今年の1月3日、前・情況出版代表大下敦史氏が逝去された。享年71歳。
大下氏を偲んで、6月17日(日)東京・神田の「学士会館」で「大下敦史ゆかりの集い、追悼!記念講演会」が開催された。

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前回のブログでその集いの概要を掲載したが、今回は集いでの山本義隆氏の記念講演の概要を掲載する。山本氏の講演は「50年前のこと」ということであったが、「1968年という時代と東大闘争を語る」というタイトルを付けさせていただいた。

【「大下敦史ゆかりの集い」記念講演 2018.6.17 於:学士会館
―1968年という時代と東大闘争を語るー   山本義隆】

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福井紳一(司会)(60年代研究会)
「元東大全共闘の代表である山本義隆先生からお話をいただきたいと思います。山本先生は、10・8山﨑博昭プロジェクトにずっと関わっていただき、そして、その中心でずっと動いていただいたんですけれども、ここにいらっしゃる辻さんと佐々木さんがベトナムに行った時に、ベトナムの戦争証跡博物館で展示をやるという話がありまして、それは大変な話だ、できるのかということで、プロジェクトのシンポジウムの時に山本先生に横に呼び出されまして、『そんな大きなことを引き受けちゃったけれど、彼らにそんなことできるわけない。やるのは俺になる。腹を決めた。手伝ってくれ』というお誘いがありまして、それで『60年代研究会』みたいな名前を付けながらも、山本先生は、ベトナム反戦戦争のさまざまな資料蒐集、関係者の聞き取りをずっとなさってきて、あの膨大な展示も、実はもう気付かないうちにパネルもほとんど山本先生が手作りで作っれた。ものすごく器用な方で、それで2016年に根津でまず(展示を)やる、それから京都精華大学、去年、(ベトナムで)『日本のベトナム反戦闘争とその時代展』をやりました。そして大下さんと一緒にベトナムを訪問しました。
では山本先生お願いいたします。」

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山本義隆(科学史家・元東大全共闘代表)
「今、紹介していただいた山本です。大下さんとは、今の話にありましたように、ベトナムに一緒に行っていただいて、その時、大下さんが相当病気が進んでいると聞いていたので、ベトナムのツアーの時にしまったなと思って、ツアーのメンバーに一人医者を連れていくべきだったと、これは大失敗だと思ったんですが、無事、何事もなく帰ってこられて、正直ほっとしました。。
今、大下さんのいろいろなエピソードが出ましたが、一つだけ言いますと、最後の日の夕方に、チェックアウトしてロビーに集まって、そこからバスで空港まで行くということになっていて、夕方に僕はもちろんチェックアウトしてロビ-に降りて行ったら大下さんがいて、話をしていたらどうも話がおかしいので、もしかしてと思って『大下さん、今日帰るの知ってる?』と言ったら、『え!?今日か?明日と違うのか?』と言うので『冗談じゃない、すぐ部屋に帰って荷物をまとめてチェックアウトしろよ』と言った。そういう堂々たるところがあった。もう一つは、ツアーの準備をバタバタしていたので、細かなところまで行き届かなかったので、機械的に部屋を割り振ったら、大下さんの部屋が禁煙ルームになってしまって、彼はものすごい喫煙家で、夜中の12時過ぎにロビーに降りていったら、ホテルの前でタバコを吸っている。それくらいタバコが好きで、もうちょっと気を使っておけばよかったと思ったんですが。大下さんは、本当によく体を押してベトナムまで来てくださったと思う。それだけで本当に感謝しています。

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今日、大谷さんから10分くらいしゃべれと言われて、テーマと言われて、苦し紛れに『じゃあ、50年前のことにしてくれ』と言って、本当は、この1週間ほど、きちっとそれなりにまとまった話をしようと思って準備しようと思っていたんですけど、体の具合が悪くてできなくて、だからほとんどぶっつけなんでけれども、50年前に何があったかというと、今日の会の関係でいうと、『情況』という雑誌が創刊された。それで、その当時の雑誌は『朝日ジャーナル』とか『現代の眼』とか『構造』とかいくつかありましたけれども、全部なくなって、『情況』だけが残っている。はっきりいったら絶滅危惧種みたいなものですよ。それが50年残ったというのはすごいことだと思うんです。そこは大下さんの力はすごかったなとつくづく思います。よく絶滅危惧種を保護して下さったという感じです。

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(写真:情況創刊号)
それで、『情況』の創刊が6月頃だったと思うんですけども、『情況』が成功した理由は何なのかというと、はじめ『情況』ができた時には、清水多吉とか、いくつか論壇の物書きさんが書いていたわけですよ。編集者の古賀君には、ちょうど6月から東大闘争がはじまっているわけですけれど、安田(講堂)に来て、『おい。山本、何か書け』と言って、それで僕が8月27日に病院の赤レンガ館封鎖闘争というのがあって、直後で、『バリケード封鎖の思想』とかいう題だったと思いますが、11月に(『情況』に)出たんです。それがはじめての東大闘争についての現場からの報告だったと思うんですけれども、要するに言いたいのは、『情況』が成功したのは、そういう既存の物書きさんに依存するのではなくて、現場の、僕もそういう雑誌に書いたのははじめてですよ、もちろん僕の名前は誰も知らんですけど、雑誌買ってもこれ誰だという話になるわけですけれども、そういう既存の物書きさんではなくて、現場で運動している人間に書かせたということが『情況』の少なくとも成功の大きな理由だったと思います。ということは、もちろんそういう現場があったということなわけです。なければ、そんなことは書けっこないわけで。

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(写真:1968.6.17 東大)
どういう現場があったかというと、ご存知だと思いまけど、50年前の今日、何があったかというと、今日は東大に1,200名の機動隊が入った日なんですよ。もうちょっと話を広げて6月初めくらいから言いますと、6月2日、九州大学の建設中の建物に米軍のジェット機が激突したという前代未聞のことが起こっているわけです。

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(写真:九大)
それで6月11日に日大で1万人の集会があって、そこに武装した右翼が襲撃しているんですね。日本刀も持っていました。屋上から砲丸とかスチールの机を投げ落とすんですから。そこに機動隊が来て、大衆は拍手したんですよ、右翼を取り締まってくれると。ところが取り締まられたのは全共闘の方だったので、初めて正体がわかった。それがきっかけになって、法学部のバリケード封鎖をやったのが11日です。その次の12日、日大経済学部をバリケード封鎖した。そこから事実上、立て続けに全学バリケード封鎖に入っていくわけです。

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(写真:「反逆のバリケード」より)
それで6月10日に、東大の医学部全学闘、ブントの諸君ですが、律儀なことに東大当局に対して、本部封鎖も辞さず闘う決意があるということを文書で渡しているんです。そんなこと、わざわざ大学当局に言っとんたんかと、僕はあとで知ったんですけれど。それで6月15日に、東大医学部全学闘と医科歯科大、まあ医学連のブントの諸君ですが、安田講堂を占拠した。それで6月16日に、教養学部の自治会選挙でフロントが勝ったんです。これは他の党派の諸君があんまり評価しない、言わないですが、僕はあの時にフロントが勝ったということは、正直ものすごく大きかったと思います。もし教養の正副委員長が民青だったら、ものすごくやりにくかったと思います。それで、15日に6・15の統一行動があって、僕は大学院でベトナム反戦会議代表なんですけれども、そのいろんな大学院の組織を糾合して、大学院の200人くらいで6・15の統一行動に行っているんですね。それで医学部の諸君が安田講堂占拠に入ってすぐ戻ってきて、17日に大学院中心にして全学闘争連合ができて、これは東大の中で大衆的な全学組織ができたのは初めてなんです、それが一番早かったのが大学院なんです。各学部とか教養学部とかじゃなくて。それ以降、全闘連と青医連が、実際、東大全共闘の中心部隊になっていきました。

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それで26日に文学部が革マル派の主導でストライキに入りました。これも実際、ものすごく大きかったと思います。やっぱり、文学部が鉄壁のストライキをやったということはすごく大きかったと思います、本郷では初めてです。それで27日に経済と大学院が無期限ストに入っている。だから大学院がかなり重要な役割をしていたんです。
それで、今でも覚えていますけれども、6月28日に総長の会見というのがあって、総長は30分と言って、体の調子が悪いから一時引っ込みますとか言ってそのまま帰ってこなくて、僕らは一時引っ込んだんだから待っていようという話で、戻ってこないのはわかっていましたけれども、待っているという口実で、そのまま占拠していたんです。それで、すぐに安田講堂を再封鎖しようといって、その時に、民青の諸君は機動隊導入の挑発行動をやるなと言っていたけれど、大衆的にはあまり入らなかったです。なぜかというと、民青は全学組織である中央委員会、医学部と文学部以外は民青がとっとったわけです。持っていたくせに、1月から医学部の処分反対闘争を何もやらなかったじゃないかと、お前らが孤立化させたんじゃないか、という論理が大衆の中にものすごく入っていたですね。それは、実はその前の年から始まっていたんです。
なんでフロントが自治会選挙に勝利したかというと、10・8闘争からなんですよ。さっきの大下さんの話にありましたけれども、10・8闘争があって、次の11・12闘争をどうやるかというのを、三派全学連の偉いさんがいろいろ相談した、僕は全然知らないですが。ちょうど11月12日に駒場で駒場祭をやっとったんですね。そこに全部部隊を入れる。東大の教養学部というのは、井の頭線の駅の改札口まで大学の構内なんです。ということは、大学の構内からそのまま電車に乗れるわけです。ということは機動隊がそこに入れなかったんです。それに目を付けたんだと思うんですね、どの党派のどの偉いさんか知らんけれども。だから11月12日の第二次羽田闘争は、前の晩から、駒場祭をやっている最中に三派全学連の部隊が全部入って、軍事訓練をやって、次の日の朝、井の頭線の駒場東大前駅から出て行ったんですね。その時、駒場祭の委員会を主導していたのがフロントだったわけです。当然民青は相変わらず誹謗しているわけですけれども。その時に、10・8闘争でお前ら何もやらなかったじゃないか、という民青の諸君に対する非難というのは当然出てきているわけです。それは大衆的にものすごくあったけれど、三派全学連まではやれんという感じのフロントは支持していたんですよ。だから漁夫の利をしめたといわれているんですけれども、そういう雰囲気がやっぱりあったと思います。

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それで、僕らは6月28日の時に安田講堂を再封鎖しろといって、この話しをするのは初めてなんですが、内幕を言うのは、だいたい全闘連、青医連はもちろんやる、それから解放派の諸君もやる、ブントは第一次闘争でほとんど消耗していなかった、革マルは7月5日の代議員大会が終わってから封鎖、僕らは絶対に代議員大会の前にやらなければいけない、フロントは7月ではなく9月からやる、それで延々10時間くらい議論したです。その時に、その議論をリードしたのは解放派のF君という、これはものすごい迫力でした。何が何でも俺がやると、俺一人でもやるみたいな雰囲気で、それで革マル派も含めてみんなを全部説き伏せて、あれは見事なものだったです。それで『じゃあしょうがないやろう』ということで、朝まで議論やって、その晩、封鎖実行員会を作って、7月2日に封鎖したわけです。
その時に僕らはFに言ったんですよ、『封鎖した後、どうするんだ』。何もイメージないですよ。要するに本部を封鎖するという打撃しか考えていない。そうじゃないだろう、僕らはむしろ占拠だ、だから本部封鎖、講堂解放という、それでいかなければ絶対ダメだ、講堂を大衆に解放しろと。それで、実際、その次の日から何があったかというと、本部の事務職員というのは文部省直轄です。だから上の偉いさんから職員に対して安田講堂に行かせるわけです。昼になって職員が押しかけてくるわけです、自分の荷物取りたいとかなんとか言って、それを結局、粘りに粘って撃退していたのは、大学院と青医連なんです。党派の諸君は何もやらなかった。僕らは本当に自発的に集まってきたんです。それで玄関前でやりとりして、『じゃあ私たちが荷物を取ってきますから』なんのかんの言って、毎日2時間3時間それで粘られて、それを10日くらい繰り返して、結局、向こうはあきらめたんですけれどね。封鎖というより占拠闘争、オキュペーションです。それはその当時、本郷、専門課程のあるところですけれども、それ全体を中心になるところがどこにもなかったから、あれを解放したというのは、ものすごくよかった。
何でもかんでも入れる、来た人は全部入れていくようにしてという、その時に理論というのは、ベトナム反戦闘争と同じなんで、50年代の反戦闘争というのは、日本が巻き込まれると、朝鮮戦争に巻き込まれるというのだけれども、60年代末のベトナム反戦闘争というのは、日本がアメリカのベトナム侵略を支えている、経済的にも軍事的にもですよ、はっきりいえば、基地を提供しているんだから、それを露骨に示したのが九州大学の事件であり、加担しているんだと、それをどうするのかという論理が大衆的にものすごく入っていった。ということは、そういう論理を受け入れる大衆的な健全さがあったように思うんです。それと同じで、安田講堂再封鎖、もちろん民青はものすごく誹謗するんだけれども、じゃあ一体、何で医学部の諸君が1月からあれだけ苦労してきたんだと、俺たちはそれを知らんぷりしてきたんじゃないかと、そういう議論でやっていって、医学部の教授会というのは、今の安倍政権と全く同じです。明らかに間違っている、ウソをついている、みんなわかっているけど認めない、全くあれと同じですね。処分者のアリバイから、実際に大学の医学部の講師までが現場に行ってアリバイを認めている、だけれどもそれを認めようとしない。それは今の安倍政権と同じなんですけれど、そういうことを認めてきた他の教授会は何なのかというのが、各学部で議論になっていったわけです。法学部の偉い先生が人権だ何だと偉そうなことを言っているけど、あんた何を考えているんだと、こんなことが大学の中で許されていいのか、そういう風に各学部単位でいろいろやって、それで雰囲気がものすごく変わっていったと思います。
僕らは初めは、8月の10日もしたら機動隊が入ると思って余裕がなかったですけど、今から考えると、もっと余裕をもってやっておけば、安田の中を徹底的に探して、いろんなものがあったんだから、それを全部外に持ち出してどこかに隠しておけばよかったと思うんだけど、そんな余裕はとてもなくて、明日機動隊が入るかもしれない、そんな具合だったですから、おしいことしたと思っていますが。
8月の5日過ぎてから、東大全学共闘会議を結成して、『東大闘争勝利のために』というパンフレットを作った。8・10告示の批判も含めて、青医連のM君と法学部の解放派のF君と僕の3人で作ったんですけれど、それを全学生に配ろう、どうしたらいいか?いろんなことを考えたんですけれども、結局、印刷する金を集めるしかないということで、金を集めて全学生に配ったです。そこにS君が書いた『はじめに』に、僕は今でもちょっと覚えていますけど、『資本制百年の汚辱にまみれた東京大学の歴史』とあって、その時はじめて、そうだ1968年というのは明治維新百年なんだと、その時まで気が付かなかったんです。

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そんなんで、9月過ぎたらやっぱり雰囲気が変わってきて、その間、いろんな学生が入ってきて、我々と議論して、それで各学部で教授とやりあって、10月11月頃になると、僕らの意識では処分問題はもちろんあるけれども、大学の制度をとやかく維持ということは問題でなくなってきてたような感じがするんです。そもそも東京大学って何なんだと、何をやってきたんだというのが僕なんかにしても大きかったですね。それで産学協同という、解放派の諸君が産学協同とよく言っていたので内容を聞いてみたら、教育レベルでのとか言っているんだけど、そうじゃないだろうと、本当は研究室レベルなんです。産学協同というのは、特に工学部、農学部、薬学部、医学部、理学部の一部もそうです。もう露骨に産学協同なんです。要するに国策大学なんです。それが問題なんだというのが、僕らが一番意識しました。だから、11月頃にMLの諸君が『東京帝国主義大学解体』というスローガンを初めて言って、これはMLの諸君が言い出したんですね。それで僕は何か腑に落ちるところがあったんです。こんな風に、各党派、いっぺんくらいいい事やっているんです。革マルも安田講堂から逃げたとかいわれていて、やっぱり文学部のストライキを、ほとんど鉄壁のストライキですよ、維持したのが大きかったです。けしからんのは内ゲバを始めたこと、解放派を襲撃したことです。これは本当に、今考えてもはらわた煮えくりかえるくらい不愉快です。お前ら何考えてるんか、バカという感じですね。そんなんで、僕らにとっては民主化がどうとかこうとかというレベルではなくなって、構造化された大学の問題なんだ、ということが少しずつ意識されるようになってきた。

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プライベートな話をしますが、僕はドクターの3年で、ドクター論文を書くことになっていたので、8月の状況が落ち着いてから安田講堂で計算しとったんですよ。それで、僕の研究室から5人、僕の研究室の素粒子研というのは大研究室なんですよ、5人が安田講堂の出入りしとったわけです。それで僕は研究室に全然戻っていなかったから、途中で気が付いて、一人ひとり各個撃破で教授に呼び出されておった。僕は2人目に気づいて、これはまずいと思って、すぐに研究室に戻って、何をするかというと、教授が呼び出してくるのを待っとったんですね。僕の本当の教授というのは、たまたま外国に行っとって、代わりのボスに呼び出されて、向こうは震えとるんです。手が震えてタバコ出して『吸うか?』というので『いいです』。『君、今何している?』と言うから、物理の教授と大学院生の間で『何してる?』といえば、こういう研究をしていますという話になるわけです。だから、黒板に計算したんです。3行くらい書いたら『もういい』と言うので、失礼な奴だと思って、ようやく向こうも『君は安田講堂に出入りしているだろう』『ああ、しています』『そういう大学院生は研究者として認めない』と言う。あっけにとられて、研究者というのは教授に認められてなるもんやと思っていなかったから、『研究者として認めないというのはどういう意味ですか?』と聞いたら、『共同論文は書かない』。僕はそれまで教授と共同論文を書いたことないですよ。いくつか論文書いていますけれど、全部単名で書いています。教授とやったことはない。もう一つは『外国の大学に推薦状を書かない』。言外に『俺が推薦状を書いたら一流の大学に行けるぞ。お前の本来の指導教官だったら三流だからできない』と言っているんだなと。『わかりました、本気で言っているんですね。じゃあみんなの前で言ってください。全部集めて下さい』、大学院生は30人くらいいます、僕は30人くらい集めました。『先生はさっきこう言いいましたね。こう言いましたね、共同論文書かないと言いましたね、研究者として認めないと言いましたね、外国への推薦状を書かないと言いましたね』。大学院生はみんな怒り狂って、いくら何でもそれはないでしょうというので、結局、僕の研究室ほとんど全部安田講堂支持になっちゃったんですけどね。その直前までドクター論文書いとったですが、研究室にはもう戻らんと思ったです。

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そういうことがいっぱいあって、封鎖闘争というのも戦術的なものじゃなくて、そういう学生なり大学院生の気持ちなり、今までの考え方を変えていく解放空間だったと思うんですよね。さっき『情況』に初めて書いた論文が8月27日の病院の赤レンガ館封鎖と言いましたけれど、赤レンバ封鎖は誰がやったかというと、基礎病院連合実行委員会という、お医者さんと研究者が中心となった封鎖闘争なんです。その後、赤レンガの封鎖は実は20年以上続いたと思います。そこで、精神神経科の開放治療を続けていたんです。だから、そういう風ないろんな内容を持ていたと思うんです。だから、言いたいのは、10・8闘争から始まったけれど、あの学園闘争は、それまでの党派に集約されたような論理に納まらない内容を、さっき、重信さんのメッセージの中に68年ブントが持っていた豊かな総合性みたいな言葉がありましたけれども、そういう内容を持っていたんじゃないかと思うんですね。だから、それまでの左翼というのは、近代化して生産力が向上したら、資本主義では矛盾が起こるけれども、社会主義ならばいいみたいな、非常にシンプルで、何というか、そのためには共産党なり前衛党は権力を取らなければいけない、逆に言うと、そういうところが権力を取ったら何でもかんでも解決するみたいなところが、50年代はそういうところがあったんですよ、60年代を通してそういうことでは解決できないんじゃないか、そんなことじゃないんだ、それはソ連の様相を見ても中国の様相を見てもわかってきたし、唯一絶対正しい前衛党があって、それが勝つことがまず第一で、そのためには少々のことは我慢しなさいみたいな、でもそういう話はないんじゃないか、やっぱり東大の問題にしても地域開発の問題にしても、全てのことに正しい前衛党なんてあるわけないじゃないか、これは60年直後はまだそういう幻想はあったですね。60年安保闘争の総括というのは、本当の前衛党を作らなければいけないみたいなものがあって、僕なんか半信半疑で斜めに見とったからあれですけれど、そういう意識がずっとあって、68年の闘争というのは、本当のところをいうと、そういう風な、もっと広がりのある運動、たとえば共産党なんかでも、我々にあれだけ敵対したのは、彼らは70年代中期に民主連合政府ができると信じとったわけです。そうなると一番じゃまになるのは左の部分であるというのがあったと思うんですよ。ものすごい危機感を持っていたと思います。そういう意味で、住民運動であれ何であれ、一番大事なのは、そういう指導的な前衛党が力を伸ばすことなんだという論理みたいなものが、それでは解決せんと、そういう問題の立て方をしてはあかんのちゃうか、というのが、僕らがあの時に感じ取ったもので、結局、68年革命というのは、そういう風な広がりを持って、それが挫折したと言わざるを得ないけれども、そういう風に思っています。だから内ゲバの問題なんかでも、詰まるところ、そういう前衛党の幻想みたいなものがあったんじゃないかと思います。そうじゃなければ、あんなことできっこないですよ。僕なんかとてもついていけないですよ。何でかというと、絶対的に正しいなんて思えない。そんなことあるわけないと思っているから。その場その場で、実際に運動に関わっている人間が、その問題の前衛党なんだ、前衛なんだと考えるべきなんだと、僕はずっと思っているんです。

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この間、10・8山﨑博昭プロジェクトで、たまたま山﨑博昭君が僕の高校の後輩だったこともあって、それから水戸喜世子さんに言われて、水戸さんに関しては、水戸巌さんがまだ核研におられた頃から知り合いで、米軍資金闘争をやった時からの知り合いで、本当に水戸さんという人はすごい人だと思っていますけれど、初めて米軍資金闘争をやる時に、教養学部の会議室に集まった時に、水戸さんが来られて初めて会って、それで本郷に帰ってきて助手にその話をしたら、『そうか、水戸が来とったか。ほんならこの闘争は本物になるな』と言ったのを今でも覚えています。すごい人だったです。それで10・8羽田闘争の直後に、僕は水戸さんのお家まで行って救援の手伝いを始めたんですけど、もう少し話を広げますと、あの68年のいわゆる新左翼が生んだものの一つとして救援運動があるわけです。それまでは、共産党の救援運動というのがあったわけですけれども、あれは党派の方針を支持する者しか救援しないという。それを水戸さんは、そういう政治信条を離して、権力に弾圧されてきた人は全部救援しなければいけないと、それを貫いた人なんです。それで、その救援運動が実に50年続いてきた。これは新左翼の最大の遺産の一つだと思います。あの頃はゴクイリイミオオイとみんな覚えたけれど、それが今でもまだ残っている。救援運動を続けている、本当に政治信条を越えて権力からの弾圧は救援するという思想を貫いてきた。僕はこれはものすごいことだと思います。
この間、10・8山﨑博昭プロジェクトの中で議論していたんですけれども、10・8闘争の救援から始まった水戸さんの始められた救援運動は、ちゃんとその意義とその歴史を語り継ぐべきではないかと、つくづく思っております。だから、ここのところ、そのことをやりたい、やるべきかなと思っています。
『情況』が50年、絶滅危惧種が生き残ったということですが、救援運動は絶滅危惧種になっては困るので、我々が誇っていいあれで、それやってきた水戸さん、山中幸男さん、本当に頭下がります。立派だなと思っています。
そんなことで僕の話、まとまらないで申し訳ないですが終わります。
(拍手)

※ 当日のもう一つの白井聡氏の講演内容は、別途、ブログに掲載する予定です。

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次回は7月20日(金)に更新予定です。