国家権力による不当な弾圧に対して救援活動を行っている「救援連絡センター」が、今年で設立から50年目を迎える。センターは、1969年3月に故水戸巌氏が事務局長となって設立されたが、同年9月に逮捕者の救援活動のためのポケット版「救援ノート」を発行している。この「救援ノート」には、救援活動の注意事項や体験談、逮捕された時の心得などが書かれており、現在も発行されている。
私が持っているのは1969年11月22日発行の第3版だが、いつ買ったのか覚えていない。救対の人から買ったのか、集会の時に買ったのか?当時の定価は100円。ラーメンが70円の時代だったから、今の価格だと千円くらいだろうか。
この「救援ノート」はデモや集会に行くときはヘルメットやタオルとともに必ず持って行った。救援連絡センターの電話番号が591-1301だったことから、ゴクイリハイミオオイ(獄入りは意味多い)と覚えておくように言われていた。
私が持っているのは1969年11月22日発行の第3版だが、いつ買ったのか覚えていない。救対の人から買ったのか、集会の時に買ったのか?当時の定価は100円。ラーメンが70円の時代だったから、今の価格だと千円くらいだろうか。
この「救援ノート」はデモや集会に行くときはヘルメットやタオルとともに必ず持って行った。救援連絡センターの電話番号が591-1301だったことから、ゴクイリハイミオオイ(獄入りは意味多い)と覚えておくように言われていた。
救援ノートの目次を見ると
第1部 救援活動
第1章 差し入れ(留置場の場合)(No494で掲載済2018.6.8)
第2章 接見(拘置所の場合)
第3章 裁判の傍聴
第4章 現場での救援活動
第2部 家族の心得
第1章 家宅捜索
第2章 任意出頭
第3章 家族はどうすれば一番よいか
第3部 逮捕されたとき
第1章 デモや集会に行くときの注意
第2章 弾圧
第3章 黙秘権
第4章 警察署で
第5章 未成年者の場合
第1部 救援活動
第1章 差し入れ(留置場の場合)(No494で掲載済2018.6.8)
第2章 接見(拘置所の場合)
第3章 裁判の傍聴
第4章 現場での救援活動
第2部 家族の心得
第1章 家宅捜索
第2章 任意出頭
第3章 家族はどうすれば一番よいか
第3部 逮捕されたとき
第1章 デモや集会に行くときの注意
第2章 弾圧
第3章 黙秘権
第4章 警察署で
第5章 未成年者の場合
この「救援ノート」を読んでみると、単なる「心得」に留まらず、当時の状況を反映した資料であることに改めて気づかされる。そこで、この「救援ノート」の内容を何回かに分けて紹介することにした。今回は2回目として、第一部第2章の「接見」の部分を掲載する。
【救援ノート 安保を闘う婦人連絡会編集・救援連絡センター発行 1969.11.22】
第1部第二章 接見(拘置所の場合)
1.拘置
一般に逮捕されてから、23日以内に、検察官の裁量によって、起訴か不起訴かが決まり、(第三部、逮捕されたとき、第四章参照)、不起訴なら釈放、起訴なら拘置所に移されますが、起訴されなくとも、拘置所に移される場合もあります。
拘置所は、未決囚、つまりまだ刑の決まらない被告がとどめおかれる所ですが、裁判所側が取り調べの結果、①証拠隠滅のおそれなし、②逃亡しない、③住所が安定している、という3点を確認し、保釈しても差し支えないと認め、家族が保釈金を納めれば、被告は拘置所を出て、裁判を待つことができます(保釈金は、1~2年前までは、この種の事件で3万円ぐらいであったのが、現在では最低15万円になっています。このことにより、事件を政治的に扱っていることが明らかです)。
したがって、半年も、8ケ月以上も保釈を許されず、拘留しているという事実は、判決以前に実刑を先取りしている、あるいは、裁判なき刑の執行という驚くべき重大な事態というべきです。
1.拘置
一般に逮捕されてから、23日以内に、検察官の裁量によって、起訴か不起訴かが決まり、(第三部、逮捕されたとき、第四章参照)、不起訴なら釈放、起訴なら拘置所に移されますが、起訴されなくとも、拘置所に移される場合もあります。
拘置所は、未決囚、つまりまだ刑の決まらない被告がとどめおかれる所ですが、裁判所側が取り調べの結果、①証拠隠滅のおそれなし、②逃亡しない、③住所が安定している、という3点を確認し、保釈しても差し支えないと認め、家族が保釈金を納めれば、被告は拘置所を出て、裁判を待つことができます(保釈金は、1~2年前までは、この種の事件で3万円ぐらいであったのが、現在では最低15万円になっています。このことにより、事件を政治的に扱っていることが明らかです)。
したがって、半年も、8ケ月以上も保釈を許されず、拘留しているという事実は、判決以前に実刑を先取りしている、あるいは、裁判なき刑の執行という驚くべき重大な事態というべきです。
2、接見活動
不当に自由を剥奪され、獄中(拘置所)にとどめおかれている人々の闘いを心身ともに支え、励ますために「接見」が行われます。また、「接見」は獄中闘争を闘っている仲間との大切なパイプです。
接見は、親・家族・友人・救援活動に参加する私たちなど、だれにでも許されていますが、とくに地方出身者の被告には、家族・友人に代わって、行き届いた配慮をしたいものです。
また、家族がしばしば接見しているというので、友人や私たちが接見を控えていたら、実は、家族の接見は、もっぱら転向をすすめるためのものであって、逮捕以来、何の差入れも行われず、被告が破れた衣服のまま、心身ともに窮地に追いやられていたという事実がありましたから、家族の接見態度を間接的に知るための第三者の接見の必要も大切になってきます。
接見に出かけるときは、まず、地域の救援組織か、救援連絡センターに電話連絡して、自分が行く拘置所の様子(各拘置所によって、手続き・接見時間・規則などが違う場合があります)を聞き、1人当たり、2~3名の接見対象者の氏名と予備知識を教えてもらいます。慣れてくると、2人以上の被告と接見できるようになりますし、(被告側は1日1回しか許されません)また、当日、面会申込みをしたその場で、「懲罰のため接見禁止」ということになったり、申込みをすませ、順番を待っている間に、突然「接見禁止になりました」と伝えられる場合もあり、急ぎ接見相手を変更しなければならない場合があるから、余分の人数を準備していく必要があるのです(同日中に2人の被告に接見する場合または相手を変更する場合は、この度ごとに受付で申込みます)。面会申込用紙の記入については、体験記(府中刑務所)にくわしいですが、面会の要件のところにには、「近況を知りたい」と書くと無難です。接見に際しては、「健康状態」「懲罰にあったか、あった場合は、その理由、どんな風に」「接見・差入れについての要望」「所持金は?」「仲間に伝えたいこと」「家族との関係」などを、あたたかい言葉でまず聞き、その他は、救援組織や仲間からの便りなどを伝え、励ましの言葉で終わるというのが基本ですが、5~10分のことですから、慣れないうちは、いささか緊張します。接見がすんだら、その様子をセンターに連絡します。
3.拘置所での差入れ
拘置所での差入れは、接見とは別に申込みますから、接見できない人にも、また幾人にも差入れることができます。留置場への差入れと異なる点は、食物は拘置所内の売店の品物しか差入れられないこと、書物・新聞などの差入れができることです。書物などを差入たときは、衣類などの場合と同じように、不要になれば、被告側の手続きにより、差入れ者の手にもどすことができます。衣類については、被告が所内で購入することもできますが、季節により早く訪れる拘置所の冷えや寒さに対して、外から暖かい配慮を届かせることが大切です。
接見・差入れとは別に、獄中との手紙の交換をすることができます。宛書きには拘置所名を書く必要はなく、所在地と相手の氏名を明記するだけで届きます。
<体験記>(「救援センター」より)
「府中刑務所にて」 松田あき子
用紙に会う人の名前。自分の住所氏名・続柄(知人)・年齢(45歳)・面会の要件(安否)と書いて窓口に出す。係のおばさんも「この人は彼女がよく来るから」とか「友だちがほとんど毎日来るから、他の人にしたら」と言ってくれたりもするが、「懲罰で面会禁止ですよ」と言われるときは、どんな扱いをうけているのかと心配もする。
せまくて風通しの悪い待合室にすわり、さてともう1回手もとのメモを開いて、大学・出身地・前回の差入れ状況などを頭の中に入れこもうとするのは初対面の人の場合である。おなじみさんには、むしろ話がはずんで、必要なことを聞きもらさぬようにと、何日に手紙をもらったか、差入れ文章は墨消しなしで入ったかなどをメモに書きこんでおく。鉄の扉が開いて名を呼ばれるまでは、いつでも20分から1時間、その間に被告たちへ面会の若者たちが来ると、一段と待合室もにぎやかになる。「東拘・小菅は選挙違反の大物が入るから、売店には田舎のよろづや位の品物、牛肉の缶詰、果物まであるが、この府中は肉といえばくじらの缶詰しかなく、果物がない」(食物は売店の品物しか差入れできない規則である)「ここは、もともと重罪犯が多いから規則がきびしいそうよ」、と言っているところへ「塩辛が食べたいって」と面会をすませた人が出てくる。「売店にある海苔の佃煮のびん詰は、プラスチック容器に入れかえて入るのに、どうして塩辛のびん詰は許可されないのかしら」「会計課長を呼び出して話をつけるといいんですよ」早速抗議団結成、面会の末、考え中との回答を得る。
いよいよ呼ばれて、鉄の扉内に入ると、荷物はロッカーにしまわれ、メモとペンだけを持ち、3つある面会室の一つに入り腰をかけると、目の前には細かい二重金網がある。口頭試問の前と同じで、何度来ても足がふるえるが、落ちついて、まず一番に聞くことは、と自分に言い聞かせていると、けげんな顔をした若者が入ってくるから「はじめまして。〇〇救援会のものです」というと、すぐ人なっこい笑顔になる。何しろ制限時間は10分間。彼らの希望を聞き出し、世間の情勢、特に所属大学の状況を知らせること、これからの闘争に対する考えを聞き、救援会並びに私の考えをはっきり相手に伝え、一番大切な激励をして終わるようにと思えば大変な仕事だが、慣れたこのころは、落ちついてゆっくり話せるようになった。そして、彼らにきっかけを与え、思う存分とまでゆかないがしゃべらせる。これが対話のない日常を送る彼らには一番の慰安だろうと思いはじめている。そばでメモを取っている看守の「それまで」という声で面会は終わる。
長い長い、すりへったレンガの道を帰りながら、家族に出す手紙のためにもう一度、彼の様子を思いおこしてみる。
面会だけが救援ではない。その家族もわれわれの活動を理解して、この戦列に加わってもらわねばならないと考えながら手紙を書いた。
「府中刑務所にて」 松田あき子
用紙に会う人の名前。自分の住所氏名・続柄(知人)・年齢(45歳)・面会の要件(安否)と書いて窓口に出す。係のおばさんも「この人は彼女がよく来るから」とか「友だちがほとんど毎日来るから、他の人にしたら」と言ってくれたりもするが、「懲罰で面会禁止ですよ」と言われるときは、どんな扱いをうけているのかと心配もする。
せまくて風通しの悪い待合室にすわり、さてともう1回手もとのメモを開いて、大学・出身地・前回の差入れ状況などを頭の中に入れこもうとするのは初対面の人の場合である。おなじみさんには、むしろ話がはずんで、必要なことを聞きもらさぬようにと、何日に手紙をもらったか、差入れ文章は墨消しなしで入ったかなどをメモに書きこんでおく。鉄の扉が開いて名を呼ばれるまでは、いつでも20分から1時間、その間に被告たちへ面会の若者たちが来ると、一段と待合室もにぎやかになる。「東拘・小菅は選挙違反の大物が入るから、売店には田舎のよろづや位の品物、牛肉の缶詰、果物まであるが、この府中は肉といえばくじらの缶詰しかなく、果物がない」(食物は売店の品物しか差入れできない規則である)「ここは、もともと重罪犯が多いから規則がきびしいそうよ」、と言っているところへ「塩辛が食べたいって」と面会をすませた人が出てくる。「売店にある海苔の佃煮のびん詰は、プラスチック容器に入れかえて入るのに、どうして塩辛のびん詰は許可されないのかしら」「会計課長を呼び出して話をつけるといいんですよ」早速抗議団結成、面会の末、考え中との回答を得る。
いよいよ呼ばれて、鉄の扉内に入ると、荷物はロッカーにしまわれ、メモとペンだけを持ち、3つある面会室の一つに入り腰をかけると、目の前には細かい二重金網がある。口頭試問の前と同じで、何度来ても足がふるえるが、落ちついて、まず一番に聞くことは、と自分に言い聞かせていると、けげんな顔をした若者が入ってくるから「はじめまして。〇〇救援会のものです」というと、すぐ人なっこい笑顔になる。何しろ制限時間は10分間。彼らの希望を聞き出し、世間の情勢、特に所属大学の状況を知らせること、これからの闘争に対する考えを聞き、救援会並びに私の考えをはっきり相手に伝え、一番大切な激励をして終わるようにと思えば大変な仕事だが、慣れたこのころは、落ちついてゆっくり話せるようになった。そして、彼らにきっかけを与え、思う存分とまでゆかないがしゃべらせる。これが対話のない日常を送る彼らには一番の慰安だろうと思いはじめている。そばでメモを取っている看守の「それまで」という声で面会は終わる。
長い長い、すりへったレンガの道を帰りながら、家族に出す手紙のためにもう一度、彼の様子を思いおこしてみる。
面会だけが救援ではない。その家族もわれわれの活動を理解して、この戦列に加わってもらわねばならないと考えながら手紙を書いた。
<体験記>
中野刑務所での接見 ―被告の母親からたよりをもらうー(「救援センター」より)
1969.8.30
佐藤敏枝
5月はじめ、ある先輩に連れられて中野刑務所に行った。かっては郊外だったろうこの辺にも、こまかい家々や団地ができている。そうした中に厚いセメントの塀が長く続いていた。
東大関係者の名簿の中から、一番目の人を書いて出すと、すでに面会ずみという。ここでは拘置されている人は1日に1回2人まで、面会者は1日1人しか許さないという。
「ずいぶんきびしいのね」と言いながら、次の人を書いて出すと、若い看守は無表情な顔で赤札をよこした。こうしてはじめて刑務所の鉄さくの門をくぐり、鉄格子ごしに弘前大の学生に会った。
黒いトックリセーターに青白い顔、なかなかの美青年である。安田講堂のあの激しい攻防戦を戦い抜いた学生とも思えない優雅な態度、私はすっかり面喰った。「救援会から来ました・・・こんなおばちゃんの面会でがっかりしたでしょう」と私。「いえ、大変心強く思います」、彼はニコリとして頭を下げた。そばでメモしていた看守まで、にやりとした。「家は北海道です」と彼、「なんとまあ、北の果てから応援に!」私はぼう然とした。その日は救援センターからの質問を聞くだけが精一杯、「ときどき伺います」と言って別れを告げた。
2回目は7月半ばになってしまった。前には少年のように美しかったほおが、黒々としたヒゲでおおわれ、「〇〇さんですね」と問い返すほど、「伸ばしているんで・・」、照れてほおおをなでる彼、顔ばかりでなく体の線にまでたくましさが現れ、わずか2ケ月の間にこんなにもと驚いたが、拘置されてすでに半年、日々のきびしい闘いの跡がしのばれて、厳粛な気持ちになった・
この日はわりとうちとけて話すことができて「家のものたちもあきらめたようです」とか「東京に叔母が一人いますが、これがまたガリガリで・・・」など言って笑った。「お母さんにお便りしてみたいけど・・・」というと「こちら側のニュースなど送ってやって下さい」と言って、住所と両親の名を教えたり、ここに拘置されていた仲間の多くが保釈になり、4人しか残っていないことや、あす2回目の公判が開かれることなど話した。「出ますか?」「もちろん、出ませんよ」
彼はにこりと笑い、看守は顔をしかめた。「下着を持ってきましたけど、どうしましょう」、彼はちょっと考えて「いただきます」と頭を下げた。
明日はまた衣類を水浸しにして抵抗するするのだろうか、など考えながら、焼けたセメントの長い塀にふれながら歩いた。
救援センターのニュースと一緒に、お母さんに手紙を書いて出すと、さっそく返事が来た。
そのあらましを紹介しよう。
中野刑務所での接見 ―被告の母親からたよりをもらうー(「救援センター」より)
1969.8.30
佐藤敏枝
5月はじめ、ある先輩に連れられて中野刑務所に行った。かっては郊外だったろうこの辺にも、こまかい家々や団地ができている。そうした中に厚いセメントの塀が長く続いていた。
東大関係者の名簿の中から、一番目の人を書いて出すと、すでに面会ずみという。ここでは拘置されている人は1日に1回2人まで、面会者は1日1人しか許さないという。
「ずいぶんきびしいのね」と言いながら、次の人を書いて出すと、若い看守は無表情な顔で赤札をよこした。こうしてはじめて刑務所の鉄さくの門をくぐり、鉄格子ごしに弘前大の学生に会った。
黒いトックリセーターに青白い顔、なかなかの美青年である。安田講堂のあの激しい攻防戦を戦い抜いた学生とも思えない優雅な態度、私はすっかり面喰った。「救援会から来ました・・・こんなおばちゃんの面会でがっかりしたでしょう」と私。「いえ、大変心強く思います」、彼はニコリとして頭を下げた。そばでメモしていた看守まで、にやりとした。「家は北海道です」と彼、「なんとまあ、北の果てから応援に!」私はぼう然とした。その日は救援センターからの質問を聞くだけが精一杯、「ときどき伺います」と言って別れを告げた。
2回目は7月半ばになってしまった。前には少年のように美しかったほおが、黒々としたヒゲでおおわれ、「〇〇さんですね」と問い返すほど、「伸ばしているんで・・」、照れてほおおをなでる彼、顔ばかりでなく体の線にまでたくましさが現れ、わずか2ケ月の間にこんなにもと驚いたが、拘置されてすでに半年、日々のきびしい闘いの跡がしのばれて、厳粛な気持ちになった・
この日はわりとうちとけて話すことができて「家のものたちもあきらめたようです」とか「東京に叔母が一人いますが、これがまたガリガリで・・・」など言って笑った。「お母さんにお便りしてみたいけど・・・」というと「こちら側のニュースなど送ってやって下さい」と言って、住所と両親の名を教えたり、ここに拘置されていた仲間の多くが保釈になり、4人しか残っていないことや、あす2回目の公判が開かれることなど話した。「出ますか?」「もちろん、出ませんよ」
彼はにこりと笑い、看守は顔をしかめた。「下着を持ってきましたけど、どうしましょう」、彼はちょっと考えて「いただきます」と頭を下げた。
明日はまた衣類を水浸しにして抵抗するするのだろうか、など考えながら、焼けたセメントの長い塀にふれながら歩いた。
救援センターのニュースと一緒に、お母さんに手紙を書いて出すと、さっそく返事が来た。
そのあらましを紹介しよう。
「ご丁寧なお便り、本当にありがたく拝見いたしました。この度は、私たちの知らない方々にどれほどお世話になっていることかと、今さらながら家内一同感謝いたしております。私たちの長男が、あの事件に入っていたということを知ったのが2月8日でした。警察から連絡を受けたときの驚き、何と言ってよいかわかりませんでした。すぐにも行ってみたいと思いましたが、重病人があって行けず、ただ恋しさでいっぱいでした。その病人の弔いをすまして3月3日にこちらを発ち、上野に着きましたらあの大雪でした。
弁護士のところへ電話をしたら、いなくて、先に地検に行って許可をもらった方が良いと言われて、そこに行っていろいろ話を聞いてから、中野に行って会いました。私は涙が出て仕方ないというのに「遠くからわざわざ来たの」とケロリとしているのですよ。父さんがいろいろと話しても、裁判所が不当拘置しているのだからと気炎をあげているのです。時間が短く5分とは話もできませんでした。
親類の家に2泊して3回会って帰りましたが、いまだに士気はおとろえず、がんばっているのが、時々来る手紙でわかります。はじめのうちは早く出してやりたいと思いましたが、今では心も落ち着いて、本人の思うようにさせてやるより仕方ないと思えるようになりました。
子供が大きくなると心配が大きく、つくづくない子には泣かないというが、本当だと考えさせられております。家にも弟が一人おりますが、いくら話会っても一致しないで困ります。毎日仕事に追われている私たちが、子供たちについていけない感じがします。けれど、そうばかりも言っていられないので、少しずつでも勉強していこうと考えています。
これからもまた、何かとお世話になることと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします・・・」
そうしてお母さんたちは、涙の底から少しずつ目ざめ、苦しみをのり越えて息子たちを理解してゆかれることだろう。私たちも少しでも力添えがしたいと思う。
弁護士のところへ電話をしたら、いなくて、先に地検に行って許可をもらった方が良いと言われて、そこに行っていろいろ話を聞いてから、中野に行って会いました。私は涙が出て仕方ないというのに「遠くからわざわざ来たの」とケロリとしているのですよ。父さんがいろいろと話しても、裁判所が不当拘置しているのだからと気炎をあげているのです。時間が短く5分とは話もできませんでした。
親類の家に2泊して3回会って帰りましたが、いまだに士気はおとろえず、がんばっているのが、時々来る手紙でわかります。はじめのうちは早く出してやりたいと思いましたが、今では心も落ち着いて、本人の思うようにさせてやるより仕方ないと思えるようになりました。
子供が大きくなると心配が大きく、つくづくない子には泣かないというが、本当だと考えさせられております。家にも弟が一人おりますが、いくら話会っても一致しないで困ります。毎日仕事に追われている私たちが、子供たちについていけない感じがします。けれど、そうばかりも言っていられないので、少しずつでも勉強していこうと考えています。
これからもまた、何かとお世話になることと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします・・・」
そうしてお母さんたちは、涙の底から少しずつ目ざめ、苦しみをのり越えて息子たちを理解してゆかれることだろう。私たちも少しでも力添えがしたいと思う。
(つづく)
【お知らせ その1】
救援連絡センター機関紙「救援」67号(1974.11.10発行)を「新左翼党派機関紙・冊子」に掲載しました。
以下のアドレスからご覧ください。
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html
救援連絡センター機関紙「救援」67号(1974.11.10発行)を「新左翼党派機関紙・冊子」に掲載しました。
以下のアドレスからご覧ください。
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html
【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は3月8日(金)に更新予定です。
ブログは隔週で更新しています。
次回は3月8日(金)に更新予定です。