思想を深く掘り下げようとする姿勢が見て取れます。
5年前のシンポジウムでは、「当事者が語る」会として、さまざまな人たちの質問に答え、これまで考えていたことを語りました。
今回は、より深く事件そのものの本質に迫りたいと思います。
背景となった戦後の政治史のなかでの位置を振り返り、さらに、映画としてこの事件を表現した人々の思いを聞き、また、漫画や小説の形式でこの事件の本質を追求した作家たちの話に耳を傾けたいと思います。
この事件のことを深く考え、教訓を後世に残さねばならないと考えている方々の参加を広く呼びかけます。
2017年6月
連合赤軍事件の全体像を残す会
連合赤軍事件から45年の月日がたちました。
余りにも早く若い生涯を終えねばならなかった仲間たちと、私たちが冥界で会いまみえる日もそう遠くないように思われてきた今日、連合赤軍とはなんであったのかについて、議論したいと思います。
連合赤軍事件に対する世の中の関心は続いています。
BS朝日により2時間枠の番組が制作され、好評を得て再放送もされました。
桐野夏生さんの『夜の谷を行く』は、「山で子を産んで育てる」という革命左派の夢想的な思想をテーマとして書かれ、好評です。
事件の異常さ、悲惨さをセンセーショナルに語るのではなく、その背景と思想を深く掘り下げようとする姿勢が見て取れます。
5年前のシンポジウムでは、「当事者が語る」会として、さまざまな人たちの質問に答え、これまで考えていたことを語りました。
今回は、より深く事件そのものの本質に迫りたいと思います。
背景となった戦後の政治史のなかでの位置を振り返り、さらに、映画としてこの事件を表現した人々の思いを聞き、また、漫画や小説の形式でこの事件の本質を追求した作家たちの話に耳を傾けたいと思います。
この事件のことを深く考え、教訓を後世に残さねばならないと考えている方々の参加を広く呼びかけます。
2017年6月
連合赤軍事件の全体像を残す会
開場:12:30 開会:13:00
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●構成
第1部 戦後史の中の連合赤軍
白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)
鈴木邦男(一水会名誉顧問)
青木理(ジャーナリスト)
第1部 戦後史の中の連合赤軍
白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)
鈴木邦男(一水会名誉顧問)
青木理(ジャーナリスト)
第2部 映画がとらえた連合赤軍
足立正生(「実録連合赤軍の最初のシナリオ執筆」)
掛川正幸(「実録連合赤軍」決定稿シナリオ」)
青島 武(シナリオライター。連合赤軍を描いた「光の雨」等多数)
原渕勝仁(フリーTV番組制作者)
足立正生(「実録連合赤軍の最初のシナリオ執筆」)
掛川正幸(「実録連合赤軍」決定稿シナリオ」)
青島 武(シナリオライター。連合赤軍を描いた「光の雨」等多数)
原渕勝仁(フリーTV番組制作者)
第3部 作家が描いた連合赤軍
桐野夏生(作家。最新作は連合赤軍の女性を描いた『夜の谷を行く』)
山本直樹(エロ漫画家。連合赤軍を詳細に追った『レッド』を連載中)
金井広秋(慶応大学の紀要に「死者の軍隊」を連載。彩流社刊)
桐野夏生(作家。最新作は連合赤軍の女性を描いた『夜の谷を行く』)
山本直樹(エロ漫画家。連合赤軍を詳細に追った『レッド』を連載中)
金井広秋(慶応大学の紀要に「死者の軍隊」を連載。彩流社刊)
・司会 金 廣志、椎野礼仁
・当事者
岩田平治(革命左派)、植垣康博(赤軍派)、前澤虎義(革命左派)、雪野建作(革命左派)
青砥幹夫(赤軍派)
・当事者
岩田平治(革命左派)、植垣康博(赤軍派)、前澤虎義(革命左派)、雪野建作(革命左派)
青砥幹夫(赤軍派)
前回、シンポジウムの第一部を掲載したが、今回は第二部を掲載する。なお、第三部は写真撮影も録音も不可だったので、今後、「連合赤軍事件の全体像を残す会」が発行する予定の冊子でその内容を見ていただきたい。
以下、第二部である。
以下、第二部である。
【第二部 映画がとらえた連合赤軍】(発言概要)
司会:椎野礼仁(編集者・元共産主義者同盟戦旗派)
司会:椎野礼仁(編集者・元共産主義者同盟戦旗派)

「二部は映像作品を観てから始めます。映像作家たちはどう連合赤軍を描いたのかというテーマでやります。」
(パネリスト4名の映像作品を上映)




総合司会:金 廣志(塾講師・元共産主義者同盟赤軍派)

「映像で観ると少しイメージが違いますね。まず、足立さんにお伺いしたいと思います。足立さんは、若松孝二監督とともに多くの仕事をされてきました。1971年に若松監督とパレスチナに渡り、重信房子が率いる日本赤軍のメッセージともとれる『赤軍―PFLP 世界戦争宣言』を撮りました。そして1974年に日本赤軍に合流して、1997年にレバノンで逮捕され、3年間抑留され、2000年に強制送還されました。このことについて、連合赤軍を絡めてのお考えを伺いたいと思います。」
足立正生(映画監督・脚本家。「実録連合赤軍の最初のシナリオ執筆」)

「発言する前に、第一部を聞いていて非常に腹が立って、残念でしょうがない。つまり、いくら決定的な敗北や間違いを犯したとはいえ、彼らは何を目指して何をやろうとしていたのか、そのことについて司会は一切関心を払っていない。つまり、革命をやろうとしていたんだ、という話が前提にされて省かれている。正に現代に迎合した進行をやっているので、腹が立った。
それから、若松孝二と撮ったフィルムも、実はドキュメンタリーとか呼ばないで、ニュース映画と呼んだ。それは、世界でも日本でも非常に熱き時代ではあった。しかし、同時にその中身を支えていたのは、革命をやるにしても、そこでデモ一つやるにしても、その柱になっていたのは世界の人びとと一緒にやろう、はっきり言えば国際主義というものがあった。それが今や全くない世の中になっている。良くて国際連帯という言葉に切り縮められていた。
それらのことを踏まえて言うと、『赤軍―PFLP 世界戦争宣言』を作って全国上映して回ります、パレスチナでもヨーロッパでも上映して回りますが、それはニュース映画としてみんなに観て欲しかった。特に連合赤軍を作った赤軍派と革命左派の人たちに観て欲しかった。それで、共同キャンペーンを申し込んだが、連合赤軍に合流する赤軍派の人たちには、『我々は武装闘争に集中したいので、そのような文化活動をやっている暇はない。共同キャンペーンは断ります。』とはっきり言われた。そこにも出ているように、武装闘争をやるので文化活動をやれないという切迫したものはあっただろう。ただし、先ほどの発言の中で一番腹が立って聞いていたのは、青木理さんの『客観的に見れば追い詰められていたのではないか。』という発言がありましたが、皆さん、それについて答えて欲しい。追い詰められていただけではない、やろうとしていた事があったし、私は外から見ていたから、その山岳地帯に行けない人も大勢いて、残念がっていたのも知っています。つまり、山岳ベースに入ったのはほんの一部であり、指導部かもしれないけれど、実体的には全体の中の一部であったろうと思います。それをどう考えるのか。そういうことを考えると、今の時代に合わせた解釈の仕方になっている。おもねる必要はないじゃないか、というのが片一方にあります。」
それから、若松孝二と撮ったフィルムも、実はドキュメンタリーとか呼ばないで、ニュース映画と呼んだ。それは、世界でも日本でも非常に熱き時代ではあった。しかし、同時にその中身を支えていたのは、革命をやるにしても、そこでデモ一つやるにしても、その柱になっていたのは世界の人びとと一緒にやろう、はっきり言えば国際主義というものがあった。それが今や全くない世の中になっている。良くて国際連帯という言葉に切り縮められていた。
それらのことを踏まえて言うと、『赤軍―PFLP 世界戦争宣言』を作って全国上映して回ります、パレスチナでもヨーロッパでも上映して回りますが、それはニュース映画としてみんなに観て欲しかった。特に連合赤軍を作った赤軍派と革命左派の人たちに観て欲しかった。それで、共同キャンペーンを申し込んだが、連合赤軍に合流する赤軍派の人たちには、『我々は武装闘争に集中したいので、そのような文化活動をやっている暇はない。共同キャンペーンは断ります。』とはっきり言われた。そこにも出ているように、武装闘争をやるので文化活動をやれないという切迫したものはあっただろう。ただし、先ほどの発言の中で一番腹が立って聞いていたのは、青木理さんの『客観的に見れば追い詰められていたのではないか。』という発言がありましたが、皆さん、それについて答えて欲しい。追い詰められていただけではない、やろうとしていた事があったし、私は外から見ていたから、その山岳地帯に行けない人も大勢いて、残念がっていたのも知っています。つまり、山岳ベースに入ったのはほんの一部であり、指導部かもしれないけれど、実体的には全体の中の一部であったろうと思います。それをどう考えるのか。そういうことを考えると、今の時代に合わせた解釈の仕方になっている。おもねる必要はないじゃないか、というのが片一方にあります。」
総合司会:金 廣志
「革命家、足立正生の熱いメッセージをいただきました。次に掛川さんです。掛川さんは若松監督の『実録連合赤軍』の脚本を書かれました。この脚本は、当初、足立監督が依頼されて脚本を書いたと伺っています。ところが若松監督が気に入らなくて、掛川さんに再依頼されたという話も聞いております。映画で加藤元久君が『勇気がなかったんだよ』(注)という台詞がありました。これは実際にはない発言なんです。そして、これが若松孝二のメッセージだったのか、そして掛川さんが脚本段階で書かれたのか、あるいは若松監督が入れたのか、その辺についてもお話しをいただければと思います。」
(管理人注:映画の終盤、浅間山荘の中で加藤元久が叫んだ言葉のこと。)
「革命家、足立正生の熱いメッセージをいただきました。次に掛川さんです。掛川さんは若松監督の『実録連合赤軍』の脚本を書かれました。この脚本は、当初、足立監督が依頼されて脚本を書いたと伺っています。ところが若松監督が気に入らなくて、掛川さんに再依頼されたという話も聞いております。映画で加藤元久君が『勇気がなかったんだよ』(注)という台詞がありました。これは実際にはない発言なんです。そして、これが若松孝二のメッセージだったのか、そして掛川さんが脚本段階で書かれたのか、あるいは若松監督が入れたのか、その辺についてもお話しをいただければと思います。」
(管理人注:映画の終盤、浅間山荘の中で加藤元久が叫んだ言葉のこと。)
掛川正幸(脚本家。「実録連合赤軍」決定稿シナリオ」)

「最初に、『勇気がなかったんだ』というのは僕は脚本には書いていません。あれは若松さんがどうしても入れたいということで書きました。あれについては、僕自身、ちょっと腑に落ちない部分があります。というのは、何に対して勇気がなかったのか、という問題が非常に曖昧になっている。あれは、単純に考えれば、間違ったことに対してノーと言う勇気がなかった、つまり森たち指導部がやっていることに対してノーと言う勇気がなかった、という捉え方になってしまう。僕はそれはちょっと違うと思っている。
それと、僕が『実録連合赤軍』を書くきっかけですが、実は(映画の)4~5年前に『時効なし』という若松さんの本を作った。そのインタビューの中で、あとは連合赤軍くらいしかないかなと言っていて、それはそれで終わって、何年かして若松さんから電話があって、資料を集めてくれということで、資料を集めて出して、それがいつの間にか作品を書くということになってしまった経緯があります。ですから、僕は足立さんが書いた第1稿も見ていませんし、どういう経緯で若松さんが『実録連合赤軍』を撮ることを決めて、僕の方に書かないかという話があったのかも、経緯はほとんど知らないです。ただ、そう言われたから資料を集めますということで書き始めました。」
それと、僕が『実録連合赤軍』を書くきっかけですが、実は(映画の)4~5年前に『時効なし』という若松さんの本を作った。そのインタビューの中で、あとは連合赤軍くらいしかないかなと言っていて、それはそれで終わって、何年かして若松さんから電話があって、資料を集めてくれということで、資料を集めて出して、それがいつの間にか作品を書くということになってしまった経緯があります。ですから、僕は足立さんが書いた第1稿も見ていませんし、どういう経緯で若松さんが『実録連合赤軍』を撮ることを決めて、僕の方に書かないかという話があったのかも、経緯はほとんど知らないです。ただ、そう言われたから資料を集めますということで書き始めました。」
総合司会:金 廣志
「次に青島さんですが、青島さんは高橋伴明監督の『光の雨』の脚本を書かれています。プロデューサーもやられています。この映画は2001年に公開されていますので、『実録連合赤軍』に先んじて連合赤軍を扱った記念碑的な映画であったと思います。我々から見ると、若松監督の映画の方が嘘っぽい、『光の雨』の方が自分たちのリアル感に近いと言っている方がたくさんいます。連合赤軍の映画は、その前に、長谷川和彦監督が撮ろうとしましたが、実現せずに、兄弟分である高橋伴明あるいは兄貴分である若松孝二が映画を撮ることになったと思います。その辺も含めて、『光の雨』の舞台裏について少しお話しいただけないでしょうか。」
「次に青島さんですが、青島さんは高橋伴明監督の『光の雨』の脚本を書かれています。プロデューサーもやられています。この映画は2001年に公開されていますので、『実録連合赤軍』に先んじて連合赤軍を扱った記念碑的な映画であったと思います。我々から見ると、若松監督の映画の方が嘘っぽい、『光の雨』の方が自分たちのリアル感に近いと言っている方がたくさんいます。連合赤軍の映画は、その前に、長谷川和彦監督が撮ろうとしましたが、実現せずに、兄弟分である高橋伴明あるいは兄貴分である若松孝二が映画を撮ることになったと思います。その辺も含めて、『光の雨』の舞台裏について少しお話しいただけないでしょうか。」
青島 武(脚本家。連合赤軍を描いた「光の雨」等多数)

「『光の雨』は1億円で作って、宣伝費3千万使って、1億3千万回収しました。1999年頃、映画化の話があった。事の始まりは、立松和平さんが集英社の『すばる』という文芸雑誌に『光の雨』という小説を3回連載しました。ものすごく長くなると予想される原作で、3話の内の1話は、逃亡中のある革命戦士を単純に守って、かくまうだけの名もない女性兵士の描写から始まる。ということは、立松和平さんが、大河ドラマのごとくあの時代を書こうとしているという意欲的な連載でしたが、坂口死刑囚の手記の一部がそのまま使われているということになって、問題になって連鎖が中止された。その後、何年か経って、立松さんがそのままではということで、全く変えて、山岳アジトで起きたことだけを『光の雨』という同名小説で、新潮社から出し直した。その出版記念会の時に、高橋伴明監督が、『立松がここまでやったので、俺は映画でこれをやる。』と映画化を宣言してしまったことから始まって、当時はお金は一銭もない。当時は連合赤軍事件を映画化することは、ほとんど空手形。映画の世界では詐欺師が自分の土地でもないものを売るという企画の一つだった。30年間、誰も映画化できなくて、浅間山荘がバブルの頃に売りに出るということがあって、それをデレクターズカンパニーが買って、本当に鉄球で壊すという話もあるくらいのところで、それがなかなか出来なくて、立松さんの『光の雨』の事件があって、盗作で苦しみながらも、立松さんが書き直したということに高橋伴明監督がとても感銘を受けて、映画化しようということになりました。
最初は全然書けなくて、僕も書く気がなくて、新宿のゴールデン街で団塊の世代の某脚本家にお願いしましたが、『書くなら俺だな』と言いながら、その後何も仰らない。どうするか。連合赤軍事件を映画化するということで、僕がプロデューサーとして企画書を書いて、お金下さいと言っても、誰もお金を出さない。映画化できると誰も思っていないから。今まで、東映の深作監督がやろうとしました。いろんな方が本当にやろうとしたができなかった。撮影できることが可能だと分かる台本がない限りお金が集まらない。脚本家に払う原稿料がないのでお前が書けということになって、書いたんです。
半年くらい考えながらも全然書けない。ふと、ある日、書けないのは、僕が当事者ではないからだ。でも、この小説は当事者に向けて書かれたのかというとそうではない。この映画の中に僕の居場所はどこにあるのか、ということで、僕たち映画を作る人間の話にした。だから、『光の雨』という立松和平さんの小説を入れ子状態で劇中劇に入れてしまって、これを今作るとしたらどんな問題が起きるのか。インターナショナルのイの字も知らない若い俳優に、助監督が一生懸命インターナショナルを教えるという場面が浮かんだ。これはちょっと面白いかもしれない。そんなことで、立松さんの原作の趣旨が、事件を知らない人たちに事件を伝えたいということだったので、その部分は原作と大きく離れますけれども、趣旨的には合っているのではないか、ということで、こういう入れ子状態になった。それが2001年の話で、紆余曲折があって映画になった。」
総合司会:金 廣志
「最後は原渕さんです。原渕さんはテレビを舞台として様々なドキュメンタリー番組を手掛けてきました。
原渕さんは、北朝鮮やレバノンに渡って、よど号メンバーや日本赤軍メンバー会っている。原渕さんは本の中に書いていますが、『よく分からないけれど妙に引かれてしまう』という話をされています。若松監督とともに10年近く行動を共にされてきましたが、原渕さんにとって、連合赤軍、赤軍派はどんなものなのか、率直なご意見をお聞かせ下さい。」
「最後は原渕さんです。原渕さんはテレビを舞台として様々なドキュメンタリー番組を手掛けてきました。
原渕さんは、北朝鮮やレバノンに渡って、よど号メンバーや日本赤軍メンバー会っている。原渕さんは本の中に書いていますが、『よく分からないけれど妙に引かれてしまう』という話をされています。若松監督とともに10年近く行動を共にされてきましたが、原渕さんにとって、連合赤軍、赤軍派はどんなものなのか、率直なご意見をお聞かせ下さい。」
原渕勝仁(放送作家。フリーTV番組制作者)

「その前に『勇気』の件を一言。若松監督は何故『勇気』を入れたのか。若松監督がレバノンのベーカー高原で坂東国男さんに会った時に、坂東さんの口から、銃銃戦の中で一番過激にやったのが加藤元久さんだったが、『勇気』の件は、映画のようには言わなかったけれど、坂東さんや坂口さんに、『もっと勇気があったら僕の兄ちゃんは死ななかったのかな』と言ったということです。さすがに坂東さんは、それを聞いてヘコんだという話を若松監督が聞いて、これは絶対入れたいと。ただ、それを淡々と喋るのではなくて、ああいう形でデフォルメして表現したと思う。正直、あのシーンは何度見ても泣ける。僕はあのシーンと、浅間山荘に立て籠って、お母さんが呼びかけに来て『こんなことをするために活動を始めたの。違うでしょ。』と言うシーンがある。僕はその2ケ所で泣けますね。別に泣けることを自慢してもしょうがないですが、監督はそういうものを作りたかったと思う。監督にはほぼ理屈はないと思います。僕にもありません。人間の生き様として、圧倒的なすごさを感じていて、リスペクト以上のものを僕は持っている。だから若松監督に密着した。
映画の世界には関わっていない。若松監督はすごく魅力的でチャーミングな人でした。」
総合司会:金 廣志
「足立監督からどんどん挑発して言ってください。」
「足立監督からどんどん挑発して言ってください。」
足立正生(映画監督・脚本家)

「今、『勇気』ということについて、若松孝二が坂東から聞いた言葉であるということ、そのことの間違いはないですが、『勇気』という意味がこの映画の中では全く違ったものに変えられて使われてしまったという、本当に慚愧に堪えないところがある。
若松に坂東が言ったのは事実ですが、つまり言いたかったのは、あの山岳基地の極限状況ではあるけれども、みんな何かを目指して、いろいろ便利な言葉はあるけれども、革命を目指していたことは間違いない訳ですよね。俺が押し付けることはないけれど、全員そうでしょ。革命をしようとしていた。その中でどうしたらいいか悩むこと、分からないこと、疑問に持ったり立ち止まることがある。その悩むこと、分からないと言い切ること、それを引き受けることが勇気だということを、坂東や私が若松さんと話して入れようとしていた。これが1点。
それから、もう一つ、『実録連合赤軍』制作委員会というものを最初に作りまして、その時に私が提案したのは、浅間山荘を中心にした映画にしようとした。特に僕の方でもっと分かりやすくするために、革命家は何を考え、その成長過程で起こった問題であるから、それが一番出るのは何がいいかというと、山越えをして浅間山荘にたどり着いた彼らが、浅間山荘に入って行ったら、管理人の牟田泰子さんが手を挙げていた。それはどういうことかというと、山岳警察が逮捕に来たと思った。彼女が手を挙げて逮捕することろから浅間山荘の中の話が始まって、そのプロセスで兵士たちと泰子さんの間で生まれた内容というのが、非常に根源的な人間としての問題からスタートして、最終的には加藤の弟が母親がわりと思うくらいにまでいった中での話です。ですから、『実録連合赤軍』の中で、結論として、落とし前がついたなんて先輩が言ったからというので、腹を立てて、『落とし前はついていない。勇気がなかっただけじゃないか』と言うのは、別に坂口や坂東が勇気がなかったという問題ではなくて、革命家が自分が分からないなら分からないこと、悩んでいること、それでも目指していること、そういった自分を認められるかどうかというところに『勇気』はある。実は『光の雨』の隠されたテーマはそこにある。
私が書いた本は牟田泰子さんを軸にしてやろうとしていたので、彼女の人権の問題もあるのでずいぶん準備したんですが、頓挫して、それはなしにした。その後、掛川さんが書いた本を読んで、最初のテーマはどうした、何やこれは、ニセ・ドキュメンタリーをやってどうするんだ、というようなことを言って、どうしても入れろと撮影中も言ってたら、最後に来て、『お前が言っていたのは入れたよ』とポンと本を渡されて見たら書き込みがしてある。なおかつ、『勇気』というのがとんでもなく切り詰められているというのがありまして、それ以降、絶交になったりしました。(笑)」
総合司会:金 廣志
「第一の問題について、雪野さんにお考えを伺ってみます。」
「第一の問題について、雪野さんにお考えを伺ってみます。」
雪野建作(当事者・革命左派。IT会社経営)

「私はちょうど山荘の半年前、8月21日に新宿で捕まっています。その後は獄中に居て、あの事件は未決拘留中に知った訳です。ものすごい衝撃を受けました。一つは、私がいる間に2人、戦線から離れた人を処断している。これは、その後、組織的には大きな転換点だった。私はそれを立件されてはいなけれど、知ってはいました。知っていて、私がその時どういう態度を取ったかというと、『それはしょうがないだろうな』と、その時は考えました。7~8ケ月前に似たようなことがあって、その時は話があって、調査まで行ったけれど実行には至らなかった。そのことがあったので、1回目は割とすんなりと決まった感じだった。そのことがあったので、あのことがこんなことになってしまったのか。2人を処刑したというのが、私がよく知っている昔からの仲間、そういう人たちがあんな形になるとは全然想像もできなくて、ものすごいショックでした。
あのことがこんなことになってしまった、というのが正しくその時の印象です。
それと『勇気』という問題と関係しますが、私は外にいる時に結構永田と議論、論争しています。もうデタラメなことばかりやっているので、最初の野営地、放棄されたキャンプ場に我々がいて、まる2日3日議論したことがあります。ただ、全然通じない。これはしょうがない、ということで、自分の意見は留保するが多数だからその方針は認めるということで、銃を軸とする方針をしょうがないということで黙認した。自分は反対だけれど全体がそういう方針で行くのならしょうがないということで進んで行った。
それがさっき言っていたような結果になった時に、本当に何か問題があった時に、それを最後まで突き詰めてやらないとダメだと。もう少し言うと、その時に、どうしても納得がいかないという時は、そこでノーと言う必要がある。足立さんのお話で、分からないと言う『勇気』ということがありましたが、それと同じようなことを感じた。そういう意味でいうと、あの時、本当に目も当てられないような状態でゲッソリして、その時、本当に骨身に染みるような形で、納得がいかない時は絶対にそれはそのまま曖昧にしてはいけない。
もう一つ言うと、曖昧にしないで結論が出なくても、その時にノーと言わなくてはいけない時にはノーと言わなくてはいけない。私は当時、真岡事件で指名手配されていたので、そういう状況でただ一人で生き延びて運動を続けるということが頭に浮かばなかった。
その点、金さんは孤立無援ながら15年逃亡して時効まで逃げた人です。とても金さんみたいな根性がなかったので、その時は組織から離れて自分の立場を貫くということが出来なかった。
まとめると、そういう『勇気』ということは足立さんとはその点は全く同感します。」
総合司会:金 廣志
「今、雪野さんから話もありましたけれど、今、ここにいるメンバーも私もですが、私たちは生きようなんて全然思っていなかった。死のうという訳ではないですが、自分たちの命は預けたと思って活動している。雪野さんと同じで、事件は本当に衝撃だった。まさか、ということだった。それは、世間やマスコミが受けた衝撃という問題ではなく、我々自身の問題だった。その耐え難さというのは、僕は捕まりに出る訳にはいかなかった。このことを抱えなければいけない、僕がのこのこ出て行って、申し訳ありませんでしたと捕まったら、『何だざまあみろ。やっぱり赤軍なんてこんな程度のものか。』と言われると思った。だから一生出てくるつもりはなかった。でも15年というのが一つの節目かなと思って出てきました。
足立さんにもっと挑発してもらいたいので、司会は足立さんに任せます。(笑)」
「今、雪野さんから話もありましたけれど、今、ここにいるメンバーも私もですが、私たちは生きようなんて全然思っていなかった。死のうという訳ではないですが、自分たちの命は預けたと思って活動している。雪野さんと同じで、事件は本当に衝撃だった。まさか、ということだった。それは、世間やマスコミが受けた衝撃という問題ではなく、我々自身の問題だった。その耐え難さというのは、僕は捕まりに出る訳にはいかなかった。このことを抱えなければいけない、僕がのこのこ出て行って、申し訳ありませんでしたと捕まったら、『何だざまあみろ。やっぱり赤軍なんてこんな程度のものか。』と言われると思った。だから一生出てくるつもりはなかった。でも15年というのが一つの節目かなと思って出てきました。
足立さんにもっと挑発してもらいたいので、司会は足立さんに任せます。(笑)」
足立正生(映画監督・脚本家)

「任せられても困るけれど、非常に独善的なので、みんなを挑発するなんてことはできません。雪野さんも仰っていたけれど、僕が欲しかったのは、皆さんの当時でもいいし今でもいいですが、自分たちがやろうとしていたこと、そこから考えて、僕なんかは坂東なんかと後付け的に話し合った内容でしかない訳ですが、そちら側から見ても、革命をやろうとした上で起こった問題ということを私は抜きにしてはいけないと思う。第一部の発言を聞いていても、警視庁公安部が分析しているようなことしか言わない。それはそれで、理性のある論理的な正しいことかもしれないけれど、そこで全部消されていること、失われていることはある。第二部は、表現者として連赤の問題をどう思ったのか、それを外側から『なぜる』ようにやっている訳ですから、僕が例えば『勇気』という言葉で突き付けたのは、非常に小さなテーマである訳ですけれど、皆さんに一言ずつでも発言して欲しい。
青砥さんからよろしくお願いします。」
青砥幹夫(当事者・赤軍派。会社員)

「足立さんが仰った、分からないこととか立ち止まる勇気は当然必要だと思いますが、我々は革命運動に挺身するという前提で全ての行動を提案していましたし、特に赤軍派の場合は、私もそうですが、ほとんどの人間は、迷って立ち止まった時は必ず左に行くんです。それをずっと繰り返してきました。一方で、それから脱落していく人間もいます。そういう人間は去るに任せる。やりたい人間だけが左の方に進んでいくという伝統をずっと受け継いできたものですから、それは山に入ってからも基本的に同じです。ただし、山の中で自分たちが十分に納得できないまま、目の前で仲間を死なせてしまうという状況が、果たしてそれでも自分が選ぶべき左なのかどうなのか、そういう迷いは当然沢山ありました。そこで、さきほどの『勇気がなかったんだ』という発言が初めて生きてくるのではないか。確かにそういう面はあったと思います。ただし、そこで立ち止まる余地があったのか。そんなものありません。前に進むしかない。早く終わって警官隊と遭遇して戦死すればいいという考えが非常に強かったと思います。そういった気持ちで山の中にいました。」
足立正生(映画監督・脚本家)
「さきほど山田さんの言葉で、死を突き付けることで人間を追い込むことはできない、ということを仰った。その山田さんがもう一つ言っていますよね。『この総括運動は間違っている。だけど、これをやって俺を殺すことによって革命が前進すると思うのなら殺せ』ということも言っていますよね。」
「さきほど山田さんの言葉で、死を突き付けることで人間を追い込むことはできない、ということを仰った。その山田さんがもう一つ言っていますよね。『この総括運動は間違っている。だけど、これをやって俺を殺すことによって革命が前進すると思うのなら殺せ』ということも言っていますよね。」
青砥幹夫(当事者・赤軍派。会社員)
「それは私は直接聞いていません。」
「それは私は直接聞いていません。」
足立正生(映画監督・脚本家)
「そこが表裏一体となって非常に重要なことだと思っていた。岩田さん、離脱したということは非常に勇気のいることでもあった訳ですよね。私は、かっての党派活動家の人に聞いて回って、内ゲバに行くかどうか、あるいは査問会議に出席するかどうかで自分を問うて、逃亡した人たちに何人かお会いして話を聞いて回ったこともあります。彼らは、『逃げることは弱いからだ』としか言わないから、『冗談じゃない、そこは最も勇気のいったことであるから、そこからもう1回考えてみてくれ。』と僕は挑発している。岩田さん、よろしく。」
「そこが表裏一体となって非常に重要なことだと思っていた。岩田さん、離脱したということは非常に勇気のいることでもあった訳ですよね。私は、かっての党派活動家の人に聞いて回って、内ゲバに行くかどうか、あるいは査問会議に出席するかどうかで自分を問うて、逃亡した人たちに何人かお会いして話を聞いて回ったこともあります。彼らは、『逃げることは弱いからだ』としか言わないから、『冗談じゃない、そこは最も勇気のいったことであるから、そこからもう1回考えてみてくれ。』と僕は挑発している。岩田さん、よろしく。」
岩田平治(当事者・革命左派。会社員)

「さっき青砥さんが言ったように、山の中にいる時は、立ち止まって考えて、顧みるという余裕なんてない。死に突き付けられているから。ただ、私はたまたま名古屋の方に活動に出させてもらえたから、そこで考えるというか、私は(山から)下りる時にこれでいいのかどうか分からなかったけれど、山から出されて活動中に、これが本当に正しいのか正しくないのかよく考えてみようというつもりで出た。もう二度と山に戻ってこないかもしれないと考えて、自分の個人なメモなど携えて山から下りましたが、10日くらい活動した中で、やっぱり論理的には革命をやらなければいけないし、正しいことかもしれないけれども、そういうものには、正しかろうが正しくなかろうが付いていけない。論理じゃないと思いますが、人間というのは、聖書の最初の言葉は『まず言葉ありき』ですよね。人間の人間たるゆえんは言葉であると思います。論理的にいかに物事を理解するかということだと思いますが、その時は16歳の娘さんとか、私の何も知らない彼女を山に連れてこい、という自体の中に、もう付いていけないということで私は逃げました。ただ、その時も、革命ということがありましたので、前澤さんが迎えにくれば素直に行って、殺されようかと、そういう気持ちはありました。
ですから、そんなに確信があって、これは間違っているということではなかったです。」
足立正生(映画監督・脚本家)
「了解しました。前澤さんお願いします。」
「了解しました。前澤さんお願いします。」
前澤虎義(当時者・革命左派。塗装会社現場チーフ))

「さっきも出ましたが、同じ意見です。革命左派の指導部は全然信用できなくて、能力がないという評価をしていました。取り換えればいいけれど、取り換えるには俺は能力ないし、という形で行き着くところに行くしかないという感じだったから、初めから銃撃戦やるつもりだったから、あと1年生きているかなというのがその時の前提条件だった。最初のリンチが始まった時に、我々が殺した人には申し訳ないけれども、こいつらを引けばいいのかなという部分で、しょうがないのかなという風に最初の一人二人は考えた。そうすれば、その前に脱落者がいっぱい出ていたので、銃撃戦をなんとかやれる態勢が出来るのかなというので、止むを得ないのかなと思ってしまった。
岩田君が名古屋に行ったのとちょうど同じ日に、青砥さんと一緒に東京に赤軍派のシンパをオルグしに行った。そうしたら、あいつらを殺して、こんなに幼い子を連れて行って、殺すために連れていくのか、ということで、その時にもう論理的にメチャクチャで、いわゆる総括が全然信じられないという気持ちになった。逃げるというか帰りたくないという気持ちはあったけれど、結局ズルズルと闘争から離れる喪失感というか、離れられないということがあって、最終的な逃亡はだいぶ先になった。結構早い段階で帰りたくないという気持ちはあった。」
足立正生(映画監督・脚本家)
「植垣さん、短く。」
「植垣さん、短く。」
植垣康博(当事者・赤軍派。討論スナックバロン経営)

「実際に武装闘争に関わるきっかけは、当時の革命論や軍事論はいろんなものが横行していました。しかし、それは全部実際の行動をやっていない上での、実際の経験がない上での理論でした。僕は机上の空論ではダメだ、とにかくやってみなくては分からない、というのが僕が最初に運動に関わった大きな動機でした。要は革命と口で言うのは誰でもできる。実際にするとなると別問題。実際にどういう革命の闘いが可能なのかを求めていく。そういう意味で僕はゲリラ戦をやっていた時に、常に試行錯誤の思いでやってきました。だから指導部からあれやれこれやれと来るけれど、必ずしもそれをその通りに実行していなかったので、森さんからいろいろ文句を言われましたが。
大事なのは、勇気があるかないかという問題より、逡巡した時にどうするか。逡巡した時にどこに行けばいいのか、それが正しいかどうかはやってみなければ分からない面がある。だから逡巡した人はしなくてもいい。ただ、やる以上は常に試行錯誤だということを前提に行動していれば、たぶん、僕らみたいな大きな過ちを犯すことはないのではないか。
これからの時代、また、どんな闘いが展開することになるか分からないけれど、毎日試行錯誤の思いで行動して、過ちを犯すことも恐れてはいけない。」
足立正生(映画監督・脚本家)
「連赤問題をテーマにあるいは課題にして 原渕さんは最終的にシンパシーを持ったということを言っていましたが、掛川はそんなことないだろう?」
「連赤問題をテーマにあるいは課題にして 原渕さんは最終的にシンパシーを持ったということを言っていましたが、掛川はそんなことないだろう?」
掛川正幸(脚本家)
「連赤にシンパシーがないのか?いや、ありますよ。(笑)」
「連赤にシンパシーがないのか?いや、ありますよ。(笑)」
青島 武(脚本家)
「世代的な奇妙な憧れみたいなものはありました。ただ、中身は分からずに。皆さんと12年違いますが、この映画を作ってから、憑き物が落ちたように興味がなくなりました。(笑)」
「世代的な奇妙な憧れみたいなものはありました。ただ、中身は分からずに。皆さんと12年違いますが、この映画を作ってから、憑き物が落ちたように興味がなくなりました。(笑)」
足立正生(映画監督・脚本家)
「そういう人もいる。順番に原淵さんから、表現者として連赤は何だったのか。」
「そういう人もいる。順番に原淵さんから、表現者として連赤は何だったのか。」

原渕勝仁(放送作家)
「若松さんが何故この映画を作りたかったのか、言っておきたかったことがある。まず(1972年映画)『突入せよ「あさま山荘事件」』に対するものすごい怒りがあった。あれは浅間山荘の内部とか山の話が一切出てこない。皆さんの顔も出てこないし、名前も出てこない。モンスターですね。怪物がいて、そこに突入する。ものすごくヒロイックで面白い映画です。だけど、若松さんはあの映画が大嫌い。火炎びんをぶつけてやりたいぐらいの怒りがあったと言っていました。
もう一つ、熊切監督の『鬼畜大宴会』(1998年)という映画があります。これは、永田洋子と思われる女性が出て来て、これがとんでもない人物として描かれている。あの映画の女優はセクシーなんです。永田洋子は一般的に美人ではないと言われているけれど、何か惹かれるものがあったのかなと。もしそうであれば、あの映画も一面は捉えていた映画だったと思う。
若松監督は、あれも観て、ものすごく怒っていました。若松監督は、『実録』と謳ったように、牟田泰子さん以外は全部実名です。
今、お話しを伺っていても、正解というのが皆さん自身の中にもない。僕は100年後まで語り継がれる事件だと思います。僕はこれからも、きちっと事実を追い続けて、何らかの形で表現していきたいと思っています。」
「若松さんが何故この映画を作りたかったのか、言っておきたかったことがある。まず(1972年映画)『突入せよ「あさま山荘事件」』に対するものすごい怒りがあった。あれは浅間山荘の内部とか山の話が一切出てこない。皆さんの顔も出てこないし、名前も出てこない。モンスターですね。怪物がいて、そこに突入する。ものすごくヒロイックで面白い映画です。だけど、若松さんはあの映画が大嫌い。火炎びんをぶつけてやりたいぐらいの怒りがあったと言っていました。
もう一つ、熊切監督の『鬼畜大宴会』(1998年)という映画があります。これは、永田洋子と思われる女性が出て来て、これがとんでもない人物として描かれている。あの映画の女優はセクシーなんです。永田洋子は一般的に美人ではないと言われているけれど、何か惹かれるものがあったのかなと。もしそうであれば、あの映画も一面は捉えていた映画だったと思う。
若松監督は、あれも観て、ものすごく怒っていました。若松監督は、『実録』と謳ったように、牟田泰子さん以外は全部実名です。
今、お話しを伺っていても、正解というのが皆さん自身の中にもない。僕は100年後まで語り継がれる事件だと思います。僕はこれからも、きちっと事実を追い続けて、何らかの形で表現していきたいと思っています。」
足立正生(映画監督・脚本家)
「掛川さん。」
「掛川さん。」
掛川正幸(脚本家)
「連合赤軍とは何だったのか。僕は同時代ですから、掛け値なしに自分たちのことです。ただ、何で連赤に加わらなかったのかというと、偶然としか言いようがない。もう一つ、若松さんから話がきた時に、とにかく資料を集めろ、記録を残すという意味で、全部もう一度リサーチし直したら、自分自身で記憶がごちゃ混ぜになっていて、前後が逆転していることもありました。そういう意味で、この映画のシナリオを書いて、そこで自分の原点というか、過ごしてきた時間をもう一度確認することができた。そういう映画ではないか。」
「連合赤軍とは何だったのか。僕は同時代ですから、掛け値なしに自分たちのことです。ただ、何で連赤に加わらなかったのかというと、偶然としか言いようがない。もう一つ、若松さんから話がきた時に、とにかく資料を集めろ、記録を残すという意味で、全部もう一度リサーチし直したら、自分自身で記憶がごちゃ混ぜになっていて、前後が逆転していることもありました。そういう意味で、この映画のシナリオを書いて、そこで自分の原点というか、過ごしてきた時間をもう一度確認することができた。そういう映画ではないか。」
足立正生(映画監督・脚本家)
「青島さん、最後に一言。」
「青島さん、最後に一言。」
青島 武(脚本家)
「今日、この会場に団塊の世代の方だけでなく、僕は55歳ですが、僕より若い人たちが沢山いらっしゃる。そういう人たちが何故いらっしゃるのかなという興味がある。僕が『光の雨』を作った時に思ったのは、12歳下の僕の視点みたいなことが、日本映画で初めて作られた連合赤軍事件映画として、それを入れたかったということがあって、それが何となく出来てしまったから、(先ほど)興味がなくなったという話をしましたが、そのことなのかなという気がします。」
「今日、この会場に団塊の世代の方だけでなく、僕は55歳ですが、僕より若い人たちが沢山いらっしゃる。そういう人たちが何故いらっしゃるのかなという興味がある。僕が『光の雨』を作った時に思ったのは、12歳下の僕の視点みたいなことが、日本映画で初めて作られた連合赤軍事件映画として、それを入れたかったということがあって、それが何となく出来てしまったから、(先ほど)興味がなくなったという話をしましたが、そのことなのかなという気がします。」
足立正生(映画監督・脚本家)
「表現者と革命を長い間やっていた人々とのセッションになった訳ですが、ちょっと乱暴な私が司会と話の方向を絞ったので、皆さん、面白くなかった点は許して下さい。ただし、付け加えると、若松孝二が80歳になったのを記念して80周年というのをやり、この映画『実録連赤』を改めて新しい舞台で若い人々が作った。それは演出家のシライケイタさんというまだ30代の人です。インタビューできる人には全部インタビューして回り、正に『光の雨』をもう1回実行する訳です。それで、その上で、自分たちの理解したものでステージを作る。
実は、僕がわざわざ何故一般論的な概念の広い『勇気』という言葉を出したかというと、その芝居のキーワードを『勇気』という言葉にしていました。私は非常に感動したこともあります。ですから、表現者の側からすれば、連合赤軍というのは自分の問題だったというのが一つ。そして、そこで問われた問題は何だったのかというと、革命を目指したロマンを追求したその上での問題という大枠は外れないのではないか。このことを会場にいる皆さんに確認していただければ幸せです。
確認できる人は拍手してください。(拍手)」
「表現者と革命を長い間やっていた人々とのセッションになった訳ですが、ちょっと乱暴な私が司会と話の方向を絞ったので、皆さん、面白くなかった点は許して下さい。ただし、付け加えると、若松孝二が80歳になったのを記念して80周年というのをやり、この映画『実録連赤』を改めて新しい舞台で若い人々が作った。それは演出家のシライケイタさんというまだ30代の人です。インタビューできる人には全部インタビューして回り、正に『光の雨』をもう1回実行する訳です。それで、その上で、自分たちの理解したものでステージを作る。
実は、僕がわざわざ何故一般論的な概念の広い『勇気』という言葉を出したかというと、その芝居のキーワードを『勇気』という言葉にしていました。私は非常に感動したこともあります。ですから、表現者の側からすれば、連合赤軍というのは自分の問題だったというのが一つ。そして、そこで問われた問題は何だったのかというと、革命を目指したロマンを追求したその上での問題という大枠は外れないのではないか。このことを会場にいる皆さんに確認していただければ幸せです。
確認できる人は拍手してください。(拍手)」
総合司会:金 廣志
「どうもありがとうございました、これで第二部を終了させていただきます。」
「どうもありがとうございました、これで第二部を終了させていただきます。」

(第二部終了)
※ブログ掲載記事は発言の概要です。聞き取れない部分などは省略しています。また、話し言葉なので、分かりやすくするために書き言葉に書き直している部分もあります。
第三部を含め、シンポジウムの正確な内容を知りたい方は、「連動赤軍の全体像を残す会」が発行予定の「証言」12号をご覧ください。
第三部を含め、シンポジウムの正確な内容を知りたい方は、「連動赤軍の全体像を残す会」が発行予定の「証言」12号をご覧ください。
※当ブログでは、5年前の連合赤軍40周年の時にも関連記事を掲載しています。こちらも参考にご覧ください。
●野次馬雑記No241 ( 2012.5.15 )
「1972年・連合赤軍浅間山荘銃撃戦と総括による死をどう受け止めたのか」
(「もっぷる通信特別号 3・31人民集会特集」(1972年4月20日発行)の概要)
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/31769396.html
●野次馬雑記No241 ( 2012.5.15 )
「1972年・連合赤軍浅間山荘銃撃戦と総括による死をどう受け止めたのか」
(「もっぷる通信特別号 3・31人民集会特集」(1972年4月20日発行)の概要)
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/31769396.html
●野次馬雑記No245 ( 2012.6.22 )
「シンポジウム 浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍」
(連合赤軍40周年シンポジウムの発言概要)
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/31769408.html
「シンポジウム 浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍」
(連合赤軍40周年シンポジウムの発言概要)
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/31769408.html
(終)
【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は9月1日(金)に更新予定です。
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は9月1日(金)に更新予定です。