2018年3月4日、御茶ノ水の連合会館で、昨年11月に亡くなった元赤軍派議長塩見孝也さんの「お別れ会」があった、
私は、塩見さんとは10年ほど前、ある会合で一緒になり、名刺交換をしたことがある。塩見さんとの接点は、その時の1回のみである。「お別れ会」の案内状を見ると、「交流の濃淡を問わず参加を」ということなので、参加してきた。
今回は、その「お別れ会」第一部の発言をまとめたものである。
私は、塩見さんとは10年ほど前、ある会合で一緒になり、名刺交換をしたことがある。塩見さんとの接点は、その時の1回のみである。「お別れ会」の案内状を見ると、「交流の濃淡を問わず参加を」ということなので、参加してきた。
今回は、その「お別れ会」第一部の発言をまとめたものである。
※ ブログの字数制限2万字を超えるため、昨日と今日の2回に分けて掲載しています。
【「塩見孝也お別れ会」後編】
村田(司会)
「若い人はご存じないかもしれませんが、昔、三派全学連というのがありました。このネーミングは革マル派なんです。三派の寄せ集まりで、三派一緒にやってもいずれ分裂するだろうということを揶揄するために三派全学連という名前を付けたんです。これが学生運動の高揚期と重なりまして、新聞にも三派全学連が堂々と載るようになったんです。10・8から王子、成田闘争と学生運動の発展期にありましたので、三派全学連という名前が市民権をもつようになった。だから揶揄されている我々の方も、三派全学連は野暮と思っていたのがかっこいい響きになってきたので、我々も三派全学連を使うようになってきた。これから何人かの方は、その当時の三派全学連のリーダーの皆さんにご発言をお願いしたいと思います。
最初に三派全学連時代の東京都学連委員長の三島浩司さん、旧名山本浩司さんです。」
最初に三派全学連時代の東京都学連委員長の三島浩司さん、旧名山本浩司さんです。」
三島浩司(元東京都学連委員長)
「今、司会の方が仰いましたけれども、私たちの時代はいわゆる三派の時代。私が塩見孝也さんと初めて会ったのは、おそらく1963年の春だったと思います。1963年の春は、全国自治会代表者会議が京都でありました。場所は京都先斗町の芸者さんとか舞子さんがお稽古するところです。彼と知り合ったのはその頃で、彼は本能寺のあたりの下宿に住んでいました。それからしばらくして、個人的にも親しく付き合いまして、京都に行った時は彼のところに泊めてもらいました。
連合会館のすぐ近くに全電通会館がありまして、65年の7月に都学連の再建大会がありました。その都学連再建大会以降、彼はしばしば東京に出てきている。それから1年くらいで常駐するようになったと思います。
彼らしい面白いエピソードがあります。白川さんの話でロマンチストという話がありましたが、彼が東京に出てきて、何人かと一緒に新宿の飲み屋で飲んでいて、彼は何を思ったのか、店の若い仲居さんに『私は京都から出てきた塩見孝也と申します。全学連再建のために東京に出てまいりました。付き合ってください』(笑)無理だと思いますけれども、そういうことを言った。彼とはそういう風な付き合いで、よく飲んだ。その後、あまり付き合いはなかったんですが、72年の連合赤軍事件の前に彼は逮捕されて、連合赤軍事件でかなり参っているのではないかと思い、当時の東京拘置所に会いに行った。事実、かなり落ち込んでいて、第一声は『すべて俺の責任だ』と言っていました。塩見に『全部自分の責任だというのは、ある種ごう慢じゃないか。お前がそんなことをできるわけがない』と言った。
塩見は新潟刑務所にいて、府中刑務所に移されて、出たときに府中での出獄の歓迎会で20年ぶりに会った。その後、彼と平壌に行ったりした。彼とは大勢で一緒に飲んでいたが、二人だけでじっくり飲んだ経験はないような気がします。
陶淵明に『長い年月を経ってみれば、栄誉や知力は何でもない。ただ、この世を去るにあたって残念なことがあるとしたら、もうちょっとだけ酒を飲みたかった』という意味の詩があります。
やがて私も行くと思いますので、今度はゆっくり彼と飲んでみたいと思います。」
「今、司会の方が仰いましたけれども、私たちの時代はいわゆる三派の時代。私が塩見孝也さんと初めて会ったのは、おそらく1963年の春だったと思います。1963年の春は、全国自治会代表者会議が京都でありました。場所は京都先斗町の芸者さんとか舞子さんがお稽古するところです。彼と知り合ったのはその頃で、彼は本能寺のあたりの下宿に住んでいました。それからしばらくして、個人的にも親しく付き合いまして、京都に行った時は彼のところに泊めてもらいました。
連合会館のすぐ近くに全電通会館がありまして、65年の7月に都学連の再建大会がありました。その都学連再建大会以降、彼はしばしば東京に出てきている。それから1年くらいで常駐するようになったと思います。
彼らしい面白いエピソードがあります。白川さんの話でロマンチストという話がありましたが、彼が東京に出てきて、何人かと一緒に新宿の飲み屋で飲んでいて、彼は何を思ったのか、店の若い仲居さんに『私は京都から出てきた塩見孝也と申します。全学連再建のために東京に出てまいりました。付き合ってください』(笑)無理だと思いますけれども、そういうことを言った。彼とはそういう風な付き合いで、よく飲んだ。その後、あまり付き合いはなかったんですが、72年の連合赤軍事件の前に彼は逮捕されて、連合赤軍事件でかなり参っているのではないかと思い、当時の東京拘置所に会いに行った。事実、かなり落ち込んでいて、第一声は『すべて俺の責任だ』と言っていました。塩見に『全部自分の責任だというのは、ある種ごう慢じゃないか。お前がそんなことをできるわけがない』と言った。
塩見は新潟刑務所にいて、府中刑務所に移されて、出たときに府中での出獄の歓迎会で20年ぶりに会った。その後、彼と平壌に行ったりした。彼とは大勢で一緒に飲んでいたが、二人だけでじっくり飲んだ経験はないような気がします。
陶淵明に『長い年月を経ってみれば、栄誉や知力は何でもない。ただ、この世を去るにあたって残念なことがあるとしたら、もうちょっとだけ酒を飲みたかった』という意味の詩があります。
やがて私も行くと思いますので、今度はゆっくり彼と飲んでみたいと思います。」
村田(司会)
「次の発言者として、秋山勝行さん又は吉羽忠さんと書いてありますが、江戸川区の前進社あてにご案内の親書を出しましたが、返事がきませんでした。今日はお見えになっていませんので、残念ながら発言はないということになります。
ブントの当時の書記長だった渥美さんにご挨拶をお願いします。」
ブントの当時の書記長だった渥美さんにご挨拶をお願いします。」
渥美文夫(元ブント書記長)
「塩見とは長い付き合いがあったわけですが、塩見孝也でまず思い出されるのは、第二次共産主義者同盟結成のために共に頑張ったことが思い出される次第です。
しかし、1969 年7月、塩見孝也が前段階武装蜂起を主張しました。私はそれは時期尚早である、そこまで情勢は煮詰まっていないと考え、塩見孝也と別れた。連合赤軍事件は、森あるいは永田の指導者としての問題があると思いますが、私は、連合赤軍事件というのは、まさに塩見が唱えた前段階武装蜂起という政治路線が具体的に破綻していくプロセスそのもの、政治路線的な事件として我々は捉えなくてはいけないいと考えます。
塩見と話をしても、最後までそれは受け付けませんでしたが、私はそのように思っています。
1970 年以降、我々の運動は後退を強いられてきました。その中で大きな要因として、連合赤軍事件と内ゲバが指摘されてきました。私は確かにそれは大きな要因であったと思っています。しかし、我々左翼の後退というのは、日本的な現象というよりも、むしろ世界的に我々左翼、共産主義の運動が後退を余儀なくされている、これは事実だと思います。その原因は何であるか考えた場合に、その一番大きな要因は、ソ連の崩壊と中国の変質、これが非常に大きな要因として我々に突き付けられていると思います。実際に今のロシア、中国、これは開発独裁というか国家資本主義です。そういう現実を突きつけられる中で、私たちはそれをどうとらえ返すのか。確かに我々はソ連共産党の官僚化、腐敗を指摘し彼らは世界革命の立場を捨てて、各国の革命運動を自国防衛のための道具にする、そういうことを我々は厳しく批判してきました。しかし、ソ連崩壊 中国の変質、そういうことは、我々にさらに厳しい課題を突き付けている。
今年はロシア革命100 年、中国革命70 年、ここで示されてきたことに対して、裏切りである、腐敗であるということだけでは済まない。70年100年というのは一つの歴史の重みだと思います。ロシア革命の100年、中国革命の70年を考えると、いったいプロレタリア独裁と一党独裁はどう違うのか。結局のところ一党独裁でしかない。これを我々はどう総括するのか。我々はブルジョア民主主義ということで、いつもこれを見下してきました。しかし、実際のプロレタリア民主主義とは何だったのか、ということが問われている。それに対して、我々は、今や明確な我々が考える政治システムを提起しえない。ただソ連共産党の腐敗、中国共産党の腐敗というだけでは、不十分である。さらには、中央集権的な国有化経済というものが、実際には経済合理性を差別化していった、これも事実として我々に突き付けられた。あるいはスターリンのコルホーズ政策、あるいは毛沢東の人民公社方式を我々が批判するとするならば、我々はどういう農業政策を持っているのか、そういう我々が考える政治システム、我々が考える政治経済政策について、我々がより立ち入って、我々の考えを鮮明にさせていく、そのことを抜きにしては我々は進むことはできない、そういうことを私は突き付けられてきたと思っています。
今、搾取と抑圧、支配と差別に反対する戦いは全世界いたるところで展開されています。。しかしながら、それらの運動と共産主義とは乖離した状況にある。共産主義思想は何らヘゲモニーを持っていない。そういう中で、我々の道はロシア革命100年、中国革命70年の歴史総括を内包したものとして提起されなればならない、我々は圧倒的に立ち遅れている。我々は急がなければいけない。
以上、塩見孝也お別れ会の言葉とさせていただきます。」
村田(司会)
「次から元赤軍派関係の方の発言をお願いいたします。高原浩之さん。」
高原浩之(元赤軍派)
「私は、第二次ブンドと赤軍派を通じて、塩見孝也とずっと政治行動を共にしてまいりました。そういう意味で、その間の政治的責任を共有するという立場で、少し思いを述べさせていただきたいと思います。
まず、赤軍派についてどのように思うのか、ということですけれども、赤軍派が70年闘争を飛躍的に発展させたいという思いから結成されたことは間違いありません。しかし、現実に起きたことは何かというと、第1に7・6事件で第二次ブンドを崩壊させた。第2に起きたのは何かというと、連合赤軍事件。この事件は人民の闘争に壊滅的な損害をもたらしたことは間違いないと思います。なぜ起きたのか?赤軍派は実際に武装闘争に着手する前に、大菩薩峠で多くが逮捕されて基本的にはそこで挫折しました。にもかかわらず、人民に依拠しない、革命の原動力の点では根本的に誤っていた革命戦争路線を引きずった結果というのが連合赤軍事件であったと私は思っている。その赤軍派の路線が破綻したときに、いったい何で組織が維持されたのか。リンチでしょう。このことによって組織を維持する。それは革命運動の中にずっと蝕んできていた悪い『体質』が、いわばそこの路線の全面的な破綻の中で噴出してきたと考えざるをえないと思います。事件の後、当然、人民に依拠する、そういう路線に転換することを我々は問われました。実際、自己批判と総括を行って、赤軍派という組織はなくなりましたが、関係者はそのような路線に転換していったと思います。
しかし、連合赤軍事件というのは、もっともっと悲惨であると考えています。『時代』だとか『夢』だとか、そういう言葉で赤軍派の指導路線の責任をあいまいにしたり、あるいは赤軍派を美化するのは止めていただきたい。赤軍派の指導路線に問題があったわけですから、赤軍派の指導部は、当然、根本な誤りは路線にあったと認めなくてはならない。その上で、連合赤軍事件で殺された同志に対して謝罪する。また、さらに連合赤軍事件で生き残った人たちも、極めて不本意な形で他人を殺している、人生を破滅させている、そのことに対しても赤軍派の指導部は謝罪しなければいけない。あるいは、さらに、赤軍派関係者の中にも、多くの人が人生を狂わされている。そういう関係者全員に対して謝まらなければいけない。そういう意味で、この『会』は赤軍派の問題に関して決着をつける、けじめをつける、そういう『会』になるべきであると私は思っています。そういう意図で発言しています。ここに塩見孝也の写真が飾ってありますが、同時に連合赤軍事件で殺された山田孝とか遠山美枝子とかの写真も飾るべきでしょう。あるいは、事件の責任をとって自殺した森恒夫の写真も飾るべきでしょう。そういう意味で赤軍派に結末をつけるのがこの『会』だと思っています。私にとって赤軍派は、今、後悔とそして贖罪以外の何物でもないと思っている。
次に私が申し上げたいのは、赤軍派を生み出した第二次ブントと塩見孝也についてどう思っているかということですが、昨年は羽田闘争50年でしたが、70年において、新左翼は、三派全学連とか全共闘運動あるいは反戦青年委員会を通じて学生大衆と結合し、一部の青年労働者と結合し、数としては社共・総評ブロックより少数ではあったかもしれませんが、明らかに70年闘争全体をけん引していた。そういう中で第二次ブンドも、それなりの役割を果たしましたし、塩見も第二次ブンドの有力な指導者であったと思っている。
この70年闘争は21世紀の現在でも非常に大きな意義がある。例えば新左翼の代名詞はいわば実力闘争ですけれども、これが大衆を捉えましたけれども、それは日帝打倒、プロ独、社会主義革命という新左翼の政治路線を抜きには考えられないものです。この実力闘争の思想というものが、直接民主主義ですけれども、現在的には『自己決定権』とか言われるものであって、それは、今後、コンミューン・ソヴィエトとつながっていく、そのようなものだろうと思っています。また、70年闘争はベトナムと中国、民族解放闘争と文化大革命に対する共感と連帯と支持とを大きな力として、世界的な闘争で『68年革命』といわれましたけれども、そういう闘争として日本の人民運動の中にアジアと連帯するという思想と体質を根付かせたと思っています。このアジアと連帯するという体質も、70年闘争以降、ずっと日本の人民闘争に根付いてきている体質だと思っています。
それから考えると、塩見の『過渡期世界論』は帝国主義から社会主義への過渡期である。そこにおいては3ブロックの階級闘争が結合するといわれましたけれど、何よりも、ロシア革命以降、民族解放闘争・社会主義革命の発展は、アジアにおいてなされていく。そのアジアの革命と日本の社会主義革命は結合する、というところに根幹があったと思いますけれども、こういう時代認識は現在も引き継がれていると思っています。
以上の点で、私は赤軍派の罪は大きい、後悔と贖罪であるというと同時に、第二次ブントが存在した意義、そこで塩見が果たした役割というものを、やはり高く評価しなければならないと思っています。
我々70年闘争の世代が、最後に何を残していかなければいけないのか。
2015年の反安保法闘争を頂点として、人民闘争が発展に向かっていますけれども、その人民闘争というのは、一つ一つの課題、例えば民族・女性・部落などの差別問題が大きいだろう。あるいは労働者階級の『下層』という問題がとても大きいと思う。私は直接大衆運動には関与しませんけれども、その運動を見ると、新左翼がその運動の中で良い体質、一言でいえば実力闘争、自己決定権という体質は堅持しながらも、小ブルジョア急進主義という悪い体質を払しょくし、清算し、人民大衆と結合していたことの結果として。現在の人民闘争はあると思います。その一つ一つの努力は偉大なものであると表現すべきだと思っています。私は70年闘争の世代なので全共闘運動は見ていますけれども、今の人民闘争の5年10年20年をかけた先には、おそらくあの全共闘運動が全人民化し、全社会化するというものが展望できるのではないか。それを一言でいえば人民民主主義といってもいいかもしれないし、革命的民主主義といってもいいかもしれない。そういう運動が目の前にある。あるいはアジアとの連帯について、残念ながら中国はすでに帝国主義になっておりますけれども、日本と中国の2つの帝国主義に反対し、2つの覇権主義に反対する、そういう中で朝鮮、韓国、台湾とか香港とかアジアの民族と国家の独立とか自己決定権を守るとか、そういう闘争を支持する中に、中国とか朝鮮、韓国、日本人民が結合していくという方向も強まっていくと思います。
ロシア革命から100年、いろんなことがありました。私はソ連の崩壊は帝国主義の崩壊だから大変よろしいことであると思っています。しかし、文化大革命が破綻した後の中国の変質、民族解放闘争に勝利した後のベトナムの変質、そして今ある朝鮮の信じられないような現実、これは極めて深刻なことであって、やはりマルクス・レーニン主義そのものを対象にした総括が必要である。そのことによって共産主義の理論を再構築していかなければならない。少なくとも、こういうことが起こったのは、我々の時代ですので、我々の世代の大きな責務として、それを総括するために一歩でも二歩でも踏み出していくのが我々の責務ではないかと思っています。
最後にもう一言申し上げたい。人民闘争の発展のためには、70年闘争の正と負の経験、とりわけ三派全学連は塩見が担ったんでしょうけれども、その後の八派共闘というのは、ブントを代表して出ていた立場でしたので、人民闘争の発展のためには、やはり革命党派の共同と統一が必要だと思っています。ただ、残念ながら新左翼と言われた我々の世代はそれには完全に失敗した。新左翼の党派的な崩壊が進行した。そしてよくよく総括すれば、『内ゲバ』と『リンチ』という最悪の体質も持っていた。こういう我々の世代の苦い教訓があるわけですけれども、今の運動を担ってくる現在そして新しい世代の人には、是非、我々の苦い経験を教訓として、是非とも闘争の発展に成功していただきたいと思っています。」
村田(司会)
「50年前の高原君の演説を聞いたような感じがしております。ありがとうございました。同じく元赤軍派の松平直彦君。」
松平直彦(元赤軍派)
「この会は呼びかけ文にもありましたが、塩見さんとの付き合いの長短を問わず、塩見さんに対する評価の違いを問わず集まっていただいたということなので、高原さんの提起は友情の一つの意見として、真剣な提起ですので、それぞれの人に受け止めていただきたいとは思います。
ここに参集された人は、どういう気持ちで、どういう考えで集まってこられたのかはそれぞれだろうと思いますが、私は区切りを付けたいということです。それは塩見さんとの関係に区切りを付けたいのと、この半世紀の後退戦に区切りをつけたい、こういう気持ちで、この会の準備に関わってきました。この会を準備する過程は結構大変だった。普通のお別れ会であれば、論議する必要もないし、懐かしんで集まってくれればいいし、同窓会になってくれればいいが、みんな断る、来たがらないということがあった。とりわけ第二次ブントの人たちは『絶対に行かない。行く気持ちになれない』というのを説得して集まっていただいた。この後、『よど号』の小西さんと重信さんのメッセージがありますが、小西は『非常に困っている。どう語っていいか分からない。本当は書きたくない』と。これは山中さんが向こうに行って、その時に説得して書いてもらったということです。重信さんも『こういう会はやるべきではない』と言っていたわけですけれども、メッセージを寄こしていただきました。そういうことに象徴されるように、非常に塩見さんに対する評価もさまざまで、否定する人たちも多い。そういう中で、これだけの人が集まってお別れ会に臨んでくれたということは、非常に良かったと思っています。
私の塩見さんとの付き合いは、67年から69年です。路線以上の関係はなかった。67年の暮れに、早稲田の近くのアジトで会った。その当時私はまだ一年生で、塩見さんが早大支部の先輩たちと話しているのを聞いていただけだった。塩見さんと直接話をしたのは、69年11月の『大菩薩』の直前頃にホテルの一室に呼ばれ、首相官邸占拠の作戦を提示され、引き受けた。そして『大菩薩』に行って捕まった。その2回くらいしか記憶していない。
その後、71年のM作戦あたりまでで赤軍派は破産した。ハイジャク、重信さんがパレスチナに行くということはありましたが、現実に国内で何もできていない状況で、破産を総括する必要があるだろということで、私自身は転回して論争に入っていく、そういう時に 連合赤軍事件が表面化してきた。私にとっては、連合赤軍事件は一つの路線的破産の大きな側面ということで、冷静に静かに受け止めて、次にどうするかを考えるテコになっていった事件でした。
出てから塩見さんと論争になっていくわけですが、彼は連合赤軍事件というのは、革命戦争路線は正しかった、しかし指導者の森が悪かったということで、前段階武装蜂起の路線と密接に結びついた同志間の関係の問題であったわけで、その辺を切り離して、自己保身を図っていくという方向に入っていった。71年72年以降はそういう関係でずっと対立していた。ですから、塩見さんの生前葬の時は関与しなかった。生前葬に関与していたらこういう会をやろうと思わなかったと思います。
ある意味、大きな区切りに来ている。朝鮮で南北対話が作られて、何とか今、日米合同演習から第二次朝鮮戦争という危険が強まっている中で、実際に戦争になれば南北朝鮮、日本を含めて数百万が死ぬような戦争になっていくことが予想される中で、どうそれを押しとどめて我々の時代を切り開いていくのか、そういう重大な局面に来ていると思うし、資本主義が終焉の時代に入っている。同時に金融バブルが崩壊するかという局面にもなっている。そういう中で、日本の社会は欧米の社会と同じように人々の関係がズタズタになっている。新しい社会の構想を持った運動が、今、問われているのではないか。戦争の問題と社会変革の問題が煮詰まって眼前に迫って来ている。そういう大事な局面の中で、いつまでも総括問題にこだわっていいのか、ということです。いろいろな総括があっていいと思う。それぞれの総括をこれからの闘いの中に生かしていって欲しいと思います。
その中で共同しながら、今のトランプ・安倍の反動を跳ね返して新しい時代を切り開いていこうではないか、というのが私の考えです。」
椎野(司会)
「残念ながらここに来られないお二人のメッセージを代読させていただきます。最初は1970年に『よど号』をハイジャックして平壌の彼方に飛び立ってしまて以来、ずっとそこで暮らしている小西さんからのメッセージを、2月に平壌で小西さんに会ってきたばかりの救援連絡センターの山中事務局長が代読いたします。」
山中幸男(救援連絡センター事務局長)
「『平壌で向こうに監禁されているのではないか』という昔の赤軍派の人がいたようですが、必ずしもそうではなくて、私は2月23日に朝鮮に行きまして、27日に帰ってきました。本当は書いてもらったものを持って帰るつもりだったんですが、なかなか書けなくて、昨日やっとメールで届いたものです。代読させていただきます。」
<メッセージ 「塩見孝也への追悼文」>
塩見さん、このように貴方の追悼文を書くようになるとは思っていませんでした。
貴方に対する怒りだとか断罪だとか、そういったものを言うよりも、何か住む世界が違ってしまったという感じだったのです。
だから、今、こうして追悼の文を書きながらも、後が続きません。
人間にとって、住む世界が同じだということは、やはり大切なことですね。
50年前、住む世界が同じだったあの頃、わずか半年余りの時でしたが、われわれの命はかなり鮮烈に結びついていました。先行き不透明の中、なんとか出路を切り開いて行かなければという思いは。皆一つだったのではないかと思います。
憶えていますか、あの時、塩見さんにした「世界革命戦争の未来のあり方」についての私の質問への答えは、「そんなこと分かるか!」でした。
それで妙に納得したのを憶えています。混迷に近い状況をもう一つ分からないままに切り開く、それがわれわれが共有した世界における一つの合意点だったのではないでしょうか。田宮さんは、「塩見には無茶ができる。それがいいところだ」とよく言っていたものです。
今、世界を覆った混迷の露はかなり晴れてきているように思えます。この世界をともにして、もう一度一緒に闘ってみたかった。この追悼文を書きながら、浮かんでくるのはその思いです。
しかし、塩見さん、貴方はもうこの世にはいません。願わくば、向こうでの再会を果たし、もう一度同じ世界の下、ともに闘うことができる日が来ることを。合掌。
2018年3月4日ピョンヤンかりの会 小西隆裕
塩見さん、このように貴方の追悼文を書くようになるとは思っていませんでした。
貴方に対する怒りだとか断罪だとか、そういったものを言うよりも、何か住む世界が違ってしまったという感じだったのです。
だから、今、こうして追悼の文を書きながらも、後が続きません。
人間にとって、住む世界が同じだということは、やはり大切なことですね。
50年前、住む世界が同じだったあの頃、わずか半年余りの時でしたが、われわれの命はかなり鮮烈に結びついていました。先行き不透明の中、なんとか出路を切り開いて行かなければという思いは。皆一つだったのではないかと思います。
憶えていますか、あの時、塩見さんにした「世界革命戦争の未来のあり方」についての私の質問への答えは、「そんなこと分かるか!」でした。
それで妙に納得したのを憶えています。混迷に近い状況をもう一つ分からないままに切り開く、それがわれわれが共有した世界における一つの合意点だったのではないでしょうか。田宮さんは、「塩見には無茶ができる。それがいいところだ」とよく言っていたものです。
今、世界を覆った混迷の露はかなり晴れてきているように思えます。この世界をともにして、もう一度一緒に闘ってみたかった。この追悼文を書きながら、浮かんでくるのはその思いです。
しかし、塩見さん、貴方はもうこの世にはいません。願わくば、向こうでの再会を果たし、もう一度同じ世界の下、ともに闘うことができる日が来ることを。合掌。
2018年3月4日ピョンヤンかりの会 小西隆裕
山中幸男(救援連絡センター)事務局長
「日付は私の判断で今日付けにして紹介させていただきました。
私は1989年の塩見さんの出所の時に行ったんですが、彼が入っていた期間は19年9ケ月。『よど豪』事件の前の1970年3月にすでに逮捕されていた。前の年69年11月の『大菩薩』事件の一斉逮捕、それから凶器準備結集罪、破壊活動防止法が塩見さんに対して発動された。皆さん、考えてみてください、今、『よど号』事件に関しては実際に行っていない方が共謀共同正犯という形で起訴され、裁判を行っていたわけです。最近話題になっている共謀罪は、『よど号』事件の共謀共同正犯というよりは、何も事件が起こる前の共謀罪で、同じ共謀といっても質が違います。考えてみれば、80年代末から90年代にかけて旧ソ連邦が解体して、その後、朝鮮にいた『よど号』の人たちは、88年に柴田さんという実行メンバーが日本国内で逮捕されて、その後裁判、下獄、出所を繰り返してきたわけです。塩見さんはその間ずっといたわけですが、89年の年末に出所して、90年から朝鮮に行くようになりました。その後、今日に至るまで30年、(逮捕から)かれこれ50年になろうとするのが年月の月日です。
私の関わっている救援連絡センターも来年で50年目です。今日の会の呼びかけ人にもなっている情況出版の大下さんが1月に亡くなられて、私どもの代表弁護士を務めていた方の奥さんが1月に亡くなられて、葬式、葬式で、今日は偲ぶ会で、いったい救援というのは葬儀屋の代わりかという感じで、腐ってばかりもいられませんが、そんな状況です。
先月、朝鮮に行く前に高沢晧司さん(ジャーナリスト)を探し当てて会ってきました。生きていましたが、実際は再起不能の状態で多少会話をしてきました。なぜ高沢のことをあえて紹介するかというと、高沢さんから『山中は赤軍派とは何の関係もないのによくそこまで付き合ってきたが、それはなぜなんだ』とよく言われました。『よど号』事件だけではありませんが、新左翼の活動家の人たちは志はあるんですが、志に留まらずについ難局に直面する。そういうのを政治的遭難と私は表現させていただきました。政治的遭難者をのまま放置しておけばそれでいいんですが、我々の世代の責任として政治的遭難者を助ける、それが『救援』だと思います。救援連絡センターで、こういう考え方は私で終りかもしれませんが、若い方がもしいましたら、志を継ぐような方が是非とも出て欲しいと一言いわせて終りたいと思います。」
椎野(司会)
「それでは最後になりました、日本赤軍の重信さんは、権力によって懲役20年という判決を受けて昭島の医療刑務所で過ごされています。メッセージを代読しますのは、頭脳警察のパンタさんです。パンタさんは、ある日、重信さんの裁判の傍聴に行って 面白いと思って通っている間に重信メイさんとも交流が出来て、重信房子作詞、パンタ作曲の『オリーブの樹の下で』というアルバムを出しました。そういう関係で来てもらいました。」
パンタ(頭脳警察)
「50年が経って訃報が続き、毎日が命日となっていますけれども、来年、頭脳警察も何度かの分派を繰り返しながら結成50周年を迎えます(拍手)。70年72年当時、『世界革命戦争宣言』という歌を歌って、これをあわよくばヒットさせて、紅白歌合戦で紅組で歌わせてもらおうと思ったんですけれども、見事発売禁止にされました。
重信房子さんと、『オリーブの樹の下で』というアルバムを作らせてもらった関係で、今日は彼女のメッセージを代読させていただきます。
<メッセージ「塩見孝也さんのお別れ会に」>
塩見孝也さんのお別れ会に集まられたみな様と共に塩見孝也さん、そしてこの会の呼びかけ人でもある大下敦史さんの逝去に、ここに哀悼を捧げます。
大下さんについては、60年代の闘いの当時は存じ上げませんでしたが、私が逮捕されて以降、情況誌・パレスチナ連帯などで交流しました。塩見さんとは、短い期間でしたが同志として塩見さんのリーダーシップの下で活動を共にしました。
塩見さんに初めてお会いしたのは、確か千葉で行われた初の69年赤軍フラクの会議の時です。あれは5月だったのでしょうか6月だったのでしょうか。
この会議のために、「現代革命Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」という、のちにパンフ№4へと再編される印刷物を明大の仲間とスッティングを頼まれて藤本敏夫さんらと、それを携えて遅れて会議に到着したのを覚えています。
その会議で文字通り口角泡を飛ばして熱烈にアジっていた人が、このフラクのリーダーの塩見さんだと知りました。
チェ・ゲバラは「我々を夢想家と呼ぶなら、何度でもイエスと答えよう」と語ったと言われていますが、塩見さんは、まさに夢想において夢の力を発揮した人です。そしてまた当時のブント、そしてのちに赤軍派をはじめとして分裂していく人々も又夢想し、そのために実存を捧げて闘う人々でした。私も又、そのひとりでした。
ロシア革命によって、以降労働者階級は世界性、普遍性をもち、本質的には資本家階級を逆制約する位置に転位し、人類史を切り拓く主体になったという大きな視野の中に、当時のチェ・ゲバラの「2つ、3つ、さらに多くのベトナムを!それが合言葉だ」という声が重なって私をかきたてたのです。
塩見さんをはじめ、みんなのその頃の志を尊い誇りとして、今も熱く思い返します。
塩見さんは、先駆的ひらめきと、大きなイメージによって、一時は、ブントの68年「8・3論文」などで牽引しましたが、しかし、レーニンやカストロ、チェ・ゲバラのような現実と社会、人民を知る、知ろうとする革命家ではありませんでした。塩見さんに限らず、ブントの人々の多くも、私もまたそうでした。
それは、「現実を変える」という闘いにおいて、革命家としての真価が問われたからです。
私たちは十分に社会を知らず、人民に学ばず、知らず、常識すら理解していない若者たちであった為に、私たちは、敗れるべくして敗れたのだと思い至ります。
塩見さんとは、あの初対面以降、翌年の70年3月、彼が逮捕されるまでの10ヶ月に満たないつきあいでした。
当初は「7人PB」と呼ばれる赤軍派の指導部を形成する者たちが居て、塩見さんと直接会うのは、会議くらいでしたが、藤本さんは去り、堂山さんが逮捕され、高原さんや田宮さんらも東京を離れたりして、連赤事件で殺された山田孝さんと私が一時書記局的に塩見さんと行動を共にすることになりました。正直なところ、塩見さんには、あきれかえる日々が続きました。
僭越を承知で言わせて頂きますが、塩見さんは、あまりに自己中心的で自らを対象化しえない分、他者への配慮の無い無神経な行動、非常識が自覚できないことが多々発生しました。
今なら笑って話せることもありますが、私は当時は許し難い思いで批判ばかりしたかもしれません。追悼のお別れ会にはそんな時代のエピソードを笑って送ってあげたいとも思います。
ある日のことです。山田さんが青い顔をしてとんできて、「塩見が戻らん。捕まったかもしれん!」というので2人で対策を練り、ラジオ報道を気にしつつ、遠くにいた田宮さんに連絡したり、山田さんは、あれこれ悔いて食事も出来ません。
ところが塩見さんは、夜更け過ぎて「やー、すまん、すまん。ハラ減ったなあ」と元気に戻ってきました。
みなが心配したと、山田さんが問い糾すと、自制の効かないいつもの塩見さんの悪い癖が出て、当時一時熱中していたパチンコで有り金全部を使ってしまい、タバコのハイライトの景品を幾つか稼いだ時には、すでに終電を過ぎタクシー代も無いのに気付いたそうです。そこからが塩見さんらしいのですが、歩いて帰るという考えが浮かばなかったそうで、タバコの自動販売機の横に立って買いに来る人を待ち、やっとタクシー代を調達して帰宅したという訳です。
「あなたが赤軍派のリーダーと知ってたら、私は赤軍派に来なかったと思うわ」と、この時は批判したものです。
塩見さんは、強烈な野心というか大志の割に計算のない無私な人ですが、自己中心的な考えの自制がない分、数々の問題行動も起して来ました。「7・6事件」はその最たるものの一つです。
当日を知る者の一人として、塩見指導の疑念にもとづく強引な行動が「7・6事件」を引き起こし、ブントの分裂から崩壊へと、更には、連合赤軍事件への道を開いてしまったことを批判すると共に、それに与した一人として私は自己批判致します。
最後に塩見さんと会ったのは、2010年私の最高裁判決が出る前の東京拘置所です。
7年の接見禁止が解けた後、塩見さんは、それまでにも面会に来ては励まして下さいました。
あの最後の時「結局何年や?20年の刑期か…。きついなあ。15年なら待てるけど20年はしんどい。無理かもしれんなあ…。今、ワシも、若者たちに結構もててるから一緒にやろうと思ってたんや。その5年はきついなあ」と、いつになく深刻そうに語っていました。
「15年なら」と言っていた通り、20年を待たずに先に逝かれました。再会し、変革の志を熱く語っていた塩見さん。自分の志は、アラブで継続されたと主張していた塩見さん、昔と違って自分は、社会もわかっていると主張していた塩見さん。
私にとっては、昔と変わらない塩見さんでしたが、赤軍派の過ちを前向きな力に育てたいという点で共に在りました。
当時の時代の情景を辿りつつ、現在の日本を直視する時、今も続く官僚・自民党支配は、当時の私たちの闘い方の過ちにも、その責任の一端があることを自覚せざるをえないこの頃です。
塩見さん、大下さんの追悼と共に、その思いを強くしています。
2月18日 記 重信 房子
村田(司会)
「この小冊子にも書いてありますが情況出版の大下敦史君。塩見さんは昨年の11月14日に亡くなっていますが、その頃、大下君はまだ生きていたんです。この塩見お別れ会をやるに際して実行委員会を作りまして会議を積み重ね、その中でお別れ会に対する否定的な意見も出ました。大下君は残念ながらこの会に出席する前に、今年の1月2日に亡くなりました。ここに文章がありますので、彼が挨拶したものと思って是非読んでいただければと思います。」
<「私の思い」 大下敦史(情況出版)>
私は今、狭山市の病院にいます。塩見さんの「お別れ会」の準備のために、皆さんが、私の病室に集まっています。
話を聞きとることはできますが、ペンをとる力はありません。
「塩見さんを賛美するようなセレモニーには一切反対」という、強硬な意見も聞こえます。
厳しい意見は、赤軍派やブントで一緒に行動した、かっての仲間の間で多いようです。自分の誤りや、謝罪について、“肝心なこと”を言い残さずに、逝ってしまったことに対する失望感だと思います。
反対に塩見支持者(ファン)の間では、心のおもむくままに「革命バカ」で一生を押し通したことが、魅力的なのかも知れません。
反対意見がどんなに強かろうとも、いやそうであればこそ、「お別れ会」は実行しなければなりません。塩見さんのためというよりも、自分のために、同じ時代を闘った我々自身のためです。
「お別れ会」イコール肯定・賛美というわけではありません。賛美しない「お別れ会」もあるはずです。塩見さんがやり残したもの、それは何か。なぜできなかったのか。議論しなければなりません。
評価は、個人によって異なります。塩見さんとの距離を測りながら、自分の立ち位置を確かめる。そこからまず始めることです。 万人が納得するような、根本的な総括や、革命的な未来の構想が簡単に出てくると考えない方が賢明だと思います。出口の方向や、筋道、その初歩的なヒントだけでも意味があります。
我々がやってきた記録を正確に残すだけでも、正負両面でかなり重たい教訓になるはずです。我々の多くは高齢者で、訃報が珍しくない昨今です。寿命に追い立てられて、時間切れになるかも知れません。
ないものねだりではなく、実現可能な範囲で、何を残すことができるのか真摯に考えたいと思います。
この「お別れ会」が、その出発点になることを願っています。
私は今、狭山市の病院にいます。塩見さんの「お別れ会」の準備のために、皆さんが、私の病室に集まっています。
話を聞きとることはできますが、ペンをとる力はありません。
「塩見さんを賛美するようなセレモニーには一切反対」という、強硬な意見も聞こえます。
厳しい意見は、赤軍派やブントで一緒に行動した、かっての仲間の間で多いようです。自分の誤りや、謝罪について、“肝心なこと”を言い残さずに、逝ってしまったことに対する失望感だと思います。
反対に塩見支持者(ファン)の間では、心のおもむくままに「革命バカ」で一生を押し通したことが、魅力的なのかも知れません。
反対意見がどんなに強かろうとも、いやそうであればこそ、「お別れ会」は実行しなければなりません。塩見さんのためというよりも、自分のために、同じ時代を闘った我々自身のためです。
「お別れ会」イコール肯定・賛美というわけではありません。賛美しない「お別れ会」もあるはずです。塩見さんがやり残したもの、それは何か。なぜできなかったのか。議論しなければなりません。
評価は、個人によって異なります。塩見さんとの距離を測りながら、自分の立ち位置を確かめる。そこからまず始めることです。 万人が納得するような、根本的な総括や、革命的な未来の構想が簡単に出てくると考えない方が賢明だと思います。出口の方向や、筋道、その初歩的なヒントだけでも意味があります。
我々がやってきた記録を正確に残すだけでも、正負両面でかなり重たい教訓になるはずです。我々の多くは高齢者で、訃報が珍しくない昨今です。寿命に追い立てられて、時間切れになるかも知れません。
ないものねだりではなく、実現可能な範囲で、何を残すことができるのか真摯に考えたいと思います。
この「お別れ会」が、その出発点になることを願っています。
※ 「お別れ会」参加者には、鹿砦社の松岡社長より、塩見孝也頂著「革命バカ一代 駐車場日記」100冊が無料で配布されました。
<塩見孝也略歴>
(終)
【お知らせ】
●日大全共闘結成50周年の集い
2018年6月10日(日)
午後1時 御茶ノ水「錦華公園」集合
(明治大学裏)
午後2時から5時
アジア青少年センター
千代田区猿楽町2-5-5
参加費4千円
【お知らせ2】
ブログは隔週で更新しています。
GWはお休みします。
次回は5月11日(金)に更新予定です。
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