今年の1月3日、前・情況出版代表大下敦史氏が逝去された。享年71歳。
大下氏を偲んで、6月17日(日)東京・神田の「学士会館」で「大下敦史ゆかりの集い、追悼!記念講演会」が開催された。
大下氏を偲んで、6月17日(日)東京・神田の「学士会館」で「大下敦史ゆかりの集い、追悼!記念講演会」が開催された。
前回のブログで、「集い」での山本義隆氏の記念講演の概要を掲載したが、今回は、もう一つの白井聡氏の記念講演の概要を開催する。
【「大下敦史ゆかりの集い」記念講演 2018.6.17 於:学士会館
―前「情況」誌代表 大下敦史氏の思い出を語るー 白井 聡 】
―前「情況」誌代表 大下敦史氏の思い出を語るー 白井 聡 】
福井紳一(司会)(60年代研究会)
「記念の講演に入っていきたいと思います。まず、京都精華大学の白井聡さんです。白井さんは、大下さんの元での『情況』でデビューして、今度出された『国体論』においても、大下さんに捧げるという思いで最後に書かれておりますけれど、その『国体論』は国体概念を基軸に、日本近代史をもう一度総括していくという画期的な試みの本で、今、売れて読まれています。
では、よろしくお願いします。」
白井聡(政治学者:京都精華大学人文学部専任講師)
「皆さんこんにちは。白井聡と申します。今、ご紹介がありましたように、京都精華大学というところで教員をやっておりますけれども、専門は政治学とか社会思想というようなことを専門にして日々教育をしております。
私と大下さんとの関係を最初に申しますと、一言で言いますと、私にとって大下敦史さんという人は、本当に恩人であります。といいますのは、最初にお会いしたのは、2004年だったと思いますが、私が当時、一橋大学の大学院博士課程に在籍をしているころでありました。私は、当時、どんな研究をしていたかというと、ロシア革命のレーニンの研究をしておりました。その主題はどういうものかというと、すごく簡単に言ってしまえば、レーニンというのはやっぱり偉いんだということですね。懸命に論証をしようと、そういう研究をしておりまして、それで2003年に修士論文を書いて博士課程に進んでいたわけです。しかしながら、当時、今もそれほど根本状況は変わっていないんですけれども、レーニンは素晴らしいというようなことをいう研究が、学会向けといいましょうか、業界向けをするかというと、全然受けないわけです。むしろ学会のトレンドに全く逆行している、そういうものであります。
私は修士論文を書く過程で、大学院のゼミで発表などをするわけですが、その時に私の師匠の政治学者の加藤哲郎先生は『白井の発表はなかなか面白いけどなあ。こういうのをやっていると就職はないぜ』と言われたものです。私も若かったものですから、血気盛んなものですから、先生はこんなこと言ってるけれども自信はある、今に見ておれと思っていたわけですけれども、博士課程に進みますと、だんだん先生の言っていることの意味がよくわかってきました。なるほど、これほどまでに学会のいわゆる流行といいましょうか、傾向に合致しないことをやっていると、これほどまでに無視をされるというか、放っておかれるものなのか、そういうことを博士課程に進学して、博士課程に進学するということは、同時につぶしが全くきかなくなってくるということを意味するわけで、何とかその世界で生きていかなければいけないわけでありますが、しかしながら、一体どうしたものかと、そういう状況に、今から思えばあったんだと思います。
「皆さんこんにちは。白井聡と申します。今、ご紹介がありましたように、京都精華大学というところで教員をやっておりますけれども、専門は政治学とか社会思想というようなことを専門にして日々教育をしております。
私と大下さんとの関係を最初に申しますと、一言で言いますと、私にとって大下敦史さんという人は、本当に恩人であります。といいますのは、最初にお会いしたのは、2004年だったと思いますが、私が当時、一橋大学の大学院博士課程に在籍をしているころでありました。私は、当時、どんな研究をしていたかというと、ロシア革命のレーニンの研究をしておりました。その主題はどういうものかというと、すごく簡単に言ってしまえば、レーニンというのはやっぱり偉いんだということですね。懸命に論証をしようと、そういう研究をしておりまして、それで2003年に修士論文を書いて博士課程に進んでいたわけです。しかしながら、当時、今もそれほど根本状況は変わっていないんですけれども、レーニンは素晴らしいというようなことをいう研究が、学会向けといいましょうか、業界向けをするかというと、全然受けないわけです。むしろ学会のトレンドに全く逆行している、そういうものであります。
私は修士論文を書く過程で、大学院のゼミで発表などをするわけですが、その時に私の師匠の政治学者の加藤哲郎先生は『白井の発表はなかなか面白いけどなあ。こういうのをやっていると就職はないぜ』と言われたものです。私も若かったものですから、血気盛んなものですから、先生はこんなこと言ってるけれども自信はある、今に見ておれと思っていたわけですけれども、博士課程に進みますと、だんだん先生の言っていることの意味がよくわかってきました。なるほど、これほどまでに学会のいわゆる流行といいましょうか、傾向に合致しないことをやっていると、これほどまでに無視をされるというか、放っておかれるものなのか、そういうことを博士課程に進学して、博士課程に進学するということは、同時につぶしが全くきかなくなってくるということを意味するわけで、何とかその世界で生きていかなければいけないわけでありますが、しかしながら、一体どうしたものかと、そういう状況に、今から思えばあったんだと思います。
そういう中で、当時、Sさんが一橋大学の読書会に参加していたということがあって、そこからのつながりで河出書房新社のAさんとも知り合いになって、その紹介で、『情況』に書いてみないかという誘いを受けました。当時私が『情況』という雑誌に、どれだけの知識が、どんな認識があったのかというと、それほど大した認識はありませんで、一応、新左翼系だということは理解をしていたと同時に、大学時代にある先輩がカバンの中から『情況』を取り出して『こんなの持っているとね、公安に目を付けられちゃうの』と、ある女の先輩が言ったことを覚えていたりしますけれども、何だかとにかくとってもやばい雑誌らしい、というくらいの、いってみれば最左派だというくらいの漠然たる認識でありました。きっと、あなたのやっていることだったら喜んでもらえるんじゃないか、というような誘いを受けましたので、そういうことだったら有難いと思って、修士論文の一部を1本の論文に仕立てて情況編集部に送りました。すぐに掲載してもらえるということになりまして、当時言われたのは、『情況』の校正は著者自らやった方がいいと聞かされておりまして、というのは一応学術論文ですから、注とかが付いていたりして、その注は外国語が入っていたりして大変ややっこしいわけですけれども、いろいろそこで問題が発生して、頭から湯気を出している先生などがいるらしいという話も聞いておりましたので、なるほどと、自ら編集部を訪れてやった方がよさそうだということで、当時、新宿の河田町にあった編集部を訪ねました。
行く前には、私としては若干身構えるといいましょうか、とにかく一番左だといわれている『情況』だ、そのボスであるところの大下さんはどういう人なのか、話は断片的に聞いていたんですけれども、ともかく『情況』で頭を張っているんだから、相当の左翼の大物であろうということで、かなりおっかない人なんじゃないかというイメージを勝手に持って行ったんですけれども、もちろん、会った瞬間にイメージというものは吹き飛んだといいましょうか、今でも覚えておりますけれども、河田町のビルの重い鉄の扉を開けますと、そこに情況編集部があったわけですけれども、なんとなく生活感が漂っているんですね。当時、朝子ちゃんがまだ小さかったと思うんですけれども、朝子ちゃんのおもちゃとか絵本とかソファーの上にあったりして、左翼のアジトというのはこういうものかと、そこで面喰ったわけです、私は、左翼の大物である大下編集長から鋭いコメントがあるんじゃないかということを、期待半ば、また、不安半ばという形で対面したわけですけれども、そういった固い話というのは全く無く、とにかく不思議な感じがしました。初めて会ったのに、何か懐かしい感じのする人ということですね。その初めての対面が、その後の十数年間に及ぶ付き合いをさせていただいたわけですけれども、その運命を変えたんじゃないかと思っています。
行く前には、私としては若干身構えるといいましょうか、とにかく一番左だといわれている『情況』だ、そのボスであるところの大下さんはどういう人なのか、話は断片的に聞いていたんですけれども、ともかく『情況』で頭を張っているんだから、相当の左翼の大物であろうということで、かなりおっかない人なんじゃないかというイメージを勝手に持って行ったんですけれども、もちろん、会った瞬間にイメージというものは吹き飛んだといいましょうか、今でも覚えておりますけれども、河田町のビルの重い鉄の扉を開けますと、そこに情況編集部があったわけですけれども、なんとなく生活感が漂っているんですね。当時、朝子ちゃんがまだ小さかったと思うんですけれども、朝子ちゃんのおもちゃとか絵本とかソファーの上にあったりして、左翼のアジトというのはこういうものかと、そこで面喰ったわけです、私は、左翼の大物である大下編集長から鋭いコメントがあるんじゃないかということを、期待半ば、また、不安半ばという形で対面したわけですけれども、そういった固い話というのは全く無く、とにかく不思議な感じがしました。初めて会ったのに、何か懐かしい感じのする人ということですね。その初めての対面が、その後の十数年間に及ぶ付き合いをさせていただいたわけですけれども、その運命を変えたんじゃないかと思っています。
その時に僕がすごく勇気づけられた気持ちもしました。というのは、論文の内容についての込み入った話など大下さんは一切せずに、とにかく言ってくれたのは『うん、これはいいよ』ということでした。それは実際掲載されまして、編集後記にも、大下さんのとても僕のことを買ってくれているコメントが載りまして、それに僕はすごく勇気づけられました。何といっても、物を書いて生きていかなくちゃいけない、いわゆるアカデミックな論文スタイルに、学者である以上、それなりに適応しなければならないわけですが、一方で、いわゆるアカデミックなスタイルというものに対して僕は強い違和感があって、もっとある種魅力のあるものを書きたいと、常々そう思ってやったきたわけで、今もそうですけれども、まさにその姿勢というものを貫けたのは、まさに大下さんが『君の書くものは、これはいいものなんだ』と、そういう風に言ってくれたということですね。そのことが根本的に僕をこれまで支えてくれたと思います。
具体的には、最初の1本、40枚程度だったと思いますが、これは修士論文の一部なんですよと言ったところ、『じゃあほかの部分も出しなさい』という話になりまして、レーニンの『国家と革命』に関して書いた修士論文だったんですが、そのメインの部分を次々号に載せてもらいました。これは150から180枚にのぼるものでして、普通、雑誌の論文というものは、長くて50枚、平均して30枚とか40枚しか掲載してもらえないものですけれど、150枚を超えるものを一挙掲載をしてもらったわけです。どうも、この長さそのものが、他の出版業界の人に聞いてみると、非常にインパクトがあったそうです。こんなとんでもない長いものが載っている、これは何だということで、それ自体にインパクトがあったという話も聞きました。そして、『別冊情況レーニン再見』というものを、法政大学の長原豊さんが、こういうものがあるからやらないかと提案があって、とにかく大下さんはレーニンといたら目がない方でありますから、絶対にそれはやるべきだと、それで一緒にやりましょうということになって、これをやった。その時には中沢新一先生にインタビューさせてもらったりとか、本当に私にとっては楽しい思い出であります。
それ自体も楽しかったし、結局、こういったことというのは、最初の僕のメジャーなところでのデビューにつながっていきました。具体的にいいますと講談社の編集者が、何かレーニンレーニンとか言って、いろいろ書いている若いやつがいるらしいということで注目をしてくれて、講談社選書編集部から手紙が来まして、うちで出さないかということで、私はそこでオファーを受けまして、『未完のレーニン』という本を出すことになったわけです。その原稿のほとんどが『情況』に掲載したものをベースにしています。
具体的には、最初の1本、40枚程度だったと思いますが、これは修士論文の一部なんですよと言ったところ、『じゃあほかの部分も出しなさい』という話になりまして、レーニンの『国家と革命』に関して書いた修士論文だったんですが、そのメインの部分を次々号に載せてもらいました。これは150から180枚にのぼるものでして、普通、雑誌の論文というものは、長くて50枚、平均して30枚とか40枚しか掲載してもらえないものですけれど、150枚を超えるものを一挙掲載をしてもらったわけです。どうも、この長さそのものが、他の出版業界の人に聞いてみると、非常にインパクトがあったそうです。こんなとんでもない長いものが載っている、これは何だということで、それ自体にインパクトがあったという話も聞きました。そして、『別冊情況レーニン再見』というものを、法政大学の長原豊さんが、こういうものがあるからやらないかと提案があって、とにかく大下さんはレーニンといたら目がない方でありますから、絶対にそれはやるべきだと、それで一緒にやりましょうということになって、これをやった。その時には中沢新一先生にインタビューさせてもらったりとか、本当に私にとっては楽しい思い出であります。
それ自体も楽しかったし、結局、こういったことというのは、最初の僕のメジャーなところでのデビューにつながっていきました。具体的にいいますと講談社の編集者が、何かレーニンレーニンとか言って、いろいろ書いている若いやつがいるらしいということで注目をしてくれて、講談社選書編集部から手紙が来まして、うちで出さないかということで、私はそこでオファーを受けまして、『未完のレーニン』という本を出すことになったわけです。その原稿のほとんどが『情況』に掲載したものをベースにしています。
今も思い出すんですけれども、講談社から手紙をもらって、大下さんにすぐに電話をしました。大下さんが非常に弾んだ声で『本当によかった。きっと大きな会社から、そういった話がきっと来るだろうと思っていたけど、なかなか時間がかかったから、これはどこからも来なかければ、「情況」で本にしたらどうかと思っていたんだ』と言ってくれました。本当に何と言いましょうか、大下さんはとにかく僕の書いたものを高く評価してくれて、そうであるが故に、これはもっと大きな会社から広く読まれる形で世の中に問われるべきなんだという風に、本当に心の底から思ってくれていたと思います。本当に私心なく僕のことを応援してくれた、そのことには、僕は本当にいくら感謝してもしきれないと思っています。
こうやって話していると、どうしても悲しさも募ってくるんですけれども、大下さんの朗らかさということを振り返りたいと思います。10何年かの付き合いの中で、今から思い出してもつい笑ってしまうし、僕も今、家族がいますけれども、妻も何度か大下さんと会ったことがあって、あんなことがあったねと夫婦の間で話をして、ひとしきり笑うことができる、そんなたくさんの想い出があります。
中でも思い出されるのは、ある時、翻訳本を『情況』で出そうということで、月1回くらい神保町のデニーズに集まって、そこで翻訳の検討をするということで、各自が持ってきたものを、ああでもないこうでもないと言ってやるということをやっていたんですね。もちろん、翻訳は情況出版から出す。それをやる時、毎回、大下さんが臨席していたんですけれども、ある時、いつまで経っても大下さんが来ない。おかしいなあ、この時間を指定したのは大下さんなのに、例によって1時間くらい遅れるのはいつものことですけれども、1時間過ぎて2時間経っても来ない。さすがに大下さんに電話をしてみたら『大変なことが起こっているんだ』と言うんです。何が大変なことが起こっているんだろうと思ったら、甲子園です。斉藤佑樹ですね。延長戦で決着が付かず、決勝戦の再試合を俺はかぶりつきで見ているからとてもじゃないけど家から出れない、と言うんですね(2006年早実と駒大苫小牧の決勝戦再試合)。大下さんも早稲田ですから愛校心にとんでいまして、私も大学は早稲田だったものですから、斉藤佑樹の早稲田実業を大変に応援していたんですけれども、再試合を僕だって観たかったんですよ、仕事をさぼって観たかったんですけれども、仕事だからしょうがないと思って我慢してやってきたわけですけれども、社長はそういうことは全く無視をしていた、そんなことがありました。
それから、すごい話というのが、今は東大の名誉教授になっておりますけれども、当時は東大法学部の現役の教授だった方がいらして、その方が『情況』の大下さんが依頼をして、インタビューだか原稿だかをいただいたんですね。大下さんのすごい編集方針というのがあって、それは驚くべきは編集後記というのを、全部の原稿を読んでから書いていた。普通、雑誌の編集者はそれをしないと思うんですけれども、もちろんそれで割を食うのは印刷製本屋さんですが、全部を読んでから大下さんは編集後記の原稿を書いていたんですね。だから、本当にきっちりきっちり毎号全ての原稿を読んでいた。そこで生じることは何かというと、大下さんの批評精神がそこで発動する場合がある。その批評精神とは何かというと、最後になって原稿の入れ替えが起こる。つまり、最終版になって入れるはずではなかった原稿が届く、この内容がいいとなると、大下さんはスパッと決断をするわけです。ある時、それが起こったわけです。『これはいい』と。それで東大の先生の原稿が落とされるということが起こったわけです。原稿料も払っていないわけですから、普通、そういうことはしないと思うんですが、大下さんは普通の物差しは通じない。それで、ここで不思議なことといいましょうか、これこそブントということなんだと思いますけれども、普通、そういうことが起こると、落とされた側は、もう二度と許さないという雰囲気になるのが普通だと思うんですが、そうならない。結局、2、3ケ月後の『情況』に、その原稿が改めて載った。更に面白い話があって、掲載号が教授の家に送られてきた。その教授の奥様が掲載号を見て『あなた、ついに「情況」に載せてもらえたのね。本当によかったわね』と言った。この方は大変有名な方で、いろんな有名な雑誌に書いておられますし、しょっちゅうTVやラジオ等でも活躍しておられる方ですけれども、その先生の奥様というのはかなり変わった方なんではないかと思うんですけれども、ある意味面白い、筋の通った方ではないかと思いますけれども、その奥様の側から見ると、NHKだとか岩波『世界』だとかこういったものよりも『情況』の方が格が高いみたいなんですね。これも大下さんから聞いたきわめて興味深いエピソードの一つでありました。
こうやって話していると、どうしても悲しさも募ってくるんですけれども、大下さんの朗らかさということを振り返りたいと思います。10何年かの付き合いの中で、今から思い出してもつい笑ってしまうし、僕も今、家族がいますけれども、妻も何度か大下さんと会ったことがあって、あんなことがあったねと夫婦の間で話をして、ひとしきり笑うことができる、そんなたくさんの想い出があります。
中でも思い出されるのは、ある時、翻訳本を『情況』で出そうということで、月1回くらい神保町のデニーズに集まって、そこで翻訳の検討をするということで、各自が持ってきたものを、ああでもないこうでもないと言ってやるということをやっていたんですね。もちろん、翻訳は情況出版から出す。それをやる時、毎回、大下さんが臨席していたんですけれども、ある時、いつまで経っても大下さんが来ない。おかしいなあ、この時間を指定したのは大下さんなのに、例によって1時間くらい遅れるのはいつものことですけれども、1時間過ぎて2時間経っても来ない。さすがに大下さんに電話をしてみたら『大変なことが起こっているんだ』と言うんです。何が大変なことが起こっているんだろうと思ったら、甲子園です。斉藤佑樹ですね。延長戦で決着が付かず、決勝戦の再試合を俺はかぶりつきで見ているからとてもじゃないけど家から出れない、と言うんですね(2006年早実と駒大苫小牧の決勝戦再試合)。大下さんも早稲田ですから愛校心にとんでいまして、私も大学は早稲田だったものですから、斉藤佑樹の早稲田実業を大変に応援していたんですけれども、再試合を僕だって観たかったんですよ、仕事をさぼって観たかったんですけれども、仕事だからしょうがないと思って我慢してやってきたわけですけれども、社長はそういうことは全く無視をしていた、そんなことがありました。
それから、すごい話というのが、今は東大の名誉教授になっておりますけれども、当時は東大法学部の現役の教授だった方がいらして、その方が『情況』の大下さんが依頼をして、インタビューだか原稿だかをいただいたんですね。大下さんのすごい編集方針というのがあって、それは驚くべきは編集後記というのを、全部の原稿を読んでから書いていた。普通、雑誌の編集者はそれをしないと思うんですけれども、もちろんそれで割を食うのは印刷製本屋さんですが、全部を読んでから大下さんは編集後記の原稿を書いていたんですね。だから、本当にきっちりきっちり毎号全ての原稿を読んでいた。そこで生じることは何かというと、大下さんの批評精神がそこで発動する場合がある。その批評精神とは何かというと、最後になって原稿の入れ替えが起こる。つまり、最終版になって入れるはずではなかった原稿が届く、この内容がいいとなると、大下さんはスパッと決断をするわけです。ある時、それが起こったわけです。『これはいい』と。それで東大の先生の原稿が落とされるということが起こったわけです。原稿料も払っていないわけですから、普通、そういうことはしないと思うんですが、大下さんは普通の物差しは通じない。それで、ここで不思議なことといいましょうか、これこそブントということなんだと思いますけれども、普通、そういうことが起こると、落とされた側は、もう二度と許さないという雰囲気になるのが普通だと思うんですが、そうならない。結局、2、3ケ月後の『情況』に、その原稿が改めて載った。更に面白い話があって、掲載号が教授の家に送られてきた。その教授の奥様が掲載号を見て『あなた、ついに「情況」に載せてもらえたのね。本当によかったわね』と言った。この方は大変有名な方で、いろんな有名な雑誌に書いておられますし、しょっちゅうTVやラジオ等でも活躍しておられる方ですけれども、その先生の奥様というのはかなり変わった方なんではないかと思うんですけれども、ある意味面白い、筋の通った方ではないかと思いますけれども、その奥様の側から見ると、NHKだとか岩波『世界』だとかこういったものよりも『情況』の方が格が高いみたいなんですね。これも大下さんから聞いたきわめて興味深いエピソードの一つでありました。
こんな具合に面白い話が多数あるわけですが、大下さんの『どうもどうも』という挨拶とか、何ともいえない屈託のない話し方、これでもって、普通、角がたつというところをなぜか丸く収めてしまうという不思議な力というのは、実はタフネゴシエーター(手ごわい交渉相手)の力でもあったというエピソードを一つご紹介したいと思います。
大下さんの同年代の仲間の方で、どうも商売や健康などいろんな困難を抱えて、にっちもさっちもいかなくなった方がいらして、これはしょうがない、生活保護を受けることにしようということに決まったんですが、なかなか生活保護を受けるのは厳しいわけで、簡単に受給できない。そこで大下さんは某区役所について行った。そこで交渉が始まったわけです。『これこれの受給をしたいんですが・・・』と。まず最初にお役人さんは何を言うかというと、NOということです。かくかくしかじかで受給資格が足りないんでどうのこうのというこで、一生懸命なぜ受給できないのかという理由をていねいに説明するわけです。その説明が終わったところで、大下さんはどうしたかというと、『これでお願いします』と最初と全く同じことを言うわけなんです。それで窓口で困ってしまって、もう1回同じ説明をする。そうすると、大下さんはまた同じ言葉で返す。実は。これはものすごくタフな交渉術なんだと思います。こういうことを繰り返している間に、ついに相手方は疲れ果ててしまって、もうしょうがないということで許可しようということになった。実際にこの申請に成功を収めるわけです。本当に、こんな力もあるという意味で、本当に不思議な人でした。
大下さんの同年代の仲間の方で、どうも商売や健康などいろんな困難を抱えて、にっちもさっちもいかなくなった方がいらして、これはしょうがない、生活保護を受けることにしようということに決まったんですが、なかなか生活保護を受けるのは厳しいわけで、簡単に受給できない。そこで大下さんは某区役所について行った。そこで交渉が始まったわけです。『これこれの受給をしたいんですが・・・』と。まず最初にお役人さんは何を言うかというと、NOということです。かくかくしかじかで受給資格が足りないんでどうのこうのというこで、一生懸命なぜ受給できないのかという理由をていねいに説明するわけです。その説明が終わったところで、大下さんはどうしたかというと、『これでお願いします』と最初と全く同じことを言うわけなんです。それで窓口で困ってしまって、もう1回同じ説明をする。そうすると、大下さんはまた同じ言葉で返す。実は。これはものすごくタフな交渉術なんだと思います。こういうことを繰り返している間に、ついに相手方は疲れ果ててしまって、もうしょうがないということで許可しようということになった。実際にこの申請に成功を収めるわけです。本当に、こんな力もあるという意味で、本当に不思議な人でした。
ところで、先年、塩見さんがお亡くなりになりましたけれども、塩見さんが亡くなった時に、あれだけ有名な方でしたから、ある種、何者だったのかみたいないろんなことがマスメディア上でも語られましたけれども、私が接した中である意味一番感動的だったのは、雨宮処凛さんが書いた追悼文でありまして、その中で言っているのは、塩見さんとの付き合い、もちろん彼女の場合、出所してからお付き合いがあったということなんですが、なかなか付き合うのが大変な人でしたと。なぜかというと、二言目には『世界同時革命だ』というので、とにかく大変であると。それから、ある時期、ケンカをして絶交寸前までいった。それはなぜかというと、ある時、塩見さんが怒り出して『お前は左翼だとか自称しているけれども、ろくにマルクスも読んでいないんじゃないか。そんなやつは左翼とは呼べん』と言い出して、雨宮さんとしては『あんな分厚いものをたくさん読まなければ左翼と言えないなんて、そんな面倒くさい話だったら、私は左翼でなくて結構だ』と言ってケンカになって大変だったという話を書いていらっしゃるわけですけれども、その中で彼女が書いていたのは、実は亡くなる数年前の塩見さんの周辺には、ある種、雨宮さんをはじめとした、ずっと若い世代の塩見さんを囲むサークルのようなものができていた。じゃあ何でその若者たちは塩見さんに惹かれていたのか。結局、いろいろ大変だけど、塩見さんの近くにいると癒されたんだということなんですね。何で癒されたのかというと、とにかく塩見さんは二言目には『世界同時革命』だと言う。もう一つは『それは資本主義のせいだ』と言うわけなんですね。この自己責任が強調される時代において、いわゆる『生きづらさ』を抱えた若者たちが、『生きづらさ』を感じているのは結局自分のせいだと思い詰めていたところに、塩見さんに会うと、『それは君のせいじゃないよ。資本主義のせいなんだ』と、こういう風に言ってくれるところに、ある種の解放感といいましょうか、救いというのがあったと書いてらして、僕はとてもいい文章だなと思ったんですが、僕もよくよく考えてみると、大下さんからもらったものの本質というのは、そこだったんじゃないかという気がしています。
要するに、君はここにいていいんだよ、あるいは僕のそばにいていいんだよと言ってくれると、そんなことは言わないわけですけれども、雰囲気がそう問わず語りに言っているわけなんです。それによって僕は、ある種の安心感というのを覚えることができたし、そして今、いろんなことを書いておりますけれども、レーニンについて論じて、そして今、天皇について論じるということをやっているわけですけれども、僕は常に思い切って書くといいましょうか、いわゆる既存のイデオロギーの流れ、あるいは固着化してしまったもの、そういったものに絶対に囚われずに書きたい、そういう思いをもってやってきました。ある意味、それは冒険であるのかもしれません。そして好きなようにやるということでもあります。自分の本当に書きたいことを書くという自由ですね、もちろんそれは自由であり、自由にはリスクが伴う、ある意味の冒険なんです。誰からも相手にされないというリスクもある。でも、そんな冒険をすることが今までできました。なぜ冒険できたのかというと、やっぱりそれは、誰かが無茶をやっても救ってくれる人がこの世にはいるはずだ、しかも元々赤の他人だった人が救ってくれるということが、この世の中にはあるんだという確信が、まさに大下さんによって与えられ、そして支えられきたからだと思っております。
要するに、君はここにいていいんだよ、あるいは僕のそばにいていいんだよと言ってくれると、そんなことは言わないわけですけれども、雰囲気がそう問わず語りに言っているわけなんです。それによって僕は、ある種の安心感というのを覚えることができたし、そして今、いろんなことを書いておりますけれども、レーニンについて論じて、そして今、天皇について論じるということをやっているわけですけれども、僕は常に思い切って書くといいましょうか、いわゆる既存のイデオロギーの流れ、あるいは固着化してしまったもの、そういったものに絶対に囚われずに書きたい、そういう思いをもってやってきました。ある意味、それは冒険であるのかもしれません。そして好きなようにやるということでもあります。自分の本当に書きたいことを書くという自由ですね、もちろんそれは自由であり、自由にはリスクが伴う、ある意味の冒険なんです。誰からも相手にされないというリスクもある。でも、そんな冒険をすることが今までできました。なぜ冒険できたのかというと、やっぱりそれは、誰かが無茶をやっても救ってくれる人がこの世にはいるはずだ、しかも元々赤の他人だった人が救ってくれるということが、この世の中にはあるんだという確信が、まさに大下さんによって与えられ、そして支えられきたからだと思っております。
まさにそれを大下さんは、全く無償で、ただ僕のことを気に入ったからという、ただそれだけのことでそれをしてくれました。ですから、今、つくづく思うのは、大下さんが亡くなってしまったということは、僕にとっては本当に何と言いましょうか、支えてくれる背骨、柱を失ってしまったということでもあるわけなんです。だけど、それは同時に、いつかは必ず来る日だったわけですし、それは本来自分で一本立ちしなければならないんだと、大下さんから言われているのかなとも思います。そして、その一本立ちするということは、きっと大下さんが人に対して何かを与えてくれていたことを、今度は僕がほかの人に何かを与えるということをやっていかなくてはいけない、そういう年齢に自分自身がなったんじゃないかなと、そういうことを今、ひしひしと感じております。
その精神でもって、今後も、大下さんが可能にしてくれた冒険を続けながら、そして来るべき新しい冒険者を見つけて、これを支えていきたい、これを大下さんが亡くなったことを契機としての僕の改めての決意として、ここで表明して私の話を終わらせていただきたいと思います。(拍手)
その精神でもって、今後も、大下さんが可能にしてくれた冒険を続けながら、そして来るべき新しい冒険者を見つけて、これを支えていきたい、これを大下さんが亡くなったことを契機としての僕の改めての決意として、ここで表明して私の話を終わらせていただきたいと思います。(拍手)
【大下敦史氏追悼画像】
(2010年10月23日「映像とシンポで日米安保体制と沖縄の自決権を考える」集会であいさつをする大下敦史氏)
【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は8月3日(金)に更新予定です。