野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2017年11月

2017年11月12日、14時から大阪・梅田スカイビルイーストタワーで、10・8山﨑博昭プロジェクト主催による「羽田闘争50周年in関西」集会が開かれた。
この集会に参加したので、その報告を掲載する。

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10・8山﨑博昭プロジェクト(以下「プロジェクト」と記載)では、1967年10月8日の第一次羽田闘争から50年目となる本年10月8日に、東京・四谷の主婦会館で「羽田闘争50周年―山﨑博昭追悼―」集会を開催した。それに続いて、1967年11月12日の第二次羽田闘争(佐藤訪米阻止闘争)から50年目の日に、大阪でも集会を開催することになった。この日は、10月8日の第一次羽田闘争で羽田・弁天橋の上で亡くなった山﨑博昭君の誕生日でもある。
第二次羽田闘争についは、関係する記事(「前進」1967.11.13)をホームページの「新左翼党派機関紙・冊子」ページに掲載したので、ご覧いただきたい。

私がプロジェクトの集会・講演会の関係で大阪に行くのは、これで4回目となる。これから当分は大阪に行くこともないと思うので、集会の前に大阪在住のN君に会うことにした。N君とは年賀状のやりとりはしていたが、実際に会うのは約40年ぶりである。
N君とは明治大学に入学当初、クラスが一緒となり、明大全共闘でも一緒に活動していた仲間である。N君に関する思い出としては、大学1年の時の大阪行きである。1970年に大阪で万国博覧会が開催されたが、その前年の1969年8月7日から11日まで、大阪城公園でベ平連が中心となって「反戦のための万国博」、いわゆる「ハンパク」が開催された。

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(「ハンパク」の写真)
この時、N君に誘われて「ハンパク」に参加した。大阪に行ったのはこれが初めてだった。会場に日大全共闘のテントがあり、そこで日大全共闘の黒ヘルを借りて御堂筋デモをしたことを思い出す。もう48年も前もことである。
新幹線の中でそんなことを思い出しながら、新大阪に到着。集会会場のある梅田スカイビルに向かった。大阪駅を出ると、特徴のある梅田スカイビルが見えた。

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梅田スカイビルの飲食店でN君と久しぶりに話をした。お互いの近況や健康状態などの話をしたが、N君も67年10・8に影響を受けて活動を始めたと話していた。
N君も当日の集会に参加した。

「羽田闘争50周年in関西」集会の様子は、写真を中心にして報告する。
集会は、発起人でもある歌人・道浦母都子氏と、山﨑博昭君の高校時代の同期生である黒瀬準氏の司会により始まった。
集会の冒頭、山﨑博昭君を追悼して全員で1分間の黙祷を行った。

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最初に、プロジェクトの代表でもある山﨑博昭君の兄、山﨑建夫氏から「50年経ちました。弟が繋いだ縁で沢山の方が動いていただいて、プロジェクトの目標はほぼ達成しました。60周年は終わったが、これからも続けていくので協力をお願いしたい。」という挨拶があった。

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挨拶に引き続き、50周年を迎えてプロジェクトが目標としていた三事業について、目標が達成されたとの報告があった。
事業の一つ目、山﨑博昭追悼のモニュメント建立については、山﨑建夫氏から「本年6月17日に東京・大田区の萩中公園に隣接した福泉寺に山﨑博昭の名を刻んだ墓石と『反戦の碑』を建立した。」との報告があった。

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事業の二つ目の50周年記念誌の発行については、プロジェクトの関西運営委員会の新田克己氏から「10月8日に『かつて10・8羽田闘争があった』(合同出版)を刊行した。」という報告があった。

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記念誌は、今回は「寄稿篇」ということで61名の方が寄稿している。また、来年の10月8日を目途に、記念誌2巻目の「資料篇」を刊行するとのことである。

事業の三つ目のベトナムでの展示会の報告の前に「2017年 プロジェクトの歩み」と題した30分の記録映像が上映された。この映像は、映画「三里塚に生きる」や、現在上映中の「三里塚のイカロス」の代島治彦監督が撮影したものである。
上映の前に代島監督から挨拶があった。

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映像は10月8日の弁天橋での献花・黙祷の様子をはさんで、8月19日から24日までのベトナム展示ツアーをメインにしたものである。

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映像上映後、事業の三つ目のベトナムでの展示会の報告があった。ベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館において、プロジェクトと博物館との共催により、8月20日から11月15日まで、「日本のベトナム反戦闘争とその時代」を開催したが、この展示会について、発起人でもある山本義隆氏からベトナムでの展示に至る経緯とベトナム・ツアーの報告、そして今後のベトナムでの巡回展示など新たな展開について報告があった。

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プロジェクト三事業の報告の後、「芸人9条の会」のメンバーでもある「パギやん」こと趙博さんの歌と語りがあった。最近、東京の脱原発集会でも歌っているので、歌を聴いたことがある方もいると思う。1967年の10・8の時は小学5年生だったと語っていた。
趙博さんは、山﨑博昭君を追悼して「死んだ男の残したものは」と中島みゆきの「世情」の2曲を演奏した。
「シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく」という歌詞の「世情」の選曲はよかった。

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追悼の歌はここで終わって、お笑い系ということで、「芸人9条の会」のテーマソング「ワテらは陽気な非国民」を演奏。

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最後に「当世新説阿呆陀羅経」を演奏して第一部は終了した。

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休憩をはさみ、発起人でもあり、山﨑博昭君の大手前高校の同期生でもある作家・三田誠広氏より「1967年から1970年代にかけての激動の時代をふりかえって」と題した講演が行われた。早稲田大学時代のこと、山﨑博昭君のこと、現代の社会に関することなど、身振り手振りを交えて熱く語った。

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三田誠広氏講演の映像が、プロジェクトの関西運営委員会のメンバーにより、ユーチューブにアップされているので、こちらもご覧いただきたい。

会場では、三田誠広氏が芥川賞を序章した作品「僕って何」のサイン入り初版本が販売され、休憩時間前に完売した。

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講演の後、発起人の辻恵氏からプロジェクトの今後について「今日の集会で、2014年に発足した山﨑博昭プロジェクトの第一ステージは終わる。今の状況に切り込んで、これからどのようにプロジェクトが第二ステージを歩んで行くのかが問われている。第2ステージに向けて今後1年をかけて、どういう方向で進めていくのか議論していく。
一つはベトナムとの関係、もう一つは世代の越えて若手の皆さんと共同の議論の場を作って行くこと、この二つを軸に考えていきたい。今後も参加をお願いしたい。」との報告があった。

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最後に若手研究者である幸田直子氏(近畿大学国際学部講師)から「グローバルヒストリーとしての1968」というタイトルで発言があった。
「アメリカでは1960年代は革新的な政治的・文化的・社会的な変化をもたらした時代として記憶されている。1960年代に多くの国で学生や市民による反体制運動が起こった。最近、グローバル史としての1960年代に注目が集まっている。
特に1968年がグローバルな歴史的瞬間、空間であったことが明らかになった。アメリカ政府は日本の安全という観点から1960年代から日本の学生運動の情報収集を行ってきた。30歳以下の人への日本本土から沖縄へのビザを発行しないように指示していたことも明らかになった。日本とアメリカのベトナム反戦運動は越境的につながり、反戦運動が展開された。ベトナム反戦運動は、単にベトナム戦争に反対しただけでなく。既存の権力構造に対する大きな運動へと発展したのではないかと思う。
ベトナム反戦運動を「歴史」としてどう考えるか。1960年代の後半、アメリカでは社会の衰退、モラルの崩壊などにより反対勢力が生まれる。1960年代の運動を批判するロナルド・レーガンなど保守的な政治家の登場を新自由主義の起源とする学者もいる。
オキュパイ・ウオールストリートの運動の時にアメリカにいた。そこでは1960年代の運動に参加していた人々と若い活動家との交流があった。
日本においてベトナム反戦運動はどのようなレガシーを残したのか?これはベトナム反戦運動の研究者の課題だと思っている。」

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若手研究者の発言の後、発起人が演壇に集まり、挨拶した。

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最後に発起人の弁護士・北本修二氏から閉会の挨拶があった。
「集会に沢山の方が参加していただき、ありがとうございます。10・8羽田闘争は決して日本だけの現象ではなくて、全世界の反体制運動のうねりの中の象徴である。日本のうねりに火を付けたものが山﨑博昭君の犠牲だったと思う。これからも続けていきたいと思うので、よろしくお願いしたい。」

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この集会に関する新聞記事が、当日の朝刊に掲載されたということもあり、集会には、約150名の参加者があり、大盛況だった。

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集会終了後、近くの飲食店で懇親会があった。30数名の方が参加した。
懇親会では参加者がそれぞれ発言を求められ、私は関西運営委員会に敬意を表して「第二ステージは関西運営委員会を中心に進めていただいきたい」と発言した。

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今回の集会では、時間は短かかったが若手研究者の発言を取り入れるなど、プロジェクトの第2ステージに向けての意欲が感じられた。
今後のプロジェクトの第二ステージに期待したいと思う。 
(終)

【お知らせ その1】
国立歴史民俗博物館 企画展示 (千葉県佐倉市)
「1968年」無数の問いの噴出の時代

●展示期間 10月11日(月)から12月10日(日)
詳細は国立歴史民俗博物館のHPを参照してください。
http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/index.html

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【お知らせ その2】
野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は12月8日(金)に更新予定です。

2017年8月20日から11月15日まで、ベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館において、10・8山﨑博昭プロジェクトと博物館との共催により、「日本のベトナム反戦闘争とその時代」展が開催されている。
 この展示会は、昨年、同プロジェクトが東京と京都で開催した「ベトナム反戦闘争とその時代―山﨑博昭追悼」展の内容を更に充実させたものである。
この展示会に合わせて、同プロジェクトの企画により、8月19日から8月24日まで約50名の方がベトナム博物館展示・ツアーに参加した。

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私はこのベトナム・ツアーには参加しなかったが、ツアーに参加した方が「10・8山﨑博昭プロジェクトベトナムホーチミンの旅」という映像をユーチューブにアップしていただいた。その映像とナレーション及び参加者へのインタビューを基に、私の方でベトナム・ツアーの報告を作成したので、今回はそれを掲載する。

【10・8山﨑博昭プロジェクト ベトナムホーチミンの旅】
2017年8月19日午後、10・8山﨑博昭プロジェクトホーチミン市訪問団約50名が日本から到着。夜は、サイゴン川ディナークルーズにて結団式を行いました。
 
<オープニングセレモニー>
2017年8月20日、いよいよ今日は本ツアーのメインイベント、10・8山﨑博昭プロジェクトにとってもホーチミン市戦争証跡博物館にとっても史上初の試みで記念すべき日の「日本の反戦闘争とその時代」展示会オープニングセレモニーの日です。

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10・8山﨑博昭プロジェクトからは山本義隆氏(開幕挨拶)佐々木幹郎(詩朗読)山﨑建夫氏(相互の記念品授与、テープカット)が登壇しました。
その中から、山本義隆氏の挨拶を掲載します。文章だけではわかりませんが、映像を見ると、正に「渾身のアジテーション」という表現がぴったりの挨拶でした。

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「10・8山﨑博昭プロジェクトを代表してご挨拶を申し上げたいとおもいます。山本義隆と申します。はじめにベトナム戦争の時代における日本の反戦闘争に関するこの展示会を開催するにあたり、この機会を与えて頂いたホーチミン市戦争証跡博物館とホーチミン市人民委員会に心から感謝の意を表明したいと思います。
50年前、1967年10月8日、日本の学生組織である全学連が、この日、日本の首相・佐藤栄作が南ベトナム政府を公式訪問するのを阻止する目的で、日本の東京の国際空港、羽田に向かっておりました。その羽田空港に至る橋の上で武装した警官隊が学生に襲いかかり、そして大学生、山﨑博昭君が命を落としてしまいました。当時、南ベトナム政府はすでに民衆の支持を失い、その南ベトナム政府を軍事力で支えていたアメリカは、南ベトナムの農村を破壊し、北ベトナムの都市を空爆しておりました。そして日本はその米軍に対して軍事基地を提供し、かつ様々な軍事物資を提供しておりました。ベトナムはフランス帝国主義とアメリカ帝国主義に勝利した世界で唯一の国であります。そういう意味において私はベトナムという国を偉大な国だと思っております。日本は1940年にフランスの支配下にあったベトナムに軍を進め、そのことが一つの原因となって、ベトナムに飢饉がもたらされ、多くのベトナムの人たちが命をなくしたことが知られています。それから四半世紀のち、1960年代中期に日本は再び、アメリカのベトナム戦争に加担したのです。1967年に日本の首相が南ベトナム政府を公式に訪問することは、南ベトナム民衆に敵対することを世界に公表し、そしてアメリカの軍事戦略を政治的に支持することになります。これは、日本の心ある民衆にとって許すことができないことであったのです。山﨑博昭君の犠牲という、尊い命を奪った、あの日の全学連の行動は世界に日本の良心を示したものだと私は思っております。
それ以来、日本の反戦運動は、学生、労働者、農民、そして多くの市民によって長年にわたって闘われ続けました。アメリカの原子力空母の日本寄港を阻止する闘い、米軍基地拡張を阻止する闘い、野戦病院開設を阻止する闘い、そして米軍のジェット燃料輸送を拒否する闘い。さらには、沖縄における米軍基地の基地労働者の闘いへと日本の闘いは発展していきました。さらに、日本国内における米軍基地からの脱走兵の支援の運動、脱走を呼び掛ける運動、さらには、上官の命令に対する拒否をする運動などを闘って、在日米軍への働きかけを強め、そして日本の国内ではさらに新国際空港の建設に反対する農民の反対運動や、自衛隊の内部からさえ反戦の訴えがあげられていったのです。この間の日本の民衆の闘いは、日本の民衆がはじめて世界の歴史に手をかけた希有な経験だったと思っております。
今回のすなわち10・8山﨑博昭メモリアルエキシビション、これは私たちが取り組んできた展示会でありますけれども、それは山﨑博昭君を追悼するとともに、あらためて反戦、戦争に反対することの意義を現代において問い直そうとする試みであります。この企画がベトナムの人たちと、日本の民衆の間の友好と連帯を深め強めることを心から祈念しております。最後にあらためて、この企画を推進しこの企画の実現のために力を尽くしてくださった、この戦争証跡博物館のヴァン館長と、およびスタッフの皆さまに心からの感謝の念を表明して、私の挨拶に代えたいと思います。」

<元ベトコン兵士との懇親会>
オープニングセレモニーの後、戦争証跡博物館館長の特別な計らいで、元ベトコン兵士の女性(81歳)と男性(82歳)の講演と懇親会を持つことが出来ました。

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女性はビラを撒いたことで共謀罪のような罪に問われて監獄(かの恐怖の「虎の檻」)に閉じ込められていた女性として悲惨な体験談を。そして、自らを元気づけるために歌っていた歌を博物館スタッフと共に披露してくれました。そして男性は手榴弾を投げた罪で捕らわれ、同様に「虎の檻」で24歳から42歳まで過ごしたこと。死刑判決を受けた後、3回の脱走を試みたが失敗し、戦争終結で奇跡的に生還した体験談を話してくれました。
「私のように政治犯として捕らえられた場合、自白するまで打たれるなどの拷問を受けることになります。」
「今回参加された皆さまのおかげで、ベトナム戦争が1日でも早く終わったということに感謝します。」

<展示会の様子>

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展示会の様子は、ベトナム国内のいくつかの新聞にも掲載されました。

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<クチトンネルとツーズー病院平和村訪問>
翌日、ベトコンが作戦を展開してクチトンネルを見学。

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その後、向かったのは枯れ葉剤被害者の保養施設、ツーズー病院平和村です。
子供たちに絵本やおもちゃなどを届けました。

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<参加者へのインタビュー

●救援連絡センター事務局長 山中幸男

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「日本のいわゆる新左翼というのは、山﨑博昭が殺された羽田10・8佐藤訪ベトナム阻止闘争から始まっていると言えば始まっている。その歴史が全くこちらには伝わっていなかった。ちゃんと伝わったのは実に50年経とうとしている今日という、このつらい思いをみんな感じているから。」

●「情況」元編集長 大下敦史

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「歩ける状態じゃなかったんだよ。あと4ケ月でなんだかんだと言われていたからね。これだけは人生の区切りだと思って来ているからね。」

●元東大全共闘議長 山本義隆

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「チラシは刷ればいいんだから。展示物は一つ一つ集めて持っている人を探して、展示できるような形で金もかけて細工してだからこれは大変ですよ。直接手紙を書いて貸してもらったり、譲ってもらったり、それを一つ一つクリアポケットに入れてパネルに貼ったり、、コピーを作ったり、パネルにいきなり貼ってラミネートしたり、それぞれ資料ごとに相当手間暇、時間、金はかかっています。」

●山﨑博昭君の兄 山﨑建夫

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「米軍機だけれども日本の基地から飛び立ったということがあって、この日本からそういうことがなされているということが許せない。放っておくということは私たちはそれを認めていることになる。学生たちの反戦意識というのはすごく盛り上がっていた。一番衝撃的だったのは、米兵に連れられてベトコンの青年が歩いてきて画面の横からバンと撃つ、ああいう映像というのは本当にショキングで、これを見て黙っているのかお前はと問われかけている。」

●大手前高校同期生 黒瀬淳

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「僕と山﨑は防衛ラインの方に配置されて、生まれて初めて機動隊を撃退したんですよ。3回くらい機動隊が攻めてきたけど、3回とも追い返して、それでもいつ来るか分からないから防衛ラインは崩さずにいたんですけれども、みんな攻める方が気になって振り向くんですよ。そうしたら防衛ラインのリーダーがみんなの頭を殴って回ってね、行きたいだろう、行きたいだろう、だけど俺たちの任務はここだから振り向くなって言われたんですけれども、やっぱりみんな振り向いて、山﨑君だけ口に出してね、行きたいね行きたいねってずっと言ってたんですよ。それは僕という友人が隣にいたから口に出したんだと思うんですよね。他の人も思いは同じかもしれないけれど、知り合いがいないから口には出さない。彼が口に出し行きたいね行きたいねとずっと言っていて、それで本当に行ってしまったんです。だから、その時分かれて僕とはそれっきり。最後に見た姿は、思いがけず行ってしまったんで、びっくりして振り向いたら、勇躍、石を投げていた姿が最後に見た姿です。」

●水戸喜世子

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「山崎君がたまたま一人亡くなっただけで、亡くなるべき人は本当にたくさんいた。脳挫滅だとか片目が潰れた人だとか、本当に死なないのが不思議だと思う人がいっぱいいて、それくらい犠牲者がたくさん出た大衆運動だった。」

●佐々木幹郎(詩人)

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「僕は彼を追悼するために『死者の鞭』という詩を書いたんですけれども、書いたときは、もうこの詩を最後に詩は書かないと思って書いたんですよ。なぜ書かないと決めたかというと、次、死ぬのは僕だと思ったんですよ。山﨑が先に死ぬのはおかしいと。(博物館に)山﨑の遺影を置いてもらおうと、僕が言い出したんですよ。ベトナムにアクセスする機会がなかった。何もつながっていなかった。
50年後に山﨑を追悼するんだったら、直接ベトナムとつながろうではないか。山﨑が行けなかったベトナムへ行こう、博物館に山﨑の遺影を飾ってもらおう。」

●展示を見ていたベトナム人留学生

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「ベトナム人なんですけれども、申し訳ないという気持ちになりました。日本人の学生も死んじゃったりということを今回初めて知りました。」

●歌人・道浦母都子

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「一つはほっとした、一つはまた悩みが出来た。ここに来れて一段落、一区切りでいるけれども、この後、一生かかってそのことを考え続けないといけない。山﨑さんは死んでいる。私たちは生きている。それはものすごい違いでしょ?」

●ツアー参加者 Y氏

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「この山﨑博昭チームでベトナムに来て、枯れ葉剤のビーカーに入った標本、それを見た時に、命が叫んでいるわけですよ。みんな口を開いて体でホルマリン漬けの中で叫んでいるわけ。それを見た時、自分たちが山﨑も含めてベトナム戦争に反対した意味が、初めて分かったような気がした。
山﨑くんが前に出たい前に出たいと言うのは、必死にそういうことを純真に止めたかったんだということで、セレモニーの時に、スピーチでアメリ軍の拷問に遭った2人の方がおっしゃったじゃないですか。あなたたちの闘いのおかげでベトナム戦争を早く終わらせることができたと言われた時に、僕は初めて山﨑博昭君の叫びが、子どもたちの叫びが救われたというか浮かばれたというか、そいう風に思って、このプロジェクトチームのすごさというか、涙が止まりませんでしたね。」

最終日、山﨑プロジェクトを常設展示に、という交渉が館長と行われた。

佐々木幹郎氏談
「我々としては永久展示を、常設展示をする場所が欲しい、そこに山﨑博昭君コーナーと名付けてくれないかと、それはスタッフと一緒に相談して、その方向で進めたいと。重要なのは、ホーチミンに来れない地方の田舎の人たち、もっと貧しい人たち、その人たちにこの展示を見せたいと。だから南の端の島から北の方まで、ちょっとずつ展示をしていくことを考えていると、それを許可して欲しいと、そういう言い方なんです。」

山﨑建夫氏談
「突き動かしたのは、50人の団体で来て、みんなでやっているんですよということは大きかったと思う。3~4人の代表だけでやっている仕事に見えるのと、50人が来てあれこれ支えているのとでは違う。それは大きいと思う。」

6日間のベトナムツアーは無事終了した。

以上、10・8山﨑博昭プロジェクトベトナムツアーの報告でした。
この報告作成の基となった近藤伸郎氏の 「10・8山﨑博昭プロジェクトベトナムホーチミンの旅」(約20分)というユーチューブの映像は、以下のアドレスでご覧になれます。

(終)

【お知らせ その1】
「羽田闘争50周年 山﨑博昭追悼」関西集会
●日時  2017年11月12日(日)14:00~(開場13:30)
●会場  梅田スカイビルイースト36階
●参加費 1,000円
●主催  10・8山﨑博昭プロジェクト
第一部 50周年を迎えて三事業の報告
第二部 パギやんの歌と語り(趙 博)
第三部 建碑式、ベトナム展示会の撮影記録上映 (撮影:代島監督)
第四部 記念講演「1967年から1970年代にかけての激動の時代をふりかえって」  三田誠広(作家)

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【お知らせ その2】
国立歴史民俗博物館 企画展示 (千葉県佐倉市)
「1968年」無数の問いの噴出の時代
●展示期間 10月11日(月)から12月10日(日)
詳細は国立歴史民俗博物館のHPを参照してください。

【お知らせ その3】
野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は11月24日(金)に更新予定です。

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