野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2018年09月

重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、前田祐一さんの10・21防衛庁闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ-ブの樹」編集室及び前田さんの了承を得てあります。)

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【1968年10月21日 防衛庁は燃えているか!】
日本はベトナム北爆の基地提供国、防衛庁に巣食う戦争犯罪人を告発せよ!
10.21防衛庁突入総指揮、よど号ハイジャック共謀共同正犯 前田祐一
 1968年は、1月のベトナム民族解放戦線のテト攻勢、2月の中大学費値上げ白紙撤回から始まった。米軍・南ベトナム軍に対する北ベトナム軍・民族解放戦線のテト攻勢の勝利は、世界を動かし、パリの5月革命(カルチェラタン)、ドイツ赤軍結成、アメリカブラックパンサー(4月にキング牧師が暗殺されている)、8月プラハの春、10月日本の防衛庁突入へと連なる歴史があったと思う。過渡期世界論が第2次ブンドの指導理論となったのも1968年であり、私達は、世界同時革命が始まっているかのような予感さえ感じていた。前年に10.8佐藤訪ベト阻止羽田、11.12佐藤訪米阻止羽田を闘い、2月-3月には、新東京国際空港公団三里塚現地事務所突入闘争を闘っていた。成田については、当時の我々は、東大都市工学部大学院との事前の共同研究から、新しい国際空港は、アジアのハブ空港にするべく東京湾上に作るべきと主張し、当時の東京都知事が美濃部亮吉氏であったことを奇貨とし、全学連=東京都の統一戦線を形成し、新国際空港を成田に建設することを阻止しようとしていた。もし50年前、新東京国際空港が東京湾上に建設されていれば、その経済効果は計り知れないものがあった筈である。利権に群がる愚かな政治家が、失われた50年を生み出し、国家に多大な損害を与えたのである。万死に値する行為であると言わざるを得ない。そうした日々の中で10・21が近ずいて来ていた。50年前、日本の学生運動を最前線で担っていた我々は、所謂、団塊の世代のトップランナーであり、戦後民主主義と憲法9条を頭から叩き込まれ、「聞けわだつみの声」第5福竜丸「ビルマの竪琴」「野火」「火垂るの墓」を原体験に持つ世代であり、戦争を忌避する尋常ならざる感覚を持っていた世代であった。
そうした感覚を持っていた我々は、必然的に抗議の意思をぶつけるターゲットは、ベトナム戦争の片棒を担ぐ国家の中央権力であり、その象徴としての防衛庁こそターゲットにすべきものと考えていた。私は、10月に入って間もなく。10.21の総指揮を早大のHと2人でやれとの密命を受け、一人で密かに、乃木坂周辺の下見、防衛庁建屋の構造、突入口、部隊編成、アクセス方法の調査等、周到な準備に入っていた。
しかしながら、他の党派が新宿闘争を主張していたことから、ブンド内の幾つかのグループも新宿を言い始め、その後の第2次ブンド分裂の予兆が表面化した。その最終作戦会議は中大学館で開催され、標的は防衛庁か、新宿か、それともう一つ、火炎瓶を使うかどうか、殴り合い寸前の攻防となった。
新宿を主張する複数の意見があったが、多数の群衆・市民がいることによる発信効果に論理的拠り所を置く主張が多かったが、戦略を間違えた議論であると多くの者には映り、新宿の主張は怒号でかき消され、ブンドの組織決定は中央権力攻撃・防衛庁に決まった。実際には、当日、新宿に行った部隊も少数いたとのことだが、詳細は不明。肝腎な火炎瓶を使うかどうか、この議論は、誰もが未経験であり、投げれば放火罪が適用され、重罪が科されることが明白であることから、総指揮をする自分としても腰砕けの主張しかすることが出来なかった。結論として防衛庁には使わないこととなったが、標題に書いた通り、もし、あの時防衛庁に火炎瓶が投げられ、防衛庁が炎上し、焼失していたら、歴史は、大きく変わっていたであろうと身震いする。歴史の事実は、この防衛庁から3ヶ月後の1969年1月、東大安田講堂攻防戦で火炎瓶が登場し、7月の第2次ブンド分裂、赤軍派誕生へと歴史は動き続ける。
事前の下見を続けていた私は、当時乃木坂にあった防衛庁が、左右から挟み撃ちにされれば、どこにも逃げ場がない攻めにくい地形で、しかも防衛庁正門扉は、かなりの厚みの鉄扉で簡単には壊れないことを思い知らされていました。従って如何に短時間で正門扉を破壊し突入出来るか、もたもたしていれば、左右挟み撃ちで全員逮捕される。鉄扉を効率的に破壊する何かが必要だ、従来のカッコ付けだけのすぐ折れる角材では役に立たない。そこで考えたのが、工事現場にゴロゴロしていた丸太棒を拝借し、最も戦闘的な部隊が、連続して破壊打撃すれば鉄扉の一部位、曲がったり壊したり出来る筈だと考えたのです。

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1968年10月20日深夜、直系30センチ長さ10メートル位の丸太棒20本を調達拝借し、中大学館内に隠匿しました。翌、10月21日、中大中庭で全学連委員長:藤本敏夫のアジテーションから始まり、総指揮の私から、予め指示した通りのルート、時刻に部隊別に、乃木坂・防衛庁に集結せよ!詳細は現場で指示する旨絶叫し、20本の丸太棒を肩に担いだブンド精鋭部隊が中大中庭を出発し防衛庁に向かいました。

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最精鋭部隊を率いる私は、御茶ノ水駅聖橋口を正面突破し信濃町駅下車、明治公園前を乃木坂へ進軍、防衛庁正門まで何事もなく到着、続々と別ルート部隊も集結、正門鉄扉に丸太棒を担いだ精鋭部隊が何十回となく体当たりし、突入口を作るべく格闘しました。防衛庁内からは、高圧の放水が巻き散らされ、1時間以上体当たりを繰り返しましたが、正門鉄扉はビクともしません。このままでは、挟み撃ちにあって全員逮捕され、何も出来ないまま終わってしまう。判断が迫られていました。正門は壊れない、正門を乗り越えて突入し、中から開けられるかやってみるしかない!早大のHが、最初に乗り越えました。正門を乗り越えて中から開けろ!

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しかし、正門を乗り越えた向こうには、自衛隊の屈強な精鋭が木銃を構えて待機しており、一人一人拘束され連行されていきました。ほぼ同時刻、機動隊が動きました。左右からの一斉突撃に会い、多くの学生が負傷し身柄を連行されていきました。1968年10・21は無残に終わり、私も逮捕されました。
(終)

【お知らせ その1】
1968年10・21防衛庁闘争を報じた「戦旗」号外(1968.10.25)をHPにアップしました。
新左翼党派機関紙・冊子
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html ;

【お知らせ その2】
10・8山﨑博昭プロジェクト2018年秋の東京集会
「異なった視点からの10・8羽田闘争」

●日 時 2018年10月7日(日)17;30~20:30(開場17:00)
●会 場 主婦会館プラザエフ9階「スズラン」(JR四谷駅下車)
●参加費 1,500円
第一部 講演
「政治のターニングポイントとしての10・8羽田」
ウイリアム・マロッティ(UCLAカリフォルニア大学ロスアンゼルス校准教授)
「60年代をどう歴史化できるのかー外からの視点」
嶋田美子(アーティスト)
第二部 ベトナムからの挨拶
フィン・ゴック・ヴァン(アオザイ博物館館長)
チャン・スアン・タオ(ホーチミン市戦争証跡博物館館長)

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【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は10月12日(金)に更新予定です。

重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、水谷保孝さんの佐世保闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ-ブの樹」編集室及び水谷さんの了承を得てあります。)

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【1968年は佐世保エンプラ闘争で始まった】
水谷保孝(元佐世保エンプラ闘争被告)

●日本のベトナム反戦の広さを示す
 世界史的な「1968年革命」から50周年となる本年2018年、私にはあの高揚した佐世保エンプラ闘争の記憶が大きな感動とともに蘇える。
当時、アメリカのベトナム侵略戦争は南ベトナム解放民族戦線の驚異的な戦闘によって苦戦に陥り、それゆえ北爆、枯葉剤、ナパーム弾の大量投下を強め、ベトナム人民に残酷な犠牲を強いていた。そのなかで、「動く核基地」原子力空母エンタープライズ佐世保入港は、日本を出撃基地としてベトナム戦争を一層激化させるものだった。よりによって広島県とともに原爆の惨禍に苦しんできた長崎県に核空母を寄港させることは、日本のベトナム参戦と核武装化を決定的に進めるものだった。
1966年12月に再建された全学連(三派と称されるが、社学同、社青同解放派、マル学同中核派、ML派、第四インターの五派)は、幾多の闘いを経て、内部での対立と亀裂を抱えつつ、1967年12月、エンプラ寄港実力阻止方針を決定した。ベトナム侵略戦争への加担を許さない、けっして加害者にはなるまい、70年安保闘争と日本帝国主義打倒の展望をつかむぞ、という強い決意がそこにはあった。
明けて1月の15日、警察・機動隊は、法政大学から出発した中核派系学生のうち131人を問答無用で大量逮捕した。16日に博多駅事件という同じ予防検束に出てきた。14日には、前年の10・8羽田弁天橋の闘いで京大生・山﨑博昭君を警棒乱打で虐殺しておきながら、中核派2学生を「奪取した装甲車で轢き殺した」とでっち上げ逮捕した。かつ破防法適用恫喝が加えられた。
16日、全学連は、九州大学教養部に入構することができ、学生会館で総決起集会をもち、闘いの意味と獲得目標をめぐって激論を交わした。
以後、17日の平瀬橋の闘い、18日の佐世保橋と米軍住宅地の闘い、19日の佐世保橋の闘い、20日の佐世保市街地での一斉カンパ行動、21日の佐世保橋の闘い、22日のカンパ行動、23日のエンプラ追い出し闘争と続いた。それは、間断なく発射される催涙弾、佐世保川の水(佐世保湾から入り込む海水なのだ)をくみ上げ催涙剤を混ぜた大量の放水、特殊警棒の乱打、背後からの襲撃、倒れた者への集中的な攻撃、報道陣や市民への無差別の警棒乱打、市民病院や民家への見境のない乱入という常軌を逸した警察暴力との闘いだった。
全学連は、警棒で殴打され、催涙弾で撃たれ、催涙液で眼を傷め、体中が火傷する状態になりながらも、血を流し、炎症の痛みをこらえ、涙を流しながら前進をくり返した。めざすは佐世保基地突入、基地内集会だった。17日以降の激突、凄まじい過剰警備の様子が報道されるや、西日本、東日本から学生が自治会ごと、グループ、個人で続々と佐世保に駆けつけた。
地元九州の労働者、労働組合が大挙結集し、18日佐世保市民球場から5万人デモ、21日松浦公園から2万人デモを繰り広げた。反戦青年委員会がその牽引車となった。何よりも、佐世保市民が数千・数万の規模で過剰警備を弾劾し、機動隊に立ち向かった。

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●三派の共闘と対立
断片的だが象徴的な若干の事実を記しておきたい(以下、敬称略)。
17日、九州大学を出発した中核派は、別途用意した角材を入手する作戦に失敗した。窮した秋山勝行(全学連委員長)はブントの成島忠夫(同副委員長)に相談したところ、成島は自分たちが確保する予定の角材の一部を中核派に譲ることを快諾した。博多駅からやがて鳥栖駅に着くと、ホームで待機していたブントの別動隊が角材を車内に持ち込んだ。成島がホームを走って中核派の車両に乗り込み、角材を梱包した束を二つか三つ示して、「これを使え」と叫んだ。吉羽忠(同国際部長)が「有難い」と感激の声をあげ、成島と抱き合った。「中核派、頑張れよ」と成島が応じた。私もブントの別動隊と固く握手し、健闘を誓いあった。聞くと、佐賀県(あるいは熊本県)出身のブント同志の実家が山を所有しており、そこから新しく角材を切り出したとのことだった。
 ブントから譲られた角材をもって、中核派は最初の平瀬橋の激闘を闘うことになったのだ。 
 全学連各派は、対権力の闘いで競い合い、大学内や全学連集会の場で何かにつけて殴り合っていた。エンプラ闘争でも、九州大学の学生会館での決起集会で何がきっかけかは忘れたが、演壇上で激しく衝突し、殴り合いを演じた。だが、前記のような闘う者同士の友情も忘れてはいなかった。

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●装甲車を奪取した佐世保橋上の党派闘争
 21日は、社会党・共産党、総評が松浦公園で集会、その後に佐世保橋を通過し基地の横を行くデモが予定されていた。全学連は、松浦公園の集会に参加し、デモの先頭に進み出て、佐世保橋に向けてデモした。かなりの角材を確保していた。
 佐世保橋で、全学連は繰り返し突進した。機動隊が攻めてくると退き、それを数万人の市民が包み、守った。機動隊はそれ以上前に進むことができず退くと、また全学連は佐世保橋に進み、機動隊の前面に激突した。やがて、佐世保橋と川の東側一帯は解放区となった。その間、労組のデモが佐世保橋東詰めに到達した。
学生と市民と労働者のものすごい圧力を受けた機動隊は後ろに退いた。全学連は猛然と突進し、機動隊に肉薄し、投石し、角材と旗竿を振るい、これをついに橋の西詰まで後退させた。彼らは装甲車2台を部隊と一緒に下げる余裕がなく、乗り捨てていった。全学連は装甲車上に登り、旗を大きくうち振った。装甲車を奪ったのだ。
 なおも全学連は機動隊との激突を続けた。その状態がしばらく続いた時、奇妙なことが起こった。デモの先頭で肩を並べて角材を振るっていた解放派の顔見知りの指揮者が、「社会党の闘争本部が、労働組合のデモを佐世保橋に進め、前に出るから、学生はプラカードを捨て、投石をやめ、装甲車から降り、後ろに退けと通知してきた。われわれはそれに従う。中核派も従ってくれ」と申し入れてきた。私は即座に拒否した。「市民と労働者と学生が一体となって佐世保橋を占拠しているではないか、基地突入へともに闘っているではないか、そのときに学生に闘いをやめろというのか、解放派は親(社会党)からやめろといわれたら従うのか、それが解放派の正体か」と怒鳴った。たちまち殴り合いになった。周辺にいたそれぞれの活動家たちが角材で殴り合った。
私は、装甲車の上に上がり、中核派の隊列に向って、「解放派が進路を妨害している、解放派を粉砕して前進するぞ」と二度三度、呼びかけた。そして装甲車の上から下にいる解放派のヘルメットに向って「解放派はどけ」と叫びながら、旗竿で何度も突いた。その顛末はよく憶えていないが、解放派の方から橋の東詰めに退いたのではなかっただろうか。
敵機動隊の面前で党派間ゲバを演ずるとは思ってもみなかったことだった。

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●中核旗、基地内走る
そのさなか、下から「水谷、早く降りてこい」という声が聞こえた。車の上から降りると、彼は声をひそめて、「本多さんの伝言だ。佐世保川を見ろ。そういえばわかる、とのことだ」といった。私はハッとなり、そっと佐世保川の川面を見た。すると、干潮時となり、川の水位がぐっと下がっていた。夕闇が降りつつあった。
私は赤松英一(京都大)とK(横浜国大)を探した。赤松はすぐ近くにいたが、Kの所在がわからない。だが時間がない。私と赤松は、中核派集団のうち後方にいる約100人に5列縦隊のスクラムを組ませた。そして、「わっしょい」の掛け声で先頭の向きを逆にぐるっと回して、橋の東詰めに向けてデモし、袂から右に向きを変え、川下方向に150メートルほどデモした。ここなら歩いて渡れる。川幅は約50メートルだ。デモを止め、肩車に乗って演説した。
「見ろ。佐世保川の水位が干潮で下がった。今から川を渡ろう。鉄条網を越えたら米軍基地だ。念願の佐世保基地突入を今、やるぞ」と。全員が歓呼の声を挙げた。数人が岸から飛び降りるのを見て、私は中核旗を担いで、川を渡った。ばしゃばしゃと水しぶきがあがった。向こう岸に着いた。有刺鉄線が身体を突き刺す痛みを感じながら、一気に高さ2メートルの鉄条網の上に乗り、旗を大きく打ち振った。見ると、デモ隊の大半が元の岸に残っている。三〇人ほどが川を渡ったが、鉄条網を越えた者は数人しかいない。私は「早く来い、基地に入れ」と手を振り、叫んだ。
先に基地内に入っていた赤松が角材を振り回しながら、「早くしろ。機動隊が駆けつけてくるぞ」と叫んだ。私はすぐに鉄条網の上から飛び降り、旗を掲げて走った。はるか右前方に十数人の刑事と機動隊員が駆け寄ってくる姿が見えた。左前方の小高い丘に教会があった。その前には、カービン銃をもった米兵が二人、猟犬を従えていた。私と赤松は「よし、あっちだ」と米兵に向って走った。「カービン銃で撃つなら撃ってみろ」と心の中で叫んだ。
驚いた様子で立ち尽くす米兵に近づいた地点で、刑事らが襲いかかり、乱闘となった。われわれは組み伏せられ、逮捕された。刑事たちは手錠を持っていなかった。よほど慌てていたのだろう。基地内に侵入したのは結局、二人だった。
佐世保橋上では、その間も全学連、労働者、市民と機動隊との激突がくり返された。

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●政治局が現場に立っていた
 佐世保闘争では、各派の活動家は誰もが勇敢だった。ブントは、折りしも一気に燃え上がった中央大学の学費闘争に力を注ぎ、そのため佐世保現地には西日本勢以外には参加は少なかった。それでもブントは、角材調達で一日の長があり、しっかり武装して果敢に機動隊に立ち向かった。解放派は、三池闘争の地でもある九州は自分たちの本拠地という意識が他派に比べて強く、身体をはって闘う決意に満ちていた。
とくに感嘆したのは、19日である。この日、解放派は前夜、佐賀大に入り、いち早く佐世保に登場した。中核派が九大から佐世保橋に到着したときには、すでに解放派が機動隊との激闘を重ねていた。高橋孝吉(全学連書記長)を先頭に、丸太を抱えて猛然と機動隊に激突していた。それを何度も繰り返した。機動隊の壁がどっと崩れ、解放派の隊列が機動隊の海に突っ込んでいった。
私は「ああっ、この手があったか。解放派にやられたな」と思った。この日、中核派は立ち遅れていた。
とはいえ、「佐世保の1週間」でスポットを浴びたのは中核派だった。私はその理由は、各党派の最高指導部の構えの差だと思う。中核派の上部組織・革共同の政治局は、本多延嘉書記長を先頭に佐世保に乗り込み、常に現場に張り付いていた。しばしば伝令をとおしてデモ指揮者に指令を出した。
また事前には、政治局の指導のもと、佐世保現地調査が行われた。その一つとして、佐世保川の最下流は佐世保湾の海水で浸されており、潮の満干によって川の水位が大きくちがうという、佐世保市民なら誰でも知っている事実を現地で教えてもらっていた。干潮時には川を歩いて向こう岸、つまり基地フェンス前に行けることがわかっていた。数十人の中核派指揮者団は、最後の手段として、夕刻時の佐世保川渡河の秘策を発動するならば必ず基地に突入できるという確信をもっていた。指揮者の強い確信はデモ隊全員に受けとめられ、伝播するものだ。
この小さな戦術を含め、政治局が現場に立ち、組織の命運をかけていることを感得した数十人の指揮者団と全参加者がベトナム反戦の正義に揺るぎない確信をもったことが、機動隊に惨めにうちのめされ、催涙液でひどい痛みと苦しみを味わってもまったくへこたれなかった一つの要因だったのではないかと思う。

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●エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民
 50年後に佐世保エンプラ闘争を検証すると、その歴史的意味が当時のとらえ方とはやや異なって発見される。
 当時、「佐世保現象」ということばが生み出された。連日、何千何万という市民が学生を包んで、機動隊と対峙した。市民が機動隊の暴力行使に身体を張って抗議し、機動隊の囲みから学生を救い出し、また自ら石を投げ、棒を振るう人たちもいた。全学連が街頭カンパに出ると、カンパ箱代わりのヘルメットに次々と多額のカンパが投ぜられた。
 佐世保市民は全学連の単なる応援団ではなかった。戦前・戦時下の軍港佐世保の歴史、被爆県長崎の経験、その後の「米軍基地の町」の体験から、核戦争への強い不安と怒りを共有していた。当時の新聞報道にもそれを示す市民の動き、怒りの声がいたるところに記録されている。
 そのなかから福岡ベ平連(石崎昭哲事務局長)などが誕生した。何よりも2月19日、佐世保ペンクラブ代表の矢動丸廣氏の呼びかけで「19日佐世保市民の会」が生まれた。市民の会は毎月19日、市内デモを続け、50年後の今も持続している。半世紀を越えて営々と反戦の意志を反復表明する、このような市民運動はどこにもない。静かな、しかし驚異的なほど強靭な反戦、非戦の運動である。
 矢動丸氏は、全学連のエンプラ裁判では特別弁護人を務め、長年にわたって私たち被告学生を激励し続けた。矢動丸氏は、戦前・戦中は佐世保女子高校教員を務め、その後、戦後早くに井上光晴らと郷土雑誌『虹』を創刊するなど、地元の文学者として敬意を払われていた。
同裁判の地元の弁護人・小西武夫弁護士は、戦時中、海軍法務大佐として軍法会議の法務官であった。辛い判決を下さざるをえなかった戦争体験から、戦後、非戦を誓ってクリスチャンとなり、エンプラ闘争以後、全学連の闘いに公然と支援を寄せた。
ところで、エンプラは1月22日、佐世保を出港した。ベトナム侵略戦争が激化するなか次の寄港が日程に上るのは明らかだった。それについて、佐藤栄作首相の側近中の側近、木村俊夫官房長官は「今回の寄港にともなう教訓と国内での反響、とくに佐世保市民が警備陣に対してある程度の批判的な動きを示した点を重視したい」と、慎重な姿勢を示したのだった(毎日新聞、1968.1.22)。
実際、その後15年にわたって、エンプラはついに佐世保に入港することはなかった。1983年に再度来たときは、すでにベトナム戦争はアメリカの歴史的敗北をもって終結していた。
半世紀という長い眼でみたとき、佐世保エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民だった。政府権力からみると、全学連の闘い以上に、佐世保市民の存在こそ脅威だったのだ。

●ラディカル左翼の総括の一視点
 私は当時からずっと、中核派セクト主義の急先鋒だった。その私の苦い反省も含めて、1960年代~70年代のラディカル左翼を総括するとき、三派全学連や反戦青年委員会における党派関係、とりわけ中核派と解放派の党派闘争の問題を厳しく、かつ率直に自己検証することは不可欠の作業であろう。われわれは対権力の闘いでの戦友関係であった。だが、党派の創立あるいは本質において水と油のような関係でもあった。だからこそ、そこをのりこえて共闘関係を形成するにはどうすればよかったのだろうか。別のところでも書いたが、われわれが抱いていた党概念のコペルニクス的転換が求められている。
 半世紀という長い歴史のスパンで総括することで、階級闘争の全体像とそこで世界革命・アジア革命・日本革命をめざしたわれわれの存在意義と大きな誤りもみえてくるのではないだろうか。
 最後になりましたが、この度、執筆の機会を与えてくれた重信房子さんと『オリーブの樹』編集部に心から感謝申し上げます。(2018年8月10日)

【お知らせ その1】
10・8山﨑博昭プロジェクト2018年秋の東京集会
「異なった視点からの10・8羽田闘争」

●日 時 2018年10月7日(日)17;30~20:30(開場17:00)
●会 場 主婦会館プラザエフ9階「スズラン」(JR四谷駅下車)
●参加費 1,500円
第一部 講演
「政治のターニングポイントとしての10・8羽田」
ウイリアム・マロッティ(UCLAカリフォルニア大学ロスアンゼルス校准教授)
「60年代をどう歴史化できるのかー外からの視点」
嶋田美子(アーティスト)
第二部 ベトナムからの挨拶
フィン・ゴック・ヴァン(アオザイ博物館館長)
チャン・スアン・タオ(ホーチミン市戦争証跡博物館館長)

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【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は9月28日(金)に更新予定です。 

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