重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、前田祐一さんの10・21防衛庁闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ-ブの樹」編集室及び前田さんの了承を得てあります。)
今回は、この「1968年特集」の中から、前田祐一さんの10・21防衛庁闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ-ブの樹」編集室及び前田さんの了承を得てあります。)
【1968年10月21日 防衛庁は燃えているか!】
日本はベトナム北爆の基地提供国、防衛庁に巣食う戦争犯罪人を告発せよ!
10.21防衛庁突入総指揮、よど号ハイジャック共謀共同正犯 前田祐一
10.21防衛庁突入総指揮、よど号ハイジャック共謀共同正犯 前田祐一
1968年は、1月のベトナム民族解放戦線のテト攻勢、2月の中大学費値上げ白紙撤回から始まった。米軍・南ベトナム軍に対する北ベトナム軍・民族解放戦線のテト攻勢の勝利は、世界を動かし、パリの5月革命(カルチェラタン)、ドイツ赤軍結成、アメリカブラックパンサー(4月にキング牧師が暗殺されている)、8月プラハの春、10月日本の防衛庁突入へと連なる歴史があったと思う。過渡期世界論が第2次ブンドの指導理論となったのも1968年であり、私達は、世界同時革命が始まっているかのような予感さえ感じていた。前年に10.8佐藤訪ベト阻止羽田、11.12佐藤訪米阻止羽田を闘い、2月-3月には、新東京国際空港公団三里塚現地事務所突入闘争を闘っていた。成田については、当時の我々は、東大都市工学部大学院との事前の共同研究から、新しい国際空港は、アジアのハブ空港にするべく東京湾上に作るべきと主張し、当時の東京都知事が美濃部亮吉氏であったことを奇貨とし、全学連=東京都の統一戦線を形成し、新国際空港を成田に建設することを阻止しようとしていた。もし50年前、新東京国際空港が東京湾上に建設されていれば、その経済効果は計り知れないものがあった筈である。利権に群がる愚かな政治家が、失われた50年を生み出し、国家に多大な損害を与えたのである。万死に値する行為であると言わざるを得ない。そうした日々の中で10・21が近ずいて来ていた。50年前、日本の学生運動を最前線で担っていた我々は、所謂、団塊の世代のトップランナーであり、戦後民主主義と憲法9条を頭から叩き込まれ、「聞けわだつみの声」第5福竜丸「ビルマの竪琴」「野火」「火垂るの墓」を原体験に持つ世代であり、戦争を忌避する尋常ならざる感覚を持っていた世代であった。
そうした感覚を持っていた我々は、必然的に抗議の意思をぶつけるターゲットは、ベトナム戦争の片棒を担ぐ国家の中央権力であり、その象徴としての防衛庁こそターゲットにすべきものと考えていた。私は、10月に入って間もなく。10.21の総指揮を早大のHと2人でやれとの密命を受け、一人で密かに、乃木坂周辺の下見、防衛庁建屋の構造、突入口、部隊編成、アクセス方法の調査等、周到な準備に入っていた。
しかしながら、他の党派が新宿闘争を主張していたことから、ブンド内の幾つかのグループも新宿を言い始め、その後の第2次ブンド分裂の予兆が表面化した。その最終作戦会議は中大学館で開催され、標的は防衛庁か、新宿か、それともう一つ、火炎瓶を使うかどうか、殴り合い寸前の攻防となった。
新宿を主張する複数の意見があったが、多数の群衆・市民がいることによる発信効果に論理的拠り所を置く主張が多かったが、戦略を間違えた議論であると多くの者には映り、新宿の主張は怒号でかき消され、ブンドの組織決定は中央権力攻撃・防衛庁に決まった。実際には、当日、新宿に行った部隊も少数いたとのことだが、詳細は不明。肝腎な火炎瓶を使うかどうか、この議論は、誰もが未経験であり、投げれば放火罪が適用され、重罪が科されることが明白であることから、総指揮をする自分としても腰砕けの主張しかすることが出来なかった。結論として防衛庁には使わないこととなったが、標題に書いた通り、もし、あの時防衛庁に火炎瓶が投げられ、防衛庁が炎上し、焼失していたら、歴史は、大きく変わっていたであろうと身震いする。歴史の事実は、この防衛庁から3ヶ月後の1969年1月、東大安田講堂攻防戦で火炎瓶が登場し、7月の第2次ブンド分裂、赤軍派誕生へと歴史は動き続ける。
事前の下見を続けていた私は、当時乃木坂にあった防衛庁が、左右から挟み撃ちにされれば、どこにも逃げ場がない攻めにくい地形で、しかも防衛庁正門扉は、かなりの厚みの鉄扉で簡単には壊れないことを思い知らされていました。従って如何に短時間で正門扉を破壊し突入出来るか、もたもたしていれば、左右挟み撃ちで全員逮捕される。鉄扉を効率的に破壊する何かが必要だ、従来のカッコ付けだけのすぐ折れる角材では役に立たない。そこで考えたのが、工事現場にゴロゴロしていた丸太棒を拝借し、最も戦闘的な部隊が、連続して破壊打撃すれば鉄扉の一部位、曲がったり壊したり出来る筈だと考えたのです。
そうした感覚を持っていた我々は、必然的に抗議の意思をぶつけるターゲットは、ベトナム戦争の片棒を担ぐ国家の中央権力であり、その象徴としての防衛庁こそターゲットにすべきものと考えていた。私は、10月に入って間もなく。10.21の総指揮を早大のHと2人でやれとの密命を受け、一人で密かに、乃木坂周辺の下見、防衛庁建屋の構造、突入口、部隊編成、アクセス方法の調査等、周到な準備に入っていた。
しかしながら、他の党派が新宿闘争を主張していたことから、ブンド内の幾つかのグループも新宿を言い始め、その後の第2次ブンド分裂の予兆が表面化した。その最終作戦会議は中大学館で開催され、標的は防衛庁か、新宿か、それともう一つ、火炎瓶を使うかどうか、殴り合い寸前の攻防となった。
新宿を主張する複数の意見があったが、多数の群衆・市民がいることによる発信効果に論理的拠り所を置く主張が多かったが、戦略を間違えた議論であると多くの者には映り、新宿の主張は怒号でかき消され、ブンドの組織決定は中央権力攻撃・防衛庁に決まった。実際には、当日、新宿に行った部隊も少数いたとのことだが、詳細は不明。肝腎な火炎瓶を使うかどうか、この議論は、誰もが未経験であり、投げれば放火罪が適用され、重罪が科されることが明白であることから、総指揮をする自分としても腰砕けの主張しかすることが出来なかった。結論として防衛庁には使わないこととなったが、標題に書いた通り、もし、あの時防衛庁に火炎瓶が投げられ、防衛庁が炎上し、焼失していたら、歴史は、大きく変わっていたであろうと身震いする。歴史の事実は、この防衛庁から3ヶ月後の1969年1月、東大安田講堂攻防戦で火炎瓶が登場し、7月の第2次ブンド分裂、赤軍派誕生へと歴史は動き続ける。
事前の下見を続けていた私は、当時乃木坂にあった防衛庁が、左右から挟み撃ちにされれば、どこにも逃げ場がない攻めにくい地形で、しかも防衛庁正門扉は、かなりの厚みの鉄扉で簡単には壊れないことを思い知らされていました。従って如何に短時間で正門扉を破壊し突入出来るか、もたもたしていれば、左右挟み撃ちで全員逮捕される。鉄扉を効率的に破壊する何かが必要だ、従来のカッコ付けだけのすぐ折れる角材では役に立たない。そこで考えたのが、工事現場にゴロゴロしていた丸太棒を拝借し、最も戦闘的な部隊が、連続して破壊打撃すれば鉄扉の一部位、曲がったり壊したり出来る筈だと考えたのです。
1968年10月20日深夜、直系30センチ長さ10メートル位の丸太棒20本を調達拝借し、中大学館内に隠匿しました。翌、10月21日、中大中庭で全学連委員長:藤本敏夫のアジテーションから始まり、総指揮の私から、予め指示した通りのルート、時刻に部隊別に、乃木坂・防衛庁に集結せよ!詳細は現場で指示する旨絶叫し、20本の丸太棒を肩に担いだブンド精鋭部隊が中大中庭を出発し防衛庁に向かいました。
最精鋭部隊を率いる私は、御茶ノ水駅聖橋口を正面突破し信濃町駅下車、明治公園前を乃木坂へ進軍、防衛庁正門まで何事もなく到着、続々と別ルート部隊も集結、正門鉄扉に丸太棒を担いだ精鋭部隊が何十回となく体当たりし、突入口を作るべく格闘しました。防衛庁内からは、高圧の放水が巻き散らされ、1時間以上体当たりを繰り返しましたが、正門鉄扉はビクともしません。このままでは、挟み撃ちにあって全員逮捕され、何も出来ないまま終わってしまう。判断が迫られていました。正門は壊れない、正門を乗り越えて突入し、中から開けられるかやってみるしかない!早大のHが、最初に乗り越えました。正門を乗り越えて中から開けろ!
しかし、正門を乗り越えた向こうには、自衛隊の屈強な精鋭が木銃を構えて待機しており、一人一人拘束され連行されていきました。ほぼ同時刻、機動隊が動きました。左右からの一斉突撃に会い、多くの学生が負傷し身柄を連行されていきました。1968年10・21は無残に終わり、私も逮捕されました。
(終)
【お知らせ その1】
1968年10・21防衛庁闘争を報じた「戦旗」号外(1968.10.25)をHPにアップしました。
【お知らせ その2】
10・8山﨑博昭プロジェクト2018年秋の東京集会
「異なった視点からの10・8羽田闘争」
●日 時 2018年10月7日(日)17;30~20:30(開場17:00)
●会 場 主婦会館プラザエフ9階「スズラン」(JR四谷駅下車)
●参加費 1,500円
10・8山﨑博昭プロジェクト2018年秋の東京集会
「異なった視点からの10・8羽田闘争」
●日 時 2018年10月7日(日)17;30~20:30(開場17:00)
●会 場 主婦会館プラザエフ9階「スズラン」(JR四谷駅下車)
●参加費 1,500円
第一部 講演
「政治のターニングポイントとしての10・8羽田」
ウイリアム・マロッティ(UCLAカリフォルニア大学ロスアンゼルス校准教授)
「政治のターニングポイントとしての10・8羽田」
ウイリアム・マロッティ(UCLAカリフォルニア大学ロスアンゼルス校准教授)
「60年代をどう歴史化できるのかー外からの視点」
嶋田美子(アーティスト)
嶋田美子(アーティスト)
第二部 ベトナムからの挨拶
フィン・ゴック・ヴァン(アオザイ博物館館長)
チャン・スアン・タオ(ホーチミン市戦争証跡博物館館長)
フィン・ゴック・ヴァン(アオザイ博物館館長)
チャン・スアン・タオ(ホーチミン市戦争証跡博物館館長)
【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は10月12日(金)に更新予定です。
次回は10月12日(金)に更新予定です。