今回は、前回に引き続き国際基督教大学(ICU)における闘いを掲載する。
週刊アンポNo11に掲載されたアメリカからの留学生の闘いである。前回のブログ(No482)を読んだ上で読むと、背景がよく分かると思う。
【自由な個人以上のもの ICU留学生はたたかう 週刊アンポNo11 1970.4.6】
<大学側のたずなを切って>
わたしたち、キャサリン・ホリコシ、サンドラ・シャー、フィリス・オガタの3人は、1969年の春、ICU(国際キリスト教大学)に入学を許可され、カリフォルニア大学からの交換留学生として、1969年8月29日に日本に来た。10月にICUの寮に入り、11月に退学処分を受け、1970年2月17日には、2月23日までに寮を出るようにとの通告を受けた。権力にそむくことに恐怖を感じながらも、わたしたちは通告に従うのを拒否することを決定した。この決定の原因になった一連のできごとは、1969年9月に始まった。
カリフォルニア大学からの留学生は、8月の末に日本に着いたが、3週間の間旅行をしていてICUにはいなかった。9月に東京に帰ってきた時、下宿より寮に入りたいという人がいたのに、わたしたち留学生は全員、下宿に住むように言われた。ICUの教授会が内部であまりに分裂していて、1969年の春に教授会の執行部によって全共闘に出された確認書を、教授会全体としては、認めることができないという状態だったからだ。教授会が確認書についてあいまいな態度を取りつづけるかぎり、全共闘は授業を行わせないことにしていた。ICUの学生は、わたしたちに不信感を持っていたにちがいない。彼らは最初、わたしたちを寮に受け入れるのをためらった。この不信感は理解できたし、わたしたちの中では彼らの三項目要求の運動に強い共感を感じている人もいたが、それにもかかわらず、わたしたちがICUに現れたことは、紛争が解決されないうちに、学生の抗議に反して、執行部がまもなく授業を再開するつもりであるというしるしだった。執行部がわたしたち留学生をICUの学生に対して使うかもしれないと感じて、わたしたちのうちある者は留学生の指導教授であるハンス・バーワルド教授に、ICUの学生の運動を支持し、“不正な授業再開”のための執行部の道具にはなりたくないというわたしたちの欲求をはっきりと伝えた。
非常に用心深く、また三項目要求の運動についてできるだけ知識を与えたあとで、3つの寮がわたしたちを受け入れ、10月に3人の留学生が寮に移った。
<大学側のたずなを切って>
わたしたち、キャサリン・ホリコシ、サンドラ・シャー、フィリス・オガタの3人は、1969年の春、ICU(国際キリスト教大学)に入学を許可され、カリフォルニア大学からの交換留学生として、1969年8月29日に日本に来た。10月にICUの寮に入り、11月に退学処分を受け、1970年2月17日には、2月23日までに寮を出るようにとの通告を受けた。権力にそむくことに恐怖を感じながらも、わたしたちは通告に従うのを拒否することを決定した。この決定の原因になった一連のできごとは、1969年9月に始まった。
カリフォルニア大学からの留学生は、8月の末に日本に着いたが、3週間の間旅行をしていてICUにはいなかった。9月に東京に帰ってきた時、下宿より寮に入りたいという人がいたのに、わたしたち留学生は全員、下宿に住むように言われた。ICUの教授会が内部であまりに分裂していて、1969年の春に教授会の執行部によって全共闘に出された確認書を、教授会全体としては、認めることができないという状態だったからだ。教授会が確認書についてあいまいな態度を取りつづけるかぎり、全共闘は授業を行わせないことにしていた。ICUの学生は、わたしたちに不信感を持っていたにちがいない。彼らは最初、わたしたちを寮に受け入れるのをためらった。この不信感は理解できたし、わたしたちの中では彼らの三項目要求の運動に強い共感を感じている人もいたが、それにもかかわらず、わたしたちがICUに現れたことは、紛争が解決されないうちに、学生の抗議に反して、執行部がまもなく授業を再開するつもりであるというしるしだった。執行部がわたしたち留学生をICUの学生に対して使うかもしれないと感じて、わたしたちのうちある者は留学生の指導教授であるハンス・バーワルド教授に、ICUの学生の運動を支持し、“不正な授業再開”のための執行部の道具にはなりたくないというわたしたちの欲求をはっきりと伝えた。
非常に用心深く、また三項目要求の運動についてできるだけ知識を与えたあとで、3つの寮がわたしたちを受け入れ、10月に3人の留学生が寮に移った。
<バックに黒い影が>
10月20日に主な教育区域を囲む波型の金属のへいの建設が始まり、機動隊が呼ばれた。バーワルド教授は、わたしたちに登録用紙を配った。恐れていたことが現実に起こった。“不正な授業再開”が行われ、わたしたちは協力しなければならないだろう。バーワルド教授が他のどんな選択をすることも認めていないのだから。
10月24日、執行部は9月に入学した学生全員のためのオリエンテーションを開いた。このオリエンテーションで、授業が紛争についての討議には使われないことが明らかになり、22名の留学生のうち15名が執行部を非難する請願書にサインして、現在ICUの事務取扱である三宅教授にこれを手渡した。登録の最終期限は11月1日だった。9名の留学生が登録を拒否した。
その次の日、バーワルド教授は、登録するようにという彼の命令に従わないなら、契約不履行の法律が適用される可能性があるといって、わたしたち9名をおどかした。このため3名が登録した。バーワルド教授は三宅教授に請願書のことで謝罪し、留学生の登録の最終期限を独断的に3日間くりあげた。教授の言い分は、カリフォルニア大学からの留学生がICUで問題を起こさないことをはっきりさせるのが自分の責任だ、というものだった。執行部への完全な協力方針をとって、バーワルド教授は、中立であると主張した。しかし教授と討論していくうちに、このことは中立の問題ではなくて、さらに上の権力に従っているだけなのだということが明らかになってきた。この時わたしたちはバーワルド教授は、窮地におちいっているわたしたちを助けてはくれないだろうし、わたしたちを彼の命令に従わせるためならどんなことでもするだろう、ということを知った。
10月27日は授業再開の最初の日で、機動隊はデモをする学生たちを乱暴に鎮圧した。機動隊は何の武装もしていない学生たちに対して、ジュラルミンの楯と警棒を使った。多くの学生が負傷し、一人の少女は頭をひどく打たれて局部麻ひをおこし、広範囲にわたる病院の治療を必要とした。機動隊がICUの紛争についてまったく何も知らないのに、学生を敵にして戦うというのは信じがたいことだった。ICUは大学どころではなくて、ファシスト帝国だった。
<登録を拒否>
10月28日に、登録を拒否するわたしたち5人の留学生は。プラカードをもったおだやかなデモをした。法律が適用されるというおどかしで登録してしまった、留学生のベン・ボーティンが参加した。わたしたちはへいの検問所の前でデモをし、執行部に抗議した。このデモのため、わたしたち6人全員は、11月1日、正式に交換留学生の資格をとり消された。
法律が適用されるかもしれないというおどかしを受けて、ワレン・デヴィスは10月28日に登録しデモに参加しない決心をした。しかし彼は、抗議する学生たちを鎮圧することによってしか正常な教育活動を続けられないなら、その教育活動に協力することはできないことを知った。
象徴的なことに、へいは大学内の分裂を保つのに役立っていた。へいの内側には、偽りのおだやかで正常な環境を。外側には迫害を。この分裂は耐えがたく、次の日、ワレンは登録をとり消した。彼はすぐ、交換留学生の資格をとり消された。
三宅執行部の学生の攻撃の道具となることを拒否した留学生は全員で6人だったが、わたしたちは、わたしたち以外の留学生で、わたしたちのしていることを正しいと信じているけれど、その確信を主張することのできない人たち(バーワルド教授のおどかしはあまりに手きびしかったのだ)から支持を得ていた。
11月の間中、三宅施行部は学生への圧迫をエスカレートさせ、多くの学生がとるにたりない嫌疑で逮捕され、負傷した人もいた。わたしたちが執行部を公然と批判し、またその不条理な授業への登録を拒否した結果、ICUはわたしたちをICUの学生とは認めないとした。わたしたちは学生ヴィザで日本に来ているので、出入国管理事務所はICUに私たちの立場についての説明を求めた。ICUは、留学生たちがヴィザをとる前に、ICUは入学を許可しなければならなかったのだから、彼らは法律的にはICUの学生と認められているが、授業に登録しないのだから、もはやICUの学生ではない、と回答した。出入国管理事務所に隠されたのは、わたしたちが登録を拒否した理由だった。ICUはその回答に、まるでわたしたち6名が勉強したくなくて登録を拒否したかのような感じを持たせた。やはり出入国管理事務所に隠されたことは、登録を拒否したICUの1年生たちは退学処分を受けていない、ということだった。ICUにおいてインターナショナリズムは、もしかつて存在したのなら、今は死んでしまったことが明らかになった。
<暴露されたからくり>
日本とカリフォルニアでわたしたちへの支持があったため、カリフォルニア大学のいろいろなグループが交換留学生の資格取り消し処分のことで、交換留学性制度の責任者であるウィイリアム・アラウェイ教授に働きかけた。わたしたちは日本および合衆国憲法によって保護されている自由を行使したため処分され、無権利状態で、弁論するどんな機会も与えられずに、一人の人間によって判断を下されたのだ。権力の乱用を批判されて、アラウェイ教授はICUの状態を“再評価”するため、12月に日本に来た。最初の決定を下した同じ人に訴えなければならないというのはまちがいだ、と考えながら、わたしたちは教授に処分について考え直してくれるよう訴えた。日本にいる間に、教授は処分を取り消すと発表した。
ベン・ボーティンは処分を取り消された。しかし教授の発表は全くのうそだということがわかった。彼以外の6人は資格を取り消されたままだったのだ。教授はわたしたちに条件付きの処分取消しを提案した。それによるとわたしたちは、不条理な授業をボイコットするストライキを中断しなければならなかった。ストライキをする理由も、このストライキを支持するという留学生の権利の重要性も理解しなかった。アラウェイ教授は決心を変えず、たとえ三宅執行部が学生に対して罪を犯したとしても、カリフォルニア大学交換留学生は、その執行部に協力するというバーワルド教授の決定を支持した。
わたしたち6人はこうした状態で処分取り消しを受けることを拒否した。カリフォルニア大学とICUは共謀して、学生たちに無理やり授業を正当なものと認めさせようとした。
ストライキを支持することに確信を持っていたため、登録を拒否する留学生の一人であるトム・ブラムは徴兵に関する彼の立場に不安を抱き始めた。学生という立場になかったら、徴兵を免れることはないのだ。学生の立場を守るため、彼は12月にバークレイの大学に戻った。
寮を立ち退くようにというおどかしがひどくなるにつれて、ICUの状態は耐えがたいとして、ワレンは12月に寮を出た。
<進め!かぎりなく>
執行部は学生に対する攻撃をエスカレートさせて、1月27日までに休学届を出さないなら退学させるとおどかした。
執行部の力は学生の抵抗する力より強くて、1月27日に学生たちは休学届を提出し、登録に対するストライキは解除された。わたしたちも休学届を提出しようとしたが、執行部はわたしたちを退学させるか、少なくとも日本人の学生と引き離したいと願っていて、これを受け取らなかった。
ふたたび働きかけがあったため、アラウェイ教授は2月17日に、ICUはわたしたちを学生として受け入れるべきであり、カリフォルニア大学もわたしたちを交換留学生として受け入れるという手紙を送った。2月18日、ICUのドナルド・ワース教授はわたしたちに個人面接を行った。予想していたように、わたしたちが新たに留学生として入学するなら、復学を許可すると言われた。この方法でICUはわたしたちが10月からICUの学生だったことを隠すつもりだったのだ。ICUはまた、寮から出ることと、再入学誓約書にサインすることを要求した。
このすべての手続きをすませる最終期限は2月23日だった。5日間しかなかったのだ。ICUはわたしたちが自発的に復学を拒否しているかのように見せかけながら、わたしたちを復学させまいと一生懸命だった。そして、わたしたちが条件付きの復学を受け入れた場合には、わたしたちの行動を完全に制限するにちがいなかった。
この状態は受け入れられないものだった。彼らに従うことは、私たちの自由を放棄し、執行部により行動を制限されることだった。執行部は全能者となるだろう。批判を受け入れることさえしないのだから。
登録を拒否する留学生の一人であるカティー・クラークは、ICUの状態に絶望し、最初に三宅執行部とバーワルド教授の決定に抵抗する必要があると感じ、ますます、彼女と対立している人たちは人間的でないという感じを抱き始めた。紛争がすぐに解決するというきざしはまるで無く、カティーは2月、ICUを退学することにした。
その代わりに、わたしたキャッシーとサンディーとフィリスの3人は、寮を立ち退くようにとの通告に従うことを拒否するため、ICUに残された。わたしたち3人がまだICUに残っているのを不思議がる人がいるかもしれない。わたしたちが残っているのは、わたしたちが今持っている自由とは何なのかを理解したためだ。わたしたちは誰も暴虐に対して闘おうとして日本に来たわけではないけれど、自由のために闘ったから、わたしたちは今自由を持っているのだということを理解した。誰もわたしたちのために自由を獲得してくれることはできない。わたしたち自身で勝ちとらなければならない。そして不正な権力への協力に反対する時はいつも、わたしたちは自由な個人以上のものとなる。不正な規則に従うことは少しもりっぱなことではないからだ。
(終)
【本の紹介】
・山本義隆『近代日本150年――科学技術総力戦体制の破綻』
科学技術振興・信仰に基づく軍事、経済大国化を問う。西洋近代科学史の名著から全共闘運動、福島の事故をめぐる著作までを結ぶ著者初の新書。
黒船がもたらしたエネルギー革命で始まる日本の近代化は、以後、国主導の科学技術振興・信仰による「殖産興業・富国強兵」「高度国防国家建設」「経済成長・国際競争」と、国民一丸となった総力戦体制として150年間続いた。明治100年の全共闘運動、「科学の体制化」による大国化の破綻としての福島の事故を経たいま、日本近代化の再考を迫る。
【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は2月9日(金)に更新予定です。
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